雨の声 その五




 お、そうや。何分かかるか時間見とこっと。


「何分かかるか、時間を見ていてあげる」


 ぐっ、何やと!? 心を読まれたんか!? ま、まぁ、有難いから二度ほど頷いて『お願い』と伝えたみた。

 何で食べられへんモンをくちの中でこねくり回さなアカンねん。


 ここで私は気付いてしもうた。これは、変な顔になるやないの。私の変な顔が、もっと変になっているのは必至や。見られてたまるかいな。


 私は悠士ゆうしさんに背を向け、口元を手で覆いながら攻略を再開した。


「一分経過」


 悠士さんの声が、背中をう。え声ですわ、ホンマに。


 待って、これ。どの結び方が正解なん? 四通りほど思い付いたけど、これの何がキスの上手さと結び付く訳? とりあえず、結びやすいように果柄かへいを柔らかくするのが得策かな。


 せやけど、意外にサクランボの味が残ってるモンやね。軽く噛んだり、調子に乗って舐めてたら舌が痛くなってきた。


「二分経過」


 遊んどる場合とちゃうわ。仕方しゃぁないから、歯の裏と頬の壁を使つこて、舌先で誘導するかな。


「ん~」


 悠士さんに向き直り、口元で閉じていた両手を開いた。行儀悪いけど、悠士さんみたいにくち閉じて舌先を見せる。その上には見事に一重の果柄が乗ってる、ハズや。


友希ゆうきさん、凄いよ。ちゃんと結べてる」


 ほぅ、良かった。何度か途中でほどけてしもうたから一安心やで。


 せや。何分で結べたんやろう? 時計を見ようと、視線を動かした瞬間。


 私の視界は時刻を表示する時計盤の数字ではなく、急接近した悠士さんの顔に占拠された。ピアノが似合う細くて長い悠士さんの指が、私のオトガイ結節顎の先下顎角耳下を包み込み、くちをこじ開けられる。


 うっわ。悠士さんの舌、あっつう! さては、時間を計ってはる時にでも飲まはったんやな。中煎ちゅういりの珈琲と、サクランボの澄んだ酸味。それらの香気と、余裕をなくした私の吐息が鼻から抜ける。


 確かに、悠士さんのキスの上手さと、サクランボの一重結びは納得できる。激しくてもくちの回りを唾液だらけにせぇへんし、私の息遣いきづかいに合わせて唇や舌の動きに緩急を付けはる。要は、夢中になるくらい気持ちえって事や。


 アカン、あきまへんって! 夜になる前に、私の方からしてしまいそうになる。


 私は身体を反らすと同時に、悠士さんの手と唇から脱出に成功した。生じた隙間から腕を差し込み、欲望から物理的に距離を取る。


「はい、おしまい」


 セリフにするとシンプルやけど、整える息と顔を見られないように伏せたので声が歪んだ。


「友希さんの成果、味わい足りないんだけどな」


 負けず劣らず、悠士さんの艶やかな声で誘われる。


「夜まで待って欲しいな。夕食もお風呂も済ませて、整えてからの方が良いんだけど、ダメかな?」


 悠士さんとの【自主規制あの行為】は嫌いやないけど、悠士さんのペースに応じていたら身が持たん。二週間振りのせいか、【自主規制あの行為】の要求サインも内容も激しい。

 今回の上京なんか『ただいま』からの玄関でからな。こんなん、聞いた話や画面の向こう側だけの話やと思ってたのに。まさか我が身に起きるとは。


 まぁ、それでもは果たしてくれはったからこそ、悠士さんとの信頼におけるリレーションシップ関係も揺らがないし、男性としても尊敬できる。


「うん、分かった」


 何やろう。悠士さんの方が、恥ずかしそうにしてはるように見える。火ぃが着いた男の人には、かなり酷なお願いをしてるのは重々承知してる。自身の欲望より私の都合を、こうやって叶えてくれるのは、本当に有難いわ。


「有難う。その代わり、夜は今の続きに思い切り応えるからね」


 今度こそ、悠士さんは私から顔ごと反らしてしまった。うん? 気のせいか、反らす前の顔が赤かった気がする。


 あぁ。気がする、の理由が分かった。眼鏡のレンズに悠士さんの皮脂が走ってたわ。眼鏡を片手で外して、もう片方の手はそろそろ飲み頃になっている珈琲に向けた。一口、珈琲を飲みくだしたところで、悠士さんが声をかけてくる。


「眼鏡、ごめんね。痛いところとか、ない?」


「うん、大丈夫。眼鏡も壊れていないよ」


「あの、それと」


 悠士さんが、私から言い淀んでいる。何やろう? 言いにくそうな気配がするけど。


「わ、悪い。俺、そんなに臭かった?」


「違う違う、悠士くんが私の水分を持って行くから、くちの水分補給。そもそも、悠士くんが臭いなんて思った事なんてないよ」


 顔色も元通りの悠士さんは、心底ホッとした表情になった。キスの後に、美味しそうに珈琲を飲んだからか? 日本人は相手や自身を問わず、匂いに対する気遣いが病的だと思う。生きていれば代謝するし、匂うのは当たり前なのに。気遣いや一般常識の境界線はあるとしても、過敏になりすぎなのはいかがなもんやろう。


「もし、口臭が気になるなら唾液で湿らせておけば良いんだよ。唾液が乾くと、まぁまぁ臭うでしょ? くちの中が乾いてきたと思ったら、手っ取り早いのはくちを閉じて歯の上、頬の内側をなぞるように舌で円を描く。出来れば、左回り右回り同じ数で。唾液も出やすいし、フェイスラインもスッキリするよ」


 言いながら、私の口元で立てた人差し指で円を描く。


「よく、口内は雑菌だらけ~って、殺菌・消臭アイテムは多いけれど、悪い菌ばかりじゃないからね。ミントも爽快感や一時的な消臭効果はあっても、結局のところ口内の乾燥を招くから多用は禁物。とは言っても、歯磨き習慣は大切だから怠ってダメ。大切なのはバランスよ。と言っても、これは動画やTVの受け売り」


 って、あれ? 得意になってしゃべり倒して普通に珈琲を飲んだけど、私が結んだ果柄ってどこ行ったん? 飲み込んだ感覚はないから、くちからこぼれた? 


 あまりにも子供っぽい失態に気付いてしまった。悠士さんには悪いが、すぐ立ち上がる。白地に、橙色の文字で書かれているが崩れているので模様にしか見えない『明日は我が身』とプリントされた半袖シャツをつまむ。次は、ジーンズの上から手で撫でる。


「どうした?」


「ごめんね、ほこりを立ててしまって。さっき結んだサクランボの果柄が、くちからこぼれたみたいで」


「か、かへい?」


「皆がサクランボのとかと呼んでいる所。果梗かこうとも言うんだよ。要は、さっき私が結んだ物なんだけど」


「それなら、俺が食べたよ。さっき、友希さんにキスした時に唾液と一緒にいただきました」


「んん?」


 本日、何度目になるんやろう。変な声で返事をしてしもうた。



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おとなのかのじょ ~おとかの~ 八住 とき @convallaria

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