雨の声 その四




 考え事に添えられるのは、動画の音声ノイズと強い珈琲の香りと、サクランボの甘酸っぱい香り。それと、悠士ゆうしさんの匂いがする。


 悠士さんの匂い、か。このアパートメントの一室に意識が散る。


 この部屋に通い出してから、およそ六カ月目になるんか。早いもんやなぁ。今回は色々あって『座敷事件』から二週間振りになる。二週間前と変わらんモンと、変わってるモンが混在してる事に気付ける私や。


 エアコン、変わってませんかね。悠士さんや。あのメーカーは、湿度を大切にしすぎる事で有名な所やないの? 初めて買ったエアコンと同じメーカーやし、何か懐かしいな。


 ようやく、って感じやね。


 異性の部屋に通い、二~三泊する。これには後ろめたさと、手招きする背徳感に応じている特有の中毒性があった。年齢と共に重ねた知識に加え、動じない胆力のおかげもあって、を演じる事は出来ている。

 つもりなんやけど、内心は動揺するわ余裕はないわで、まぁまぁペースを乱されましたわ。


 せやから、してはる悠士さんにしてみれば、取って付けた私の演技なんてバレバレなんは覚悟しとるわ。


 しかし、人間は経験則によって学習するもんやと感心する。不慣れな状況にも余裕が出てきた。


 肌を合わせる時も、そう。見えてきたものがある。悠士さんの右脇腹に、再生医療の痕がある。奇しくも、表参道で脇腹を抉った位置と同じ。

 それだけやない。体の複数カ所に打撲痕があった。特に目を引いたんは、二の腕の上あたり。先月、座敷でジェフさんがメアリーさんにてはった場所と同じ場所や。


 手術痕だのあざだの、腕白わんぱくか? それとも関わってはまずいアレか? とも思ったけど、先月の座敷での食事会での正体は判明したから、もうえわ。まぁまぁ、あの日は面白おもろかったし。視線と仕草に込められた、未練と情念とマーキングが入り乱れていたもんな。


 ジェフさんは、メアリーさんにベタ惚れ。


 メアリーさんと悠士さんは、十中八九じゅっちゅうはっく。そんなメアリーさんのあの視線と口振くちぶりは、悠士さんに未練タラタラ。


 でも悠士さんは、何故かこんなババァにご執心。


 こんな図式や。これで私がジェフさんに一目惚れしていたら、レアケースな四角関係の出来上がりやったけど。その前に、ジェフさんはわ。何様やねん、と思われてもやわ。


 外見や中身が有能で将来性を感じ取っても、そもそも私は人様のもんには興味はなし。ジェフさんが私になびく事もあらへん。だから嫌がらせと合わせて、しゃべりりまくれた。


 いや~、腕の痣には納得した。他の打撲痕は心配やけど、根掘り葉掘り聞く趣味はないしなぁ。悠士さんも、子供やないし。

 それに、急に紹介された対人関係の絵図面も引けたのは楽しかった。ジェフさんもメアリーさんも美男美女で目の保養ができたわ。何よりも、悠士さんが用意してくれはったお店も食事も最高やったし。


 ノリとは言え『今度は、あのお店の夕食を二人でカウンターで食べたいね。その時は悠士君がご馳走してくれると嬉しいな』って、メッセージを返したくらいやもん。


 記憶の連鎖が、延々と続きそうになっていた時。私の右肩を抱く悠士さんの手が人差し指を作って、小さく二度ほど触れた。私は向きを間違えないように、悠士さん本体がある左側に反応する。


「どうしたの?」


 顔を向けると、悠士さんもこちらを見てはる。垂れ気味の目が、な~んか今は悪戯いたずらっ子みたいな視線になってる。それが合っても、話し掛けるでもない。

 私の方から目的を問おうかな、と思ったタイミングで、悠士さんの口元くちもとが動いた。


 くちを閉じ、半分を出した舌先には、一重結びされた緑色の紐が乗せられている。紐? ちゃうな。これ、サクランボの果柄かへい? こ、これは、もしや噂に聞くやないの?


「あら、凄いじゃない。これってくちの中だけで結ぶんでしょう? 実物は初めて見た」


「そうなの? 友希ゆうきさんは、やった事ない? とても上手く結べそうなのに」


 言いながら、悠士さんは舌の上から果柄を左手で取って、サクランボの種を置いている小皿に移す。その手を、ジーンズのももぬぐう。ま、まぁか。悠士さんの服やし、悠士さんの部屋やし。


 それはそうと、何が言いたいのかは分かる。昭和の人間なら一度は耳にした事やろう。まことしやかに広がる、都市伝説級の噂話。


 サクランボの果柄を、くちの中で結べる人はキスが上手い、ってやつ。悠士さんは、その事に触れて欲しいんやろうね。


「さぁ、どうなんだろう。やった事はないし、やろう思った事もないよ」


「どうして? 誰でも、一度はチャレンジするものだって聞いたのに」


 何やろう、この言い方。違和感があるな。『チャレンジするものだって聞いたのに』って。ん~む、まぁえわ。


「そうね、TVや周りはそんな事を言っていたけど関連性を感じなかったし、お行儀が悪いし、それに」


「出来ないの?」


 耳にした頃の記憶を引き出しながら話していると、悠士さんの垂れた目が、わずかに細くなる。実に挑発的やないの。


「やった事がないだけよ。やってみなければ分からない」


 挑発に乗せられたと言うか、乗った。宇宙一の男前に免じてやってみようやないか。手を伸ばしてサクランボを一つ取った。あんなに楽しみにしていたのに、今用があるのは果柄の方ってのは悲しいような、複雑な気分や。

 余った本体は、と一緒に悠士さんの唇にねじ込み、同時に私は果柄をくちに含んだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る