雨の声 その三




 左側に時間、右側に重量が表示される珈琲コーヒースケールの数値が三十秒に差し掛かる。円錐形のドリッパーに九十度の湯を注ぐ。蒸らし終え、やや粗くいた中煎ちゅういりの粉が湯を含んで湯気と共に、二段階目の香気が一層拡散される。


 ガラス製の珈琲サーバーには、途切れない液体が真っ直ぐ下に落ちて珈琲抽出液となって順調に溜まっていく。


 うむ。狙い通り、の匂いを出せた。カップと珈琲との境目も、同じ色になるやろ。


 この珈琲の淹れ方は人によってホンマに様々で、正解を探す事は避けた方がえ。野球と政治と宗教の話は避けた方がえのと同じくらいのレベルやと個人的に思ってる。


 えやん。美味しく淹れられたら。それを、美味しいと言ってくれる人がいるなら、飲み物として十分やないの。珈琲一杯になるまでにたずさわってくれはった方々への恩に報いると言えるんやなかろうか。


 さすがに、吉田さんみたいに商売として珈琲を淹れてはる人に同じ事は言えへんけどな。『どんな道具を使っても、狙った通りの味が出せる』な~んて豪語したバリスタチャンピオンの一言は格好良かった。そこが、プロフェッショナルと単なる愛好家との違いやと思ったもん。


「珈琲、どんな感じ?」


「こら、危ないじゃないか。ここからが落とし所で大事な時間帯なんだぞ」


 悠士ゆうしさんに任せた役割を果たし終えたのか、背後から抱き付く。私の腹の前で悠士さんの腕が交差するくらい、隙間なくくっついてくる。ウォーターサーバーと銘打たれているのに温水機能が付き、そこで温度管理されたお湯を注いだ銅製のポットは熱々やから、ホンマに危ない。


火傷やけどくらい平気だよ。友希ゆうきさんに触れられていられるなら、それでも良い」


「い、良い訳ないでしょ。本当にダメだって、手元が狂う」


 マイクやないからっ! 耳をマイク代わりにせんでも聞こえてるから! く~、くすぐったいけど、悠士さんと珈琲に怪我させる訳にはいかん。もう少しで、注ぎ終わるから。集中するんや。うむ、集中。


「これ、中煎り?」


「そうだよ。イエメン、タンザニア、エチオピアのブレンド。果物との組み合わせには、中煎りの方が良いかなと思って。まずはこれで試してみよう」


「うん、楽しみ」


 悠士さんは、スパイスや果実の香気が豊かで酸味が強い、中煎りの珈琲がお好みやから丁度良かった。私は、どちらかと言えば逆の深煎ふかいりの方が好きなんやけど、“H口珈琲”さんの珈琲豆は美味しいし、何よりも信頼してるから、大した問題やない。


「居るついでに、悠士さんのカップ持って来て欲しいな」


「友希さんにくっついてるから、今は無理」


「何を言ってるんだよ、本当に」


 悠士さんのクラシカルな赤のバレル型のカップ。私の白いバレル型のカップに珈琲を注ぎ、リビングルームのローテーブルに置く。

 カップの近くには、既に悠士さんが用意してくれはった洗いたての水滴が瑞々しさを演出するお高級なサクランボが、ガラスのボウルに満たされている。


 う、うん。男の人に、盛り付けの良し悪しを期待してはいかんな。張りがあって、見るからに新鮮で美味しそうやもん。それだけでも有難ありがたい。


「友希さん。ほら、ここに座って」


 見れば、クリーム色のカウチソファーに悠士さんが座ってはる。ジーンズに包まれた腿を大きく開き、その空間を軽く叩いて私を誘導する。さっきまで、私が座っていた位置でもある訳やが。


「お断り。今から珈琲を飲むのに危ないでしょう?」


 どうしても駄目なの? 目尻がやや垂れる悠士さんの表情が私を見上げる。おやつをねだる子犬か、君は。天然か作り込まれたモンかはともかく、をやられた女性は一瞬で堕ちて言いなりになるんやろうな。恐ろしい話やで。


 構っていると時間も惜しいから、私は容赦なく悠士さんの右側の定位置に座る。


「悠士君、サクランボを用意してくれて、ありがとう。いただきます」


「こちらこそ。珈琲を淹れてくれて、ありがとう。凄く良い匂いだから、早く飲みたくて仕方がなかったんだ」


「まだ熱いから気を付けて」


「ん~」


 うわぉ、もうくちを付けてはる。いつも思うんやけど、熱くないんやろか。さっきから火傷やけどの心配ばかりしてる気がする。それよりも味、ちゃんとするんかな。


「美味しいし、思った通り香りの抜け方が他の珈琲とは全然違うね」


「九割以上、珈琲豆のポテンシャルと水のおかげだよ。私が使い切れなかった豆で、悠士君が珈琲を淹れた時とそんなに変わらないでしょう?」


「いいや、違う。教えてもらった通りに挽いて淹れても、こんな風にならない。友希さんが淹れてくれるから、美味しいんだよ」


 こりゃ絵になるわ。宇宙一の男前が、カップ片手に微笑みかけてくれる。眼福がんぷくって言葉をつかいたくなるなぁ。


 すると、悠士さんはいている右腕を私の肩に回して優しく引き寄せる。私はカップもコントローラーも持っていなかったので、さっきまでみたいな拒否を言い立てる事はしない。特に問題もなく、悠士さんの力に従った。


 悠士さんと私は、服越しの体温を共有しながら、視線は正面のモニターに向けられている。悠士さんが、気を利かせてゲーム画面から動画アプリケーションを立ち上げていてくれて、私が大のお気に入りの動画主さんの番組を流してくれていた。


 ホンマに、何で私なんやろう。今、悠士さんの腕の内側に居るのは、本来もっと相応しい人が居てはるはずやのに。


 せっかく、悠士さんの気遣いで流れている動画やけど、私の意識は仮説の組み立ての領域へと埋没してしもうた。



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