かけられなかった電話

庵字

かけられなかった電話

 菜々美ななみけんを殺すことにした。

 前々から「殺してやりたい」と思い続けてはいたのだが、それを実行する勇気も、手段も持ち合わせてはいなかった。――それに、ただ殺すだけでは駄目だ。相手を殺し、かつ、自分が決して捕まらないという確信が持てなければ意味がない。

 そんな菜々美のもとに、――ここを逃しては、もう二度と健児を殺すチャンスは訪れまい。という絶好の機会が訪れる。菜々美は殺し方について入念に計画を練り、何度もシミュレートを行った。


 そして、計画決行の当日、菜々美は自分を奮い立たせる意味で、――やれるはずだ。と強く念じ、ハンドバッグの中に隠している紐を強く握りしめた。健児の喉に食い込み、彼の息の根を止めるために使われる丈夫な紐を。

 彼女の計画は、こうだ。

 本日土曜日の午後六時から、菜々美の高校の同窓会が催される。場所は繁華街にそびえるホテル五階の小ホール。そして、そのホテルには健児もやってくる。菜々美と同じように同窓会に出席するのではない。浮気相手と密会するためだ。

 週末の夜に菜々美が出かけるという好機を健児が逃すはずはない。必ず浮気相手と合うはずだ。その待ち合わせ場所は、繁華街にそびえるホテルのロビーとなるに違いない。健児は浮気相手との待ち合わせ場所に、いつもそこを利用する。調査済みだ。距離的に便がよいのか、はたまた、浮気相手の住居がその近くにあるからなのか、それは分からないが、同窓会会場と健児の待ち合わせ場所が同じになったというこの事実、僥倖ぎょうこうであることは確かだ。

 午後六時十分前、健児はホテルにやってくる。大通りに面した正面玄関からではなく、狭い路地に向いた裏口から入る。菜々美と同棲しているマンションからだと、そちらのほうが便がよいためだ。そこは夜中にならないと賑わいを見せない路地のため、何があっても目撃者は現れないだろう。調査済みだ。

 裏口に入る直前の健児に、菜々美が近づく。健児は驚くに違いない。彼は菜々美の同窓会会場がここだとは知らない。いや、正確には全く別の場所だと思い込んでいる。そう菜々美が嘘を教えたためだ。

 お気に入りのスニーカーを履き、履き古したデニム、愛用の赤いシャツの上に、この季節に外出する際には欠かさない革のジャケットを羽織った健児は、数分後に死体になるとは露知らない、呆然とした表情で菜々美を見つめている。おっと、健児のファッションで大事なものを忘れていた。その両手には、彼のセンスでは決して選びようのないデザインの真新しい紳士用手袋。菜々美の前では決して見せることのない――いや、見せることの出来ない手袋。

 電車で数駅離れた旅館にいると思い込んでいる菜々美の突然の出現に、健児は大いに戸惑い、激しく動揺しているだろう。その隙を突いて首に紐を巻き付け、力の限り引く。これまでの恨み全てを込めて。

 健児が完全に絶命したことを確認し、その懐から財布とスマートフォンを抜いたらホテルに入る。開宴ちょうどに菜々美は会場に姿を見せる。以降、積極的に同窓生らと旧交を温め合い、わずかな時間も人目から離れることをしない。ただ一度を除いては。

 検死や解剖によって、死亡推定時刻がどの程度絞り込まれるのか不明瞭な点はあるが、概ね三十分程度の誤差は許容されるだろう。同窓会が始まってから二十分程度が経過した頃、菜々美はトイレに向かう。アリバイ工作を行うためだ。開始二十分程度では、まだ誰もトイレに行くことはないだろう。このトイレは位置的に小ホールを利用する客以外が立ち入ることはない。調査済みだ。並んだ個室を通り抜け、一番奥の清掃用具置き場に入ると、奪ってきた健児のものと自分のもの、二台のスマートフォンを取り出す。自分の機種は音声プレーヤーを起動させ、目的の音声ファイルを再生手前の状態で待機させておく。一方、奪った健児のスマートフォンだ。電話帳を開いて「その部長」なる人物に電話をかける。「園田部長」だと。馬鹿か。お前の務めている会社に「園田」なんて部長――はおろか、そんな名字の社員など――いないことは調査済みなんだよ。菜々美は心の中で冷笑を浮かべながらダイヤル音を聞く。数秒後――

『はーい、ケンちゃーん』

 ドロドロの砂糖水を飲み込んだのかと思うような、胸がムカつく甘ったるい声が耳朶を打つ。

 ――ケンちゃんは死にました。

 そう告げたくなる衝動をこらえて菜々美は、自分のスマートフォンで待機させておいた音声ファイルを再生する。

『おい……何すんだ――やめろ』

 慌てふためいた健児の音声が流れる。この計画に備え、彼が大事にしている釣り竿のリールを、めちゃめちゃにいじってやったときに録音したのだ。今や“大事にしていた”だな。グッバイ、ケンちゃん。これからは三途の川で思う存分釣り糸を垂らしていな。一方、健児のスマートフォンからは、

『……なに? どうかしたの? ねえ、ケンちゃ――』

 甘ったるい声はそれ以降聞こえなくなった。通話を終了したのではない。清掃用具置き場の小さな窓を開け、そこから健児のスマートフォンを落下させたためだ。次いで、現金を抜いたうえで財布も放り出す。このトイレの真下には、ホテル裏口すぐ脇を流れる用水路が位置している。全ての仕事を終えると菜々美は会場に戻る。この間、一分程度しか消費していない。調査の結果、同窓会会場のある五階からホテル裏口に往復するのには、どんなに急いでも五分は要する。被害者を絞殺して現金を奪うには、さらに数分かかることは確実だろう。これが意味するところ、午後六時二十分に殺害された健児を、六時以降ずっと五階の小ホールにいた菜々美が殺害するのは不可能なのだ。

 そして今、計画を完遂した菜々美は、同窓会を心の底から楽しむ気分になっていた。


「園田部長」の通報で警察が動き、健児の死体は発見された。

 何かの用事で待ち合わせ相手に電話をかけようとした、その隙を狙われて被害者は絞殺され、「園田部長」はその断末魔の声を聞くことになった。死体のそばを流れる用水路からは被害者のスマートフォンと財布が発見された。スマートフォンは強盗ともみ合った際に被害者の手から離れて落水、財布のほうは現金が抜き取られたあとに捨てられたのだと見られる。被害者の死亡推定時刻は、午後五時半から七時半までの幅が取られたが、通報者の証言から午後六時二十分前後であることは確実視される。

 警察の捜査は、何もかもが菜々美の思惑どおりに動いている――と思われていた。



 刑事が来ることは分かっていたが、まさか「探偵」なんていう代物がくっついてくるとは、完全に菜々美の予想外の出来事だった。何かのドラマの登場人物を気取ってでもいるのか、白いジャケットを羽織った――少しばかりいい男の――その探偵は、


「少し、お話を伺えないかと」


 人なつっこそうな顔で笑顔を向けてきた。「いいですよ」菜々美は何も動揺することなく答える。恋人を突然の奇禍で亡くし、さらに、その最期の声を聞いたのは正式に付き合っていた自分ではなく、行きずりの浮気相手。そんな不幸な境遇に立つ女性が浮かべてしかるべき――何度も練習を重ねた――表情とともに。

 そう、実際、動揺する必要など、菜々美はこれっぽっちも感じていなかった。

 アリバイ工作に使用した音声データは処分した。単に消去しただけでは、データが復元される可能性があることは菜々美も知っている。その音声データはスマートフォンの本体メモリではなくSDカードのほうに記録してあり、そのカードを粉々に砕いて捨てたのだ。

「園田部長」に電話をかけるときに健児のスマートフォンの画面に触れたが、何も問題はないはずだ。菜々美はその際、指先のごく僅かな部分だけでタッチパネルに触れていた。判別可能なだけの指紋が残るとは思えないし、水没した影響でそれらも洗い流されている可能性が高い。

 それ以前に、健児の死亡推定時刻が午後六時二十分と目されている以上、そもそも菜々美に犯行は不可能なのだ。午後六時から七時までの間、たった一分程度“トイレに立った”以外、菜々美は常に誰かしらと会話をしていたのだから。


「おかしいんですよ」


 探偵は難しい顔をした。――何がですか? 菜々美は訊く。


「発見時、被害者は、んですよ」


 ――それが何か? 言いかけて菜々美は、探偵の言葉の意味することを察し、背筋が凍る思いを味わった。それが表情に出てしまったのか、菜々美の顔を見て僅かに口角を上げた探偵は、


「そうなんです。手袋をしていてはタッチパネルの操作は出来ないんですよ。はめたままでもタッチパネルの操作が可能な手袋という商品もありますが、被害者がつけていたものは違いました。襲撃直前に被害者が電話をかけたというのであれば、必ず左右どちらかの手袋は外していたはずなんです。まさか、殺してから強盗がわざわざ死体に手袋をはめるということは考えがたいですし……。被害者は、いったいどうやって電話をかけたというのでしょう。それとですね、通報者が聞いたという被害者の最期の声なのですが、肉声ではなく録音されたものだった可能性も捨てきれません。スマートフォンのサービスで、データを自動的にクラウドサーバーに記録しておいてくれるというものがあります。こういうものって、契約時に勝手に付いてくるものがほとんどなんだそうですね。失礼ですが、あなたの契約しているスマートフォンのクラウドデータを調べさせていただけないかと。こんなことを伺うのもですね、実は、ここ最近、あなたと被害者との仲が険悪なものとなっていたという知人の証言がありまして。それに、被害者が殺された現場ホテルの五階にあなたもいたというのも偶然とは思えなくて……ええ、アリバイがあるのは承知しています。でも、念のため、あらぬ疑いを晴らすと思って、ご協力いただけないでしょうか」

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