春疾風

つるよしの

春疾風(はるはやて=春の烈風のこと)

「山菜摘みにいくのかね、マツリ、祝言はもうすぐだね。おめでとさん」

 畑のなかからそんな村人の声が飛んできて、通草あけびの蔓で編んだ籠を手にした少女は、路傍に足を止め、あいまいに微笑んだ。

「そうなんす、ありがとうごぜいやす」

「田植えが終わったら、おめえも、いっちょ前に嫁さんか」

「立派な女になるべぇな、いや、めでたいことだべ」

 何人かの村人が、鍬の手を止めて、わはは、とはやし立てた。その言に、マツリは顔を赤らめることもなく、ぺこりと一礼すると、粗末な着物姿で里山へ続く道へと歩を進める。


 今年の正月に、マツリの祝言は、急に決まった。

 

 相手の男は庄屋の息子だという。寒村の庄屋とは言え、マツリのような貧乏百姓の娘にはこの上ないと誰もが褒め称える嫁ぎ先だ。

 マツリは相手の男のことは良くは知らぬ。毎年秋、年貢を納めに行く父に付いて、庄屋の家に足を運んだ際に、ちらりとその姿を見ることがある位だ。歳はマツリより4歳ほど上だとか、好色ではあるがマツリのような年若い女は好みだから大事にされるだろうとか、そういった噂話をちらほらと聞かされてはいる。


 祝言の時期は、田植えも一段落する皐月の末と決められ、そして今はもはや卯月のはじめである。祝言は刻一刻と近づいて来ていた。

 だが、マツリの心には、特別な喜びも悲しみも浮かばず、また、人の妻になるという実感もわかない。ただ、自分もそんな年頃になってしまったか、という、どこか裏寂しい諦観のみが、彼女の胸中を占めている。だが、だからといって、マツリにはそれに逆らう意志もない。ただ、そういうものだ、と、思っていた。

 だから特にその日も物思いに耽ることも無く、マツリは山の奥にて、若草を指でかき分け、山菜を探し求めては、摘み取る作業を土にまみれつつ、繰り返していた。


 ふと、マツリは山菜を摘む手を止めた。なにやら、どこからか、焦げ臭い匂いが流れてきて彼女の鼻腔に広がる。マツリは嫌な予感がして、村を見渡せる崖に駆け戻る。すると、村の家々が炎に包まれているのが目に飛び込んできた。

「賊だ……」

 マツリは震える声で小さく呟いた。

 隣村まではここから一里と少しの距離だ。一刻も早く知らせ、助けを求めねば。マツリは山菜で満杯になった籠を放り出して、隣の村に続く山道を駆けだした。額を流れる汗を拭うこともせず、マツリは、ただ、ひたすらに走った。 

 藁の草履の鼻緒がいつしか、ぷつり、と切れたが、それにかまってなどられぬ。マツリは草履を道ばたにうち捨てると、なおも息を切らして走った。緩やかな尾根道が続いたあとは、峠の急な坂道が迫る。素足はいつしか泥だらけ、また、道に転がる小石により傷だらけになっていた。だが、マツリは歯をくいしばり、急な勾配を一気に駆け上った。やがて山道は山頂に達した。

 流石にマツリは息が切れ、峠の頂きで立ち止まる。


 苦しげに息を弾ませながらも、ここまでくれば隣村まで、あともう少しだと、なんとか気力を振り絞るべく、マツリは試みる。そして、ほんの少しの休息の後、マツリは再び走り出そうと、山道の向こう側に身体を傾けた。


 だが、マツリの足は走り出すことができなかった。ふと、彼女の頭に、あとひと月ほど後に迫った祝言がよぎったのだ。途端に、マツリの胸中に、それまで感じたことのなかった淀んだ感情が濁流のように広がっていく。……このまま、助けが来ずに村が燃えてしまえば、そして祝言の相手の、あの庄屋の息子も炎の中に焼き尽くされてしまえば……。


 いけない考えだ、とは思った。そんなことを考えてはならぬ、とはマツリは思った。だが、一度彼女を襲った黒い濁流は、その理性を、繰り返し、飲み込み押し流してマツリの心を翻弄する。ついにマツリの足は完全に動きを止めた。マツリは走るのを止めた。自分の村の方向に目をやれば、山の木々の隙間からも、禍々しい黒い煙が立ち上っているのを、認めることができる。まだ間に合う、まだ間に合う。マツリの心中で囁く声がする。だが、その声もいつしか消え失せる。いつしか夕闇が迫る。西の空に陽が沈む。

 やがて夜のとばりが峠を覆う頃、マツリはようやく、その足を再び動かした。ただし、隣村には背を向けて。ゆっくり、ゆっくりと、来た道を戻り始める。


 翌朝、村に戻ったマツリは、生き残った村人に捕らえられた。沙汰を待つ間もなくマツリは、憤った村人達により私刑の対象となり、そのか細い身体は、男どもには蹂躙され、女どもには竹竿で殴打された。そして、まだ微かに息があるにもかかわらず、マツリは山中へとうち捨てられた。


 ひんやりとした山の斜面で、腹這いに横たわりながら、マツリは遠のく意識の中、思う。私は正しいことをしなかった。それは確かだ。だが、同時に、正しいことをもした、のではないか。そうとも思う。マツリには分からなかった。自分が正しいのか、間違っているのか。ひくひくと、細く、最期の息を吐く彼女の頬を、今更のように困惑の涙が伝う。


 やがて、春の夜の生暖かく強い風が、ざわっ、と山の木々を揺らし、マツリの涙をも掠めていったが、もうその感触をマツリが感じることはなかった。

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春疾風 つるよしの @tsuru_yoshino

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