deep sea shout .

メイルストロム

Down Me to the Sea .



 これは海辺の村にある、崖の上に建てられた小さな教会で健気に仕える修道女のお話。




 修道女の名前はエーギル。 孤児としてここで育てられた純朴な少女は、とても綺麗な深緑の瞳をしていました。彼女は幼き日より、老神父と共に暮らしています。彼女は育ての親でもある老神父の為に、日々尽くしていました。


 そんな彼女の1日を見てみましょう。


 朝は午前3時に起床し、身支度を整えます。

 午前4時には夜課、黙祷、レクチオ・ディヴィナを始めます。

 午前6時半になるとミサ、賛課を済ませて朝食を取ります。

 午前8時半から午前11時半の間は、様々な仕事を行います。

 午前11時50分になると 昼食を取ります。

 午後1時半を迎えると午後4時半まで午後の仕事に就きます。


 午後5時には晩課と黙祷を捧げます。

 午後5時45分になると夕食につきます。

 午後7時半には終課とサルヴェ・レジナを行います。

 午後8時には就寝となります。


 

 そんな彼女は海を愛しておりました。成すべき事を済ませ、自由な時間を見つけては一人で海を見下ろしていたのです。

 崖の下に広がる広大な海を、時間が許す限り見つめていました。


 私も、彼女と共に海を眺め続けた事があります。海を眺める彼女はとても嬉しそう。

 機嫌が良い日には、馴染みのない唄を歌うこともありました。透き通った声で歌われるそれは、なんだか少しだけ陰鬱な雰囲気があります。けれど彼女は優しい声でそれを歌うのです、子守唄を歌うように優しく穏やかに。


 歌い終わると彼女は、艶かしく微笑むのです。あの笑顔が私に向けられていないのは理解しています。

 けれど私はその笑顔が堪らなく好きだったんです。その笑顔を向けられた相手が羨ましい、妬ましいとさえ感じる程。


 そんな海を愛する彼女が海へと近づくことは、ただの一度もありませんでした。どんなに波が穏やかで、心地よい夏の暑さを覚えても決して海には近付かなかったのです。

 それは神父様との約束だと、彼女は言っていました。故に何時如何なる日も彼女は海を見下ろし、優しくて冷たい虚ろな唄を歌い微笑む。


 それはまるで籠に閉じ込められたサヨナキドリのようで、私はそんな彼女にどんどん惹かれていきました。



 彼女は歳を重ねるほどに妖艶さを増していきました、勿論その笑みも。大人になっていく彼女への想いは募るばかりで、いつしか私は彼女へ劣情を抱くようになっていたのです。


 押し倒して貪りたい。


 あの白い肌を汚したい。


 純血をこの手で奪いたい。



 日を追う毎に増してゆく劣情は、耐え難いものでした。私は妄想の中で何度も彼女を犯し、汚したのです。



 ある満月の夜、私は遂に堪えきれなくなり彼女へと夜這いをかけることにしました。皆が寝静まった夜に忍び込んだ教会は、昼とは違う静けさがあります。今なら赦す、引き返せと諭されているような気さえしました。


 けれど、私はもう罪を犯しています。

 夜這い程度の事で怯んではいられません。

 物音を立てないように、気配を殺して彼女を探します。けれど私は彼女を見つけることが出来ませんでした。神父の姿もありません。


「……こんな夜更けに、如何なさいましたか?」


 礼拝堂への扉に手をかけた途端、背後から声をかけられました。


「エルド?」


 名を呼ばれます。


「如何なさいましたか」


 私は恐くて声が出せませんでした、振り返ることすら出来ません。この声は彼女だとわかっているのに、恐くて仕方なかったのです。


「貴方も、救いを求めて足を運んだのでしょうか」


 ひやりとした細腕が、私の身体を抱き締めます。女性とは思えぬ力が私を捉え、より強い恐怖を私に与えました。


「大丈夫、怖がらなくても良いのです」


 耳元で囁く彼女の声はいつもの優しいそれなのに、今は恐ろしくてたまらない。私を捉える細腕が、肌を這う蛇のようにさえ感じる。

 私は恐怖に耐え兼ね、脅迫目的に持参したナイフを彼女の腹へ突き立てました。苦悶を孕んだ吐息が耳を撫でるよりも早く、私は彼女を振りほどき一目散に逃げ出しました。


 それから数日。


 私は家から出ることが出来ませんでした。しかし彼女を刺してしまった罪悪感に耐えられず、私は神父様へ告解するために一人教会へ向かいました。


「朝早くに、如何なさいました?」


 礼拝堂への扉に手をかけた途端、背後から声をかけられました。


「エルド」


 名を呼ばれます、あの夜と同じ声で。


「如何なさいましたか?」


 あの夜と同じ様に、振り返ることすら出来ません。この声が彼女のものだと理解しているのに、恐ろしくて怖くて仕方なかったのです。


 扉に手をかけたまま、私は動くことが出来ません。朝露に濡れた草を踏みしめる音が、規則正しく近付いてきます。逃げなければと逸る気持ちとは異なり、扉に手をかけたまま身体は動きません。


 さく。さく。さく。さく。さく。


 背後で、ピタリと足音は止まりました。振り向かずともわかります、彼女が私の後ろに立っている。

「まぁ大変、こんなに震えて……」

 あの晩と同じ様に、彼女は背後からもたれ掛かり腕を回してきました。柔らかな彼女の細腕が、絡み付く蛇のように私を包み込む。

 耳を擽る絹のような金髪も、背に当たる柔らかな双丘も。私を抱き締める柔らかな細腕も、その全てが恐ろしい。

「中へ入りましょうか、エルド」

 なされるがまま、私は彼女と共に礼拝堂へと進んでいきます。礼拝堂は見慣れたもののはずで、神聖な場所なのに。何故だか私にはそうは見えなかった。

 まるで巨大な海獣の口へ吸い込まれていくような、言い様のない恐怖だけが静かに付き纏う。

閉ざされた扉の音に、お前はもう逃げられないと告げられた気さえする。

「そんなに怖がらずとも良いのですよ、エルド。

 あの御方は全てを赦し、救いを与えてくれるのですから。

 あの御方は常に私達と共に在られます。

 ……エルド、貴方は時折言葉には出来ないような夢をみたりしますね。

夢の中でわたくしを犯すのは、楽しかったですか?

嫌がる私を押さえつけ、稚拙で乱暴な愛撫をして独り善がりな性欲をぶつけられた私はどんな顔をしていたのでしょうか……聞かせて下さい、エルド。貴方に組伏せられた私は笑っていましたか。

それとも、泣いていましたか?


 ふふ、うふふふ……


 エルド。私は怒ってなどいません、貴方を裁く意思もありません。あの御方が赦しを与えるのなら、私はそれに従うだけですの」

 腕を解いて後退していく彼女は“ふふふ、うふふ”と静かに笑っていました。

「……エーギル、さん」

 逃げ出したい気持ちを抑えて振り返り、彼女へと問いかける。

「なんでしょうか、エルド」

「神父様は、どこへ?」

 途端に彼女の顔から表情と呼べるものが消え失せた。その瞳で真っ直ぐに此方を見据え、歩み寄ってくる彼女。


 静かな礼拝堂に彼女の足音だけが木霊する。


 彼女から離れたいのに私の足は動かず、彼女は私の目前でその歩みを止めた。

「神父様は、あの御方を受け入れなかった。

 だから、私があの御方の代わりに救いを与えたのですよエルド」

「神父様を、殺したのですか?」

 目前の彼女は悲しそうな笑みを浮かべ、静かに首を左右にふっていた。

「違いますよエルド、救いを与えたのです。

 神父様を刻んだのも、切り開いたのも、引き裂いたのも全て救いを与える手段なのです。

 あぁエルド、貴方にも救いを与えましょう。

 ふ、ふふふふ、ふふふふふ………!」

 彼女が言うことが理解できない。目前で笑う彼女は、私の知る彼女とは全くの別物なのではないかとさえ思う程の豹変ぶりだ。


 ──さくり。


 気が触れそうな程の恐怖に飲まれかけた意識を留めたのは腹に生じた激痛、その痛みに膝を着くと彼女もそれにあわせてしゃがみ込んできた。

「ふふふ、痛いですよねエルド。

 このナイフは、あの夜に貴方が突き立てたナイフなんですよ?」

 此方を覗き込む彼女は何時ものように微笑んでいる。人を刺して微笑む事が出来るなんて正気じゃない、私はこのまま彼女に殺されるのだろうか?

「貴方に救いを与えましょう、エルド。

 大丈夫……あの御方は貴方の全てを赦し、受け入れて下さります。

共に海へと参りましょう、エルド」

その言葉を最後に、私の意識は途絶えました。







 ──話はこれにてお終い。


 私が恋した彼女は本当にエーギルだったのでしょうか、今となっては確かめる術もありません。







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