永遠に終わらない冬・番外編
鹿島 茜
永遠に終わらない冬・番外編
二人は両親からクリスマスプレゼントをもらった。透明なボディにかわいらしいアクセントカラーがついた、小ぶりの万年筆だ。
「
母がにこにことして、嬉しそうに言った。きょうだいでお揃いのものをもらうのは、小学生の頃以来だ。
「俺、万年筆なんか使ったことない」
「私も」
どうすればいいのかわからず戸惑っていると、父が言う。
「これがインクだ。ブルーブラックっていうスタンダードな色だよ。すぐにはなくならないだろうし、他の色を使ってみたくなるだろうから、まずは二人で一瓶、一緒に使いなさい」
父が真実の万年筆を取り上げて、インクの入れ方の解説を始める。まず、キャップを外して、インク瓶の中にペン先をドボンと浸けて、お尻のところをクルクル回すとインクが充填されるのだ、と。一度入れたインクをすぐに瓶へ戻し、父は真実に「ほら、やってみなさい」と言った。
「で、できるかな」
「誰でもできるよ」
真実は小さな万年筆を指先で持ち、インク瓶にそろそろと差し込んでみる。慣れないことで、少しばかり手が震えている。父がお手本を見せてくれたように、真似をしてインクを入れてみる。
「あ、できる」
「だろう」
「反対に回せば、インクが出ていくんだね」
楽しそうにインクを入れたり出したりしている姿を見て、結子もやってみたくなった。
「私にもやらせて」
「待って、インクが垂れる」
父から差し出されたティッシュを急いで取り、真実はペン先のインクを丁寧に拭き取った。指先に紺色のインクがついている。
「姉ちゃん、ちょっと紙。何か書いてみたい」
結子が電話の近くに置いてあるメモ用紙を持ってくると、真実はサラサラと自分の名前を書いてみる。
「うわ、格好いいじゃないの、万年筆って感じだわ」
「だよな、ちょっと大人」
「色もかわいいし。私も早くインク入れたい。こうでいいのかしら」
結子も見よう見まねでインク瓶にペン先を浸ける。父や弟がやっていた通りに手を動かすと、万年筆のボディが深い紺色に染まってくる。
「なんだか、格好いいわ」
楽しい気分で、結子はインクを充填し、真実と同じ紙に試し書きをした。
「二人とも、気に入ったか」
父の嬉しそうな言葉に、姉と弟は思い切り首を縦に振る。
「すごく。万年筆なんか使ったことないけど、こんなに格好いいなら仕事でも使えそう」
「俺もノート取るのに使おうかな」
「あんた大学生のくせに万年筆なんて、生意気」
「なんだよ、自分だって今日初めて触ったんだろ」
既に25歳を過ぎた結子と大学4年生の真実は、初めての万年筆に心躍らせながら、二人で紙に名前を書いたり丸や四角を書いたりと、無邪気に喜んだ。
結子は自分の部屋に戻ると、鍵付きの引き出しから小さな日記帳を取り出した。昨日までボールペンで書いていた日記を、今夜からはこの万年筆を使おうと、少しだけ書いてみる。
『12月24日 お父さんから万年筆をもらいました。まさみと色違いのお揃いです。私はピンクで、まさみはブルー』
そこまで書いて、ページをめくってみる。インクがページの裏に染みてないか、心配になったのだ。多少の滲みはあるが気になるほどでもなかったし、誰に見せるものでもないので構わないと結子は思った。
そう、誰に見せるものでもない。見せてはいけない。誰であっても。
『お揃いの万年筆。困る。いや、嬉しい』
書いて、上から線を引いて消す。
「嬉しいけど…」
嬉しいけれど、複雑だった。いい大人になったきょうだいが、お揃いのものを持っている。父と母はいつもそうだ。私たちを、いつまでも昔の仲良しだった姉と弟だと思っている。
「そりゃ、仲はいいけどさ」
指先で万年筆を弄びながら、結子は小さな声で呟いた。
『私たちは、仲がいいだけじゃない』
『私たちは、とても仲がいい』
『私たちは、とても親密』
『私たちは、』
結子は、戯れに書き始めた12月24日の日記のページを、音を立てて破り取った。びりびりと細かく、文字が判別できないほどになるまで破り、ごみ箱に捨てた。
部屋のドアがノックされる。結子は開いていた日記帳を、急いで閉じて引き出しの中にしまった。
「姉ちゃん、そろそろ時間だけど」
「ごめん、いま行く」
二人で映画を観に行こうと約束していた。
「早くしないと入れなくなるぞ」
「わかってるってば」
外出の相手は気を使わない弟とはいえ、外へ出れば誰に会うかわからない。結子は簡単に化粧をして、お気に入りのジーンズをはく。セーターの上から、指輪の形のペンダントをぶら下げた。
きょうだいで観に行った映画の中には、偶然にも万年筆が登場した。年老いた男性作家が、黒い万年筆を使って手紙を書くシーンだ。節くれだった指先にその太い万年筆はとても似合い、貫録を感じさせている。結子の心はその場面から動かなくなった。万年筆で、手紙。愛する人に向けて。自分にいつか、そんな日が来るのか。誰か、今は知らない愛する人に、手紙を書くなんて。
食事を済ませた帰り道、結子の手は知らずしらずのうちに、真実の腕にすがるようにつかまっていた。人ごみの中で、手を繋いでいなければはぐれてしまう。真実は、結子の手を振り払うことなどしなかった。なぜなら、いつもそうして歩いているから。
人ごみを抜けて住宅街に入ると、急に静かになる。もうはぐれることもないのに、結子は真実から離れなかった。
「あの万年筆」
「うん」
「姉ちゃん、何に使うの」
真実の呟きのような問いかけに、結子はしばらく考えた。
「ラブレター書くかな、映画に出てきた作家みたいに」
「ラブレターね。誰にだよ」
「あんたじゃないわよ、きっと」
「俺でもいいけどな」
自宅へ向かう近道として通り抜ける公園で、結子は真実からふと離れ、ベンチに腰かける。
「あんたは何に使うのよ」
「あんたって呼ぶなよ」
「真実くん、何に使うんですか」
腰かけることなく立ったまま、真実は夜空を見上げて白い息を吐く。
「ラブレター書くかな」
「誰によ」
「姉ちゃんに」
ふん、と鼻で笑う。二人はいつも、こんなやり取りばかりだ。
「やめてよ、お父さんやお母さんに見られたら、軽く死ねる」
「俺だって死ねるな」
結子は冷たい両手をこすり合わせて、息を吹きかけた。
「残しちゃだめなのよ、文字なんか」
「日記なんか書いてないだろうな」
「書いてる」
「残してるじゃねえか」
「そのうち会社の焼却炉にでも突っ込むわ」
「焼却炉なんかあるのかよ」
「あるのよ、古い敷地だから」
コートの中、胸にぶら下がる指輪のペンダントを結子は感じていた。結子自身が選び、真実とお揃いのものを買ったのだ。それを買ってから、二人には少しずつお揃いのものが増えていった。ほんの小さな雑貨から洋服まで。ただし、デザインを微妙に変えて、悟られないように。
その中に今日、はからずも万年筆が増えた。結子は、嬉しかった。両親が二人の仲に気付いていないことが嬉しく、堂々とお揃いを使っていいことが嬉しく、ただ単純に美しいものを分け合っていることが嬉しかった。
「真実」
「なに」
「やっぱり私、あんたのこと好きみたい」
「知ってるよ」
真実は、大きな手で結子の頭をそっと撫でた。指先で髪に触れて、すぐにその手は逃げていく。結子はその指を追って、手を伸ばした。触れ合った手は、冷え切っていた。ほんの数秒、指先を繋いで、また離れる。
「あんたさえ、私のことを好きだなんて言わなければ、こんなことにならなかった」
「わかってるよ、俺が悪い」
「そうよ、あんたが悪い」
結子の隣に腰かけ、真実は呟いた。
「いいよもう、悪いのは俺だけで」
真実は腕を伸ばし、結子の肩を静かに抱き寄せた。
「いいよ、そういう姉ちゃんのままで。もう、わかってるから」
結子はバッグの中から今日もらった万年筆を取り出し、真実に差し出した。
「どうしたの」
「取り換えっこしよう」
真実もバッグから万年筆を取り出して、結子に渡した。
「あんたのものを持っていたいの」
「俺、男なのにピンクかよ」
「そういうことこだわる方が格好悪い。いいのよ、男だってピンク持っても」
ブルーの万年筆をそっと頬に寄せて、結子は呟く。
「真実をいつもそばに置いておきたいの」
「そんなことしなくても、俺はどこにも行かない」
「いつかはいなくなるわ」
「いなくならない。姉ちゃんさえ、許してくれれば」
こんなこと、長くは続かない。いつかきっと崩壊する。結子はそう思いながらも、今のあたたかさを手放すことができない。自分を恋い慕う弟、弟を愛する自分。間違っている。それなのに、どうしても気持ちが止められない。
いつかきっと、すべては終わる。終わるまでは、このままで。この万年筆が、壊れるまで。万年筆って、壊れないのかな。壊せば、壊れるのかな。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。ごめん、なんて実は思っていない。誰にも悪いなんて、思っていない。ただ、流れ出す気持ちがあるだけ。
「姉ちゃん、もう、帰ろう」
同じ、家へ。二人が生まれた家へ。
「あんなところ、帰りたくない」
「馬鹿言うな、帰るぞ」
冬の夜道を歩き出す足取りは重い。弟の手に引かれて、結子はぼんやりと進む。万年筆、いつ壊れるかな。絶対に壊したくない。
このブルーの万年筆は、私のもの。
この子は、ずっと、私のもの。
永遠に終わらない冬・番外編 鹿島 茜 @yuiiwashiro
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