ダキニの亭主
夏目
第1話
夢うつつに、りんと響く鈴の音。
「今晩は」
「幽霊……、じゃあねえな」
月明かりの影から時は丑三つ頃か。男はしどけなく座った女の白い脚を見て、軽口を叩くのが精一杯だ。
「稲荷の鬼さ。ダキニと呼んどくれ」
女は美しい目を弦月の形に細めた。
「おまえさんの精を、あたしに分けておくれでないか」
――なるほど、そうきたか。
男は酔いが抜けぬ頭で、ぼんやり思案をめぐらせた。
四十を過ぎても気ままなやもめ暮らしの浪人上がりが酒を飲んで
男はやや沈黙して、ダキニに言った。
「今はいけねえ。具合が悪い」
「いつなら、いいのさ?」
「明後日の、暮れ六つ」
むろん苦し
果たして、ダキニは少し考える風を見せた。
「おまえさん。逃げるつもりじゃないだろうね」
ダキニは胸元の帯から
「おまえさんがどこかへ行くと、この根付の鈴がりんと鳴る。あたしはおまえさんの居場所がわかるんだからね」
「じゃあ、明後日の暮れ六つに」
同時にダキニの姿は消え、呆気にとられる男の足元から、一匹の女郎蜘蛛がすうーっと糸を伝って天井に上っていった。
朝を迎えた男は、酔いが抜けるにつれダキニへの恐ろしさが先に立ってくる。
あの根付の鈴があるかぎりおれは逃げられねえ、いずれはダキニに食われちまうだろう、とくよくよ思い悩むうちに一日が経ち、約束の日の昼には目利きの仕事にも身が入らぬ有様となった。
「
男の様子を心配して声をかけたのは、雇われ先である古道具屋の若旦那だ。
この若旦那は物知りの上に知恵者であったから、男から一部始終を聞き終えるなり、なんだと一笑に付した。
「そんなの、ダキニから鈴を盗んで逃げちまえば済むじゃあないか。あんたなら、鬼を酔い潰すくらいわけはないだろ」
あっと男は膝を叩いて合点した。
言われてみれば、男は朝昼晩に各一升、一日都合三升飲むほどの
「そいつぁ妙案だ。ありがとうございます」
命拾いの算段がついた男は、若旦那に礼を言うと仕事帰りに酒を買い、長屋の四畳半で
日が落ちて、暮れ六つの鐘が鳴ったと同時に、ダキニがまた男の前に現れた。
「約束通り、精をもらいに来たよ」
ダキニの前で落ち着き払った男は、酒を注いだ
「まぁ、一杯つきあいねえ。
ダキニは一瞬いぶかしげな顔をしたが、男が今更何もできまいと
「あぁ、いい飲みっぷりだ。もう一杯」
男は巧みにおだてつつ、ダキニに二杯三杯と杯を重ねさせてはほくそ笑む。
果たして、四つの鐘が鳴る頃には先に酔いが回ったダキニが、赤い顔で襟をくつろげてうとうとと眠りだした。
ーーしめたっ。
男が例の根付を奪おうと、ダキニの側にそろりと動いたそのときだ。不意にダキニの目がぱちりと開いた。
「やっぱり、鈴を盗むつもりなんだね」
男が何か言おうとするより早く、ダキニが古畳の上に突っ伏して
「あたしはここの氏神で、おまえさんに惚れていたのさ。一度だけ抱いてもらいに来たけれど、怖がられては立つ瀬がない。ーーさあ、その鈴を持って逃げちまいな」
そう語るダキニの涙を男は尊く思った。世に女は数あれど、若さも金もない根無し草のために涙を流し、
「ごめんよ。おれは……」
と、優しく肩を抱いた男の首筋にダキニがいきなり、がぶりと食らいつく。男は首から体中の血が抜けてゆく心地に気を失った。
「……おまえさん。朝だよ。起きとくれ」
「うなされていたが、悪い夢でも見たのかえ」
明るい朝の光と、女房がこしらえた
「夢の中で、おめえと瓜二つの鬼に食われかけたぜ」
「ああ、いやな夢。そら、早く顔を洗ってきておしまいよ」
男は促されるまま、夢のことなど忘れた様子で外に顔を洗いに出ていった。
その背中を見ながら、女房がぽつりと呟く。
「あのとき、食う気でいたんだが……。食われちまったのは、
女房の胸元で根付の鈴がりんと鳴り、これにてお終い。
ダキニの亭主 夏目 @KARASUMA373
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