第9章 最終兵器マシュマロ
少年は椅子から立ち上がり、リビングを出て玄関へと向かった。急ぎながらも靴紐をしっかりと結び、軽く髪を整えてからドアの外に出る。ルンルンはついてこなかった。ついてこられても困るだけだ。門を抜けて正面の道を見てみたが、少女の姿はすでにそこにはなかった。そう遠くに行くことはないだろうと思って、とりあえず、彼は少女の新居に向かうことにした。
玄関の鍵はかかっていなかったが、室内には誰もいなかった。まだ生活の気配すら感じられない。隅に寄せられた毛布が床に置かれたままになっていて、それだけが妙に生々しい感じだった。壁の上方に嵌められた照明器具は真新しく、今は機能を発揮していないながらも、この空間を何よりも象徴しているように思える。
少年は街の外に出た。
もう、考えられる場所は一つしかなかった。
そこにいなければ、何もかも終わりだ。
しかし、彼には、彼女はそこにいる、といった根拠のない確信があった。
坂道を途中まで下り、左に曲がって公園の入り口に辿り着く。そのまま坂を上り、やがてサッカーコートと広場があるエリアに到着した。右手に向かい、少年は広場に足を踏み入れる。
涼しい風。
いつの間にかやんでいる雨。
それでも曇っている空。
広場の奥の方にあるベンチに、一人で腰かけている少女の姿が見えた。
彼は少しだけ安心する。ゆっくりと足を前に進めて、少女がいる方へ近づいていった。
芝生は濡れている。たちまち靴も濡れた。まだ水は染み込んでこないが、いずれ靴下も濡れてしまうだろう。靴に防水スプレーはかけていなかった。
いつもならなんともない距離が、今は多少長く感じられた。
少女は下を向いたまま固まっている。
彼は少女の前まで来ると、暫くの間黙っていた。
「どうして来たの?」
何も言えない少年を見兼ねて、少女の方が先に口を開いた。
「どうしてって……」
「彼女が好きなの?」
「違うよ。そんなわけがないじゃないか」
「じゃあ、どうして?」
「嫉妬しているの?」
「嫉妬?」少女は笑った。「何それ。馬鹿にしているの?」
「馬鹿になんてしていない。君の勝手な誤解だよ。どうか、勘違いしないでほしい」
「勘違い?」
「証拠があるとでも言うの?」
少女はゆっくりと顔を上げ、少年の瞳をじっと見つめる。
「私の直感がどれくらいのものか、君、知っているよね?」
少年は目を逸らす。
「……誤解だよ」
「誤解なんてありえない。私には、事実だけが分かる」
「じゃあ、事実が間違えているんだ」
「そんなことが本当に起こると思う?」
少年は短く息を吐く。何も言う気になれなかった。それは、彼に何の負い目もないからではない。そんな馬鹿げた理由ではなかった。そう……。少女にそんなことを言っても、自分が傷つくだけだ、と分かっていたからだ。彼女の心配をしているのではない。結局、自分が可愛くてどうしようもないだけだ。
「帰って」少女は言った。「もう、会えない。会いたくない」
「君だけの問題じゃない」
「私だけの問題だよ。私が、もう、君に会いたくないんだから。君のことは知らない。もう私の前に現れないで。二度と、私に顔を見せないで」
「それはできない」
「帰って……」
「どこに帰れっていうの?」
沈黙。
ナポレオン・ボナパルトなら、この状況をどのように打開するだろう?
英雄の頭脳はどのような仕組みで動いているのだろう?
……分からない。
ただし、自分は英雄ではない。
そんな高尚な判断はできない。
少年は少女の腕を掴む。その表面が僅かに濡れているのを感じて、彼ははっとした。
「……泣いているの?」
「ねえ、どうしてなの? どうして、いつも、ほかの子のところ行っちゃうの?」
「何を言っているの?」
少女は答えない。彼に見られるのも構わずに、ただただ涙を流し続ける。
「私、ずっと待っていたんだよ。何日も何日も……。いつ、インターフォンが鳴ってもいいように、いつ、玄関のドアが開かれてもいいように、毎日待ち続けていたんだよ。それなのに、君は、どうして、いつも、ほかの子のところに行こうとするの?」
少年は答えられなかった。
それは、彼に勇気が足りないからではない。
答えられるだけの情報がないからだ。
つまり、無知。
少女が何を言っているのか彼には分からなかった。
「もう、何年も待った」少女は言った。「何回も繰り返しても、何も変わらなかった」
少年は少女の顔を見つめ続ける。
「もう、いいよね、終わりでも……」
「……どういうこと?」
「説明しても分からないよ。君は、いつも分かってくれるけど、でも、いつも、それとは反対の行動をする。その繰り返しだった。次はきっと上手くいくって、自分にそう言い聞かせてきたけど、もう、もちそうにないよ、私」そう言って、少女は無理に微笑む。「ねえ、どうしたらいいの? 教えてよ。どうしたらいい?」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
「……何があったのか、教えてほしい」
少年は小さな声で呟く。尤も、呟きとは小さい声で言うものだ。
「何があったのか、教えてほしい?」少年の言葉を聞いて、少女は笑う。「そんなの、こっちが聞きたいよ。何? どうして、毎回毎回同じことを繰り返すの? 学習能力がないわけ? なんでそんな簡単なことができないの? ねえ、教えてよ」
「君が何を言っているのか分からない」
「それは私の台詞だよ」
「そんな脚本はないよ」
そのとき、二人の背後で声が聞こえた。
少女は少年の背後に目を向ける。
距離にして数メートル。
ルンルンが立っていた。
「その台詞は、君の台詞じゃない。彼の台詞なんだよ。だって、予めそう決められているんだから。ねえ、そうでしょう?」
誰に向けられた問いか分からなかったから、少年も少女も答えられなかった。
「何回も繰り返すのは、もはや当たり前のことだよ。そういうふうにできているんだから。よく周りを見てみなよ。地球だって、昔からずっと同じ方向に回り続けているでしょう? 生き物も、生まれては死ぬのを繰り返しているし、創作物も、論文も、どれも全部同じ展開になっているよ。繰り返しているだけ。それだけなんだよ、それだけ……。それだけが、ここに存在するありとあらゆるものを支えている。そんな脆弱な構成。君たちも、その内の一部分でしかない」
ルンルンは、背中で両手を組んだまま、ゆっくりと歩いてくる。
「君たちは、結局、お互いを理解することができなかった。それはなぜか? 答えは、存在する次元が違うから。それだけの単純な話。二人とも、もうそれに気づいているでしょう? どうして、気づいているのに、気づいていないふりをするの? それで何か変わる? 事実を事実と認めないで、見ないふりをして、何かが変わった歴史があった? ねえ、どう思う?」
「何を言っているのか……」少年が呟く。
「それも、君の台詞」ルンルンは笑った。「でも、私のこれは定められた台詞じゃない。君にはその違いが分かる?」
「何も言わないでよ!」少女が突然大きな声を出した。
「どうして、そんなに怒っているの? 分かっていたでしょう? 毎回毎回同じタイミングで涙を流して、本当に、ルールに忠実なんだね。感心するよ。うん、素晴らしいと思う」
素早く腕を伸ばし、ルンルンは少年の手を掴む。
彼は戸惑った。
彼女にじっと見つめられる。
その瞳は何も映していない。
「彼は、もう私が貰った」ルンルンは言った。「残念、今回も不正解。何も学ばないって、さっき彼に言っていたけど、それは君の方だよ」
「……違う」少女は呟く。「私は、ちゃんと、変えられるように頑張った」
「でも、結果はいつもと同じだったでしょう? 残念だけど、過程を評価することはできないよ。そんなの誰にだってできるし。結果がすべてなんだよ、世の中。過程なんて、頑張っているふりをしていれば、誰の目だって欺けられるわけだし。頑張っていますよってアピールしていればいいんだから、そんなの、君の手にかかればお手の物でしょう? その能力があること自体は褒めてあげてもいいよ、うん」
「そんなんじゃない!」少女は立ち上がる。
「何? 何か、反論があるわけ?」
少女はルンルンを睨みつける。
「……彼は、渡さない」
ルンルンは目を細めた。
「ふう〜ん……。……でも、彼、もう、君には目もくれないようだけど、どうするの?」
少女は少年を見る。彼は彼女の方を向いていたが、その顔は無表情だった。
ルンルンと少年は固く手を繋いでいる。
共有結合のように強固。
もしくはそれ以上。
「君がこれ以上頑張っても、何も変わらないよ。努力は必ずしも報われない。第一、君のそれは努力と呼ぶには乏しいかな。本当に努力していたら、何度も同じ間違いはしないものだよね。そうじゃない? 私は毎回君に勝利し、君は毎回私に敗北する。その差は何? 才能? 努力? 両方? 私に才能があると思う? でも、君には、私以上に恵まれた才能があるよね? じゃあ、どうして私に負けるの? どうしていつも私が勝つの?」
少女は頭を抱え、その場にしゃがみ込む。
もう、少年の顔も、ルンルンの顔も、見たくなかった。
何も見たくない。
真っ黒な世界に逃避したい。
いや、真っ黒という色を認識できることすら嫌だ。
何も感じたくない。
涙が零れて地面に吸い込まれていく。
水分だけ吸収され、塩分だけがあとに残った。
気持ちが悪い。
嗚咽。
ルンルンは少年の腕に自身の腕を絡め、彼はそれに呼応するように彼女に身を寄せる。
まるで番。
少女は泣き叫ぶ。
周囲に存在する音が、彼女の悲鳴だけになった。
彼の心音も存在しない。
彼の吐息も存在しない。
何もかも存在していてほしくない。
ルンルンも……。
彼女が……。
彼女さえいなければ……。
……彼女さえいなければ、私が彼を手に入れられたのに!
少女は大声を上げながら、勢い良く立ち上がり、ルンルンの首に飛びかかる。
両手を使って彼女の首を締め上げた。
憎悪の籠もった目で少女ルンルンを睨みつける。
しかし、ルンルンは笑っていた。
楽しそうに。
嬉しそうに。
少女はゆっくりと力を抜き、その場に膝を落とす。
もう、立っていられなかった。
気力がなかった。
何もかも諦めてしまおう……。
そう思った。
「それが、君の限界なんだよ」ルンルンが言った。「すべて計画されているんだから、当たり前の結果だよね。いくら努力しても変えられないこともあるんだよ。だから、仕方がない。諦めるまで、随分と長い時間を必要としたみたいだけど、もう好い加減気が済んだでしょう? 何回繰り返しても同じこと。決定は覆せない」
「……じゃあ、私が存在する意味は、何?」
「意味?」ルンルンはくすっと笑った。「意味なんてないよ。そうでしょう?」
「そんなはずはない……」
「そうなんだよ。今まで勘違いして生きてきたんだね。いや、そもそも、生きている気になっていたって言った方がいいかな……。いずれにしても、可哀相に……。でも、私にはどうすることもできないよ。せいぜい、彼を私のものにして、代わりに幸せにしてあげるくらい。それでいいかな?」
再び雨が降ってきた。
水滴が髪を伝い、すでに濡れている地面をさらに濡らす。
ルンルンは片手で前髪を耳もとにかけ、少女の返答を待った。
ルンルンはずっと笑っている。
ずっと笑っているのは、自分の役目だったのに、と少女は過去を思い出す。
いつからだろう?
いつからその役目が入れ替わってしまったのか?
いつから?
いつから……。
「じゃあ、もう行くね」
ルンルンは少年と手を繋いだまま、広場の入り口へ向かおうとする。
遠ざかっていく足音。
「……待って」
しかし、少女の声が二人を引き止めた。
立ち止まってルンルンが振り返る。
「何?」
「彼が一番好きなものを知っている?」
「……え?」
「彼が、一番好きなものを知っている?」
ルンルンは首を傾げる。
「何を言っているの?」
「知らないの?」
「意味が分からないんだけど」
「意味なんてないんでしょう?」
「うん、そうだね」
「それなら、私がその意味を作ってあげる」
「え? ちょっと、大丈夫?」
「彼が一番好きなものも知らないで、よく彼を幸せにできる自信があるね」
ルンルンは答えない。少女を睨んだまま固まっている。
少女は立ち上がり、ゆっくりと顔を上げた。
その顔は笑っていた。
涙で頬を濡らしながら。
雨で頬を濡らしながら。
涙と雨を混ぜ合わせて。
少女は、笑っていた。
「彼が一番好きなものは、私だよ」
次の瞬間、ルンルンは悲鳴を上げてその場に座り込んだ。
頭を抱えて奇声を発する。
「彼が一番好きなものは、私!」少女は叫んだ。「君なんかじゃない。今、そう決めた」
やめて、とルンルンが呟く。
少女は応じない。
「彼が、一番、好きなものは、私!」
ルンルンの叫び声。
広場の芝生の上を風が勢い良く滑り、彼女の四肢を粉砕する。
空気圧。
少年が倒れる音。
少女は彼の傍に駆け寄る。
頭を両手で抱え、胸もとに引き寄せて抱き締めた。
彼が目を開ける。
「……あれ? ……えっと、何をしているの?」
少女は微笑んだが、瞼の隙間からたちまち涙が溢れ出した。
「……もう、馬鹿」
「え、何が?」
「馬鹿……」
少女は笑いながら彼を抱き締め続ける。
少年は戸惑ったが、今は彼女のしたいようにさせておこう、と思った。
「……何があったの?」
「何もないよ。何もかもいつも通り」
「よく、分からないけど……」
「でも、最後だけ違った」
「最後? 何の?」
「もう、また失敗したかと思ったじゃん。いつもいつも、手間をかけさせて、少しは私の気持ちも考えてよ」
「うん……、ごめん……」
「嘘だよ」
「あ、そう? それなら、うん、よかったよ」
「もう、馬鹿」
「今日はやけに褒めてくれるね」
「もっと言ってあげようか?」
「うん、よろしく」
少女は顔を上げる。
それから、口を大きく開いて彼女は言った。
「ばあ〜か!」
空を覆っていた雲はどこかへと消え去り、清々しい太陽の光が辺りを照らし出す。
心地良い小鳥の囀りが聞こえた。
少女に手を引っ張られて、少年はその場で立ち上がる。
「目、濡れているよ」彼は言った。
「泣いているんだから、当たり前じゃん」
「そうなの? てっきり、樹液が漏れたのかと思ったよ」
少女は手を繋いでいるのとは反対側の腕を持ち上げ、彼の頬を思いきり引っ叩いた。
*
街に戻ると、少女の新しく建てた家がなくなっていた。それを見て一番驚いたのは少年だったが、少女はそんなことはどうでも良いと言って、全然気にしなかった。事情がよく分からなかったが、とりあえず、少女がそう言っているのだから、大丈夫なのだろう、ということで彼は納得しておくことにする。家がなくなって全然慌てないのは問題だが、そもそもの話として彼女は問題児なのだ。問題児が問題を抱えていても、何も問題ではないだろう、と少年は一人で考える。
少女の旧家に戻ってきた。
二人はリビングに移動し、いつも通りテーブルの席に着く。少年がコーヒーを淹れ、カップに注いで二人で飲んだ。
カップを口に当てたまま、数秒間二人で見つめ合う。
やがて、少女が少し笑った。
「何?」少年は尋ねる。
「いや、何も」
「なんか、変な感じがする」少年は言った。
「どんなところが?」少女はコーヒーを飲む。「まあ、でも、そうか……」
「何がそうかなの?」
「いやいや、こっちの話。気にしないで」
「気になるなあ」
「ねえ、君さ。これからも、ここで暮らしていいよ」
「え、本当に?」
「うん。だって、行く当てがないんでしょう?」
「いや、自分の家があるけど」
「じゃあ、その家に帰ってもいいから、私の傍にいてね」
「どうして?」
「いちいち説明しないと分からないわけ?」
「うーん、まあ、分からなくはないけど、説明してもらった方が的確というか……」
「あそう。じゃあ、説明してあげるよ。君が好きだから。それでいい?」
「うん、いいね」
「そう言ってもらいたかっただけでしょう?」少女は笑う。「分かりやすいやつ」
「さて、それじゃあ、これからどうするのかを決めよう」
少年の言葉を受け、少女は軽く頷いた。
彼女は立ち上がり、シンクの傍にある戸棚からお菓子を取り出す。彼女が持ってきたのは純粋なチョコレートだった。台形を立体にした形をしている。ピーナッツは入っていない。チョコレートだけの方が噛むのに神経を使わなくて良いし、余計な味覚を使わなくて済む。食事は基本的に疲れる行為だ。
「まずは、プロテクトを確実なものにしないと駄目だろうね。色々な脅威が迫っている中で、うかうかしていたんじゃしょうがないから……」少年は話した。「そこで、君のその能力を借りたいんだけど、どう? 快く協力してくれるかな?」
「もちろん」少女は頷く。
「じゃあ、そういうことで……。……そうすると、あとは、空間の定義の問題かな」
「それはどうするつもり?」
「それが、全然いい考えが浮かばないんだ」少年は素直に話した。「色々なパターンをシミュレーションしたんだけど、なかなか優れた方法に至らなくて……。あと少しでどうにかなるような気はするんだけど、その少しがなかなか思いつかないというか、そもそも、そんな思いつきを期待していていいのかと思ってしまって……」
「でも、まだ試していない方法があるんでしょう?」
少女にそう問われ、彼は仕方なく頷いた。
「うん、そう」
「じゃあ、もう、それを試すしかないじゃん」
「もちろんその通りだよ。でもね、まだいまいち踏ん切りがつかないんだ」
「でもさ、論理的に考えてそれしかないんだから、そうするしかないでしょう?」
「うーん……」
少年は腕組みをする。
たしかに少女の言う通りだった。結論はもう出ているのだから、あとはそれを実行するだけで良い。それができないのは、そうしたくないから、もっと言えば、そうするだけの勇気が足りないからにほかならない。行き詰まりの原因はそれだ。それ以外にはない。しかし、ガソリンを補充するみたいに容易く勇気を補充することはできないから、いつまで経っても次の行動に移れない状態が続く。
「私が代わりにやろうか?」
少年がなかなか答えないから、少女は提案した。
「いや、それは駄目だ。君は別の能力を行使する役割を担っているわけだし、それに、何より、君は比較的影響を受けやすい」
それはその通りだったから、少女は特に反論しなかった。
数秒間の沈黙が下りる。
「分かった。やっぱり、これ以外に方法はない。僕がやろう。それで駄目だったら、そのとき諦めればいいんだ。うん、そうだ」
「本当に大丈夫?」
「まあ、自信はないけど……」
「失敗したら、どうするの?」
「失敗はしないと思うよ」少年は説明する。「そのために、何回もシミュレーションをしたんだから。その方法を試しても、次の一手を思いつかなかったら、それまでだ」
「うん……」
「不安?」
「そりゃあ不安だよ。不安じゃない人なんている?」
「僕は不安じゃないよ」彼は笑った。「自信がないだけ」
「自信がなかったら、不安を感じるものじゃない?」
「それ、どういう理論?」
「私の理論」
「評価するとしたら、いまいちと言わざるをえないね」
「君になんて評価されたくないし」
「へえ、そう? じゃあ、ま、そういうことでいいけど」
「意味が分からない」
少年はーヒーを飲み干し、ゆっくりと椅子から立ち上がる。目は天井の方を向いていて、意識は半分くらい目の前の空間から乖離していた。
「本当に大丈夫? もう少し、考える時間があった方がいいんじゃない?」少女が言及する。
「いや、もう始めよう。考えていても仕方がないから」
「言っていることがちぐはぐだよ。頭回っていないでしょう?」
「これから回すんだよ」
「油は刺した?」
「少しは」
「アイドリングの問題かな」
「アイデアリング、の間違いじゃないかな」
想像していた以上に少年の頭は回っているみたいだったから、少女は少し安心した。
二人揃って玄関の外に出て、少し離れた場所から家の外観を観察する。
少年は腕を空に向けて伸ばし、親指と中指を擦って音を出した。
微かな振動が伝わってくる。
「これ、大丈夫かな?」心配性の少女が誰にともなく尋ねる。
全然確信がなかったから、少年は軽く首を傾げることしかできなかった。
まず、少女の家の根本が立ち上がり、家屋全体の高さが微妙に高くなった。次に玄関のドアが上辺だけ嵌ったまま、本来の機構を無視してこちら側に突き出るように開く。それとともに先ほど持ち上がった床下のスペースが僅かに横に広がり、家そのものが大きく変形を始めた。
左右の壁がいくつものパーツに分かれ、それぞれがそれぞれの機構で動き出す。正面の玄関がある側の壁は、暫くの間何の変化もなかったが、やがて二つの窓が横にスライドして消失し、窓枠は壁に吸い込まれるようにして消えていった。赤い屋根の中央に大きなスリットが入り、それぞれが内側に向けて九十度回転する。二つに分離した屋根が左右にずれて、できた隙間から巨大な立体が姿を現した。
「それにしても、いつ見ても歪だなあ……」少女が呟く。
「左右対称になっているんだから、歪ではないと思うけど」少年は応える。
「そうじゃないよ。なんか、もう、そういう次元を超えている感じがするってこと。どうしたらこんな設計になるのかって思わない?」
「そうかな? 僕は普通に格好いいと思うけど……」
「普通って何だ」
根本の機構が背を伸ばし、いよいよ家の高さが四倍近くになる。玄関があった部分は下から数えて四分の三の高さにあり、もうそこから室内に入ることはできそうになかった。これほど大きなものが動いている割には、地面の揺れはそれほど大きくない。むしろスムーズな印象を受ける。長い間動かしていなかったが、機構はまったく劣化していないみたいだった。
そして、ついに、すべてのギミックが動きを止めた。
出来上がった巨大な建造物を見て、少女が感嘆の声を上げた。
「いやあ、これはこれは、まことにお久し振りで……」
「やっぱり、凄い」少年は言った。「凄いね、やっぱり」
「前後関係を、入れ替えただけだね……」
「人の台詞をとらないでほしいな」
たった今完成した建造物に二人は歩いて近づいていく。厳密には、それは建造物ではなかった。安定性という意味で多少不充分さが感じられる。しかし、そこにはもちろん理由がある。それは、そもそもの問題として、安定性を備えている必要がないからだ。
二人が近づくと、建造物の右側にあった細長い機構が途中で折れ曲がり、二人の傍までゆっくりと下りてきた。誘導されるまま二人はその上に乗る。再び機構が作動し、二人はみるみる内に上の方へと移動していった。
屋根の隙間から出現した立体に、二人は入り込む。
その中には椅子があった。二人乗りだ。
少年と少女の生体反応を感知して、目の前に巨大なスクリーンが出現する。それと同時にこの立体の入り口がゆっくりと閉まった。
「どう? 動かせそう?」
少女が先に椅子に座り、少年はその後ろから彼女の手もとを覗き込む。
「ちょっと待って。久し振りだから、思い出さないと……」
少女の前にはいくつかのレバーがある。ほかにも様々なボタンが配置されており、内蔵された電灯が様々な色の光を発していた。黄色い光が多かったが、中には緑や赤のものもある。
「うん、大丈夫そうかな」機器を一通り弄り終えて、少女が呟く。
「OK」
少年は少女の隣に座った。
右の席に少女が、左の席に少年が座っている。
スクリーンに文字が出現した。
〈間もなく、メインシステムを起動します〉
「飛べそう?」少年は尋ねる。
「うーん、どうかな」少女は応じる。「できないことはないと思うけど、ちょっと、自信がない」
「信頼しているよ」
「信頼されても、何も変わらないんだけど……」
どこからともなく電子音が鳴り始める。それとともに、シートに微かな振動が伝わってきた。
〈メインシステムが起動しました〉
「まあ、とにかく、やってみよう」少女は言った。「できなかったら、そのときってことで」
少年は頷く。
少女は目の前にあるレバーを思いきり倒し、足もとにあるペダルを力を込めて踏み込む。
いつの間にか、目前のスクリーンは前方の風景を映し出していた。
機体が揺れる。
「……これ、大丈夫?」
「大丈夫。いける」
上下方向の振動が大きくなる。次の瞬間、不思議な浮遊感とともに、スクリーンに映る景色がみるみる内に地面から離れていった。
少女は少年に笑いかける。彼も頷いた。
その日、地中深くに隠されていた最終兵器のロボットは、数年振りに息を吹き返した。
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