第4章 確かな見解

 果てしない荒野が広がっていた。空は赤く染まっている。血のような赤ではないが、地面がそのような色に染まっていてもおかしくはない。しかし、実際には枯れ果てた茶色い大地が永遠と続いているだけで、色彩は限られていた。今見ている方向に建物は見えない。乾燥した風が僅かに生える雑草を揺らし、かさかさと奇妙な音を立てて消えていった。


 赤く染まった空を、何羽もの烏が飛び交っている。何をしているのかは分からない。まさか、餌があるということはないだろう。声を上げて何かを示唆するようにホバリングしているが、不思議と、そちらの方に近づきたいという気持ちは起こらなかった。むしろその反対だ。近寄りたくない。これ以上何者をも寄せつけないために、彼らが守衛の役割を担っているようにさえ思える。


 少年は少女と手を繋いで立ち尽くしていた。


 少女は少年と手を繋いで立ち尽くしている。


 過去。


 現在。


 未来。


 そのいずれの時間も、この大地は果てしなく広がっているのだろう。


「何を探したらいい?」少年は前を向いたまま尋ねた。


「何でも」少女も前を向いたまま答える。「でも、大切なものじゃないと駄目だよ。どうでも良いような、そこら辺に落ちているものじゃ駄目」


「この、石とか?」少年は地面を指差す。


「そう」


「じゃあ、多少大変そうだ」


「大変だよ。何を見つけたら良いのか分からないんだから。人生と同じだね」


「僕は、人生というものを知らない」


「人じゃないから?」


「そういう意味じゃないよ。まだ、人生を語るには経験が足りない」


「それは、何歳になっても同じだよ。死を経験しない限りは、誰にも人生を語ることなんてできない」


 少女と手を繋いだまま、少年は後ろを振り返る。その先には荒れ果てた都市の残骸が散見された。どの建物も半壊の状態でそこに残っている。完全に粉々にはなっていない。窓の形や、敷地の範囲を示す塀、それに建物の土台などはすべて確認できる形で存在している。だからこそ、この状態がより一層酷いものに感じられた。そう……。生き物も人工物も完全には消えない。多少は跡が残る。いや、跡を残す。それは、自身ではない他者の存在を望んでいる証拠だ。


「さあ、行こう」少年を見て、少女が言った。「日が暮れる前になんとか見つけないと」


「無理だと思うけどね」


「どうして?」


「だって、もう日が半分も欠けているよ。それに、反対側では、もう月が半分も現れている。状況は絶望的と見ていいだろうね」


「でも、やらないと、帰れない」


「どこに帰るの? もう、帰れる場所なんてないよ」


「じゃあ、私が用意してあげる」


「帰れる場所を?」


「うん、そう」


「それは面白い」


 沈みゆく太陽を背後に、二人は崩壊した街がある方へと歩いていく。明確な街の入り口は存在しなかったが、それを示すゲートのようなものが残っていた。そこを通り抜けたからといって、街に入ったといえるかというと、そうでもない。街という概念は非常に曖昧だ。


 ゲートを越えると、すぐに広場のような場所に辿り着いた。中央に一段高いステージのような部分がある。しかし、それだけだった。もともと閑散とした街だったようだ。


 広場を中心にして、東西南北、つまり十字方向に道が真っ直ぐ続いている。少女の優れた(少なくとも、少年はそう思っている)勘に従って、二人は西の方向に進むことにした。


 道の左右にビルと思われる残骸が散らばっている。石灰色のコンクリートが山積みになっていて、所々から鉄製の棒のようなものが伸びていた。まるで生き物の身体のようだ、と少年はぼんやりと考える。


「なんか、凄い」歩きながら、少女が呟いた。「建物が崩れると、こんなふうになるんだね」


「ばらばらだ。でも、こういう感じは嫌いじゃない。一見すると無秩序に見えるけど、実際には物理の法則に従った結果なんだ。本当に素晴らしいと思うよ。いくら真似ても、人間にはこれほど精緻な法則を生み出すことはできない」


「それ、誰の意見?」


「僕が話しているんだから、うん、たぶん、僕の意見だろうね」


「変なの」


「僕が? それとも、僕の意見が?」


「どっちも」


「そんなことを言う君も大分変だよ」


「私は、もともと変だから、それでいいんだよ」


「僕はもともと変じゃないの?」


「変」


「なんだ。じゃあ、あまり変わらないじゃないか」


「変わる」


「たとえば、どういうところが?」


「赤味噌を入れるつもりが、間違えて白味噌を入れてしまった、という感じ」


「説明になっていない」


「誰が説明するって言った?」


 どうやら道に終わりはないみたいだった。道はどこまでも続くものだから、その性質を顕著に示しているといえるかもしれない。無限に続く道に対して、人間の体力は有限だから、二人は踵を返してもとの広場に戻ることにした。このときも、これ以上進んでもきっと何もない、という少女の勘に従った。


 広場に到着して、二人は今度は東に伸びる道を進んだ。


 こちらは左右に様々な店舗が軒を連ねていた。一見して商店街であることが分かる。しかし、アーケードのようなものがあるわけではなく、あくまで街の一部に各種の店が展開しているという感じだった。飲食店や雑貨屋、書店に喫茶店と大半の店があるように見える。少女が興味を示したので、二人はその内の喫茶店に足を踏み入れた。


 硝子製の両開きの扉を押し開け、店内に入る。街と同様、店の中も天井や壁の残骸が散らかっていた。円形のテーブルがいくつも床に倒れており、椅子もすべてひっくり返っている。奥にカウンターもあったが、まともに使えそうな椅子はどこにもなく、多少背伸びしないとその上のものを手にすることはできそうにない。カウンターの奥には食器棚があったが、本来中に入っていたはずのものはすべて床に落下していた。


「ここにも、何もなさそうだね」辺りを散策しながら少年が言った。「まあ、期待しても仕方ないか」


「何か感じる」唐突に少女が呟く。


「え? 何かって、何?」


「分からないけど、力を持った、何か」


「ここに探している物があるってこと?」


「その可能性が高い。君は私の勘を信じるの?」


「女性の勘は怖いからなあ」


「酷い偏見だと思うよ、それ」


「褒めているんだよ。いつも感心してしまうんだ、そういうものを見せられると……。その、勘というものは、訓練すれば身につくものなの?」


「統計的なデータに基づいているわけだから、ある程度は身につくんじゃないかな」


「統計的なデータね……」


「データはすべて統計的だよ、とでも言おうとしたでしょう?」


「うん、した」少年は床に転がっていたカップの破片を手に取る。「よく分かったね。それも勘が成せる技?」


「うーん、どうだろう……」


「勘がはたらいているときは、今、勘がはたらいているって分かるの?」


「分かるよ」


「へえ……。それってどんな感じ? わくわくする? それとも、電波を受信しているような感じがするとか?」


「どっちも」


「ああ、でも、その感覚は分かるかも」


「数学の問題が解けたときと、同じような感覚だよ」


「たしかに。……それなら、練習すれば僕にもできるようになるかもしれない」


「でも、今は君の出番じゃない」少女は言った。「もう、見つけたから」


 少年は後ろを振り返り、少女がいる方へ歩いていく。


 彼女は何やら薄汚れた箱の前に立っていた。よく見ると、それは使い古された冷蔵庫だ。表面に灰色の粉末が大量に付着している。おそらく、月日が経って風化したコンクリートの粉末だろう。少女はその表面を掌で軽く叩き、今度は掌を少年の衣服に擦りつけた。少年は短い悲鳴を上げたが、すぐに衣服を叩いて粉末を落とした。


 少女が冷蔵庫の扉を開ける。片開きタイプの古い形状のものだった。


 電気が通っていないから、当然中は暗いままだ。


 しかし、その中にあるものはすぐに見つかった。


 熊の縫い包み。


 少し大きめのテディベアが入っていた。


「どうして、そんなものが……」少年は少女の背後から覗き込む。


 少女は冷蔵庫の中に手を伸ばし、それをゆっくりと取り出した。


「可愛い」彼女は呟く。


「普通、縫い包みを冷蔵庫に仕舞ったりはしない。誰かが意図的に隠したんだ。……何か仕掛けがあると思うけど……、……どう?」


 少女はテディベアを注意深く観察する。表にしたり裏にしたりしてみたが、特に不自然な点は見つからなかった。体内に何かが隠されているのではないか、と思ったが、力を込めて縫い包みを押してみても何の手応えもない。首もとに赤いリボンが括り付けられており、それも外してみたが、目につくようなものは見当たらなかった。


 プラスチック製の黒い瞳が、少女をじっと見つめている。


「これ、貰ってもいいかな?」少女は振り向き、少年に尋ねた。


「まあ、いいんじゃないかな……。……でも、そんなもの貰ってどうするの?」


「どうもしないけど、なんだか、可愛いから」


「なるほど」


「汚れている……。洗濯してあげなくちゃ」


「どこで?」少年は笑いながら尋ねる。


「家に帰ったら、洗濯する」


 喫茶店ではそれ以外のものは見つからなかったので、二人は再び建物の外に出た。もう夕暮れの気配はほとんど残っていない。夜がすぐそこまで近づいている。時間がなかった。悠長なことはしていられない。


「どうする?」少年は尋ねる。


「うーん」少女は唸った。「もう、勘は何も示していないんだよね……」


「とりあえず、さっきの広場に戻ろう」


「戻ってどうするの?」


「あと、ほかに二つ道があっただろう? その内のどちらか一つを選んで進む。たぶん、二つともを調べられるだけの時間はない。それを選ぶとき、もう一度君の勘を頼りにさせてもらうよ」


「OK」少女は綺麗な発音で応えた。


 道を戻る。


 広場に着いたとき、少女が小さな声で言った。


「北」


「え?」少年は訊き返す。「北に行けばいいの?」


「そう……」少女は頷く。「でも、その先で何かが起こる」


「それ、本当?」


「私の勘を頼りにするんでしょう? なら、もう少し信じたら?」


「もちろん、信じているけど……」


「とにかく、行こう」


「大丈夫? 危険はなさそう?」


「危険は常にある」


 もう夜と言っても差し支えないくらい辺りは暗くなっている。街灯が灯っても不自然ではないが、この広場にはそれらしきものは一つもなかった。東西南北に伸びた道には規則的に街灯が並んでいる。両側にあるわけではない。広場を中心として考えた場合、それぞれの道の時計回りの方向に街灯が立ち並んでいる。つまり、東の道と西の道では街灯が立っている側は反対だ。


 二人は北に向かう道を進む。その道は右側に街灯が立ち並んでいた。


 西の道の両側には住宅が、東の道の両側には店舗がそれぞれ並んでいたが、この北の道には目立つものは何もなかった。しかし、だからといって道の両側がまったくの更地というわけではない。もはやもともとどんな形をしていたのか分からないほど粉砕されたコンクリートの瓦礫が、一定の距離を置くようにして二人の視界に出現する。街灯の明かりに照らされていても、すぐ傍の様子が辛うじて分かる程度で、ずっと向こうの様子を確認することはできなかった。


 少女は真剣な表情になっている。少年は少し心配になった。


「君、大丈夫?」少年は尋ねる。


「私は大丈夫だけど、これから大丈夫ではない事態が起こる可能性が高い」


「それは、統計的なデータに基づく見解?」


「そう」


「へえ……。それは凄いなあ……」


 前方に明らかにおかしい空気を感じ取って、二人はとっさに進むのをやめた。


 何がおかしいのかは分からない。


 ただ、動物的な本能が危険だと告げているのは確かだ。


 勘に優れていなくても、少年にもそれは分かった。


 少女は前方を凝視している。


「君が言っていたのは、これのこと?」


 少女が何も話さないから、少年は自ら声をかけた。


「たぶん」少女は頷く。


「いやあ、これは……。……うん、さすがに、僕にも危険な感じが伝わってくる」


「危険どころではない。命が助かる見込みがあるかすら疑わしい」


「それは結構なことだね」


 そのとき、少女が抱きかかえていたテディベアの目が赤く光った。


 二人は驚く。


 突然のことで、身体が反応しなかった。


「ふーん、こんな所にいたんだ」突然、前方から声が聞こえた。「ずっと探していたのに見つからなかったのは、きっと、誰かが隠したんだね。まあ、見つかれば、そんなことはどうでもいいんだけど」


 二人は前方に目を向ける。


 立ち並ぶ街灯の明かりを受けて、小さな女の子の姿が映し出されていた。


 彼女は赤いワンピースを着ている。まだ五歳くらいの小さな子どもだ。


「あ、それ、貴女が持ってきてくれたの? どうもありがとう。ずっと探していたんだ。大事なものなのに、どうしてなくしてしまったのか、と疑問に思うかもしれないけど、残念ながら、その疑問に答えることはできないよ。え、どうしてかって? そんなことどうでもいいじゃない。いいから、それを私に返して。今言ったように、とても大事なものなの。自分の命よりも大切なんだから」


「貴女は?」テディベアを抱き締める力を少し強めて、少女は女の子に尋ねた。


「私? 貴女こそ誰? ここは私の街なんだよ。勝手に入ってきたのに、随分と失礼な人だね。お母さんに躾をしてもらわなかったの?」


「このテディベアを探しているの?」


「そうだよ。返して。ねえ、いいでしょう? もともと私のものなんだから、持ち主に返すのは当たり前だよね」


「貴女のものだという証拠は?」


「証拠? そんなものがないと分からないの? 駄目ね、まったく。本当に低能。どうしてそんな低レベルな回答しか出せないのかしら……。……もう、気が滅入ってしまう」


「どうして、このテディベアがそんなに大切なの?」少女に代わって少年が質問する。


「それは私の分身なの」女の子は説明した。彼女は少し笑っている。「どちらかというと、今話しているこの私の方が分身なんだよ。だから、そっちが本物。それがなくなったら困るの。私が存在できなくなっちゃうんだから。ね、分かるでしょう? 返して」


「分かった、返そう」少年は言った。少女に睨まれたが、彼は気にしなかった。「ただし、一つ条件がある」


 少年の言葉を受けて、女の子は若干不機嫌そうな顔をする。


「僕たちも大事な何かを探しているんだ。その在り処を教えてほしい。この街の所有者である君になら分かるだろう? 君がその在り処を教えてくれるなら、僕たちもこのテディベアを返す。何しろ、これを見つけたのは僕たちなんだから、僕たちの方にも何らかの利益がなければバランスがとれない」


 暫くの間女の子は黙っていたが、やがて何かを思いついたように笑顔になった。


「分かったわ。あなたたちが探しているものの在り処を教えてあげる」女の子は言った。「ただし、生き残ることができたらね」


 次の瞬間、女の子の両手には幾本もの刃物が握られていた。


 ナイフだ。


 その内の二本が少年と少女を目がけて飛んでくる。


 一瞬。


 刹那。


 少女は右手に飛び退き、少年は左手に飛び退く。


 少女は持っていたテディベアをなんとか落とさずに済んだ。


 街灯がスポットライトのように三人を照らしている。


 女の子は笑っていた。


 ナイフが飛んでくる。


 まるでサーカスの曲芸。


 その速度で急所に突き刺されば、人は間違いなく死亡する。


 急所でなくても重症だろう。


 殺意。


 女の子は少女を執拗に狙っている。


 少女の前に少年が躍り出て、女の子の視界を遮った。


 女の子は、赤いワンピースの裾をはためかせながら、大空に向かってダイブする。


 凄まじい跳躍力。


 目にも止まらぬ速さ。


 少女の視覚は女の子の動きを捉えられない。


 勘でその欠点をカバーした。


 補足できればそれで良い。


 右前方にナイフ。


 道の端まで駆けていき、山積みになった瓦礫を盾に少女は身を潜める。


 しかし、すぐに位置が捕捉される。


 相手の直感力の方が上だ。


 少女の頬をナイフが掠め、僅かに皮膚組織を攫っていった。


 数秒遅れて血液が溢れ出る。


 滴る赤い液体。


 考えている暇はない。


 迷っている暇は皆無。


 脳と身体のエネルギー消費の割合を逆転させる。


 身体に七十パーセント。


 脳に三十パーセント。


 女の子の動きは捉えられない。


 少年は少女の背後に追従し、女の子の気配を察知する。


 けれど、彼がどれほど頑張っても、二人の直感力には到底及ばない。


 所詮はただの気休め。


 それでも、精神が追い込まれている状況下では、気休め程度のものも重要になる。


 なくてはならない。


 必然性。


 偶然見つけた家屋の中に飛び込んで、二人は息を顰めた。


 二階建ての住居の一部屋に隠れ、女の子が通り過ぎるのを待つ。


「大丈夫?」息を整えながら、少年は少女に尋ねた。


「うん、平気」頬を流れる血を袖で拭って、少女は答える。「それよりも、このテディベアをどうにかしないと」


「あの子は、これが自分の本体だって言っていた」


 少女は頷き、周囲に顔を向ける。


 しかし、またしても相手に位置情報を捕捉される方が先だった。


 建物全体がもの凄い轟音を上げる。


 もはや地震。


 自然現象。


 人間には処理できない。


 それなら、人間であることをやめれば良い。


 片手を失うくらいなら許容範囲内。


 部屋の床が抜ける。


 落下する二つの生物。


 受け身の姿勢をとる暇はない。


 最低限、最悪の状況を想定しておく。


 地面に接触。


 続けて、頭上に降ってくる瓦礫。


 身体を激しく打ちつけて動けない少女を、先に着地していた少年が巻き込むように退ける。


 目の前に屋根が落ちてきた。


 轟音。


 粉塵。


 目が滲みる。


 喉も滲みた。


 少年は少女を確認する。


 幸い、二人とも大きな怪我はなかった。


「それを壊すんだ!」少年が大きな声を出す。「それさえなくなれば、あの子は動けなくなる!」


「どうやって!」少女は尋ねた。


「なんでもいい! とにかく、破壊を!」


 たった今目の前に形成された瓦礫の山から、赤色の布が姿を現す。


 同時にもの凄い速度で何本ものナイフが飛んできた。


 二人は転がるようにしてそれを避ける。


 しかし、当然すべては避けきれない。


 少女の片腕にナイフが一本刺さった。


 彼女は小さく悲鳴を上げる。


 二本の腕が少女の首を掴む。 


 途切れない連撃。


 痛撃。


 空に舞い上がる二人。


 少年はワンテンポ遅れた。


 少女は女の子の腕を引き剥がそうとするが、空中で上手く大勢を立て直すことができない。


 そのまま地面に落下する。


 接地と同時に、内蔵を口からすべてぶち撒けそうになった。


 そんなことを意識している暇は皆無。


 目の前に女の子の笑顔。


 冷徹。


 掴まれていた首が解放されたかと思えば、今度はナイフで喉を抉られそうになる。


 一本目。


 二本目。


 三本目。


 そして、四本目。


 最後のナイフが、少女の腹部に命中した。


 その瞬間、少女は、全身の血が凍るような感覚に襲われた。


 運動停止。


 筋肉の収縮。


 皮膚組織の断裂。


 細胞の崩壊。


 そのすべてが、確かな感覚として脳に直接伝達される。


 息ができなくなった。


 苦しかった。


 自分では呻いたつもりだった。


 しかし、その声は聞こえない。


 何も、聞こえない。


 沈黙。


 静寂。


 辺りは急に静かになった。


 少女の上に馬乗りになっていた女の子は、声を上げて笑い始める。


 それから、少女が必死に抱えていたテディベアを掴み取り、それを両手で持ってじっと見つめた。


 嬉しそうな顔。


 無邪気な笑顔。


 興奮。


 だが、それまでだ。


 テディベアで死角になっていた空間から、突如として少女の手が突き出してきた。


 その手にはナイフが握られている。


 女の子は一瞬遅れてそれに気づく。


 しかし、もう遅い。


 ナイフはテディベアを貫通し、女の子の驚愕した瞳が最後に見えた。


 テディベアは断裂する。


 中から血飛沫が舞った。


 綺麗な血。


 素敵な血。


 それらは、少女の腹部から漏れる血液と混ざり合って、街の風化した地面に付着して固まった。


 瓦礫を掻き分けて少年が姿を現す。彼は所々に傷を負っていたが、致命傷になりそうなものは見当たらなかった。


 彼は少女の傍に駆け寄る。


「大丈夫?」彼は尋ねた。「我慢するんだ。苦しいのは少しだけだから」


 少女は悲痛な表情で頷く。


 しかし、間もなく細胞がみるみる内に増殖し、少女の切り裂かれた腹部は完全に修復された。


 少女は浅い呼吸を繰り返しながら起き上がる。


「苦しかった……」少女は言った。「久し振りだよ……、……こんな目に遭ったの」


「本当に酷いものだ」少年は彼女に手を貸して立たせる。「僕たちが何をしたって言うんだか……」


 傍にあるコンクリートの瓦礫に腰をかけ、二人は暫くの間沈黙していた。


 少女の手には赤い丸いものが握られている。


 それは拍動している。


 女の子の心臓だった。


 テディベアが形象崩壊したとき、女の子の四肢も完全に砕け散った。


 そのとき、そこから小さな心臓が飛び出し、少女はそれを手に入れたのだ。


「それが、探していたもの?」


 少年は少女の手の中にあるものを見て質問する。


 少女は小さく頷いた。


「これを使えば、不老不死の力を得ることができる」


「え、不老不死? どうしてそんなことが分かるの? ……もしかして、それも君の勘?」


「そうだよ。何でも分かる。直感は絶対的に正しい」


「なんだ、不老不死になれるだけか……」少年は呟いた。「……そんなもの、僕たちには必要ないじゃないか」


「うん……。でも、探し物なんてそんなものだよ。大した価値はない。探している最中が一番楽しい」


 少年は黙って頷く。まったくその通りだと思った。


「それ、どうするの?」


「食べる?」


「気持ち悪いこと言うなあ……」少年は笑う。「僕はいらないよ。彼女に返してあげたら?」


「あの子はもともと生きていないよ。ただ、人の形をしていただけ。この街を破壊したのも彼女だよ。すべて自作自演。ほかの人たちを排除して、一人でこの街で暮らしたかったんだろうね、おそらく……。……だから、私たちは少し悪いことをしたかもしれない」


「もう、取り返しはつかないからね。悩んでも仕方がないよ」


 少年は瓦礫の上で寝転がる。


「もう遅いから……。……今日はここで休むとしよう」


 そう言うなり、彼はすぐに小さな寝息を立て始めた。


 鼓動。


 少女の手の中にある心臓は、今はもう脈を打っていない。すぐに付与しなければ効果はなくなる。しかし、今はそれを付与するような対象はない。


 不老不死なんて、憧れるだけで良い、と少女は思う。


 それがどれほどつまらない状態か、憧れを抱く人間は知らないのだ。


 まあ、当たり前か……。


 経験しなければ分からない。


 少女が小さな心臓を天に向けて掲げると、それは粉のように砕けて消えてしまった。


 望まなければ手に入らない。


 手に入れても、使うことを望まなければ消えてしまう。


 それが希望の正体だ。


 少女も疲れていた。たとえ不老不死になっても、生き物は例外なく疲れを感じるらしい。


 少女は少年の隣に横になる。


 彼の寝顔を眺めた。


 幸せそうだ。


 そう……。


 それだけで良かった。


 彼の寝顔を一生見続けられる。


 それが、彼女が不老不死の力を得て手にした唯一の希望だった。

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