第5章 跳獣・泡の舞

 時刻は間もなく午前七時。目覚まし時計がカウントダウンを始めている。あと一分もしない内に金切り音の地獄を味わうことになるが、充分に深い眠りに落ちている彼には、そんなことを知る由もなかった。自分でタイマーを設定したのにも関わらず、眠っている最中にはそんなことは一切忘れている。それを無責任と呼ぶことはできないが、それにしても、やはり、無責任というものだろう。


 残り十秒。


 目覚まし時計はデジタル表示だから、秒と秒の間というものは存在しない。心臓の鼓動は、どちらかというとデジタルだが、アナログな要素がまったくないわけでもない。七割デジタル、三割アナログといった感じだろうか。心臓は確かに一回一回膨張と収縮を繰り返しているが、膨張と収縮というのは、一連の運動を少し異なる観点から見た場合の分類だから、その間が存在しないとはいえない。


 残り五秒。


 ああ、これで少年の天国も間もなく破壊されることになる。


 残り三秒。


 まさに一巻の終わり。


 残り一秒。


 間もなく、密閉された部屋に怒涛のごとく凄まじい音が鳴り響いた。


 少年は瞬間的に瞼を持ち上げ、身体を起こして何事かと周囲を見渡す。眠り眼ではどこに目覚まし時計があるのかも分からず、とにかく立ち上がってあちこち歩き回るしかない。ようやく喧しい電子機器の在り処を探り当てると、けたたましい奇音を撒き散らす奴の頭部を思いきり引っ叩いた。


 目覚まし時計は大人しく黙り込む。もちろん、スヌーズ機能も解除しておいた。


 これで一安心……。


 そう思って、少年は再び布団に潜り込もうとする。


 しかし、彼が生活する環境がそれを許さなかった。


 ドアの外から階段を駆け上がる音が聞こえたかと思うと、勢い良くドアが部屋の内側に向かって開かれる。そこから一人の少女が姿を現し、両手に持っているものを激しく打ちつけながら大きな声を出した。


「朝だよ〜! 起きろ〜!」


 少年は布団の中で大きな溜息を吐く。気づかれないようにそっと様子を見てみると、少女は左手にフライパンを、そして右手にお玉を持ってそれらを楽器のように扱っていた。なんという古典的なファッションだろう、と彼は思ったが、起きていることを気づかれるわけにはいかないから、そんな感想を実際に口に出すのは控えておいた。


「目覚まし止めたんでしょう? もう、起きているの、分かっているんだからね!」


 そして、すでに目が覚めていることもばれていた。


 両手に持っていたものを放り投げ、少女は少年のかけ布団を思いきり捲り上げる。


 一瞬の内に凍えるほど寒くなって、少年はライフルに射抜かれた熊のような悲鳴を上げた。


「寒い……」彼は震え出す。「勘弁……」


「馬鹿じゃないの?」少女は冷酷な目で彼を見つめる。「私に朝ご飯まで作らせておいて、何を言っているか!」


「君が勝手に作ったんじゃないか……」


「は? 何? 死にたいの?」


「君と一緒なら」


「朝から気持ち悪いこと言っているんじゃない!」そう言って、少女はフライパンで彼の背中を叩く。


「痛い。本当に、やめて……」


「早く起きろ!」少女はついに噴火寸前の状態になり、敷布団ごと少年を軽く持ち上げて、卵焼き状に彼を包み込んでしまった。


「苦しい……。……分かった、起きます。起きますから、勘弁して下さい」


「五分以内に降りてくるように」少女は話す。「じゃないと、もっと酷い目に遭うからね」


 適当に返事を繰り返して、少年は少女に部屋から出ていってもらった。


 まったく……。


 どうしてあんなにお節介なのだろう……。


 これ以上努力しても再び安らかな眠りに就けるとは思えなかったから、仕方なく、少年は起き上がってパジャマから私服に着替えた。布団を適当に折り畳んで部屋の隅に寄せ、窓を開けてシャッターを上げる。その途端、冷たい風が室内に入り込んできた。今は十二月だから、外の空気が冷たくても不思議ではない。


 くしゃみが出た。風邪を引いたかもしれない。


 ふらふらと定まらない足取りで階段を降り、正面の玄関を横目に洗面所へと入って顔を洗う。そして、この水がまた極上に冷たかった。もちろん嗽もするが、もう喉が凍ってしまいそうだった。いっそのこと水道管が凍ってしまえば助かるのにと思ったが、もしそんなことが起きたら、きっと少女がかんかんになって、別の要因で助からなくなるだろう。


 リビングに入る。


 正面に巨大なテーブルがあり、その上に各種皿に盛られた料理が並んでいる。テーブルの奥にシンクを備えた簡易なキッチンがあり、エプロンをつけた少女がそこで何やら作業をしていた。


 少年が部屋に入ってきたのに気づいて、彼女は彼の方を振り返る。


「やっと起きた」少女は笑った。「さ、そこに座って」


 少女に指示されるままテーブルの付近まで進み、椅子を引いて少年はそこに腰かけた。


 二人の席にそれぞれ置かれている皿に、少女がフライパンから目玉焼きを載せる。フライパンをガスコンロに置いてから、少女は少年の前に座った。


 いつも通りの朝食が始まる。


「頂きまあす……」手を合わせて、少年は寝呆けた声で言った。


「ちょっと、大丈夫?」少女は話す。「昨日夜更ししていたの?」


「いや、していないけど……。……うん、たまにはこういうこともあるものだよ」


「ないと思うけど」


「君はね、凄いから」


「何が?」


「色々と」


 少女がどんな顔をしているのか気にもせず、少年は黙々と食べ物を口に詰める。正直なところ、彼には料理の味などほとんど分からなかった。何を食べても美味しく感じられる。そんな少年の無能さ(この表現は少々ずれているが)を知っていたので、彼が何も感想を述べなくても少女は特に気にならなかった。


「今日はどうする?」白米を食べながら少女が尋ねた。今日のメニューは、白米、味噌汁、目玉焼き、それからソーセージだった。なぜか野菜がない。三大栄養源に拘っているわけではないらしい。「どこかに出かける?」


「うーん、そうねえ……」


「何かやりたいことがある?」


「うーん、どうかなあ……」


「ちょっと、真面目に考えてよ」少女は言った。「楽しいことしたいんだから」


「楽しいことって、やろうと思ってできるものじゃないよね」


「できます」


「へえ」


 少女は箸を持ったまま下を向き、溜息を吐きながら何度か首を振る。


 寝起きの彼はいつもこんな感じだ。簡単に言えば、何事にもまったくやる気を示さない。生きることにすらうんざりしているように思える。だから、何を提案しても他人事のように処理される。


「分かった。じゃあ、公園に行こう。それでいい?」彼が何も提案しないから、少女は自ら今日のプランを立てた。


「なんでもいいよ、僕は……。まあ、反対しても強行するんだろうしね……」


「そんなの当たり前じゃん」


「この味噌汁美味しいね」


「うん、それも当たり前。というより、味なんて分からないでしょう?」


「そうね……。……なんか、申し訳ないなあ。せっかく作ってもらったのに」


「いいよ、そんなの」少女は笑った。「そんなつもりで作っているんじゃないから。今日一日動けるエネルギーが補給できるなら、それでいいよ」


「うん、まあ……」


 暫く待ってみたが、彼がその続きを口にすることはなかった。


 二十分ほどかけて朝食をとり終え、洗い物は少年が担当した。何もかもやってもらうわけにはいかないと思ったからだ。と言いつつも、その間に少女は二人分の洗濯をしてくれたから、少年の行いがプラスになったとはいえない。マイナスになっていないことは確かだが。


 午前十時半頃にすべての作業が完了して、二人は公園に出かけた。


「それにしても、ちょっと寒いね」玄関の鍵を閉めたあと、空を見上げながら少女が言った。「こんなにいいお天気なのに……」


「冬だからね……」


「冬だから、何?」


「寒いよね」


「うん、まあ、そうだね」


「くだらないジョークよりは寒くないと思うけど……」


「思うけど、何?」


「いや、何も……」


「何も、何?」


「早く行こう。……立ち止まっていると寒いから」


 街は相変わらず静かだった。自分たち以外誰も住んでいないのではないか、と思えるほど何の音も聞こえない。すぐ傍に山があるが、ほとんどの動物が冬眠しているのか、そちらからも何の気配も伝わってこなかった。


 街を出て見晴らしの良い坂に出る。ずっと遠くの方まで都市が広がっているが、そちらからも人の気配を感じ取ることはできなかった。


 坂道を若干下ると、やがて鉄製の門が見えてくる。門自体はチョコミントのような色をしており、如何にも公園の入り口という感じがする(というのは、あくまで二人の共通認識にすぎない)。入り口の付近に看板がいくつか立っていて、注意事項や開いている時間が記載されていた。


 たった今坂を下ったばかりなのに、今度は広場に向かうためにもう一度坂を上る。こういう無駄のある行動が少年は多少嫌いだ。


 カーブする坂を上りきると、左手にサッカーコートが、右手に芝生と石造りの道で構成された広場が現れた。今はどちらにも誰もいなかった。冬でも元気に遊ぶ子どもたちは、この街の近辺には住んでいないらしい。


 サッカーコートに用はないから、二人は広場に入っていった。


 周回するように張り巡らされた道を歩く。


「ああ、なんか、いいねえ……」少女が言った。「久し振りに解放された感じ」


「何が?」少年はぶっきらぼうに尋ねる。


「魂が」


「魂なんて持っていたの?」


「持っているよ。え、君、知らないの? 駄目だよ、そんなんじゃあ。君にもちゃんとあるんだから。目に見えるものがすべてじゃないんだよ。学校の教科書には載っていないだけで、ちゃんと存在するんだからね。そういう盲点に気づかないと、人生で失敗することになるよ」


「未だに、人生を歩んでいるという実感がない」


「ふーん。変な人」


「君に言われたくないな」 


 広場はかなり広大だ。そうはいっても、某国民的レジャーランドほどではない。当たり前だ。そんなものが街の中にあったら凄まじいことになる(凄まじいこと、の具体的な内容は不明)。


 とりあえず広場を一周し、二人はベンチに腰かけた。


 広場は高台にあるから、それなりの力を伴った風が吹いてくる。しかし、強すぎるわけではなく、ごく一般的な冬の風として相応しいものだった。


 さっきまで晴れていた空は、今は若干曇り気味になっている。二人の気分がそうした方向に向かったからではない。そういう描写が成されることがあるが、回りくどいだけでいまいち効果が認められない気がする。


「さて、じゃあ、私はホッピングでもしようかな」


 突然、少女が立ち上がりながら呟いた。


 少年は自分の隣を見る。


 いつの間にか、少女の手には奇妙な遊び道具が握られていた。


「え、何それ」少年は尋ねる。「どこから取り出したの?」


「どこからでも取り出せるんだよ。知らないの?」


 彼女がホッピングと呼んだその遊具は、一見すると一輪車のようにも見える。下の方に両足を乗せる板のようなものが付いており、そのさらに下には発条のような機構が備わっていた。棒状の骨格の上の方に持ち手が付いている。短い竹馬のようなものと言えば伝わるだろうか。


 少女はその遊具に乗る。


 下半部の発条の力を利用して、彼女はぴょんぴょん跳ね始めた。


「面白そうじゃないか」少年が感想を述べる。


「うん、面白いよ。これね、なかなか見つからなかったんだ。ホームセンターに行っても見つからなかったから、ちょっと遠くまで行って、自転車屋さんまで行ってみたんだけど、そんなものは聞いたことがないって言われちゃって……。……結局、今の時代に非常に有効的な、例のあれを使って注文したんだけどね」


「例のあれって?」


「ネット」


 少年は首を傾げる。泥棒を捕まえるあの道具で、どのように品物を注文するのか、と不思議に思ったのだ。


 少年はベンチに座ったまま少女の遊戯を眺める。彼女は一定のテンポで上下運動を繰り返し、あっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返していた。兎というよりは、カンガルーのイメージに近い。蛙にはあまり似ていないだろう。


 少女は楽しそうに声を上げている。


 そんな様子を見て、少年は少しだけ明るい気持ちになった。


 広場は広大で、世界がこの空間だけでも充分ではないだろうか、と少年はなんとなく思う。世界には自分と彼女の二人しか存在せず、毎日思考錯誤してその日を如何に楽しく過ごすか工夫する。遊び道具は彼女が持っているホッピングだけしかない。それを上手く使って、木の枝に成っている果実を取ったり、ときにはどれくらい高い所までジャンプできるかを競い合い、お互いに栄誉を称え合ったりする。


 とても素晴らしい日常だと思った。


 人生なんてその程度で良い。難しいことなど何一つ必要ない。ホッピングくらいの難易度がちょうど良い。


 彼女に再び会えて良かったな、と少年はなんとなく思った。


「それ、二人乗りはできないの?」なんとなく思いついて、少年は少女に質問する。


「二人乗り?」少女は呆れたような声を出す。「できるように見える?」


「まあ、なんとか頑張れば」


「そうやって、女の子に近づきたいだけなんでしょう?」少女は笑った。「最低」


「いやいや、それは偏見だよ。間違えている。世の中の男どもが皆そんなふうに考えているわけじゃないんだ。勘違いしないでほしい」


「信じないからね」


「信じてほしいなあ……」


「嘘。分かっているよ。……でも、さすがに二人乗りは無理だと思うよ」


「まあ、そうだね」


「君も乗ってみる?」


 少女にホッピングを貸してもらい、ちょっとしたこつを教えてもらったが、彼にはそれを乗りこなすことはできなかった。少女はそれなりに練習を積んでいたらしい。一輪車よりも難しい、というのが彼の率直な感想で、慣れるには少なくとも一ヶ月は必要であるように思えた。


 彼は新しいことには馴染めないタイプなので、今回も技術を習得する努力を怠ってしまった。まあ、できなくても大して問題ではないだろう、ということで今のところは納得しておく。


「ああ、疲れた……」暫くして、少女は再びベンチに座った。「冬でも、運動すれば、なかなか暑くなるものだね。良い運動になった」


「へえ……」


「何、その、感情の籠もっていない呟きは」


「その通り、感情が籠もっていないんだ。特に気にする必要はない」


「あそう。……あ、もしかして、上手く乗れなかったから落ち込んでいるの?」


「まさか」少年は無理に笑った。内心では図星だと思っていた。「僕に才能がないんじゃなくて、たまたま君に才能があっただけだよ」


「分かりやすい言い訳」


「言い訳は、いいわけ?」


「いいでしょう。何か問題なの?」


 一時間ほどその公園に留まってから、二人は家に戻ることにした。あっと言う間に昼時になった。何かしていれば時間は早く過ぎるものだ。


 少女は家までホッピングに乗って帰ろうとした。広場から公園の入り口までは下り坂で、そこから街の入り口までは上り坂だから、どちらにしてもホッピングには優しい環境ではない。しかし、それが却って少女の競技者魂に火を点けたらしく、危ないからやめた方が良いと少年が言っても、何が何でもホッピングに乗ったまま家に帰ると言って聞かなかった。そんな馬鹿げたことをしていたせいで、帰るのに普通の三倍くらいの時間がかかり、少年はへとへとになって家まで辿り着いた。対して、少女はにこやかな表情を浮かべていた。まだまだ余力があるようだ。


 昼食はトーストだった。トーストを焼く行為は、果たして料理に含まれるだろうか、と疑問に思うことが少年にはよくある。というのも、彼はトーストを焼くくらいしか料理ができないのだ。もしそれが料理に含まれないとなると、彼はまったく料理ができないことになる。一つでもできるのと、まったくできないのとでは明らかに印象が異なる。だから何としてもトーストを焼く行為を料理に含めたい、というのが彼の切実な願いだったが、少女はそれを認めてくれなかった。


「は? 何言っているの? そんなの料理と呼べるわけないでしょう?」と、トーストを食べながら少女に言われてしまった。


「いやね、でもさ、僕がトースターに入れたことに変わりはないんだよ。だって、たとえば、フライパンに野菜を放り込むのだって、結局は同じことだろう? どちらも火や電気を使って温めているわけだしさ。何らかの超能力を使って、自分で料理する対象を温めているわけじゃないんだから」


「そんな理屈が通ると思っているのか」少女はホットコーヒーを飲む。


「だって、そうだろう? 僕の言う通りだと思うけど……」


「じゃあさ、手で英単語を書きながらも、まったく頭で覚えようとするつもりがない人は、勉強をしていると言えるの? 言えないでしょう? それはそういう作業をしているだけで、客観的に見ればやっていることは同じだけど、内容がないんだからやっていないのと同じになるのが普通じゃない? トースターでパンを焼くのと、フライパンで野菜を炒めるのとでは、明らかにその人の料理に対する態度が違うじゃん。私が言っているのはそういうこと。ね? 全然違うでしょう?」


「うーん、僕は全然違うとは思わないけどね」


「それは感覚としておかしい」少女は話す。「なんか、自分に都合の良いことばかり言っていない?」


「どうだろうなあ……。人間は自分に都合の良いことしか言わないからなあ……」


「そういう話をしているんじゃない」


「そうだとしても、やっぱり、トースターでパンを焼くのは、立派な料理だと思うよ」


「分かった。じゃあ、家庭科の授業で料理のレポートを書く課題が出されたとき、貴方はトースターでパンを焼いて、その過程を書いて提出するんだね? 普通、そういうことはしないんじゃないの? でも、君が言っているのはそういうことだよね? おかしいでしょう?」


「え、何がおかしいの?」少年は話す。「実際に、そうやって書いたレポートを出したことがあるけど」


 少女は沈黙する。


「評価は?」


「もちろん、満点」


「……それは、きっと、先生もおかしかったんだよ」


「いや、そんなことはないはずだよ。君がおかしいんじゃないの?」


「そんなはずはない」少女は呟く。「そんなはずは……」


 このように、人は数の勢力にはなかなか太刀打ちできない。マジョリティーが生じるのは、この原理が逆手にはたらいているからだといえる。つまり、相手に反論されないように自分が掲げる理論を確立する前に、まずはとにかく同意見の仲間を集めようとする。仲間を集めてから理論を確立した方が、理論を確立してから仲間を集めるよりも効果があるのは明らかだ。結局のところ、これは人間が群れで生きる動物であることを示している。個人で群れを相手にすることはできない。単純なことだ。


「まあ、いいや。とにかく、私はそんなのは料理として認めません。というわけで、今日こそは君に晩ご飯の担当をしてもらいます」


「ええ……」


「何、ええって……」


「面倒だなあ……」


「私が餓死してもいいの?」


「僕が長生きするよりはましかも」


「は?」


「いやあ、困ったなあ……。いったい何を作ればいいんだろう……」


「知らないよ、そんなの。適当にレシピを漁れば作れるでしょう?」


「作れません」


「作り方が説明されているんだよ」少女は話す。「作り方が分かっているのに、どうして作れないの? おかしいじゃん」


「作り方が分かっていても、作れないものは沢山ある」


「たとえば?」


「人工生命体とか」


「それ、冗談?」


「え、どこにそんな要素がある?」


 少女は家の中でホッピングをし始める。


「いやいや、ちょっとちょっと!」少年は大きな声を出した。「意味が分からないんだけど!」


「意味なんてないの!」上下運動を続けながら少女は燥ぐ。「煩い! もうどっか行って!」


 少年は呆然として言葉が出ない。


 少女は楽しそうだ。


 はっちゃけているように見える。


 いや、見えるだけではない。


 現に彼女ははっちゃけている。


 床に接触した発条が反発力を発揮し、少女は天井に程近い所まで上がっていく。そうかと思うと、今度は引力の影響をしっかりと受け、床に向かって一直線に落下してくる。その繰り返し。終わりはない。


 そうこうしている内に、家全体がぎしぎしと音を立て始めた。


「……なんか、嫌な予感がしない?」


 少年は周囲を見渡しながら呟く。


「しないしない!」少女は言った。「しないと思えばしない!」


「いやあ、これはちょっと危ないんじゃないかなあ……。……とんでもないことが起こるような気がするんだけど……。……僕だけ?」


「そうだよ! 当たり前じゃん!」


 しかし、少年の予感は現実としての形を伴って二人の前に現れる。


 少女が雄叫びを上げながら床に向かって落ちてきた。


 発条と床が接触する。


 それが最後だった。


 次の瞬間、家屋がもの凄い轟音とともに倒壊を始めた。


「何これ!?」少女が慌てる。


「いや、何これ、じゃないでしょう」少年は言った。「これはまずい。……とにかく、逃げよう!」


 二人は悲鳴を上げながら玄関に向かう。背後で壁が四方八方に向かって倒れ、蝶番が弾け飛んでドアが木っ端微塵になる音が聞こえた。


 危機一髪で二人は建物の外に出る。


 少女はすぐに後ろを振り返る。少年が少女が立ち止まったことに気づき、袖を引いて強引に彼女を後ろに下がらせた。


 建物から数十メートル離れた地点で、二人はつい先ほどまで家の形をしていたものが塵の山と化す光景を目にした。


 噴煙が巻き上がる。


 軽い地響きが発生。


 二人は声が出ない。


 しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。


 たった今消えてなくなったはずの玄関に一瞬の内にドアが出現し、ノブが動いて中から男性が一人現れた。


 彼は後ろを振り返り、危機感迫る表情で家を見ている。


 数秒後、爆発するような音が上がり、爆音とともに家が再び吹き飛んだ。


 男性は少年と少女の存在には目もくれず、そこに誰もいないかのように二人の傍を走り抜けていく。


 彼らは男性の後ろ姿を眺める。


 やがて、彼は空気に溶け込むように消えていった。


 少年と少女は顔を見合わせる。


「……今の、何?」少女が辛うじて声を出した。


「……いや、分からないけど……」少年は首を振る。「……というか、今の人、誰?」


 少女はすぐには答えない。


「……えっと、私が見た限りは……」


 少年は小さく頷く。


「君、だったような……」


 気持ちの悪い現象を目の当たりにして、少年はその場で卒倒しそうになった。


 身体が地面に向かって倒れかけ、少女が瞬時に反応して彼を支える。


「……大丈夫?」


 少年は黙って頷く。


「……いや、やっぱり、大丈夫じゃないかも」


 少年は気を失ってしまった。


 少女は慌てたが、彼は特に苦しそうではない。呼吸をする音が微かに聞こえる。


 少年を支えたまま、少女はなんとなく後ろを振り返る。


 数メートル先の方で何かが揺らめいていた。


 少女はそれを凝視する。


 紫色の布。


 その表面に、白色の文字で「湯」と書かれているのがはっきり見えた。

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