第3章 産婦人科のアスベスト

 病院。


 少女は椅子に腰かけていた。ずっと下を向いたまま固まっている。もう何時間ここに座っているのか分からなかった。周囲に人の姿はなく、廊下の電気も遠くの方はすでに消えている。彼女が今いるのはロビーで、革張りの椅子が何列かに分けて並べられていた。彼女から見て右手に廊下が伸びており、後ろに受けつけらしきものがあった。


 時刻は午後九時十五分を迎えようとしている。


 少女は少年が来るのを待っていた。少年というのは、彼女の幼馴染のことだ。彼女は彼ととても親しくて、はっきりと言ってしまえば、彼女は彼を愛していた。そう、愛……。彼の姿を目にする度、少女の心は綿菓子のようにふわふわになり、もう二度と彼と離れたくないといった気持ちが怒涛のごとく沸き起こる。少年はそれほど優れた風貌をしているわけではないが(優れたという言い方は気に入られない可能性が高いが、彼女はそれ以外の表現方法を知らない)、その表面から優しさが滲み出てくるというか、そんな不思議な雰囲気を纏っているのだ。どちらかといえば彼は陰気な方だが、その向こう側にある種の明るさを垣間見るのは、彼女にとって難しいことではなかった。


 たった今時刻を確認したばかりなのに、少女は再び自分の腕時計を見る。先ほどからまだ一分しか経過していない。頻繁に時計を確認するのは、もちろん、時間の経過を気にしているからだ。つまり、早く彼に来てほしいという気持ちが存在する。さらには、そういった気持ちが生じるということは、実際問題として、彼がまだここに来ていないということでもある。


 少女は短く溜息を吐いた。


 どうしたのだろう?


 彼がここまで遅れることはあまりない。


 いや……。


 きっと、今は自分が急ぎすぎているのだ。


 少し落ち着かないと……。


 深呼吸をして意識的に心拍数を下げる。


 三回目の酸素の吸収作業を始めようとしたとき、病院の自動ドアが開いて少年が姿を現した。


 彼女は無意識の内に椅子から立ち上がる。


 少年が傍まで来る。彼は息を切らしていた。


「……どうだった?」


 少女の前に立って、少年は呼吸を落ち着かせながら尋ねる。


 少女は答えない。


 その代わりに、胸の前で両手を組んだまま、彼女はぽろぽろと涙を流し始めた。


 簡素な空間に響く、小さな嗚咽。


 少年は少し肩を落としたが、すぐに顔を上げて、目の前の少女を優しく抱き締めた。


「……どうしよう、私……」少女は泣きながら呟く。「どうして、こんなことに、なったんだろう……」


 少年は少女の頭を撫でる。


「……もう、いいんだ。……仕方がない」


 少女は泣き続ける。


 彼女の瞳から溢れた涙が少年の衣服に付着し、水分が蒸発して僅かな塩分がそこに残った。


 まるで時間が止まったかのように、少女は一人で泣き続ける。


 少年は泣かなかった。彼女が彼の分まで泣いてしまうからだ。


「……どうすればいいの? ……どうすれば……」少女は呟く。「……もう、分かんないよ……。どうしたらいい?」


「もう、いいんだよ……。僕たちには、どうしようもなかったんだ」


「でも……」


「仕方がない」


「そんな理由で、諦められないよ」少女は声を荒らげる。


 彼女は少年を自分から引き離そうとしたが、彼が許さなかった。


 沈黙。


 嗚咽。


 嗚咽。


 嗚咽。


 おえ。


「せっかく、見つけたのに……」少女は呟く。「せっかく、育てようと思ったのに……。……私がお母さんになれると思ったのに……」


「仕方がない」少年は彼女を慰める。「仕方がないんだ、もう……」


 薄暗い廊下の向こうから、白衣を身に着けた男性が二人の様子を見ていた。少年はそちらを向き、軽く会釈をする。白衣の男性も彼の会釈に応じ、片手を上げて去っていった。きっと、あとで再び彼に会うことになるだろう、と少年は予想する。男性の傍には女性の看護師も一人いて、彼と何やら話をしていた。おそらく、その二人が世話をしてくれたに違いない。


 少年の胸の中で、少女はまだ嗚咽を漏らし続けている。


 今は、泣きたいだけ泣かせてあげよう、と彼は思った。


 そういうときもある。我慢する必要はない。笑うのを我慢しないのと同じだ。


 暫くすると、落ち着いたのか、少女はゆっくりと顔を上げて、涙で濡れた目もとを擦り、彼に優しく笑いかけた。


「来てくれて、ありがとう」


「当たり前じゃないか」少年は笑う。「いつだって、どこにいたって、飛んでいくよ」


「え、飛んでいく?」


「とにかく、君が無事でよかった」


「私は大丈夫だよ」


「頭がおかしいと思われないか、ずっと心配だったんだ」


「主治医の先生がとても親切な人で、助かった」


「その人に、お礼を言いに行かないとね」


「うん……」少女は少し目を逸らす。「……でも、今は、もう少し君と二人でいたい」


 少年は頷く。


「うん、もちろん」彼は笑った。「あ、じゃあ、飲み物でも買ってくるから、ちょっと待っていてよ」


 そう言うと、少年は少女のもとから足早に去っていった。


 少女は再び椅子に座る。


 少年が来てくれたおかげで、彼女は多少は落ち着きを取り戻すことができた。しかし、あくまで多少にすぎない。それは少年に力がないからではない。そう簡単に消えるような喪失感ではないからだ。


 少年が缶コーヒーを両手に持って戻ってくる。彼は少女の隣に腰をかけ、彼女にコーヒーを渡した。


 少女はそれを受け取る。


「大丈夫?」少年は尋ねる。「若干取り乱していたみたいだけど……」


「うん……。少しは落ち着いた」


「いや、少しじゃ駄目だよ。ちゃんと落ち着いてもらわないと」


「そんなの無理だもん」


「いやいや、無理でもそうしてもらわないとね……。僕がついていけなくなるから」


 少年は缶コーヒーを飲み始める。プルトップを開けて、少女もそれを一口飲んだ。砂糖が大量に入っていて甘い。しかし、まったく甘味のしない缶コーヒーというものを、少女は今まで飲んだことがなかった。


「君のせいじゃないよ」まだ気にしているようだから、少年は少女に声をかけた。「本当に、仕方のないことだったんだ。そういうこともある。運命というやつだ。僕たちには変えられないことだったんだよ」


「そうだけど……。でも……」


 そう言ったきり、少女は再び黙り込んでしまった。


 少女が道端で駝鳥の卵を拾ったのが二日前のこと。それから一日かけて彼女は家で卵を温め続けたが、今日の午前中にそれを落としてしまい、表面に軽く罅が入ってしまった。卵を落としてしまったと言ったが、実際はその表現は適切ではない。少女は毛布に包んで卵を温めていたのだが、その毛布を洗濯するために、一時的にテーブルの上に卵を置いて、洗面所まで毛布を運んで戻ってきたところ、いつの間にか卵が床に落下していたのだ。その衝撃で罅が入ってしまった。だから、それは少女のせいだともいえるが、どちらかというと、まったくの偶発的な要素に原因があるといった方が正しい。テーブルから卵が落下したのだから、何らかの物理的な衝撃が加わったことになるが、それがどのようなものなのかは分かっていない。しかし、その物理的な衝撃を加えたのが彼女ではないことは明らかだ。したがって、一概に彼女に責任があるとはいえない。


 その後、罅が入った卵を抱えて、少女は近所の産婦人科に向かった。そのとき少年は一緒ではなかった。彼はたまたま自分の家に帰っていて、少女が卵を拾ったことも、その卵に罅が入ったことも知らなかった。産婦人科で一連の手続きを済ませたあとで、少女は少年に電話をかけ、今に至るというわけだ。彼を呼ぶ必要は特になかったが、不安だったから、どうしても会いたかった、というのが少女の正直な気持ちだった。


「それで、主治医の先生はどうしてくれたの?」少年は尋ねる。「色々と手を尽くしてくれたんでしょう?」


 少女は顔を上げた。


「うん……」


「助からないって言ったの?」


 少女は一度頷く。


「そう……」少年は言った。「それで、そのあとどうなった?」


「とりあえず、アラスカに送るって……」


「え、アラスカ? どうして?」


「助かる見込みはほぼないけど、そこに連れていけば、もしかすると、一命を取り留めることができるかもしれないって言っていた」


 少年は黙って頷いた。


 少女の中では自責の念が渦巻いていた。どうしてテーブルの上に置いたままにしたのだろう、という自問をもう何度も繰り返した。自分で自分の行動が許せない。揺り籠に入れるなり、脇に抱えて行動をともにするなり、危険を回避する方法はいくらでもあったはずだ。それなのに落としてしまった。そんな自分の不注意さが情けなくて、もう生きる力を完全に喪失してしまったと言っても良いくらいだ。


「君、お腹は空いていない?」少年が質問する。


「空いていない」少女は首を振った。


「僕は、ちょっと空いているから……」少年は自分の腕時計を見ながら話す。「どこかで軽く食べてこようかな……」


「うん……。近くに飲食店なんかあるかな?」


「駅の近くまで行けばあると思うよ」


「分かった。じゃあ、私はここで待っている」


「うーん、何を食べようかな……。オムライスとか、親子丼とか……」


 少年の言葉を聞いて、少女は彼を睨みつけた。


 少年は少女の方を振り向く。


「うん? 何?」


「それ、本気で言っているんじゃないよね?」


「え、何が?」


 数秒間少年を睨み続けたあと、少女はそっぽを向いてしまった。


「もういい。いってらっしゃい」


「何か怒っている?」


「全然」


「それは怒っているという意味だよね。どうしたの? 言ってごらん」


「煩い」


 少年は自動ドアを抜けて建物から出ていった。


 少年がいなくなって、少女はまたこの空間に一人残されることになった。廊下の先は相変わらず薄暗い。天井には細長い蛍光灯タイプの照明が取り付けられていて、彼女の周囲をぼんやりと照らしている。


 二十分くらい経過した頃、廊下の向こうから男性が一人現れた。先ほども一度顔を出した、白衣を着た主治医だった(正確には、少女の主治医ではない)。


「あ、あの……」少女は立ち上がった。「今日は本当にありがとうございました」


「いいえ、とんでもない」主治医は愛想よく笑う。「実際に、飛んだりはしていませんが」


「は?」


「いえ、なんでもありません。あの、よかったら、私の部屋で少しお茶でもしませんか?」主治医は提案した。「少しお話したいこともあるので……」


「ええ、分かりました」


「では、どうぞ、こちらへ」


 少女は主治医について薄暗い廊下を進む。途中に防火シャッターを伴った階段があり、それを上方向に二階分移動した。つまり、三階に辿り着いたことになる。廊下への出口から見て左側に曲がると、間もなく主治医の部屋に到着した。ドアの上に掲げられた表示を見ると「主治医(本名)」と書かれている。


 二人は部屋の中に入った。主治医がドアの左手の壁にある照明のスイッチを押す。明るくなって空間の全貌が見えるようになった。それほど散らかっていない、というのが少女の第一印象だった。中央に小さなテーブルがあり、それを挟んで前後に黒い革張りの椅子が置かれている。そのさらに奥に今度は大きなテーブルがあり、そこが彼の作業机のようだった。小さなテーブルから大きなテーブルがある辺りにかけて、左側の壁に大きなキャビネットが置かれている。その中に様々なカルテが入っているのだろう、と少女は一人で想像した(想像は一人でしかできない)。


「さあ、どうぞ、そこにおかけになって下さい」


 主治医に促されて、少女は入り口に近い方の椅子に座る。彼は大きなテーブルの向こう側に回り、そこで何かしていた。どうやらそこにコーヒーメーカーがあるらしい。暫く作業を続けてから、彼は二人分のマグカップを持って席に着いた。


「いや、それにしても、今回は、その……。私たちの手に負えなかったと言いますか、非常に辛い気持ちにさせてしまって、本当に申し訳ありません」主治医は頭を下げる。


「いえ、そんな……」少女はカップを持ちかけていたが、それを一度テーブルに戻して、彼に対して頭を下げ返した。「私も、無茶なことをお願いしてしまって……。本当に困らせてしまったと思います。私の方こそ、本当に申し訳ありませんでした」


「私たちは、それが仕事ですからね」主治医は柔和に微笑む。「だから、こういう失敗をすると、大分辛いんです。私たちもショックを受けているということを理解して頂きたいと思いまして……。決して貴女だけが苦しいわけではありません」


「ええ……」


 沈黙。


 少女は淹れてもらったコーヒーを飲む。先ほど缶コーヒーを飲んだばかりだったが、今度はまったく甘くなかった。


「……えっと、それで……、お話というのは?」少女は尋ねた。


「ええ、そうなんです……。それなんですが……」


「あの子は、もう、アラスカに送ったのですか?」


「そうです。処置は早い方がいいですからね。今頃離陸する頃じゃないかな」


 それはあまりにも早すぎるだろう、と少女は思う。


「助かる見込みは、その……、数値としては、どのくらいなのでしょうか?」


「そう、それを言いたかったんです」主治医は言った。「今までに例がないことですから、信憑性のある数値を示すことはできませんが……。……これは私個人の見解なのですが、ざっと見積もって三十パーセントくらいだと考えています」


 少女は少し目を丸くする。予想していた以上に高い数値だったので、多少驚いた。


「えっと、それって……。あの、それなりに生存を期待できる、と捉えていいんですか?」


「そうですね……」主治医は真剣な顔になる。「期待できるとは言いがたいでしょう。三割ですからね、残りの七割は死亡する方に傾いているわけです。ただ、絶望的な数値ではない、ということを心に留めておいてもらいたいと思いまして、こうして貴女とお話する機会を設けさせて頂いたわけです。いいですか? ですから、今の内にその後のことについて考えておかなくてはならない。つまり、もしあの駝鳥の一命を取り留めることができた場合、貴女がどのように彼を管理するのか考えておく必要があるのです」


 少女は一瞬の内に自分の胸が高鳴るのを感じた。


 生存する可能性がある……。


 そう考えただけで、すべてがどうでも良くなったような気がした。


 そう……。彼にまた会えるかもしれない。


「えっと、もし、彼の一命を取り留めることができたら……。そのときは、私は何をしたらいいのでしょうか?」少々馬鹿げた質問だな、と自分でも思ったが、ほかに尋ねるべきことを思いつかなかったから、少女はその質問を素直に口にした。


「ええ、まずは、国籍を取得する必要があるでしょうね」主治医は真面目に答える。


「彼のですか?」


「そうです。それから、住民票に新たに記載される必要があります」


 少女は上着のポケットから慌ててメモ帳を取り出し、たった今聞いたことをそこに書き込む。


「その二つを達成したら、次の段階に移行する準備です」


 少女は急いでコーヒーを飲み干した。ホットだから舌と喉が焼けそうになったが、全然構わなかった。


「次の段階、とは?」


「ええ、次は……」主治医は身を乗り出し、囁き声で少女に語りかける。「式を挙げる準備です」


「式?」


「そう、結婚式です」


 少女は頷く。


「なるほど……」


「ただし、ここで一つ問題が生じます。というのも、駝鳥の彼はパスポートを持っていなのです。パスポートがなければ我々が住む国には入れない。そうなると、彼は国籍もとれないし、住民票に記載されることもできなくなってしまう。終いには結婚式も上げられず立ち往生するはめになる……。そういった事態は避けなくてはならない。そうしたときに、貴女は何をするべきだと思いますか?」


「もしかして……。……彼の分のパスポートを作る、ということですか?」


「その通りです。うん、素晴らしい」


「ですが、えっと、その……。……私は、今までパスポートを作ったことがないので、その、作り方がよく分からないのですが……」


「ああ、それなら簡単です。まず、百円ショップに行って下さい。そこに厚紙が売られているでしょう? 厚紙が何かは分かりますね?」


「ええ、もちろん」


「そうしたら、その厚紙をカッターナイフで免許証くらいのサイズにカットします。そのあと、インターネットで『パスポート』と検索しますね。そうすると、パスポートのテンプレートが出てきます。それをプリンターで別の用紙に印刷して、カットしておいた厚紙に貼りましょう。そうして出来上がったパスポートの原型に、貴女の個人情報を記載すれば完成です。どうです? 簡単でしょう?」


「なるほど、なるほど……」少女はすかさずメモをとる。「えっと、しかし、そうなると、今度はそれを彼に届けなくてはならないわけで……。……これは、どうすればいいですか?」


「もちろん、メールで送ります」


「メールで? メールには物理的なものを送る機能もあるのですか?」


「ありますよ。知らないのですか?」


「ええ、知りません」少女は素直に頷く。


「では、そちらの方法についても、後ほどご説明しましょう……」


「ありがとうございます。助かります」


「いえいえ、とんでもない」主治医は笑う。「現に、飛んでいませんが」


「え?」


「なんでもありませんよ」


「世の中には、沢山の種類の厚紙があると思うんですが、何かお勧めのものはありますか?」


「そうですねえ……」主治医は脚を組む。「私のお勧めは、やはりボール紙でしょうか」


「ああ、たしかに、それはいいですね……。あの、なんとも靭やかな感じが」


「ええ、ええ、そうですそうです」主治医はにっこりと笑った。「分かってくれる人がいましたか」


「それで、彼にこちらに来てもらえばいいんですね?」


「そうです」


 少女は椅子の背凭れに寄りかかる。興奮して、ついつい身体を前のめりにしてしまっていた。


 話が一段落すると、主治医は一度立ち上がり、背後にある大きいテーブルの方へ歩いていった。その上から何やら袋に入ったものを持ってくる。少女が見ていると、中から色とりどりのグミが出てきた。彼はそれを少し皿に盛る。


「どうぞ」そう言って、主治医は少女にグミが入った皿を渡した。「以前、私がアラスカに行ったときに貰ったものなのですが、もう……、かれこれ三十年くらい経つかな」


「三十年ですか?」少女は驚く。「では、このグミも……」


「ええ、しかし、それがこのグミの素晴らしいところです。なんと、三十年経っても当時のままの味を維持しているんですよ。赤色はイチゴ味、黄緑色がリンゴ味、そして、紫色がブドウ味なんですが、どれも今でも最高です。一度食べれば、貴女もきっと虜になるでしょう」


 少女は、グミの虜にはなりたくなかったので、それは口にしなかった。


「さて……。ああ、そうそう、そういえば、結婚式の具体的な挙げ方について、まだ説明していませんでしたね」


 少女は大きく頷く。


「まず、ですね……。結婚式といっても、何も緊張する必要はないんです。適度な緊張は人間のパフォーマンスを高めると言われていますが、緊張しないに超したことはないですよね。そう思いませんか?」


「ええ、まあ……」


「ですから、結婚式が始まる直前になったら、キシリトールを摂取するのがいいと思います」


「キシリトールですか? えっと、それはなぜですか?」


「ええ……。キシリトールには、ある偉人の名前が隠されているのですが……。……誰だか分かりますか?」


「えっと……」少女は考える。「あ、もしかして、既知徹ですか?」


「そうです。よく分かりましたね」


「ええ……」


「では、結婚式の準備をしましょうか」


 主治医がそう言ったとき、少女の背後で部屋のドアが勢い良く開いた。


 彼女は後ろを振り返る。


 少年が立っていた。


「そいつに騙されるな!」少年は大きな声を出す。「もう行こう! こんな所にいたら頭がおかしくなる!」


 少年は少女の傍まで来て、彼女の腕を強く握った。


「え? ……ちょっと、何?」


「いいから!」


「そうはさせない」


 主治医の声が聞こえて、少女は彼の方を向く。


 少年も立ち止まった。


 二人とも、主治医の手の内にあるものを見る。


 黒光りする金属の塊。


 彼はピストルを握っていた。


「ええ、そんなことはさせません。彼女との話はまだ終わっていない。それに、駝鳥の管理権は今もこちらにある。いいんですか? 二度と彼に会えなくなりますよ」


「……どういうことですか」少女は訊いた。


「どうもこうもありません。貴方は、彼女のご家族の方ですか? いいでしょう、その方が話が早い。今すぐに彼女を私のもとに預けなさい。さもなければ、貴方の命はありません。さあ、どうしますか?」


「何が目的ですか?」主治医を鋭く睨みつけ、少年は尋ねる。


「彼女そのものが目的です」主治医は答えた。「さあ、早く」


 少年はとっさの判断で、少女の腕を引っ張って自分の前に立たせる。


「どうぞ、撃って下さい。ただし弾は僕には当たりません。大事な彼女が傷つきますよ。いいんですか?」


 主治医は激しい表情になる。


「早くしなさい。私を怒らせてからでは遅い」


「だから、さっさと撃てばいいじゃないですか。得意なんでしょう? そうやって、今まで何人も殺してきたんですか?」


 少女は何も話さない。身体が硬直していた。顔も引き攣っている。


 主治医はピストルの引き金に力を加える。


 少年は少女の両腕を彼女の背中に回し、動けないようにした。


「早くしなさい!」主治医が叫ぶ。


「お断りします」少年は言った。「貴方に譲るには百年早い人材だ」


 主治医が引き金を引こうとする。


 あと〇・二秒。


 そのとき、彼の背後にある窓ガラスが壮絶に砕けて、部屋全体がもの凄い勢いで揺れた。


 主治医の悲鳴が聞こえる。


 少年は少女を庇い、ドアを閉めて砕け散る硝子の破片を防ぐ。


 暫くの間、轟音が響き続けた。


 そして、訪れる静寂。


 少年は少女を解放し、彼女に向けて笑いかけた。


「もう少し、優しくしてよ」少女は言った。「痛かった」


「仕方がない。そうでもしないと、あいつには通用しなかった。上手い演技だったよ、さすがだね」


「失礼極まりない」


 少年はドアを開ける。


 部屋の照明は落ちていた。目の前に主治医が倒れている。気を失ったようだ。


 そして、その後ろに、巨大な影。


 窓の向こうで稲光が煌めき、一瞬その姿が写し出された。


 駝鳥だった。


「これは、凄い……」少年は駝鳥に近づく。「これって、もしかして……。……この前、君が拾ってきた彼?」


 少女は驚いている。


「いや、まさか……。そんなはずは……」


 駝鳥は凛として二人の前に立っている。


 ときどき首を動かして、彼は嘴で自身の体を突いていた。


 少年と少女は駝鳥の背を撫でる。


「彼の親御さんかな」少年は言った。「君が彼を救ってあげたから、そのお返しにきたんだよ、きっと」


 少年がそう言うと、それに呼応するように駝鳥は声を出す。


「ほら」


 少女は笑った。


「そう……。……じゃあ、彼は無事なんだね。よかった……」


「これから、どうする?」少年は尋ねる。


「うーん、どうしようかなあ……」少女は言った。「あ、そうだ。……この子の背中に乗せてもらえないかな?」


 少年は少女を見る。


「……それ、本気?」


 少女は笑いながら答える。


「もちろん」


 建物の外では激しい雨が降っていたが、二人は特に気にしなかった。駝鳥の身体はとてもふかふかで、座り心地は神がかっている。そして、その駝鳥は、見た目以上に強靭な脚力と翼力を持ち合わせていた。


 駝鳥に乗って、二人は夜の街を飛んでいく。


 次の目的地に向かって、どこまでも。

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