第10章 尊敬

 機体は空を飛んでいく。今は振動も少なく、移動は非常にスムーズだった。機器に支障も見られない。長い間操作していなかったが、特に不具合という不具合はなく、適切に管理されているのがよく分かった。管理というのは、少女が如何にあの家を丁寧に使ってきたかということだ。特別メンテナンスをする必要はない分、日常生活の中でどれだけ労れるかという点が、結局はものの保存状態に繋がってくる。


 少女は隣に座る少年を見る。彼はぐっすり眠っていた。疲れたようだ。その点、彼女はずっとこのロボットを操縦しているが、まったく疲れていない。根本的な体力に差があるようだ。


 レバーを握ったまま、少女は過去を思い出す。


 最初の失敗要因は、少年がとある少女に目移りしてしまったことだった。その少女はいわゆる「天才」と称される人物で、数々の学術的功績を残し、人類の未来に様々な指針を与えた。しかし、彼女が「天才」と称されたのは、そうした才能を持ち合わせていたからではない。その才能が開花するのがあまりにも早すぎたことが最も深く関係している。彼女は五歳になる頃には大学レベルの計算を安々とこなせたし、いくつかの言語も完全にマスターしていた。そんな素晴らしい才能を持つ天才に、自分が叶うわけがない、というのが少女の率直な気持ちだったが、それでも、彼が自分以外の人間に惹かれてしまったことが悔しくて仕方がなかった。


 その次は、少年がとある音楽ユニットに加入したことで、少女との縁が完全に切れてしまったことが原因だった。そのユニットは世界的にも有名なグループで、なぜ彼のような凡人が抜擢されたのか疑問だったが、とにかく、少年は才能を見込まれて、彼らと活動をともにすることになった。その音楽ユニットは電子系のサウンドを多数生み出し、そのジャンルの基礎を作ったといっても過言ではない。しかし、少女にとってそんなことはどうでも良かった。どうして少年が自分よりも彼らについていくことを優先したのか、そのときの彼女には分からなかったが、単純に魅力に差があったのだと、あとになって気がついた。それにしても、女性よりも音楽を優先するとは頂けない。


 そして、そうした何度かの繰り返しのあと、今度は彼がイラストレーターになったことで、作業が忙しくなり、少女との仲が自然消滅していった、というパターンもあった。これだけは今でもよく分からない。ある日、少年が突然イラストを描き始めるようになり、それをインターネット上にアップロードしたところ、たちまち様々な企業から仕事の依頼が来るようになったのだ。そうした突拍子もない経緯のあと、彼は海外に渡航することになり、最終的に現地の外国人の女性と結婚してしまった。つまり、少女の存在は完全に忘れ去られたのだ。


 そう……。


 そんなことを、自分はいったい何度繰り返したのだろう、と少女はぼんやりと考える。


 もう自分でも分からなかった。分からないくらい、彼に愛情を示し続けた。


 それでも……。


 今回も、また、同じ失敗で、彼を失い兼ねない事態になったのだ。


 すべての繰り返しの原因は、あのルンルンという少女にある。彼女は人間でもなければ、もちろん精霊などでもない。それは少女がとっさに考えた嘘だ。しかし、ルンルンもその嘘に付き合ってくれたから、なんとか少年に真実がばれることなく話を進めることができた(もちろん、真実がばれても特に問題はなかったが、面倒なことになるのは嫌だからという理由のためだ)。ルンルンというのは概念の名称であり、本来は存在の名称ではない。そのルンルンという概念を打ち破ることで、少女は少年を自分のものにすることができる。反対に、ルンルンという概念を打ち破ることができなければ、少年は絶対に彼女のものにはならない。そして、今回は、そのルンルンという概念が直接存在としての姿で現れて、少年を彼女の傍から奪い取ろうとした。それは、それだけ少女が決めた段取りが適切なものだったということの裏返しでもある。きっとルンルンも焦っていたのだろう。だから少女の前に姿を現したのだ。


 でも……。


 自分は、最終的には彼女に勝つことができた。


 今までずっと試してこなかった解決方法だった。今回は、どうしてか、それを実践する勇気が沸き起こった。


 どうしてだろう?


 それは……。


 きっと、彼も自分と同じように思ってくれている、という確信があったからだ。


 そうでなければ、あんなことは絶対に口にできなかった。


 今考えても恥ずかしい。


 もう二度と口にはできないだろう。


 けれど……。それでも、いつかは彼に直接伝えた方が良いに決まっている。そう、いつかは……。


 ふっと息を吐いて、少女は隣に座る少年をもう一度見る。彼は口を半開きにして、気持ち良さそうに眠っていた。こんなふうに無防備な姿で眠れるのは、自分を信頼してくれているからだろう、と考えることにして、今は彼のだらしのない姿を擁護しておくことにする。


 前方に見える景色はすでに都市のものではなくなっていた。今は巨大な山脈の上を飛んでいる。眼下に見える木々は針葉樹が多く、この辺りが寒い地方であることが分かった。このロボットにはナビゲーターが搭載されていない。それは、少女の自由気ままな性格を反映した結果だといえる。自分の所有物には、自分と同じ性質を持たせたいものだ。


 一時間近く山脈の上を飛び続けた。


 山を越えて海に差しかかったタイミングで、隣の席に座る少年が目を覚ました。


「おはよう」少し笑って、少女は彼に挨拶した。「よく眠れた?」


「よく、の基準は?」少年は目を擦りながら尋ねる。


「まだまだ遠いから、もう少し寝ていてもいいよ」


「どれくらい飛び続けた?」


「えっと……」少女は手もとのパネルを操作する。そこに機器の稼働状況が表示された。「六時間半くらいかな」


「操縦を変わろう」


 少女は頷き、レバーに付いている小さなボタンを押す。すると、手前のハッチが開き、彼女のもとからレバーが消失して、反対に少年の前に同じレバーが出現した。


 彼はそれを握って操作を始める。


 少女は思いきり伸びをした。


「同じ格好でいると、疲れるね」腕と背中を精一杯伸ばして少女が話す。


「じゃあ、ビジネススーツでも来たら?」


「そっちの格好じゃない」


「きっと似合うと思うよ」


「ドレスよりも?」


「ドレスは、似合わないかな……」


 海洋の真ん中に船が一隻浮かんでいた。小さくも大きくもない、ちょっとした集団用のものだ。甲板に出て釣りをしている人々がいたが、二人が操縦する巨体がその上を通っても、彼らは何の反応も示さなかった。ロボットがステレス機能を展開しているためだ。


「それで、何か新しい発想は閃いた?」少女は質問した。


「うーん、もう少しで閃きそうな気がするんだけど……」少年は話す。「なんというか、靄がかかっているというか……」


「レベルの低い言い訳だなあ……」


「なんというのか、いぶりがっこを作るときに出る噴煙が、脳内のニューロン組織に浸透して、電子的な情報を阻害しているというか……」


「今さら言い換えても遅い」


「君が言ったんじゃないか」


「それで? そのあとは、どうするつもり?」


「そのあとって?」


「その発想を得て、それを実際に試すことはできるの?」


「さあ、どうかな」


「どうかなって……。ちょっと、無責任すぎじゃない?」


「それが僕のモットーなんだよ。知らなかったの?」


「知っているけど、何回聞いても苛々する」


「へえ、そりゃあ凄い」


「今度、コーンフレークを食べるとき、マスタードをかけてあげようか?」


「そういう食べ方が流行っているの?」


「うん、ときどきね」


 少年は鼻から息を漏らした。


「真面目な話をしよう」彼は一瞬で真剣な顔つきになる。「残された問題は、前にも言ったように、空間の定義をどうするのか、ということだ。けれど、これについては一応の解決策はある。問題なのは、それは一度しかできないということ。だから成功率を高めたい。そのために、こうして移動しているわけだけど……。……目的地に辿り着いても、上手くいくとは限らない」


「私の直感では、それで大丈夫、ということになっているけど」


「え、本当?」


「うん」


「そう……。……しかし、それでも不安だ」


「成功率を高めるために、必要なことは何?」


「二人の愛情を高めること」


「馬鹿じゃないの? やる気ある?」


「あります」


「その……、これから行く所にある設備は、ちゃんと使えるようになっている?」


「おそらくは」


「まだ連絡していないの?」


「うん、実はね」


 少女は溜息を吐く。


「阿呆なの?」


「そんなこと、前から知っているだろう?」


 少年は飄々としている。


 少女は彼の手を握り、レバーをでたらめに動かした。


「いや、ちょっと、ちょっと!」彼は慌てる。「何しているの?」


「さっさと連絡しなさい」


「はいはい、そうですね」


 少年は手もとのパネルを操作し、キーボードを出現させる。右手でレバーを操縦しながら、彼は左手だけで文字を打っていった。たった今打ち込まれた文字がパネル上にチャットとして出力され、相手のアドレスに向けて送信される。すぐにレスポンスがあり、返ってきた文面には短く「了解」とだけ書かれていた。


「了解だって」少年は少女に伝える。


 少女は目を瞑ったまま小さく頷いた。


 山を越え、海も越えて、ロボットは再び大陸の上空を飛ぶようになる。ここまでまだ一度も燃料の補給をしていない。この巨体にその必要はなかった。動物と同じように、大気中に存在する僅かな酸素をエネルギーとしているからだ。人工物が動物のエネルギー効率を超えることは極めて困難だが、このロボットは従来の人工物よりはエネルギー効率が良かった。この点では、少女が持つ性質とかなりかけ離れている。もっとも、少年がそのことを彼女に直接伝えることなどありえないが……。


 さらに一時間ほど飛び続けて、間もなく目的地が見えてきた。


 巨大な建造物があるのが遠くからでも分かる。全体が妙な形をした黒い塊のようで、近づくにつれて、それが塔に近い構造をしているのが分かった。天辺に向かうほど幅が狭くなり、先端には鋭利なアンテナが空に向かって突き出している。雲に達するほど高くはない。二人が乗っているロボットのせいぜい三倍くらいの高さだろう。


 やがて、少年の操縦によって、ロボットはその建造物の傍に着陸した。衝撃はそんなに大きくはない。脚部に衝撃を吸収する機構が採用されているためだ。


 コクピットの扉が開き、乗り込んだのと反対のプロセスを経て二人は地面に足をつける。ロボットの腕は再び上へと上っていき、やがて直立の姿勢のまま動きを停止させた。家の形まで戻ることはない。


 二人は前方を見る。


 黒色の塔は海にほど近い丘の上に建っている。構造を支える脚のようなものはなく、しっかりとした胴体が直接地面から生えているような印象を受ける。この塔が占める敷地の範囲を示すものはなかった。周囲に人が存在する気配もない。完全に隔離された陸の孤島といえる。


 二人が歩いて塔に近づくと、正面のゲートが勢い良く開いた。扉は上向きに開く構造になっている。建物の中に入ると、それまで消えていた照明が一斉に灯り、それと同時に二人の背後で扉が閉まった。


 扉の先のスペースは、船の操舵室のようなレイアウトになっていた。中央には、周囲にいくつかの椅子が配置された円形のテーブルがあり、その向こう側に巨大なモニターが上下左右にいくつも並んでいる。どのモニターも何も映していなかったが、二人が傍に近づくと、照明と同じように一斉に電源が入った。モニターには、この塔の周囲の様子を様々な角度から撮影した映像が映っており、どれも一定時間ごとに切り替わる。これらのモニターをすべて使っても、同時には表示できないほどの映像が、カメラを通して撮影されているのだ。


 少年はモニターの下にある制御盤へと近づいた。少女もそのあとをついてくる。


「動きそう?」少女が尋ねる。


「たぶん」


 少年の手もとにはキーボードがある。彼はその内のいくつかを叩いた。


 目の前に立体映像が投影され、彼が打った文字列に対する応答が示される。


〈何のご用でしょうか?〉


 指を素早く動かして、少年は「座標軸を決めたい」と打ち込んだ。


〈そのためには、貴方の独自の理論と、その理論が成り立つ確固たる根拠が必要です〉コンピューターが応答する。〈その説明を行いますか?〉


「Yes」と少年は打ち込む。


〈それでは、以下にその内容を打ち込んで下さい〉コンピューターが指示した。


 少年は後ろを振り返り、少女に目配せする。


「分かっているけど……」少女は言った。「……あまり当てにしないでね」


「いや、する」


「うん、まあ、それしか方法はないけど……」


「すべて君次第だ」


「いや、やめてって……」


「大丈夫だよ。今まで僕たちが失敗したことなんてなかっただろう?」


「まあ、君が一人で失敗したことは何度もあったけどね」


「否定はしない」少年は頷く。「しかし、肯定もしたくないね」


「じゃあ、始めようか」


「いや、ちょっと待ってほしい。その前に一服させてくれないかな」


「一服って、何をするつもり?」


「外の空気を存分に吸う」


「あそう。じゃ、早く行ってきたら?」


「よし。早く行ってこよう」


 そう言って、少年は少女の手を握る。


「何? 私も行くわけ?」


「僕たちは二人で一人だろう?」


「馬鹿みたいな台詞だよね、それって」


 塔の外に出て、ロボットが着陸したのとは反対側、つまり丘を下りて海に向かう。周囲には深い灰色をした岩が連なっており、波がそれらに当たって飛沫を上げていた。風が心地良い。空は若干曇っていたが、快晴よりも良いだろう、と少年は思った。海特有の生臭い匂いもしない。清々しい環境が整っているといえる。


 あまり遠くまでは行かないで、二人は手近な岩の上に腰をかけた。


「上手くいくかな」


 小さな石を掌で弄びながら少女が言った。


「いくと思うよ」少年は答える。「君がいるんだし」


「ほんと人任せだよね、君って」


「そんな僕に惚れたんじゃないの?」


「惹かれたのはそこじゃない」


「へえ……。じゃあ、どこ?」


「私の自由を擁護してくれるところ」


「日本語がおかしいね」


「君は?」


「え、何が?」


「私のどこに惹かれたの?」


「うーん、どこかなあ……」少年は考える。「大食いなところかな」


 少女は持っていた小石を彼に投げつけた。


「失礼な」


「どこがとは言えないよ」額を押さえながら、彼は答える。「ただ、一緒にいる時間が長かったから、ほかの人を探すのが面倒だっただけかもしれない」


 一般的に考えればこの上なく失礼な台詞だが、少女は特に怒らなかった。表面上そうした態度を装っておこうと思ったのではない。彼が言ったことが自分にも当て嵌まると感じたからだ。


「……それで、何を後悔しているの?」


 少女は質問する。


「後悔?」少年は首を傾げた。「後悔なんて、今まで一度もしたことがないよ」


「私のお気に入りのワンピースを汚したことは?」


「懺悔した」


 暫くそこで潮風に当たり続け、干物になる前に二人は丘の上に戻った。


 再び塔の内部に入る。照明とモニターの電源は切れていたが、二人の動きを感知してすぐに再び電源が入った。


〈よろしいですか?〉


 少年がキーボードに触れる前に、コンピューターが確認してきた。


「Yes」と少年は打ち込む。


「よし、じゃあ、始めよう」少年は言った。「できるだけテンポを合わせるようにお願い」


「それは君次第」


 少年はキーボードの前に椅子を持ってきて、そこに座る。彼が後ろを振り返って頷くと、少女は息を吸い込んで言葉を発し始めた。


「まず、座標軸はこの塔に定める。つまり、ここが起点。それから東西南北方向に同じ距離だけ空間の範囲を広げる。空間が広がる速度は、毎秒二の二乗キロメートル。ある特定の距離まで達したら、今度はそれぞれの場所に座標軸を置いて同じことを繰り返す。消費するエネルギーと、その分のエネルギーを賄うために必要とする時間を、それぞれ最小限にするようにセット。無駄にエネルギーと時間を使った場合には、それを賄うだけの作業を行うように指定」


 少女が言った言葉を、少年はキーボードを使ってコンピューターに入力していく。入力というよりも、プログラムするといった方が近かった。つまり、特定の記号を並べることで文字列を構成し、指定した通りの動作をするように指示するのだ。


 少女はすべて直感的に思いついた言葉を口にしている。それぞれの単語を始め、具体的な数値まで直感に基づくものだ。だから、そこに確固としたルールはない。けれど、それでも、そこに一定のルールがあるように感じられるのは確かだった。矛盾しているが、それだからこそ良い。そうでないとオーダーされた以上のものを作り上げることはできない。


 少女が話すのをやめて、少年がキーボードを叩く音だけが暫く続く。それから、再び少女が口を開き、先ほどの続きを話し始めた。


「登場する人物像を決める際は、それまでに登場したものと多少異なるように工夫する。名前を決める際は、意味を含める場合と、そうでない場合を明確に区別する。ただし、この規定が絶対的なものとして作用する必要はない。あくまで指針として存在するだけでいい。次に、それらの人物が行動する場所を決める際は、実在する場所と、そうでない場所を明確に区別する。しかし、これも、絶対的なものとして作用する必要はない。これ以後、定められるルールには、『絶対的なものとして作用する必要はない』という性質を付与する」


 少年はキーボードを叩き続ける。


「いいよ、続けて」彼は言った。


 少女は頷く。彼女は目を閉じていた。それでも、少年が何をしているのかは分かる。


「全体の構成は最初に決めない。人物像、名前、場所の要素が決まったら、それぞれのタイミングでそれぞれの駒を動かす。このときにも、明確な思考を行わずに、すべてもう一段階前のレベルで演算を行う。ここで矛盾が生じた場合、軽いものはスルーし、そうでないものはできる限り解消するように心がける。途中でその矛盾に気づいた場合は、のちの展開で補填する内容を盛り込む」


 少年が頷く。


「……最後に、最も基本的かつ重要な要素を示す。『ディテールを重視しない』という基本項目を追加。これを第一のルールにセット。以上」


 少女は口を閉じる。少年はまだキーボードを叩いている。


「……大丈夫そう?」少女は尋ねる。


「うん、いけそうだね」少年は答えた。「こちらで補足をつけた箇所もあるけど……、たぶん、方向性としては間違えていないと思う」


 やがて、少年の作業も完了した。


 すべての文面に一度目を走らせて、誤植や文法上の間違えがないか確認する。自分で確認したあと、今度はそれを少女に読んでもらい、違和感が生じた部分に再度手を加える。だいたい十分後にはそれらの作業も終了し、少年は最後にエンターキーを押した。


 コンピューターが処理を始める。


〈この処理には一時間ほどかかります。このまま継続してよろしいですか?〉とコンピューターが尋ねてくる。


「このまま継続」と「あとで」の選択肢が示されたので、少年は「このまま継続」を選んだ。


〈了解〉コンピューターは了承する。


 少年は椅子の背凭れに寄りかかった。


「ああ、終わった……」背伸びをしながら、彼は言った。「うん、だいぶ、想像していたよりはいいかもしれないね。よかった。君のおかげだよ。どうもありがとう」


「どういたしまして」少女は微笑む。「どう? 疲れた?」


「当たり前じゃないか」


「私はね、君以上に疲れているからね」


「へええ……」


「労りの言葉をかけてくれてもいいんだよ」


「そりゃあ、いいだろうねえ……」


 コンピューターの処理が終わるまで、二人はそこで談笑していた。談話をすることはよくあるが、談笑をしたのは久し振りだった。


 話が一段落したところで、今後の方針を決めることにした。


「まあ、とりあえず、あの街に帰ろう」少年が提案した。「それ以外に宿はないからね」


「君の家は? 大丈夫なの?」


「もう、売りに出そうかな……」


「それって、私の家に永住するってこと?」


「まあ、そうなるね」


「そういうときってさ、どんな手続きをしたらいいのかな?」


「さあ……。適当に、ときどき遊びに来る、ということにしておけばいいんじゃないの?」


「好い加減すぎるでしょう」


「まあ、そうか」


「それで? 私の家に永住するだけで、あとは何もしないわけ?」


「人生を全うする」


「当たり前だ」


 一度考えてから、少年は言った。


「次の予定は立てないでおくよ。なんか、スケジュールに則って作業するのって苦手だから……。思いつき次第実行する。それでいいだろう?」


「うん、まあ」


「じゃあ、そういうことで……」


 短い電子音が鳴り、作業の終了をコンピューターが告げる。


〈すべての作業が完了しました。今すぐ再起動しますか?〉


 キーボードを使って、少年は「Yes」と打ち込む。


 再起動も終わり、彼らがプログラムした内容はすべて実行の段階へ移った。こうなれば、もう二人がここにいる必要はない。その後の経過をチェックする必要もなかった。たとえある工程で何らかの失敗が生じたとしても、それをカバーする機能がこの装置には備わっている。そして、失敗しても、それならそれで良い、というのが二人の共通認識だった。成功するのが目的ではない。そちらの方向に向かうのが目的なのだ。


 塔の外に出て、二人はロボットに乗り込む。少しだけ名残惜しかったが、名残惜しさを感じる理由が見つからなかったから、二人はすぐにその場から去った。


 また、海と山を越える長距離移動が始まる。


 帰りはすべて少年が操縦を引き受けた。先ほどの作業で最も消耗したのは、キーボードを叩いていた彼ではなく、脳をフル回転させていた少女の方だからだ。精神的な作業に比べれば、肉体的な作業はどうということはない。多少乳酸が溜まって動作が鈍くなるだけだ。


 何時間も飛び続けて、二人はもとの街に戻ってきた。


 ロボットは着陸し、少女の家の形に戻る。


 すべての変形が終わって、二人が門の前に立ったとき、街はいつもと同じように静かだった。


 少女が玄関のドアを開ける。


「ただいま」少年は挨拶する。


「おかえりなさい」振り返って、少女は笑顔で応えた。





 月日が経過して一年が経った。約束通り、少年は少女の家で一緒に暮らし続けている。そして、結局彼は自分の家は売らずに、ときどきそちらの方に帰る生活をしていた。帰るといっても、彼以外に誰かが住んでいるわけではない。埃の蓄積具合を確認するくらいの意味しかなかった。


 ベッドから抜け出して、階段を下りて少年はリビングに入る。


 テーブルの向こう側で少女が料理をしていた。


「あ、おはよう」


 エプロンを翻して、少女はこちらに振り向く。


「うん……」少年は椅子に座った。


 テーブルの上にはすでに料理がいくつか並んでいる。どれも素晴らしい出来具合で、それらのすべてがとても美味しいことを、少年は今までの経験から知っていた。


「あのさ」対面に座りながら少女が言った。「君、次は何をするつもり?」


「え?」スクランブルエッグをスプーンで掬いながら、彼は訊き返す。


「だって、もう一年以上何もしていないじゃん」


「たしかに、そう言われてみれば……」


「新しいアイデアは閃いた?」


「閃いたよ」


「じゃあ、やりなよ」


「うーん……」


「どうしたの? やる気ないわけ?」


「やる気なんて、いつもないよ」


「そんなこと言っている場合じゃないでしょう?」


「え、なんで?」


「もう……」フォークを片手に、少女は溜息を吐く。


 食器が皿に触れる音。


「本当は、もう何度も試したんだ」食事を続けながら少年は言った。


「え、本当に?」


「うん」彼は頷く。「でも、どれもいまいちだったから、やめてしまった」


「そんなことがあるの?」


「あるよ」


「どうして?」


「さあ……」彼は上を向く。「君をモデルにしたからかな……」


 少年の頭にはとあるストーリーが浮かんでいた。


 しかし、どれも酷く抽象的で、具体的な形を成していない。


 けれど、それで良かった。


 ストーリーは、それ単体では存在しない。


 在り方は、すべて、読み手が決めるのだ。

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