エピローグ
朝起きて目を開けると、窓の外では雨が降っていた。部屋の中で雨に降られたら困るから、降っていたのが窓の外で良かったな、などと少しだけ安心する。
着替えを済ませてから階段を下り、洗面所で顔を洗ってリビングに入ると、そこには誰もいなかった。家には誰かしらいるはずだが、今日は平日だから、父親は仕事に、弟は学校に、妹は幼稚園に行き、そして母親は、彼らを見送ったあとでもう一度眠ってしまったのだろう。リビングのシャッターは開いていたが、部屋はあまり明るくなかった。僕はそのまま明かりを灯さずに部屋を進み、なんとなく真ん中でぼうっと立ち尽くす。起きたばかりでまだ頭が回っていないみたいだ。自分にはよくあることだから、特に珍しくはない。五分くらいそこでそうしていたあと、そうだ、朝ご飯を食べなくてはと思い出し、キッチンの中に入った。
毎日同じことの繰り返しだが、不思議とご飯を食べるのに飽きることはない。それは風呂に入るのも、勉強するのも、走りに行くのも同じだ。それらの事柄に飽きを感じることはないし、やめたいと思ったこともない。特別に楽しいわけでもなく、特別に苦しいわけでもないから、そんなふうに中立的な態度でいられるのかもしれない。
すでに淹れられてあったコーヒーをカップに注ぎ、冷蔵庫から牛乳を取り出してその中に加え、カップを電子レンジに入れて一分と二十秒温める。その間にトーストを袋から取り出し、何も塗らないでそのまま口に咥え、コーヒーが温まるのを待つ。やがて加熱作業が終わるとそれを持って二階へと戻り、自室のドアを閉めて勉強机へと向かう。
何てことのない日常だが、何てことのない日常というものは、この世界には存在しない。
何てことのない日常を、何てことのない日常だと思うのは、何てことのない日常を振り返って、何てことのない日常だと思おうとするからであり、何てことのない日常を過ごしているその瞬間には、常に目の前のことに意識を向けている。
目の前には、古ぼけたノートパソコンがある。
電源を入れ、立ち上がるのを待つ。パスワードを入力してログインし、昨日と同じように文書作成ソフトを起動させる。
その間にパンを齧り、コーヒーを飲み、なんとなく味を感じる。
そして、キーボードを叩き始める。
自分がなぜこんなことをしているのか、理由は分からなかった。これも、特別楽しくもなければ、特別苦しくもないことの一つだ。ときどき億劫に感じることもあるが、大抵の場合、それは寝不足か、そうでなければたまたま体調が優れなくて指が動かないかのどちらかが原因だ。作業そのものをやりたくないと感じるわけではないし、全体を俯瞰して見てみれば、非常に精力的にその作業に取り組んでいるように見える可能性の方が高い。
子どものときに、夢中になってゲームをしていたことがあった。そのときは、それが楽しいかなど意識したことはなかった。それを楽しかったと思うのは、あとになって過去を振り返っているからであり、これもまた、何てことのない日常を、何てことのない日常だと思おうとするためにそう見える幻想だ。
部屋のドアが開かれる。
「……おはよう」
そちらに顔を向けると、妹が目もとを擦りながら僕の方を見ていた。
「あれ、いたの?」僕は一度キーを叩く手を止めて、彼女に尋ねる。「幼稚園は?」
「……あ、え、今日は、休み」
「ふうん……」
ドアが閉まる。
一瞬だけ現実に向けられていた意識は、自然と目の前の作業へと戻る。
キーを叩きながら、今日一日をどんなふうに過ごそうかと考えたりする。そんなことを考えても、今日がどんな一日になるのかはもう決まっている。おそらく、何てことのない日常が展開されるに違いない。昨日と同じように勉強し、昨日と同じように遊び、そして、昨日と同じように走りに行って、昨日と同じようにご飯を食べて、昨日と同じように風呂に入ったら、昨日と同じ位置で、昨日と同じ格好で、昨日と同じポーズで眠るだけだ。
でも、今はまだ朝。
今日は始まったばかり。
だから、何が起こるのかはまだ分からない。
でも、今日がどんな一日になるのかは分かっている。
いっそのこと、隕石でも降ってきてくれれば良いのに……。
そんな突拍子もない発想をして、それが面白くて自分で笑みを零したりする。
二十分くらいキーを叩き続けて、僕はその作業を一時的に中断した。パソコンの蓋を閉じて隣の円形の机に戻し、そこから今度は参考書を持ってきて、勉強机の上で広げる。
意識は、また別のところに向かう。
とてもスリリングで、とてもエキセントリックで、とてもファンタスティックな変化。
それを楽しむために生きているのだと言われても、たぶん僕には言い返すことはできない。
それを楽しむためだけに生きているのだと言われても、僕には頷くことしかできないだろう。
午後になり、弟が帰ってきた。今日は部活動がないとのことだったから、一緒に走りに行くことにした。僕も昔はよく走っていた。だから今でもその感覚は残っているし、ちょっとやそっとで息が乱れることはない。
山に向かうことにした。
「数学さ、意味が分からないんだけど」家の前で体操をしながら、弟が言った。「何のためにやるわけ?」
「だから……」僕は回答に困る。「……やりたくないなら、やらきゃいいじゃないか」
「やらなかったら、成績が下がる」
「じゃあ、やればいいじゃん」
「何のためにやるのかをはっきりしてもらわないと、できない」
「できてるじゃん、今。学校で、授業受けてるんでしょう?」
「暇」
「暇でも、できてるんじゃないの?」
「まあ」
「じゃあ、いいじゃん、それで」
「退屈」
家の正面を通る道を左に進み、坂道を上る。その先の分かれ道を今度は右に曲がって、やがて見えてくる石造りの階段を上り、山道へと至る。弟に先に走ってもらい、僕はその後ろをついていった。この道は何度か走ったことがある。木の根が入り組んでいるが、整地はされていて比較的走りやすい部類に属する。
「今度さ、大会があるんだけど」先行く弟が話題を持ち出した。
「何に出るの?」彼のあとを追いながら、僕は尋ねる。
「えっとね、八百」
八百というのは、八百メートル競走のことだ。彼は陸上競技部に所属していて、専門は中長距離らしい。五千メートルなどの比較的長い距離を走ることもあるが、最近はそれよりは短く、しかしながらスピードの求められる種目に出ることが多いとのことだった。本人の意向というよりは、人員的な問題でそう決められたらしい。
「ラストでさ、いきなりスピード上げるのとか、無理じゃない?」僕は感想を口にする。「皆さ、最後の一周で頑張るけど……、自分には、無理」
「無理な人は、無理だよ」
「うん、無理」
巨大な木の根を飛び越え、橋のように舗装された道を走り抜ける。
「長い方が、怠いじゃん」弟が言った。「それなら、少しくらいきつくても、短い距離を全力で走った方が楽しくない?」
「きついのは無理」僕は即答した。「長くても、楽なら、そっちの方がいいよ」
「まあ、そういう日もある」
「日?」
「日によって、気分が変わる」
「それは、誰だってそうだよ」
「たまには短い距離を走ってみればいいじゃん、全力で」
「無理」僕は応える。「やる気が起きない」
「やる気なんてなくても、できるんじゃなかったっけ?」
「そう?」
「言ってたじゃん、前に」
「そうだっけ?」
「忘れたの?」
「たぶん」
道は何度もカーブし、ずっと先へと続いている。僕たちが住んでいる地域は山に囲まれているから、この道を端まで行くとその山の向こう側に辿り着くことになる。
途中で木造のテーブルやベンチが設置された休憩エリアに至って、そこで少し休憩した。山はもう少しで抜けるが、その先は、今度は舗装された道路を通って家まで戻ることになるから、ここで休憩しておくのが一番だった。
登山が趣味なのであろう歳をとった人々が、周囲に散見される。
頭上には枝葉。
人間が作ったビルや工場は見当たらない。
ただ、山から転落しないように設置された木製の柵はずっとあった。
「こういう所で、キャンプとかするのって、いいよね」
ぶらぶらと歩きながら、僕は思いついたことを口にした。
「キャンプとかって、ほかに何があるの?」弟が尋ねる。
「キャンプと、キャンプ」
「サーフィンとかできそうじゃない?」
「いや、山菜採りでしょ、やっぱり」
「そういえばさ、毒茸を食べたのに、奇跡的に助かった人の話、知ってる?」
僕は脳内ネットワークにアクセスし、弟が今述べたのと一致しそうな情報をサーチする。
「ああ、知ってる。あれだよね、たしか、外国の」
「あれ、やばいよね」
「何が?」
「普通食べないでしょ」
「当たり前じゃん」
「でも、食べたらけっこう美味しいらしいよ」
「食べ物なんだから、当然じゃないの?」
「毒茸だから」
「毒って、美味しいものだよ、何でも」僕は言った。「お酒だって、飲みすぎたら毒じゃん。でも、美味しいから飲むんでしょ、皆」
「煙草は?」
「それは麻薬」
「違うでしょ」
「でも、そうじゃない?」
「中毒性があるから?」
「そう……」
「中毒性があるからって、何でもかんでも麻薬になるわけじゃないじゃん」
「どうして?」不思議に思って、僕は質問する。
「だってさ、もしそうだったら、チョコレートだって、毎日食べたくなるから、麻薬ということになるじゃん。でも、そうじゃないじゃん? 一度摂取すると、論理的思考とか関係なく猛烈に欲しくなるのが、麻薬なんじゃないの?」
「走るのも、麻薬じゃん」
「別に、走らなくても、平気だし」
「そう?」僕は首を傾げる。「少なくとも、自分は違う」
「そういう人もいるよね」
「いるよ、ここに」
休憩エリアから立ち去る。風に当たりながら歩きたい気分だったので、麓に下りるまで走るのはやめることにした。
山を抜けるとすぐ傍に電波塔が立っていた。一本だけではない。右に一本、左に一本。そして、山の頂上をマークするようにずっと向こうまで塔の群衆は続いている。頭の上に通る電線は遥か彼方まで続いており、そこに籠を吊るして滑れば擬似的にロープウェイが再現できるのではないかと思った。
この辺りは非常に日当たりが良い。太陽はもう大分傾いているが、これから洗濯物を干してもまだ充分乾きそうなくらい、日の光は暖かく、哀愁感を漂わせながらも、どこかその裏に底知れぬ力強さを携えているように思えた。
「こういう所で、絵を描いたりすると、最高」
弟が唐突にそんなことを言った。
「描いたりって、ほかにどんな候補があるの?」僕は尋ねる。
「読書と、写真撮影」
なるほどと思って僕は頷く。
右手に形成された斜面は、今は農作物を育てる畑として利用されている。たしかに、麓で平たい土地を探すよりは、日当たりも良く場所もとらない斜面を使った方が合理的だろう。その斜面に形成された、人工的でありながらも自然な雰囲気を残した畦道を見て、僕は徐にその向こうへと進みたくなった。
「行ってみる?」
弟に問われたが、僕は首を横に振った。
「今日はやめておこう」
自動車が通れるように舗装された坂道を下って、徐々に山の麓へと近づいていく。もともとそれほど標高が高いわけではないから、下に向かっても気圧の変化が感じられることはない。もっとも、僕は高山病というものがどんなものなのか知らなかった。気持ちが悪くなるとのことだが、満員電車に乗っていても気持ちは悪くなるので、登山のせいで気持ちが悪くなったと証明するのは困難なのではないだろうか(という思考には、たぶんあまり意味はない)。
坂道を下りきると、左手に住宅街への入り口が見えてきた。
僕と弟はその前で立ち止まる。
ここへは、以前にも一度立ち寄ったことがあった。そう昔のことではない。数週間から一ヶ月程度前の話だ。
「また、来たね」僕はなんとなく呟く。
「来た」弟は応えた。
僕と弟は住宅街の中に足を踏み入れる。酷く小規模な街(と呼べるほどのものではないが)で、どこかこの国のものではないような雰囲気を感じる。立ち並ぶ家はどれも外壁が白からクリームの間のような色彩をしているし、屋根には瓦は使われておらず、絵に描いたようなとでも表現すれば良いのだろうか、如何にもそれっぽい赤い三角形の屋根を携えている。中央に二列ほど同じ形をした家が立ち並び、その列を挟んだ向こう側には比較的大きな家が数件建っていた。この住宅街の中にも一つだけバス停があり、そこにはちょっとした憩いの場のようなものが作られている。滑り台が一台だけ設置された公園なんかもあって、この狭い土地だけで何らかのコミュニティーが形成されているように感じられた。
僕たちはその街の中をぐるっと一周歩いた。以前来たときと同様の道順で回って、以前来たときと同様の感慨を抱いた。それは、言葉にすれば、なんか良い、という感覚で、本当は言葉にすべきではない感覚だ。酷く簡潔に述べれば、僕はこの街が好きだった。なんといえば良いのか分からないが、いつか遠い昔に自分がここに住んでいたような、そんな懐かしさを抱く。かつて自分がここで住んでいたという仮定のもとに、ここで展開されていたであろう生活を容易に想像することができるし、そのとき一緒に暮らしていた人々の容姿も、手に取るようにいくらでも思い出すことができる。
街、いや、本当はそんなふうに呼ぶことのできない、ちょっとした空間を眺めているだけで、そんなふうに何ともいえない感慨を抱くのは、初めての経験だった。いや、前回最初に来たときにそんな感慨を抱いた。そして今日、訪れたのは二回目だったが、僕の中に舞い降りてきたのは同様の感覚だった。
「絵本に出てきそうだって、前に言ってたっけ?」
隣を歩く弟を一瞬だけ見て、僕は質問する。
「なんか、そんな感じがするじゃん」弟は頷いた。「外国っぽくて、いい」
「住んでみたい?」
「是非」
「バイト頑張ったら、家買えるようになるかな」
「いつか」
「そんなに待てないかもとも思う」
「できないことはないでしょ、きっと」
住宅街の入り口には戻らずに、家と家の間の通路にある階段を下りて、僕たちは道路に戻った。近い内にまた来ようと思ったから、たぶん、近い内にまた来るだろう。
坂道を途中まで進む。
右手には遥か彼方まで町並みが広がっている。本当にずっと向こうまで続いていて、見晴らしが良いとしか表現できない。今風の言葉で言うのなら、見晴らしが良いの化身といった感じだ。自分でもチープな表現だと思ったから、それを口に出すのはやめておいた。
先へと進むと、今度は青い大きな門が左手に現れた。
その先は、丘の上にある公園に繋がっている。
僕と弟はその前で再び立ち止まった。
時間が時間だからか、門はすでに施錠されていた。手前の壁にある看板を見てみると、開園時間は午後五時までとなっている。前回来たときも入れなかったので、いつか入ってみたいと思っていたが、走りに出かけるのは大体この時間帯だから、入るのなら時間をずらしてここまで来る必要があった。
再び走り出し、山の麓に辿り着く。
目の前には巨大な大通りがあった。ここまで来ると、もう先ほどまでの静けさはどこにも感じられない。通りを行く自動車は息が詰まるほど多く、呼吸をする暇も感じさせない、いや、そんな術すら持ち合わせていないのではないかと思えるほど素早く、自動車は左から右へ、右から左へと走り抜けていく。立ち並ぶビルの群れは立ち塞がるように存在感を放ち、その向こうに広がる大地の気配を微塵も窺わせない。
帰ってきたと、僕は思った。
きっと、弟も同じことを思っただろう。
到底追いつくはずもないのに、自動車が走り行く大通りに並行して、僕たちは家に向かって歩道を走った。季節外れだからか、傍にあるプールは開いていない。普段なら真っ黒な煙を吐き出している塵集積所も、今はまったく息をしていなかった。
今日もまた、一日が終わる。
走りながら、僕は今日一日を振り返る。
そして、やはり、何てことのない日常だったな、と思った。
そう思うことは分かっていた。
振り返る前から知っていた。
そして、自分が明日また同じことを思うことも、分かっている。
明日の自分も、またその一連のことを思うだろう。
それはいずれ、キーボードとディスプレイを通して、僕の中から別のところへ移っていくに違いない。
どうしてそんなことをするのか?
答えはない。
ないと分かっていても、求めてしまう。
なぜ、生きているのか?
なぜ、目覚めるのか?
なぜ、ご飯を食べるのか?
なぜ、勉強するのか?
なぜ、走るのか?
なぜ、風呂に入るのか?
なぜ、眠るのか?
そして、なぜ、こんなものを作るのか?
坂道を下る。前方には橙色の空。右手には古びたマンション。左には山。頭上には雲。
「明日は、部活は、あるの?」
走りながら、僕は弟に尋ねる。
「ある」
弟はこちらを向き、頷いた。
「じゃあ、一緒に走るのは、暫くしてからになるね」
僕がそう言うと、弟はもう一度頷いた。
次にあの街を訪れるのは、いつになるだろう?
いくら好きだと感じても、毎日訪れたいとは思わない。住んでみたいとは思うが、想像の世界で試すだけでも構わない。
同じくらい楽しいことが、ほかにいくらでもある。
それらに飽きて、本当に何もすることがなくなったとき、僕はもう一度あの街を訪れるだろう。
けれど……。
弟と一緒に走る機会が、きっとそれよりも先に来る。
そのときに、彼に訊いてみようと思った。
今日は、あの街に行きたいかと……。
小説 羽上帆樽 @hotaruhanoue0908
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