小説
羽上帆樽
プロローグ
棚の中を整理していると、ある一枚のCDを見つけた。それはプラスチック製のケースに収納されていて、比較的綺麗であり、どこにも目立った傷は見つからない。表には黒い台紙が挟み込まれており、そこにタイトルが英語で記されている。裏を見てみると、それがドイツのユニットのものであることが分かった。曲名が並んでいて、タイトルはすべて英語で記されている。英語は万国共通語だから、まあ、特に不思議ではないだろうと僕は思った。
棚の扉を開けたまま、僕は暫くの間そのCDを片手に突っ立っていた。というのも、そのCDの存在を長い間忘れていて、どこで手に入れたものかを思い出そうとしていたのだ。考えようとしても何も思い浮かばないから、何も考えないようにして暫く待っていると、それがかつて、弟と友人と一緒に近場に出かけた際の帰りに立ち寄った中古用品店で購入したものだと思い出した。たしか、そのときは観光名所巡りの帰りだったはずだ。寺とか、神社とか、大仏などを三人で巡ったのだ。そんな和風な名所を巡ったあとで、ドイツのユニットのCDを購入するという行為が、個人的には酷く面白く思えて、僕は思わず声を出して笑ってしまった。
そんな僕の笑い声を聞きつけたのか、部屋のドアが開かれ、そこから誰かが僕に声をかけた。
「何してるの?」
声が聞こえた方を見ると、そこには弟が立っていた。ちょうど学校から帰ってきたところのようだ。ブレザータイプの制服に身を包み、重たそうなリュックを背負ったまま、少々訝しげな目で僕のことを見ている。いや、訝しげというのは言い過ぎだ。彼の顔は笑っている。僕と彼が対面する際には、そうして笑顔を浮かべて接するのが、二人の間では暗黙の了解のようなものになっていた。
「いや、これ」僕は手に持っていたCDをひらひらと振り、彼に示す。
弟は部屋に入ってくると、僕の傍まで来てCDケースをまじまじと見つめた。
「何、これ」
「え、いや、これは、CD」弟に問われ、僕は答える。「なんか、棚の中を整理していたら、出てきた」
「ふうん、よかったじゃん」弟はなんともないような顔で頷く。
そのCDのユニットに興味があるのは、家族の中でも僕一人だけだ。弟も音楽には興味があるが、僕とは趣味が全然違う。反対に、僕は弟が興味のあるユニットには、一部だが同様に興味を引かれるものがあった。早い話が、そこそこ話題を共有できる仲ということだ。
「で、それがどうかしたの?」顔を上げて、弟は僕に尋ねた。
「え、いや、どうもしないけど……」僕は答える。「なんか、棚の中を整理したら、出てきた」
「それ、今聞いた」
「うん、そうだね」
着替えを済ませた弟と一緒にリビングに向かって、僕はCDを再生することにした。すでに午後の五時を過ぎていて、窓の外では太陽が西の空に沈もうとしている。橙色の光が室内に神々しく差し込み、一日の終わりを感じさせるのに充分すぎる気配が漂っていた。僕は両親と弟、そして妹の五人で暮らしているが、母親と妹は買い物に出かけていて、父親はいつもの通り仕事に行っていたから、今は僕と弟の二人しかいない状況だった(何か特別な感じのするような言い回しだが、彼と二人きりの状況に興奮しているとか、そういうのではない)。
リビングに隣接するキッチンに入り、シンクで弁当箱を洗っている弟を横目に、僕はプレイヤーで音楽を再生する。すると、当たり前だが、音楽が流れ始めた。
楽曲は収録されているものすべてがポップな曲調で、歌詞がほとんどない。いや、ほとんどというよりは、まったくといっても良い。人の声が入っているものもあるが、歌詞といえるほどはっきりしたものではないし、歌詞の意味を伝えることを作品の主軸としているわけではないことは、このユニットの作風からも明らかだった。
「何、それ」
流れ出した音楽を耳にして、弁当箱を洗いながら弟が僕に尋ねてきた。
「え、だから、CD」
「いや、この音楽」弟は下を向いたまま話す。「何、これ」
僕はCDケースの裏に再び目を向け、そこに書かれている英語を解読しようとする。しかし、難解すぎて理解することはできなかった。
「なんか、分からないけど、シンセとか使ってるんじゃないかな」
「シンセって?」
「シンセサイザー」僕は説明する。「機械的な音を出すやつ」
そう言ってから、僕は自分の説明がまったく説明になっていないことに気がついた。
弟は一度うんと頷くと、洗剤で洗い終えた弁当箱を水で流す。
流れる音楽の調子に合わせて軽く身体を動かしてみたが、先が予測できないために、上手く踊ることはできなかった。余談だが、僕はかつてダンスを習っていた。今では主要なステップが少し踏めるくらいだが、かつてはマイ何とかジャク何とかの再来などと言われたこともあったくらいだ(これは嘘だ)。
弁当箱を洗い終えた弟が、リビングに戻ってくる。そのまま彼は炬燵に入ると、傍にある棚から菓子箱を取り出して、チョコレートを食べ始めた。僕も一つを受け取りそれを食べる。
「今日さ、数学の授業で、意味分からなかったんだよね」弟が唐突に話を切り出した。「なんかさ、最早何言っているのか分からない。シグマとか、本当に意味分からなくない?」
「シグマって、何だっけ?」僕は質問する。
「あの、アルファベットの、Eみないなやつ」
「ああ、あれね。はいはい」
「意味分からなくない?」
「うん、まあ」僕は頷く。「いや、意味は分かるけど、実際に使えって言われると、けっこう戸惑う」
「意味も分からん」
「いや、意味は分かるじゃん? 微分とか、積分とか、そういうやつでしょ」
「そもそもさ、微分とか積分をする意味が分からないんだけど」弟は説明する。「そんなの勉強して、何になるわけ?」
「何にもならない」
「やるだけ無駄じゃん、そんなの」
「うん、まあ」僕は再度頷く。「まあでも、その内役に立つと思う」
「そんなこと、あるわけないじゃん。今まで、そんなこと、あった?」
僕は少し考える。
「あるにはあった」
「微分って、何のためにやるの?」
「曲線を、直線にするため」
「え、だから、それって、何のためにやるの?」
「曲線ってさ、扱うのが面倒じゃん?」僕は考えながら話す。「たとえば、うちから薬局まで、カーブした道を歩いて行くよりも、空を飛んで真っ直ぐ行った方が楽じゃん? だから、それを仮想的に実現するために、曲線をできる限り直線に近づけて考えようっていうのが、微分なわけ」
「それ、何の役に立つの?」
「面倒じゃなくなる」
「でも、現実ではできないんでしょう?」
「そういうのを、考えるのが楽しいんだよ」僕は言った。「別にさ、実際にできなくても、考えるだけで楽しいんだから、それでいいじゃん」
「だからさ、意味がないじゃん」
「意味がないっていうのは、少し違う気がするけど……」
リモコンを操作して、弟はテレビの電源を入れた。ニュースキャスターの甲高い声が部屋に響く。
僕は立ち上がり、リビングの雨戸と、隣接する和室の雨戸を閉めた。雨戸といっても簡易なシャッターに過ぎない。色は白で見た目だけはお洒落な感じに仕上がっている。僕の行動に応じて弟は部屋の明かりを灯し、再び炬燵に入ってテレビを観た。
僕と同様に弟も世間的な出来事には興味がないようで、すぐに録画されていたアニメを観始めた。絵に描いたような如何にもそれっぽいロボットアニメで、主人公の髪は赤色をしており、現実離れしている感じが半端ではなかった。
弟がアニメを観始めたので、僕はCDプレイヤーの電源を落とし、中からCDを取り出して、それをプラスチック製のケースに閉まった。蓋を閉じる前にクレジットが記された台紙を取り出し、それを開いてなんとなく目を通す。ユニットは二人で構成されていて、このCDに収録されているもの以外にも楽曲を聴いたことがあるにも関わらず、僕は彼らの名前を覚えていなかった。今も何度かその名前に目を通したが、おそらく明日になれば忘れているだろう。
ユニットの情報を把握したついでに、曲名にも一応目を通す。こちらも、かつて見たことはあったが、やはり記憶としては曖昧だった。英語で記されているが、なぜか文字はすべて大文字になっている。タイトルだからという理由かもしれない。あるいは、フォントの都合上、それしか出力することしかできなかったとか……。
「そのCDさ、あとで貸してよ」テレビの方に顔を向けたまま、弟が唐突に言った。
「え、なんで?」僕も炬燵へ入り、彼に尋ねる。
「なんとなく」弟は答えた。「一応、貰っておこうと思って」
「データ?」
「そう」彼は頷く。「パソコンに、入れておく」
「それなら、もう、自分がやったやつがあるよ」
「あ、じゃあ、それで」
「CDのまま聴きたい?」
「いや、全然」
「ソフトで聴く?」
「そう」
「デジタルだね」
「CDも、デジタルじゃん」
「まあ、そうか」
二人でぼうっとアニメを観る。
僕もアニメは好きだから、この点でも弟と趣味が一致する。アニメの何が好きかといえば、キャラクターや声優ではなく、やはり演出と動きだ。この一枚一枚を人が手で描いているのかと思うと、感心して声が出ない。個人的には、ほかのどれよりも努力が必要な媒体だと思っている。何せ映像をゼロから作り上げるのだ。キャラクターの動きから、背景の描写、そして時間の流れまですべて……。まるで一つの世界を初めから作っていくようで、僕はそんな哲学じみた行為に憧れを抱く。
向こうの方で玄関のドアが開く音がして、ただいまという挨拶が聞こえてきた。僕は炬燵から出てリビングのドアを開け、玄関に向かい、たった今買い物から帰ってきた母親と妹に顔を見せた。母親は相変わらず大量の食料雑貨を買い漁ってきたようで、片方の腕には荷物で膨れ上がったエコバッグが、もう片方の腕には今にもはち切れんばかりにものが詰め込められたビニール袋が提げられている。妹は何も持っていなかったが、ジャンバーを脱ぐと暑い暑いと騒ぎ出した。
階段を上って僕は自分の部屋に戻る。ドアを閉めて窓のシャッターを下げ、カーテンを引いて部屋の明かりを灯した。
どうしてかは分からないが、僕は例のCDをすぐには棚には戻さず、机の上に置いておくことにした。机といっても普段使っている勉強机ではない。その隣に置いてある円形の机だ。この机には普段用いる勉強道具が雑多に置かれていて、勉強する際にはここから必要な教材を勉強机に移して使っている。
さっきまでメロディーを耳にしていたのに、そのCDに収録されている楽曲がどんな曲調だったか、僕はすでに忘れてしまっていた。けれど、それを耳にしたときの気分の高まりは、確かな感覚としてまだ僕の中に残っている。
一年ほど前に、そんなよく分からない感情の高ぶりを、百貨店で本を積み上げるという形で表現した主人公が、そのままそこから立ち去ってしまうという小説を、高校の現代文の授業で読んだことを思い出した。その頃はまだ平和だった。もちろん、今でも平和は平和だ。しかし、今の平和とそのときの平和では、同じ平和でも何かが違っている。おそらく、周囲に自分と同じ境遇に立たされた人間が多数いて、同じ目的のためにそこに通っていたという共通認識によるものだろう。今この部屋には僕一人しかいないし、勉強をするときも僕はいつも一人だ。それは今までもそうだったが、一年経ってそれがより表に表れるようになったという感じだろうか。
シャッターがある方の大きな窓ではなく、勉強机の傍にある小さな窓から顔を出して、僕は暗くなりかけた遠景をぼうっと眺める。
目の前には一本の通りを挟んだ向こう側に住宅があり、そのさらに向こうには山が広がっている。すぐ傍に山があるわけではないが、住宅で間が隠されているせいですぐ近くにあるように見える。山の頂上付近には規則的に立てられた電波塔の影が見え、その辺りでときどき点滅する赤い光があった。それを見て、ああ、今日も一日終わりだな、などと感傷的なことを考えたりする。
別に、今の生活に常時そうした哀愁感が漂っているわけではなかった。むしろ僕の毎日は充実していて、毎日楽しいことがある。けれども、ときどき空を眺めながら自分とは何だろうなんてことをふと思いつくことがあった。そして、そんな思考は次第に規模を大きくして、最終的には世界とは、宇宙とは何かという疑問へと至る。教科書に答えが書かれているわけでもないし、おそらく、誰も答えを見つけることなどできないに違いない。それでも、どういうわけかそうしたことを考えてしまう。考えることでしか答えは得られないから、自分でも知らない内に答えを求めているのかもしれない。けれど、別に明確な答えが欲しいわけではなかった。答えなんていらないし、あっても邪魔なだけだ。でも、考えるという行為は必要だと感じる。何かを考えているとあっという間に時間が過ぎるから、そんなふうに知らず知らずの内に寿命を削っていくのが、生き物の本来あるべき姿なのかもしれない。
ふと隣に視線を向けて、円形の机の上に置かれたCDケースを見る。
さっきそこに置いたばかりなのに、僕は再びそれを手に取った。
もしかすると、僕には音楽しか頼れるものがないのではないか、とふと思った。音楽を聴いていると、何もかも忘れることができる。一度聴いたことがある音楽でも、その流れに身を任せている間は、終わりを意識することなどない。流れ行く旋律にただただ耳を傾け、その瞬間に意識を集中させる。悲しいことも、楽しいことも、そこには存在しない。でも、気分は確実に高まる。そして、一通り聴き終われば、そんな気分の高まりもまたどこかへと消えてしまう。
音楽とは、何か?
人間は、もともと、音声を使ってコミュニケーションをとっていたらしい。それは現代でもそうだし、その延長線上に文字という視認可能な言語が存在する。
鳥や海豚が鳴き声を使ってコミュニケーションをとるように、人間も同様の手段を用いて情報伝達を行う。
それなら、音楽とは、コミュニケーションのための手段なのではないか?
音は、それを耳にしたときだけ知覚できる。文字は残るが、音は残らない。
音楽を耳にしているときにだけ感じられる、気分の高まり……。
それは、僕の知らない誰かが僕に、いや、僕だけではなく、彼ら以外の全員に向けた、何らかのメッセージなのではないか?
僕は勉強机の前に座り、円形の机の上に置いてあった古ぼけたノートパソコンをその上に運んで、コンセントに繋いで電源を入れた。ハードディスクが起動する音が聞こえ、排熱機構が微かな振動を伴いながら動き始める。
何かをしたいという衝動に駆られたのは、久し振りだった。基本的に、僕は何かをしたいと思っても、それを保留してしまうタイプだ。そうして保留した物事の内、実際に行動に移すことは本当に僅かしかない。それなのに、たった今思いついたことをその場で実践しようとしたのだから、僕の中に起こった衝動は余程強いものに違いなかった。
文書作成ソフトを起動させて、僕は一心不乱にタイピングを始めた。一心不乱といっても、優れた集中力を持っているわけではなく、遅くも速くもない一定のスピードで、ただ指を動かすだけだ。それでも、そのプロセス極めて自然なもので、自分でも内心驚くほどだったが、心拍数、呼吸ともに落ち着いていて、比較的平静を保ったまま僕は文字を打ち続けることができた。
去年、高校で読んだ小説の主人公の気持ちが、ほんの少しだけ分かったような気がした。
それは、やはりそんな気がするだけでしかない。しかし、それは確かに僕の内に舞い降りてきたように感じた。こんな感覚は初めてだったし、ここまで一所懸命になれるのなら、受験勉強ももう少し頑張れたのではないかと思ったが、そうした義務的な場面で僕のこうした特徴が現れることはないから、まあ、これはそういうものなのだということで納得しておくことにする(掴みどころのない説明だが、これこそが僕という人間の持ち味なのだ)。
すでに日は暮れている。一日はもう終わろうとしている。
けれど、これから何かが始まるという予感が、確かに僕の中で渦巻いていた。
夜が来ても時間の流れは変わらない。昼間に活動して夜は休息に当てるというのは、あくまで生物に先天的に組み込まれたプログラムであり、人間にはそれを覆す能力が備わっている。
世界の摂理に歯向かいたいわけではなかった。そんなつもりなど微塵もない。
ただ、自分がやりたいと思ったことを、今やりたいと、そう思っただけだ。
それだけで良かった。
それがすべてだ。
そう……。
リビングでCDを再生したとき、ごく自然な流れで身体が踊り出したように……。
階下から風呂に入るようにとの指示が聞こえてきたが、僕はそれを無視した。母親には心の中で謝っておくことにする。言葉は口に出さなければ伝わらないが、別に伝わらなくても構わないと僕は思った。
キーを叩く音は軽快で、まるでビスケットを齧るように、心は踊る。
これだ。
……これ?
でも、これなのだ。
これしかない。
部屋のドアが開き、弟が顔を出す。
「さっきの曲のデータ、ちょうだい」
目の前のディスプレイに顔を向けたまま、僕は呟くように答えた。
「あとでね」
「あとって、いつ?」
タイピングを続けながら、僕は考える。
……。
あとは、あとに決まっているだろう。
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