第8章 スパイシーオートミール

 目が覚めるとすぐ隣にルンルンがいた。少女はゆっくりと身体を起こし、自分がかけていた毛布を彼女にかけ直す。部屋の中は静まり返っていた。二人しかいないのだから当然だ。そして、部屋の広さも関係している。壁も床も木材で作られているから、それらが微かな音も吸収してくれるのかもしれない。


 少女は歩いて窓の傍へと近づく。外を見ると雨が降っていた。


 ここには冷蔵庫がないから、食べ物はすべて保存食だ。冷蔵庫は電気を使うが、保存食なら電気を使う必要もない。ものは乾燥する方向が自然なようだ。動物も、完全に腐敗しきれば、あとには皮膚の干物と骨しか残らない。そちらの方向にゴールがあるのだろう。


 何もすることがないので、少女は適当に部屋の中をぶらぶらと歩く。じっと座っているよりは、歩いている方が少しだけ楽しい。やはり、適度にエネルギーを消費しないと駄目みたいだ。人間ほどエネルギー効率の悪い生き物がほかにいるだろうか、と彼女は歩きながら考える。言うまでもないが、地球上に生き物ほどエネルギー効率の良いものはない。ただし、その中の人間という存在は、どうもエネルギーを無駄に消費するように思える。その無駄は誰にとっての無駄なのかという問題があるが、今はそこまで考えたい気分ではなかった。


 鍵を解錠して、玄関のドアを開けて外に出る。ドアの上には廂が付いているから、一定の範囲内であれば雨粒は当たらない。空気はとても冷たかった。雨が降っていると、視覚的に冷たく感じるのはなぜだろう。聴覚を通しても冷たく感じる。視覚情報や聴覚情報は、結局は触覚に処理されることを望んでいるのかもしれない。望んでいるという言い方は幾分おかしいが、事実として触覚と同様の感覚を覚えるのだから、深層心理のレベルで視覚や聴覚がそのようなことを求めていると捉えることは可能だ。それは自然の摂理ともいえる。人間は自分たち以外には意識がないと勝手に解釈しているが、もう暫くはその偏った解釈が続くだろう。


 背後から足音が聞こえて、少女はゆっくりと後ろを振り返る。


 寝起きのルンルンが立っていた。


「起きた?」少女は笑顔で尋ねる。「ごめんね、起こしちゃったかな」


「おはよう」パーカーの袖で目もとを擦りながら、ルンルンが言った。「何しているの?」


「いや、何も」


「雨かあ……。涼しくていいけど、晴れていないと外で遊べないから、嫌だなあ」


「どっち?」


「え、何が?」


「いいのか、嫌なのか」


「嫌だ」


「お腹空いた?」


「その前に、お風呂に入りたい」ルンルンは話す。「私、綺麗好きだから」


 少女は曖昧に笑って彼女に応じる。


 ルンルンが綺麗好きだとは思えなかった。少なくとも、見た目からそういった印象は受けない。衣服は大きすぎるし、行動は一つ一つだらしないし、人前でも特に憚ることなくお菓子を頬張るし……。しかし、彼女が意識的にそうしたふうを装っている可能性もなくはなかった。幼い見た目をしているが、ルンルンは中身まで完全に幼いわけではない。


「ここにはお風呂はないから、あっちの家まで戻らないと」少女は正面を見て言った。


「彼がいる方?」


「そう」少女は頷く。「すぐに行く?」


「うん……」


 持っていくものは特にないから、二人とも靴を履いてすぐに家を出た。生憎、傘はまだ持ってきていなかった。傘があれば、彼女と相合傘ができたのに、と少女は訳の分からない妄想をしたが、大半の場合妄想は訳が分からないものだと気がついた。


 小走りで少女のもう一つの家に向かう。一分ほどで到着した。


 門の鍵は横に倒すタイプのものだから、外からでも開けられる。インターフォンを押してから門の中に入り、廂の下に移動して玄関のドアが開くのを待った。


 室内から人が動く気配がして、鍵が解錠される。


 寝呆けた顔の少年が姿を現した。


「はあい……。……何?」欠伸をしながら彼は尋ねる。


「お風呂に入りに来た」少女は言った。「彼女が、入りたいんだって。ま、私もだけど」


 少年はルンルンを一瞥する。ルンルンは笑顔で片手を上げて彼に挨拶した。


「へえ……。……じゃあ、沸かさないと」そう言って、少年はドアを大きく開ける。「少し散らかっているけど、まあ、どうぞ」


 少年に続いて二人はリビングに向かい、部屋の様子を観察する。たしかに、少年と少女の二人で使っていたときよりは幾分散らかっていたが、まだ許容できる範囲だった。


 風呂が沸くまでリビングで待機することにする。少女とルンルンはテーブルの椅子に座った。すでに淹れてあったコーヒーを二人分注いで、少年はカップを二人に提供した。


「あああ、眠い……」二人の対面に座りながら、少年が再び欠伸をする。


「夜更ししたの?」少女が尋ねた。


「いや、していないけど……。……僕はいつも眠い人間なんだ」


「眠い人間って……」


「ルンルンは、ここに来たことはあるの?」少年は彼女に尋ねる。


「うん、あるよ」ルンルンは答えた。「うーん、いつだったかな……。彼女に招待してもらって、一緒にディナーを食べた」


「酷かっただろう?」


「何が?」


「いや、何でも……」


 電子音が鳴り響き、風呂が湧いたことが告げられる。数秒間の話し合いの結果、ルンルンが先に入ることになった。客人に先に入れさせるに決まっていると少女が言ったからだ。


 リビングのドアが閉まる。


「で、その後、どう?」ルンルンがいなくなってから、少女は少年に尋ねた。


「どうって?」眠そうな顔で彼は応じる。「まだ一日しか経っていないじゃないか」


「まだ一日も経っていないけど」


「じゃあ、まだ一日も経っていないじゃないか」


「どこに何があるかはだいたい覚えた?」


「それは、とっくの昔に覚えたけど……」


「ふうん。よかったね」


「何しに来たの?」


「だから、お風呂に入りに来た」


「近くに銭湯がなかったっけ?」


「え、そうなの? そんなの、知らないけど」


「いや、気のせいかな」


「君さ、ルンルンがちょっと苦手でしょう」表情を変えて少女は切り出した。


「え?」


「苦手なんでしょう?」

 

 少年は視線を逸らす。


「いや、苦手というのかな……。……うーん、苦手なわけではないけど……」


「苦手なわけではないけど?」


「なんか、苦手かな、というか」


「苦手なんじゃん」少女は笑った。「どこが苦手なの?」


「えっと……。……具体的にどことは言えないけど」


「明るすぎるところとか?」


「うん、まあ」


「でも、可愛いと思わない?」


「可愛いとは思うよ。でもね、ちょっと違うんだ。なんか、限度を超えているというか……」


「限度? 何それ。どういう意味?」


「いや、説明しづらいんだけど……。なんか、こう、人じゃないように見えるんだよ」


「そうだよ。人じゃないんだから。精霊だよ、彼女」


「あのさ、それ、本気で言っているの?」


「当たり前じゃん。何回言わせるわけ?」


「うーん……。精霊ね……。でもさ、精霊が人の姿をしている必要ってある?」


「必要がなくてもいいじゃん。人と接するために、わざわざああいう姿になってくれているんでしょう?」


「そうなのかな……。……まあ、いいや。どっちにしろ、僕は彼女と二人きりになるような事態だけは避けたい。それだけ。君が一緒ならどうってことはない」


「ふーん」


「退屈そうだね」


「じゃあ、二人っきりにしてあげようか?」少女は突然腰を浮かせ、少年の方に身を寄せた。「だって、とびっきり素晴らしいシチュエーションでしょう? ねえ、憧れない?」


「憧れない」


「一回試してみなよ。きっと、楽しくなるから」


「ならないと思うよ」


「やってみないと分からないじゃん」


「会話が続かないよ。彼女、元気すぎるんだよ。そう……。僕は少なくとも元気ではない。それだけは確か。だから、あんなに元気な子が傍にいたら、きっと脳震盪を起こすに違いないと思う。そうそう、そんな感じ。だからちょっと無理」


「私、帰るね」


「え?」今度は少年が腰を浮かしかける。「いやいや、ちょっと待ってくれないかな。そういうのは本当に困るんだって」


 しかし、少女は少年の言葉を聞かないで立ち上がる。そのままリビングのドアを開け、彼に背を向けて玄関に向かっていった。


 少年は急いで少女を引き止める。


「いや、本当に」彼は彼女の腕を掴んだ。「頼むよ、お願いだから」


「いいから、構ってあげなって」


「無理」


「意気地なし」


「そういう問題じゃない」


「離しなさい」そう言って、少女は少年の手を引き剥がす。そのまま玄関のドアを開けた。


「いやいやいや、ちょっとちょっとちょっと!」


 玄関の向こう側で少女はこちらを振り返り、悪戯っぽい笑顔で舌を出した。


「さては、このために来たんだな」少年は呟きかける。


 しかし、彼が言い終わる前に玄関のドアは閉まった。


 少年は溜息を吐く。


 今から追いかけるか?


 いや……。その間にルンルンが風呂から出てきたら面倒だ。


 額に片手を当てて、少年は重たい足取りでリビングに戻る。


 テーブルの前の椅子に座った。


 コーヒーを喉に流し込む。


 少年は、初対面で気が合わないと感じた相手と、その後の関係次第で気が合うようになった経験をしたことがなかった。必ず最初の印象が的中する。ルンルンを一目見たとき、彼は、自分と彼女の気が合うことはないだろう、と真っ先に感じたのだ。


 この状況はかなり危ない。


 人見知りが発動してしまう。


 いつもはばれないように隠しているのだが……。


 いったいどうしたら良いだろう?


 彼は、特にルンルンのようなタイプが苦手だった。少女と近い部分もあるが、それでもやはりどこか違う。一番気になるのは、やはり、見た目が幼いのに、中身がそれを上回っているという点だろう。人は外見で様々なものの性質を判断する。鋏の形をしているから鋏なのだし、マウスの形をしているからマウスなのだ。だから、子どもの形をしているのに大人というのは困る。それは頂けない。よろしくない。不快だといっても良い。その反対ならまだありえる。大人の形をしているのに子どもというのは、レベルの高い外見でレベルの低い中身をカモフラージュしているからだ。それなら良い。しかし、その反対は駄目だ。


 と、そんなふうに少年が悩んでいると、洗面所の方から鼻歌が聞こえてきた。


 少年は頭を抱える。


 間もなく、リビングのドアが開いて、ルンルンが部屋に戻ってきた。


「あれ、彼女は?」部屋に入るなりルンルンが訊いた。


「……帰った」


「え? どうして?」ルンルンは少年の顔を覗き込む。


 少年は一瞬肩を震わせ、ルンルンがいるのとは反対側を向いた。


「さあ、知らないけど……」彼は答える。「なんか、帰りたかったらしい」


 ルンルンは固まっている。少年はそっと彼女の方を見た。


「へえ……」やがてルンルンは言った。「あ! じゃあ、あれだね! それって……、二人っきりってことだよね!?」


 少女といい、ルンルンといい、どうしてその点を強調したがるのだろう、と少年は不思議に思う。


「まあ、そうだね」


「へええ〜」ルンルンは飛びきりの笑顔になった。「そっかあ……」


 少年は再三溜息を吐く。


 先ほど着ていたのと同じ衣服を着るのは憚られたようで、ルンルンは別の衣服を身に着けていた。どうやら少女から借りたようだ。ジーンズに長袖のシャツを着ており、ぶかぶかのパーカーを着ていたときとは印象が一変し、爽やかな少女、といった感じになっていた。


 冷蔵庫から勝手に飲み物を取り出し、ルンルンはそれを飲む。コップを持ったまま少年の対面に座り、彼女は頬杖をついてじっと彼の顔を見つめた。


「……何?」少年は尋ねる。


「いやあ、何も?」ルンルンは笑いながら応える。


 沈黙。


 ルンルンはずっと笑っている。


 何がそんなに楽しいのか……。


 少年は横目で彼女を観察した。ルンルンの髪は想像以上に長いようで、今は両肩に濡れた黒髪が垂れ下がっている。首にバスタオルを巻いていた。近づかなくても身体が温まっているのが分かる。そんな女性の姿を見るのは(少女を除いて)始めてだったから、少年は少なからず動揺した。誤解されがちだが、それはセクシャルな感覚ではない。もっと根源的な動揺だ。言うなれば、道を歩いていたら誰かが倒れているのを見つけたような、そんな如何にもな動揺だといえる。


 ルンルンは鼻歌を歌い始める。


「……君は、今朝は何か食べたの?」耐えきれなくなって、少年は彼女に質問した。


「いや、まだだよ」ルンルンは答える。


「じゃあ、何か作ろう」


「いいよ、まだ」彼女は言った。「もう少し、ゆっくりしていようよ」


 少年は抵抗することができない。


「お風呂、気持ちよかったよ」


「あそう。それはよかったね。おめでとう」


「ここのお風呂って、綺麗だよね。いつも、彼女が洗っているの?」


「うん、まあ、そうかな」


「君は?」ルンルンは若干彼に顔を近づける。「君は、普段、どんなことをしているの?」


「どんなこと、とは?」


「家事」


「いや、あまり、していないね」


「でも、料理はできるんでしょう?」


「まあ、目玉焼きくらいなら」


 ルンルンは可笑しそうに笑った。


「じゃあ、あとで私にも作ってね。その、目玉焼き」


「そうだね」


「君さ、私のこと嫌いでしょう?」


 突然、ルンルンが言った。


 そっぽを向いていた少年は、驚いて瞬時に彼女の方を向く。


「え?」


「やっぱり」彼女は頷いた。「うん、分かるんだ。でも、しょうがないから、いいよ、無理しなくても。なんか、ごめんね。私、変人だからさ、ときどき、無条件に、人を困らせることがあるんだよ」


 少年は、図星だったから、何も言えなかった。


「私のこと、怖い?」


「……怖くは、ないと思うけど」


「そう? それなら、よかった。嫌いって言われるよりも、怖いって言われる方がダメージが大きいからね」


 そう言いながらも、ルンルンは笑顔を絶やさない。


 とても幸せそうだ。


 完璧な笑顔だといって良い。


 人を欺くのにうってつけの笑顔だ。


 だから、きっと、心からの笑顔ではない。


 でも、留意していないと、本物の笑顔だと勘違いしてしまう。


 少年は、少しだけルンルンのことが分かったような気がした。


「あの……、なんか、僕、今まで、ちょっと、具合が悪かったんだ」彼は言った。「いや、具合が悪かったというか、なんていうのか、その……、機嫌? そう、機嫌が悪かったみたいで……。だから、うん、そう、もしかすると、君にも失礼なことを言ってしまったかもしれない」


 少年の言葉を聞いて、ルンルンは首を傾げる。


「そんなこと、気にしなくていいよ」彼女は笑顔で言った。「君が謝る必要もないし」


「うん……」


「優しいなあ」ルンルンは笑みを深めた。「彼女が君を好む理由が、分かるよ」


「好まれているのかは分からないけど……」


「絶対、好きだよね、あれは」


「そうかな」


「君は、好きなんでしょう?」


「いや、まあ……」


「どれくらい好き?」


「そんなの、どうやって答えたらいいわけ?」


「じゃあ、私と、彼女だったら、どっちが好き?」


「少なくとも、君よりは好きだ」彼はすぐに答える。


「素直だね」ルンルンは笑った。


 再び沈黙が下りる。しかし、先ほどよりは自然な沈黙であるように少年には思えた。


 どうやら、この少女には家庭的な一面もあるようだ、と彼はルンルンに対するイメージを修正した。家庭的というと多少限定されるが、もう少し広くいえば、母性を感じられるといった感じだろうか(余計に分かりづらくなったかもしれない)。いずれにせよ、彼女は誰に対しても優しいのかもしれないと少年は思った。


「さて……。じゃあ、僕は朝食を作ろうかな」


 そう言って、少年は立ち上がる。


「うん、よろしく」


「君は何が食べたい?」


「目玉焼きしか作れないんじゃなかったの?」


「まあ、そうだけど……」


「じゃあ、目玉焼きが食べたい」


「了解」


 少年はシンクがある場所に向かう。少女の家では、そこがキッチンと同じ扱いになっている。


 少年が料理をしている間、ルンルンは家の中を探検すると言ってリビングを出ていった。


 一階の部屋はだいたい知っていたから、彼女は階段を上って二階に移動した。階段には明るい色合いの木材が使われていて、まだ年季が入っているという感じはしない。この家は少女と同じくらいの年齢なのかもしれない、と彼女は根拠のない予想をする。


 階段は上に向かいながら一回転するようになっていて、だから、上りきった先は家の正面を向いていることになる。廊下が左右に伸びており、右手にトイレらしきドアがあった。ルンルンは廊下を右に進む。そちらにもドアがあって、その先は少女の自室だった。ルンルンはこの部屋には入ったことがある。部屋の端に二段ベッドが置かれており、その隣に勉強机が並んでいる。さらにその隣に本棚。ドアに近い壁の一つがクローゼットになっていて、開けてみると様々な衣服が吊るされているのが分かった。沢山の衣服がハンガーにかけられているが、一つだけ空のハンガーがかかっている。どうやら、それが今ルンルンが着ている衣服がかけられていた場所のようだ。


 自室にはほかに目立つものはなかった。彼女はドアを閉めて、今度は廊下を反対側に進む。


 反対側の突き当りにもドアがあった。この家のドアはすべて同じデザインで、酷くシンプルな作りになっている。シンプルとしか表現する方法が見つからないといっても過言ではない。決して重厚ではなかった。ただし、玄関のドアだけは例外で、そのドアに使われている板はかなり厚みがある。


 ドアを開けると、そこは寝室だった。


 部屋の様子を観察しながら、ルンルンは軽く首を傾げる。先ほど覗いた少女の自室には、確かに彼女用のベッドがあったが、こちらの部屋にも二台別のベッドが置かれている。その内の一つが若干乱れているのを見て、少女に住まわせてもらっている間、少年はきっとここで眠っているのだろうとルンルンは合点がいった。それと同時に、彼女は、そうだ、今度一度で良いから画展に行ってみたい、とも思った。


 寝室には今もシャッターが下ろされている。少女とルンルンが突然訪ねてきたから、少年は上げるのを忘れたまま下りてきたのだろう。ルンルンは窓に近づき、鍵を開けてシャッターをゆっくりと持ち上げる。彼女が一人で開けるには少し重たかったが、なんとか完全に開けきることができた。


 外ではまだ雨が降っている。空はどこまでも曇っていた。


 今日は晴れないみたいだ。


 冷たい風が室内に吹き込む。


 彼女の髪が宙に舞った。


 そして……。


 ああ、このまま死んでしまってもいいな、とルンルンはなんとなく思った。


 精霊として生きて、分かったことが一つある。


 それは、生きている限り、本当の幸せは手に入らない、ということ。


 そこに独自の理論は存在しない。


 ただ、そう感じるだけだ。


 ただし、死んだからといって必ずしも幸せが手に入るとも限らない。


 あくまで、生きている限りは幸せは手に入らない、というだけで、死んだらどうなるのかについては述べられない。


 悲観的な観測だ。


 階段を上ってくる足音が聞こえて、ルンルンは軽く後ろを振り返る。


「ご飯、できたよ」少年が部屋に入ってきた。「いやあ、散らかっているから、あまり入らないでほしいな」


「ここからの眺め、最高だね」


「え、そう?」


 少年が、ルンルンの傍までやって来る。


 少年はルンルンの隣に立った。窓から顔を出すと、左側に山があるのが見えた。前方には街がずっと広がっている。白い壁面に赤い屋根を備えた家がいくつも確認できた。


「まあ、最高といえば最高かな」


「ご飯、何?」


「え、だから、目玉焼き」


「行こう」


「お腹空いた?」


「もう、ぺこぺこだよ」


 二人で階段を下りる。リビングに入ると、美味しそうな香ばしい匂いがした。


「いただきます」テーブルの席に座り、ルンルンは手を合わせて笑顔になる。


 少年も彼女の対面に座った。


「どうぞ」


 食器を動かす音。


 食べ物を口に含む。


「うん、美味しいよ」ルンルンは言った。「普通に、美味しい」


「うん、まあ、誰が作っても、同じ味になると思うよ」


「ほわわわ」


「何、それ」


「美味しいときに出る、擬音語」


 目玉焼きは本当に普通に美味しかった。


「ねえねえ」暫くすると、ルンルンが唐突に言った。「私が食べさせてあげよっか?」


 彼女の言葉を聞いて、少年は目玉焼きの黄身を掴み損ねる。白身はすでになかった。


「は?」


「だから、私が食べさせてあげる」そう言うなり、ルンルンは立ち上がって彼に接近する。


「いやいやいや」少年は彼女を制した。「何言っているの?」


 ルンルンは笑顔のまま少年の黄身を自分の箸で掴み、彼の口もとに運ぼうとする。


「いやいやいや!」


「嫌じゃないでしょう」ルンルンは笑顔だ。


「いや、やめておこう、そういうのは」彼は言った。「誰も幸せにならない」


「なるよ〜。君だけじゃなくて、私も幸せになるんだから」


「そういう問題じゃなくて」


「困ったときに、そういう問題じゃないって言えば、なんとかなるって思っているでしょう?」


「思っていない」少年は彼女に背を向ける。


「絶対に思っているよね、それ」


「いいから、自分の席に戻りなよ。行儀が悪い。せっかく、人が作ってあげたんだから、ありがたく頂きなさい」


「素直じゃないなあ、まったく」


 数秒の沈黙のあと、ルンルンは少年を背後から抱き締めた。


 彼は凍死しそうになる。


「……いや、あのさ、離れてくれないかな、ほんとに」


「ん〜? なんで〜?」


 衣服越しに、ルンルンの心音が背中に伝わってくる。


 次に、唾を飲み込む音。


 生体音。


 ついに、少年は声が出せなくなった。


「大人しく食べなって。それとも、あれ? 彼女がいるから、そういうことはしたくないってこと? 私とじゃ、駄目なの?」


 少年は首を振る。


「じゃあ、食べてよ。お願いだから。美味しいよ? 作ってくれたお礼だと思えば、それでいいでしょう?」


 少年は首を振る。


 ルンルンは腕の力を強めた。


「……まだ、駄目?」


 少年は首を振る。


 背後からルンルンの片方の腕が伸びてきて、彼の口の前で静止した。その手は箸を掴んでいて、箸は玉子の黄身を挟んでいる。


 耳もとで吐息。


 体温。


「……人の話、聞いている?」少年はなんとか声を出す。


「ううん、聞いていない」ルンルンは簡潔に告げた。「君こそ、私のお願い、理解している?」


 限界だった。


 これ以上は保たない。


「何が目的?」少年は震える声で質問する。


 しかし、ルンルンは答えない。


 無回答。


 すなわち、得点なし。


「はい、口を開けて」


 少年は首を振ろうとしたが、彼女のもう片方の腕が絡みついていて、これ以上動けそうになかった。


「口を、開けて」ルンルンが呟く。


 少年の中には、もう恐怖しかない。


 今は、彼女の優しさも、微塵も感じられなかった。


 怖い。


 ただただ怖い。


 他者の恐怖。


 自我の崩壊。


 精神の剥離。


 抗う術はなかった。


 少年はゆっくりと口を開ける。


 微動する箸。


 ルンルンの囁くような笑い声。


 戦慄。


 どちらのものか分からない鼓動。


 玉子の黄身。


 舌に触れる。


 味覚。


 箸の先が喉に閊えそうになる。


 苦しかった。


 上手く嚥下できない。


 それが、恐怖によるものなのか、物理的な原因によるのか、分からないまま……。


 すぐ傍に、ルンルンの口もとが見える。


 彼女は笑っている。


 楽しそうに笑っている。


「どう、美味しい?」彼女は質問する。


 少年は頷いて回答する。


 正解。


 そのとき、リビングの入り口の付近で音がした。


 少年はとっさにそちらを振り向く。


 ルンルンも同じ挙動をした。


 立っているのは、一人の少女。


 けれど……。


 彼女は、誰だろう?


 彼女は、誰だろう?


 どちらが、どちらだろう?


 たった今現れた少女は、瞬時に踵を返すと、玄関に向かって駆けていった。

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