第26話 まだ解けない謎
「さて――待つというなら、わちきらの務めはほぼほぼ待つことでありんすなあ。毎日毎晩、いかにして馴染みの客人を通わせるかが
とはいえ動揺らしきものが見えたのも一瞬のこと、薄雲はすぐに面のように隙のない笑みを纏ってしまう。しかし、隆正が問いたいのはそのような上辺のことではないのだ。だから彼は膝を進めて薄雲に迫ると、次の一手を突きつける。
「最初に
「姉さん、わちきは……っ!」
ふたつ目の
「余計なことを申したなあ、朧」
薄雲が妹分にちらりと流した目線もかけた声も冷え冷えとして、鋭い刃のようだった。直に向けられたのではない隆正でさえ、首筋にひんやりとしたものを感じたほどに。しかし、再び彼ににこりと微笑んだ時には、薄雲は既に例の仮面で表情を繕い直している。
「まったく、どうしてそのように穿った見方をなさんしたやら。通人とは、金子では贖えぬものをありがたがるもの。
「……そうかもしれぬ」
「で、ありんしょう?」
にこやかに首を傾げる薄雲が、彼に心を明かす気がないのは明らかだった。美しく整いすぎた笑顔がそう教えている。
「とはいえ某もそれなりの理由があって言っていることだ。
最初に
隆正を馬鹿正直と
薄雲の鮮やかな謎解きに比べれば、隆正の論理は穴だらけも良いところだ。こうだからこう、と理屈で詰めていくのではなく、よく知る人物が不審な言動をしていたから、という勘に頼ったものでしかないから。ただ、薄雲という女についてはよく知らずとも、夏目の人柄について彼は見誤っていない、とも信じている。
自分自身よりも夏目を
「……それに、あの方はこうも言っていた。身請け話は雨のように降っているだろうに、薄雲はどれにも頷かない、そなたのことが心配だから頼む――、と」
それこそ伊勢屋惣衛門などは、薄雲を身請けしたいと願ってもおかしくない。十分に金を積めば、藤浪屋としても文句はないだろう。ひとつやふたつでは済まないらしい身請け話のどれもが流れるとしたら、確かに薄雲自身が首を縦に振らないから、以外の理由はないだろうと思う。
更には心配だの頼むだのといった言葉は明らかにおかしい。なぜなら今回の件で心配されるべきは隆正の方、むしろ薄雲に頼まれなければならない立場だったのだから。ならば夏目が言ったのは
「単に年季明けを延ばしたいだけならば、身揚げさせる相手は誰でも良いはずなのだ。敢えて八丁堀の同心を相手にするのは、捕物話が聞きたいがためだけか? 役人と繋ぎを持っておくことが、都合が良いからではないのか? 何かの折に頼れるからとか、そういう意味ではなくて……」
隆正の耳に、最初の夜の薄雲の声が蘇っていた。
『必ずまた来ると誓いんしたを、反故にするのは決まって男の方でござんしょう』
決して、我が身のこととは言っていなかった。
薄雲の姉分の、
「同心ならば、御役目のため、謎解きのためとの言い訳も立つ。しかし、他の客が相手ではそうは行かぬ。身揚げとは、好いた男のためにするものなのではないのか? そなたは、方便であっても金子抜きで
朧は、身揚げについて隆正に教えた時に、想うた
とはいえこれは、推論とも言えない牽強付会のこじつけに過ぎないのも分かっている。彼がそう思いたいだけの、妄想とさえ呼べるだろう。だが、黙ったままでは薄雲が何も言ってくれないであろうことは明白だ。万が一にも正鵠を射ていれば僥倖、的外れだったとしても、呆れた薄雲は何かしらの糸口を与えてくれるかもしれない。
「あの……姉さん?」
隆正が次々と問い詰めても、朧がおろおろと声を上げて姉分と彼とを見比べても。薄雲は、端然と座って口を閉ざしたまま、彼を見つめる眼差しも口の端を持ち上げただけの笑みも変わらない。その態度は鉄壁の盾のように詮索を拒んでいる。ひどく不躾な領域に踏み込もうとする後ろめたさに、隆正は軽く唇を舐め――そして、それでも口を開いた。
「――そなたの待ち人に、何があった? 何かの事件に巻き込まれたか……それとも、罪に問われたか? それは、ゆえのないことだったとか――だから
鈴の証言を信じるところから論を広げてくれたのは、そうしなければ埒が明かないからだけだったのだろうか。ただひとり、相手を信じて足掻く娘に思うところがあったからではないのか。吉原に閉じ込められた身の上で、仔細ある者の消息を知ろうと思うなら、確かに役人との繋がりは貴重だろう。それに夏目が密かに案じるのも、無理はないと思う。
さあどうだ、と。息を詰めて隆正が見守る中、薄雲の唇からほう、と深い溜息が漏れた。
「夏目様まで。まったく余計なことをするお人ばかり……」
「では――」
当たっていたということなのか、と。問い質そうとさらに身を乗り出す隆正に、けれど薄雲はゆるゆると首を振ってみせた。
「主さんのご登楼はまだたったの二回目。常ならば裏を返したところに過ぎいせん。それで立ち入った身の上話など、かえって興ざめでございんしょう」
「そう、か……」
見事なまでにきっぱりと振られて、隆正は肩を落とす。的外れな考えだと嗤われた方がまだ良かったかもしれない。ならば薄雲は高慢で物見高い質の女だというだけ、案じるべき身の上がないならそれはそれで安堵したかもしれないのに。この言い方では、お前の知ったことではないと言われたも同然だ。
「……夏目殿に比べれば、某など頼りないと思うのだろうが。それでも、事情を知っていれば噂に気を配ることもできるだろうと思ったのだが……」
栄屋の件で彼が薄雲から受けた恩義は大きい。だから返さなければ、と思う。寄る辺のない女の身の上を、哀れにも思う。吉原は魔窟のようにも言われるが、江戸の一部には変わりない。そこに住まう者たちも、庇護すべき民草から漏れてはならないと思ったのだが――いまだ一人前とも呼び難い身には、出過ぎた真似だったというのだろうか。
落胆はすぐに気恥ずかしさに変わり、頬に上がった熱を鎮めるべく、隆正は温くなった茶をひと息に干した。そこへ、軽やかな笑い声が浴びせられる。無論、薄雲が笑う声だ。
「おや、主さんにしては諦めの早いこと。鈴の件では方々あたった末にここまで辿り着いたのでありんしょうに。わちきを未練とは思いなんせんとは、口惜しゅうてなりいせん」
「未練……?」
この女はよくも様々な表情の笑みを使い分けるものだ、と思う。取り繕ったと明らかに分かるもの、艶めかしく媚びるようなもの。そしてたった今隆正に向ける微笑みはどこか悪戯っぽく、それこそ謎々をかけるよう。何かに気付けと言われているようだが、それが何だか分からない。隆正が首を捻っていると、薄雲は焦れたように軽く唇を尖らせる。これもわざとらしい仕草だというのに、愛らしく見えてしまうのが恐ろしい。
「どうぞ、また来ると
「そなたが口を滑らせることがあるなどとは思えないな……」
いかに客を通わせるかが手管、と聞かされたばかりだ。甘えるように小首を傾げて囁いてくるのも、その一環だとは分かり切っている。そうと分かっていてなお、あっさりと
「先のことなど
「ふん、何しろ馬鹿正直だからな」
薄雲が引いたのは、
一度
「謎解きが必要になったら、また来よう。その時は頼む」
「あい。楽しみにしておりいす」
薄雲と顔を見合わせて、笑う。視線で考えたことが伝わったのだろうか。あるいは、上手く丸め込むことができた、とでも思われたのかもしれないが。とはいえ、今はこれで良いのだろう。
そう遠くないうちにまたこの店を、この女を訪れるのだろうという予感がしていた。どのような事件、どのような謎に巡り合うのかは分からないが。理不尽に涙する者は、無論いないに越したことはないのだが。ただ――薄雲花魁の謎解きに再び立ち合うのを待ちわびる思いもまた、隆正の胸に確かに芽生えていた。
薄雲花魁 謎解き座敷 悠井すみれ @Veilchen
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