第10話 無常因果

 いつの間にか、霧子は例の森の中にいる。青白い湖の、ビロードのように動かぬ水面が、ただそこにある。

 私は、いない。いったいどこにいってしまったのだろう。

 何もかもわからず、頭の中も霧がかかったように霞んでいる。何かを思い出せそうな気がして、ぎゅっと目を閉じてみた。

 ああ、あの鳶色の目の人が、何か言っていたようだ。確か電話で。いや違う、目の前で。どっちだったか、そもそも私はどこにいるのか。

 鋭い声を上げて、頭上を鳥が飛んでいく。目を開けると、青い小さな翼がちらりと見えた気がした。この森に生き物はいないはずなのに、いつの間にか辺りには命の息吹がある。

 ひどく気持ちが高揚していた。こんな事は初めてだ。心の中がざわつき、身体の中の汚物を、何もかもぶちまけてしまいたい。

 炎だ。私の中に蒼く燃え上がる炎があるのだ。凍り付いたような冷たい炎が、この胸で確かに燃えている。

 これはいったい何だろう、これはいったい。


「それが、怒りというものですよ」

 恭一郎の呟きに、霧子はハッと目を開けた。私は独り言を言っていたのか。いや、それよりも、ここは……。

 霧子は、地面に横たわっている。恭一郎がすぐ隣に座り、顔を覗き込んでいる。

 身体を起こすと、腹がずきりと痛んだ。

「やむを得ず、あなたに暴力をふるいました。すみません」

 恭一郎は、穏やかな口調で霧子に話しかける。

「それに電話で、ありえないほどの暴言を……」

 ああ、何か言われたような気もする、と、思い出そうとするが、頭がうまく働かない。

「まったく、女性に暴言を吐き暴行するなど、私の人生であってはならない事でしたので、加減がわからず、やり過ぎてしまいました。申し訳ありません」

 ぼんやりと恭一郎の顔を見る。その輝く瞳は、確かに霧子を見ているのだが、皮膚を通り越し、奥の奥、霧子の本質を見ているようだ。私の中の蒼い炎が、この人には見えているのだろう。

「ああ……」

 恭一郎は、ため息ともとれる小さな声を出す。

「騙されました。私の落ち度です、これは」

 そして、しばし考えるように霧子を見つめている。どう言ったものかと、迷っているようだ。

「遅かったです。おそらく千春さんを暴行した後にはすでに……」

「何の事でしょうか?」

 霧子の問いに、恭一郎は思い切ったように霧子の正面に座り直した。

「霧子さん、よく聞いてください」「はい」「もう一人のあなた、キリコは……」

 そこで恭一郎は言葉を切り、少し首を振る。

「すでに、あなたの中にいます」

「は……」

 意味がよくわからなかった。キリコというのが生霊なら、そもそも私の中から派生したのだから、それでいいのじゃないかという気がした。

「申し訳ありません。キリコは生霊ではありませんでした。霧子さんの幼少時に、おそらく三才よりも前だと思いますが、あなた自身の願いで切り離された、魂の一部です」

「魂の一部……」

「違っていたらすみません。これは私の勝手な想像なのですが……」

 恭一郎が言葉を続ける。

「子どもの頃に、虐待のような事をされていた?」

 霧子は、グッと唾を飲みこむ。虐待?

 考えた事もなかった。私は虐待を受けていた……?唾を飛ばし叫んでいる、母の歪んだ恐ろしい顔が頭に浮かんだ。

「虐待から身を守るために、子どもは様々な育ち方をします。極端に人にこびへつらうようになったり、あるいは、暴力そのものを肯定するようになったり。ところが、あなたの魂はあまりに清らかだった。ひどい事をする人間よりも、怒りという感情そのものを忌み嫌い、否定した。自分の魂を切り離し、そこに自身の中にある怒りを封じ込めた」

 湖に浮かんでいたキリコの顔が思い浮かぶ。そうだ、あの子は、ずっとあそこで、ああやって……。

「三才より前の子どもというのは、まだ魂が定着していないのです。このような事象は何例か記録がある。実際にお目にかかるのは、これが初めてですが」

 霧子は、心の中の蒼い炎を改めて覗き込む。

 これが、あの子。これが、怒り。

「キリコは非常に巧妙に私の目をごまかした。直也くんを襲った時は、さほど実体化していなかったのに、千春さんを襲ったのは完全に実体だった。恐るべき成長速度と言える。知恵もある。恐らく久しく心を閉じていたあなたが、急激に他人と深く関わり、あまつさえ不幸な目に遭われた事で、あなたの負の感情とも言うべき彼女は覚醒に至ったのです。初めてお会いした時に気付くべきでした。してやられました」

「どうしたらいいんでしょうか……」と、問いながらも、このやりとりをキリコも聞いているのじゃないかと、心配になる。

「祓います」恭一郎は、きっぱりと言う。

「そうしなければ、あなたの中のキリコはどんどん大きくなる。やがてあなたを飲み尽くし、あなたは自分の感情をコントロールできなくなる」

「また、人に危害を加えるという事ですか」

「そうなるでしょうね。次は、どんな恐ろしい事をやらかすか」

「祓ってください。お願いします」

 恭一郎に、すがりつきたい気持ちだった。

「しかし、一つ問題が……」

 恭一郎の顔が曇る。

「キリコを祓ってしまったら、霧子さん、あなたの怒りの感情は、永遠に失われる事になる」

「かまいません」

 なんだ、そんな事。今までだって、ずっとそうだったのだ。誰かを傷付けるくらいなら、怒りなどいらない。

 湖に一人ぼっちで浮かんでいたあの子を思うと、少しだけ胸が痛んだが。それでも、迷いはしない。

「そうですか、承知しました」

 恭一郎は静かに言って、腰を上げた。

「それでは、さっさとやってしまいましょう。おそらく、もうあまり時間がありません」


◇ ◇ ◇


 陽が傾きかけた森の中である。冬の夕暮れ時は、すぐに闇を連れて来る。霧子は冷たい地面に静かに座り、固く目を閉じている。

 恭一郎は、腹に力を入れ、大きく息を吸った。ここまで来たら、何としてでもやり遂げなければならない。こちらの存在もとうに知られている。これでだめなら終わりだろう。

「無常因果の冥を超え、淵より来たれヤミガラス」

 手の中のヤミガラスに温もりが宿り、長年の友の如く恭一郎を受け入れる。しかしここから先いかにすべきか、まだ掴めていない。

 祖父だったら、と、恭一郎は想像する。

 とても目のいい人だった。神の目を持つとも揶揄されていた。それこそ若い頃は、素手で魂から悪霊を引っぺがし、ちぎっては捨てていたという。

 それでは何故、祖父はヤミガラスを使うに至ったのか。

 いや、今考える事ではない!と、恭一郎は強く頭を振る。

 集中しなければ。とにかく集中だ。

 必死で霧子に目を凝らす。祖父ほど目がいいわけではないが、祖父の血を引いているのだ。やれないわけがない。祖父の姿を思い浮かべ、どうか力を貸してくれと念じる。

 霧子の背中の真ん中あたりに、ぼんやり白く光っている魂が見えた。よく見ると、その丸い健全な魂の半分が、薄青く濁っている。あれが後から合わさった部分か、と、恭一郎はなおも目を凝らす。完全に合体しているようにも見えるが、混ざっているわけではない。継ぎ目を探し、ヤミガラスを魂に這わせるように動かす。

 まだ間に合う、まだ間に合うと言い聞かせ、恭一郎はその継ぎ目とおぼしき箇所に、グッと刃先を差し込む。霧子が背中をビクンと反らせた。当たったか?と、さらに刃先を差し込む。

 そこから、梃子てこの原理の要領でヤミガラスに力を込め、魂を二つに割ろうと試みる。霊的世界に梃子の原理を持ち込むのもおかしな話だが、人間とは、かように物質世界に縛られて生きているのだ、いたしかたないだろう、と言い訳じみた言葉をぶつぶつと呟き、恭一郎は手に力を込める。霧子が苦しそうに顔を歪め始めた。

 霧子の魂が、動いている。せっかく一つになったのにと、抵抗している。ヤミガラスを持つ手に、確かに抗うような力を感じる。正解だ、と自信を持った。さらに力を込める。

「ああああああ!」と、霧子が歌うような高い声を発した。と、同時に霧子の身体が弾けるように二つに分かれた。

 恭一郎は、新たに出現したキリコにヤミガラスを向ける。キリコは素早く飛びのき、少し離れて恭一郎を睨みつけた。本体の方の霧子は目を丸く見開き、キリコを見つめ震えている。これはまずいと、恭一郎はヤミガラスを握り直した。

 二体はまるきり対等に見える。いや、キリコの方が若干存在感があるのではないか。怒りとは、かように強い感情であるのだ。怒りは意思の力を増強させ、行動力の源となる。

 キリコは、ぐいと霧子に顔を向ける。

「離れなさい!」と、恭一郎は慌てて霧子に叫ぶ。また一体化されたら今度こそ、キリコは霧子を食らい尽くしてしまうだろう。

「早く!」

 霧子はよたよたと立ち上がり、森の中に逃げ込もうとする。その姿をキリコは目で追っている。

 いや、だめだ!と恭一郎は思い直す。自分の目の届く範囲にいてもらわなければ。絶対に一体化させてはならないのだ。

「俺の目の届くところにいろ!」

 霧子は泣きそうな顔で振り向き、恭一郎の背後に逃げ込んだ。それをキリコが追う。

 恭一郎は、首からかけていた数珠を、キリコに向かって素早く投げた。海外放浪の際、インドの高僧からもらい受けたものだ。神が宿りし古木から作られた貴重な数珠。それは蛇のように意思を持ち、まっすぐにキリコに向かって飛んだ。数珠はキリコの首にぐるぐると巻き付く。恭一郎は数珠の端を掴み、ぐいと自分の方に引き寄せた。

 霧子に向かって伸ばされたキリコの手が、虚空を掴む。恭一郎は力を込め、ギリギリと数珠を引っ張り、キリコの首を絞めつける。

 キリコは振り向き、大きく歪んだ表情で恭一郎を睨みつけてくる。見開かれた目は赤く血走り、増幅された怒りは、まっすぐに恭一郎に向かって来た。

 圧倒される、その怒りのすさまじさに圧倒される。感情が怒りしかない人間というのは、かように恐ろしいものなのか。

 純粋な怒り、そのすさまじいエネルギーに恐れを抱きそうになる心を、無理やり奮い立たせる。

「ヤミガラス!」恭一郎はヤミガラスに数珠の端を巻き付ける。ヤミガラスの黒いオーラが数珠を伝い、すさまじい速さでキリコに向かっていく。

 キリコはオーラを避けようと、頭をのけぞらせた。その瞬間、恭一郎は数珠を思いきり引っ張った。ぐいとキリコの身体が引き寄せられる。その勢いのまま、恭一郎は身体を返し、キリコを地面に押し倒した。

 懐から祖父の形見の霊符を取り出す。手書きのそれは、今だにすさまじい霊力を持ち、淡い光を放っている。その霊符を、恭一郎はキリコの胸に叩きつけるように置く。そして間髪を入れず、ヤミガラスで霊符ごとキリコの身体を貫いた。

「ぎゃあああああ!」と、耳をつんざくような悲鳴を上げ、キリコの身体が弾け飛んだ。きらきらと青い粒子が散る。そして次の瞬間、完全にキリコの身体は消え失せていた。


 恭一郎の全身から力が抜け、その場にへなへなと座り込んだ。終わったのか判断できず、キリコが消えた地面を見つめる。すでに辺りは薄闇に包まれ、静寂が戻っている。

 ぼんやりと何もない空間を見つめる恭一郎に、白い手が差し伸べられた。振り仰ぐと、それは霧子であった。精一杯の笑顔を浮かべ、霧子が恭一郎に手を差し出している。

 恭一郎はその手を掴み、よろよろと立ち上がった。


 恭一郎は霧子と並んで、古びた木のベンチに座っている。

 やっとの思いで森を抜けだし、国道沿いのバス停まで辿り着いたところだ。天空には、白く光る寒々しい満月がぽかりと浮かび、人一人いないアスファルトを、寂しく照らしている。

「大丈夫ですか?」

 霧子が恭一郎を気遣ってくる。

「はい」と、努めて平静に答えようとしたが、身体は鉛のように重く、こめかみがズキズキと痛む。これがヤミガラスを使うという事なのかと、ぼんやり考える。


「神の力を宿したヤミガラスを、おまえごとき人間が扱えると思うな」

 興味本位でヤミガラスに触れようとすると、決まって祖父に叱り飛ばされた。

 あんただって人間じゃねえかよ、と、心で毒づいていた自分を思い出す。鉄拳が飛んでくるので口には出せなかったが。

 今は、無性に祖父が懐かしい。


「乾さんのおかげです。ありがとうございました」

 霧子の柔らかい声が、感傷にひたっていた胸に響いた。なんとかやり遂げたのだ、拝み屋としての初仕事を。祖父のようにとはいかなかったが、ヤミガラスを使いこなし、キリコを倒したのだ。

 やっと安堵のため息が漏れた。ゆっくりと熱い風呂に浸かりたい。今夜の酒はうまいだろうなあ、と思った。その時である。

 霧子の顔が真正面にある。恭一郎の目をまっすぐに見つめ、ニッ笑う。

 霧子はこんな笑い方をしただろうか。そんな疑問を感じる暇もなかった。

 霧子の手には、いつの間にかヤミガラスが握られている。黒い刀身が、月の光を受けてギラリと光る。美しいものだな、と思った気がする。もうその時はすでに、霧子がヤミガラスを恭一郎に向かって突きだしていた。

 右目に強い衝撃と熱を感じる。痛みはなかった。何が起こったのかわからなかった。

 一瞬置いて、ヤミガラスに右目を刺し貫かれたのだと理解した。赤い鮮血が飛び散っている。その向こうに霧子のさげすむような笑顔が見えた。

「気持ち、いい……」

 霧子の唇がつぶやいている。

 そうか、気持ちいいか。そうだろうなあ。

 人間というのは、かように残虐な存在なのだ。他者の命を奪い、生き残る事に高揚するような、恐ろしい獣なのだ。

 だとしたら、地獄は何のためにある。それが人間の本質なのだとしたら。

 そして恭一郎は、自分の死をはっきりと自覚した。

 ゆっくりと遠ざかる霧子の白い背中を、残った左目で追うが、もう何もかもが手遅れだった。


「おじいちゃん」言葉として発したのかはわからない。ただこの瞬間目に浮かぶのは、やはり亡き祖父の顔である。

 滅多に笑顔を見せぬ怖い人だった。遊んでもらった記憶も、可愛がってもらった記憶もない。だが、たった一人の肉親だった。愛していた。

「おじいちゃん」

 懐かしい祖父に向かい、もう一度呟く。

「助けてくれとは言わないよ。せめて、迎えに来てくれたっていいじゃねえかよ」

 残す者も、守る者もない身だ。死ぬのはいっこうに構わない。だが、一人で逝くのが無性に寂しかった。


 突然、ぼんやりと少女の顔が浮かんだ。

 長く伸ばした黒髪に、黒い着物を着ている。

 まだあどけなさの残るその少女の顔を、恭一郎は確かに見知っている、が、誰なのかが思い出せない。

「受け入れなさい」少女が鈴のような声で呟いた。そのまま黙って恭一郎を見据えている。

 受け入れる?何を?

 ……無常因果。

 その言葉が、恭一郎の頭に浮かぶ。

 ああ、そうか。俺におとなしく死ねという事か。恭一郎が理解すると同時に、少女の顔は消えた。


 無常因果、それは、この世の理。

 起こった事には理由がある。抗ってはならない。全てを受け入れるのだ、全てを。

 恭一郎は、がちがちに固まった身体の力を抜く。

 右目と右脳が、ヤミガラスを受け入れてゆく。赤い血潮が黒く変化し、視界を埋め尽くす。それは闇そのものとなり、恭一郎の身体を包んでゆく。

 無常因果の冥を超え、恭一郎の意識は深い闇に溶けてゆく。


 それが、最後であった。 

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拝み屋 鴉(カラス)シリーズ① 霧子とキリコ ふうりゅう舎 @furyu-sha

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