第9話 ヤミガラス

 その日は曇天だった。大晦日の朝6時。いつものように目覚め、拝み屋・乾恭一郎は、今日やるべきだと心に決める。これ以上、引き延ばしてはならない。霧子の生霊は日に日に存在を大きくしているはずだ。

 祈るような気持ちで、いつもの儀式を行う。亡き祖父から受け継いだ妖刀のご機嫌伺いだ。妖刀というと怪しすぎるが、これは、妖刀としか言いようがない代物だった。まず、日本刀の形状をしているが、このままでは斬れない。元々は所謂いわゆる模造刀と言われるものなのかもしれない。そして、この妖刀には感情があるのだ。

 柄に触れ握りしめる。冷たいが、さほどではない。持ち上げてみる。ずしりとした重さを感じるが、片手で持ち上げられないほどではない。

「悪くない」と、思った。最高ではないが、最悪ではない。これで十分であろう。

 そっと鞘から抜いてみる。カラスの羽根を思わせる、光沢のある真っ黒な刀身が現れる。

 祖父はこれを、ヤミガラスと呼んだ。肌身離さず持ち歩き、何体もの悪霊を斬った。出自は何も知らされていない。恭一郎が触れる事も禁じられていた。

 そのヤミガラスが、今は恭一郎の手の中にあるのだ。祖父から所持を許されたといっても差し支えあるまい。が、大きな問題があった。まだ、まともに使いこなせた経験がない。このままでは殺傷能力のまるでない、面倒くさい物体に過ぎない。

 ヤミガラスには生命が宿っている、というのは、祖父がいつも口にしていた事だ。だから失礼をするんじゃない、と。子どもの頃は半信半疑であったが、実際に手に触れる事のできる今になって、それは本当だとはっきりわかる。ヤミガラスには明らかに感情があった。

 機嫌が悪い日もあれば、いい日もある。氷のように柄が冷たかったり、鉛のように重かったり。例えば朝のうちは機嫌が良くとも、振り回し方が気にいらぬとなると、とたんに灼熱の熱さを持ち、思わず取り落としそうになる事もあった。ヤミガラスがその気にならないと、悪霊はおろか、沢庵すら斬れないのだ。依頼先で「今日は刀の機嫌が悪いのでまたの機会に」など、言えるわけがない。祖父は、いったいこれをどうやって手懐けて、思い通りに扱っていたのか。

 考えあぐねた末に、恭一郎が思いついたのは『言葉』であった。

 祖父は寡黙であったが、ちょくちょくヤミガラスにぶつぶつと話しかけているのを、何度も耳にしていた。よくよく聞いてみると「今日は暖かい」だの「桜が咲いた」だの「恭一郎が中学に上がった」だの、どうでもよい話をしているのであったが、祖父が自身の身体の一部のようにヤミガラスを使いこなす秘密が、そこにあるような気がした。

 が、祖父のように刀に話しかけてみたところで、気恥ずかしい上にどうもしっくりこない。そこで考えついたのが、素早くヤミガラスを武器として起動させるための言葉、すなわちパスワードのようなものを探す事だ。機械のように扱うのもどうかと思ったが、案外うまくいきそうだと思ったのは、ヤミガラスの姿を思い浮かべ、言葉を探していた時だった。


 カラスという鳥は、伝承において非常に珍しい存在である。太陽の使いであると同時に、死者の魂を運ぶ霊鳥とされている。吉兆の印であり、死の象徴でもある。陰と陽が入り混じっているのだ。しかしヤミというからには、陰の方なのだろうとアタリを付ける。

 古くは鳥葬にも使われたという、冥界からの使者。死肉を食らい、魂を地獄に運ぶ。光沢のある黒い身体。鋭いくちばし、尖ったかぎ爪。


 恭一郎は目を閉じ、禍々しい大きなからすが、闇の中を飛翔する姿を思い浮かべる。

「来たれ、ヤミガラス」刀の柄を握り、そう唱える。じんわりと柄が温かくなる。

 さて、ヤミガラスは、どこから来るのか?地獄と繋がっている、真っ黒な大穴からだ。

「淵より来たれ、ヤミガラス」

 漆黒の闇から姿を現すヤミガラスが見える。ストレートに地獄を口にするのははばかられた。言葉は重要だ。大事なパスワードに、忌み言葉を使いたくなかった。

 ……無常因果。

 突然、ひらめきのように四文字熟語が頭に浮かぶ。

 原因があり結果がある。全てを受け入れよという祖父の言葉が思い出された。

 それはこの世の理。

 しかし、人間というものは、概してそれを認められない。この世の不幸とは、ほぼ全てそこから発生する。諦めきれぬ、受け入れられぬという人々の嘆き、怒り、苦しみの慟哭。まさにこの世は地獄さながら。地獄とこの世は繋がっている。その暗闇、そこからヤミガラスは、やって来る。

「無常因果の冥を超え、淵より来たれヤミガラス」

 口に出して、はっきりと唱えてみた。

 現世と地獄が混ざり合う、うごめくような暗闇から、それは大きく翼を広げまっすぐに飛翔し、恭一郎の右腕にふわりと止まり、そのまますっと吸い込まれる。

 やがて、温かくて滑らかな羽根のような感触が、柄を握った右手の中に現れた。掌にすんなりと馴染む。恭一郎は目を開ける。そこには、禍々しく美しい鴉の羽根のような、ヤミガラスの黒い刀身がある。

 受け入れられたと思った。確かにヤミガラスと一体になる言葉を授かったと。

 そしてそれは、今日よりわずか三日前の出来事であった。


 恭一郎は、深い山の中に一人座っている。12月31日、こんな日に山に来る者など誰もいない。好都合である。まだ昼前であったが太陽は雲に隠れ、寒風が吹きすさんでいる。

 目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。緊張はしているが、恐怖はない。何度もシミュレーションした通りにやれば良い。

 例えヤミガラスを手懐けられず失敗したとしても、最悪、自分の命を落とすだけだ。拝み屋は、そういう覚悟がなければできない仕事ではないか。

 亡き祖父の、ぴんと伸びた背中を思い出す。ヤミガラスに拒絶されれば、それだけの事。それで良い。


 恭一郎は、ヤミガラスを傍らに置き、立ち上がる。そしてゆっくりとスマートフォンを取り出した。霧子の電話番号を出し、ボタンを押す。呼び出し音が鳴る。自宅に待機しているように、とだけ事前に話をしていた。

「はい」霧子はすぐに電話に出た。

「神代霧子さん?」「はい……」

 恭一郎は、すうっと息を吸う。

「重大な嘘が発覚しました。もう、あんたを信用できないな」

 電話の向こうから、霧子が絶句する吐息が伝わって来る。恭一郎は大袈裟に息を吐く。

「先日、直也くんに会ってね。とても礼儀正しく、美しい好青年だった。彼の言う事は正しいよ」

「えっ……」息を呑むような、小さな返事。

「だいたい、あんたみたいな陰気で花のない女、直也くんが本気で相手にすると思うかね。彼は千春さんとうまくいっていたんだ。それが、あんたのせいで」

 霧子の手の震えが、スマホを通して伝わってくるようだった。俺は、こんなふうに人を罵倒した事があるか?と、恭一郎は思い出そうとする。いや、ない。初めての経験だ。

「はっきり言って、あんたはブスだ。それにバカだ。全人類に土下座したって足らないね。身の程をわきまえろ。消えてなくなってしまえ!」

 全く、俺は小学生か……と、恭一郎は自分の言葉に軽く目眩がしていた。語彙力が圧倒的に足りない。あたりまえじゃないか、言霊ことだまを大事にする自分が、まさかこんな汚い言葉を吐くはめになるとは思ってもみなかった。頼むから絶望してくれ、どん底に落ちてくれ、と祈るような気持ちだった。

「ヒッ……」という、鋭い吐息がスマホから聞こえた。

 霧子は泣いているのだろうか。恭一郎はくまなく辺りに神経を張り巡らせる。

 突然、背後からぞくり、という冷たい感触を感じた。スマホを投げ捨てる。そして、足元のヤミガラスを素早く拾い上げる。

 ぐるりと360度見回した。誰の姿も見えない。しかし、それは確実に近付いている。

 いち早く皮膚が危険を察知し、全身が粟立つ。よくないものだ、これはよくないものだ、という警報が、頭の中にけたたましく鳴り響いている。

 ヤミガラスを鞘から抜く。禍々しい黒い刀身が現れる。

 いよいよだ。チャンスは一度きり。

 恭一郎は腹に力を入れ、目を閉じた。

「無常因果の冥を超え、淵より来たれヤミガラス」

 真っ黒く塗りつぶされた大きな穴。その淵から黒い翼が飛翔する。大きく鋭く一度だけ鳴き、それはまっすぐに恭一郎の元へ飛んできた。ふわり、と手の中に生き物のぬくもりを感じる。軽い、羽根のように軽い。

 ヤミガラスが恭一郎を受け入れ、恭一郎もまたヤミガラスを受け入れる。

 目を開ける。ヤミガラスの刀身から大量の黒いオーラが噴き出し、刀の形状すらわからない。これがヤミガラスの真の姿だ。いける、と気を引き締める。


 その時である。ズシンと腹に響くような衝撃があった。あまりにも禍々しい気配。

 慌てて振り向くと、奴は、そこにいた。白いワンピース姿の女。

 生霊というにはあまりにもリアルで、本体かと目を疑うほどである。

「キリコ……」

 それは、黒い洞穴のような目で、じっとりと恭一郎を睨みつけている、神代霧子の顔を持つ何かであった。

 先日、公園で会った霧子と全く同じ顔の、しかし全く表情の違うキリコ。常にビクついている気弱そうな少女とは真逆の、冷たい怒りに満ちた顔。

 赤く燃えさかる怒りではない、感情の動かぬ、凍てついた湖のような怒りである。しかし、恐ろしい殺意に満たされたその表情に、恭一郎の背中に冷気が駆け上がり、思わず一歩後退してしまう。

 いけないと思い直し、ヤミガラスを強く握りしめ、霧子の懐に飛び込むつもりで駆け出す。

 考えては負けだ、考えるなと、恭一郎は何度も自分に言い聞かせた。心無き者と対峙するのに心はいらない。ただ本能でぶつかるのみ。ヤミガラスと己を信じる他はないのだ。

 駆けながら刀を振りかぶり、霧子に向かって斬りかかる。頭から真っ二つにする勢いである。が、その刹那、ヤミガラスは霧子の頭上でぴたりと静止した。


 霧子が震えている。怯えた顔で恭一郎を見つめている。それは、まさにあの公園で会った霧子である。

「危ない!」恭一郎は慌てて刀を引く。

「なぜ君がここにいる!」

 霧子は答えない。真っ青な顔でガタガタと震えている、

 が、次の瞬間、またしても怒りの表情に変化する。霧子は、拳を振り上げ恭一郎に襲い掛かる。

 鋭い拳が恭一郎の頬に飛んだ。女性とは思えぬ腕力に、恭一郎の身体が吹っ飛ぶ。

 なんとか足を踏ん張り、態勢を整えようとするが、その前に腹に強烈な蹴りが入り、思わず膝をつく。獣のような雄たけびを上げ、拳を振り上げ迫ってくる霧子を、倒れこんで避ける。

 霧子の拳が空を切り、身体のバランスを崩したところで、ヤミガラスの柄を思いきり腹に当てた。霧子は短くうめき、地面に倒れ込む。そのまま意識を失ったように動かない。

 恭一郎は素早く起き上がり、息を吐く。

 いったい、何が起こっているのか。

 自分は、何を間違えたのか。

 戸惑ったまま、目を閉じ横たわっている霧子を、ただじっと見つめた。

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