第8話 カサノヴァ

 連城れんじょう直也は洗面所の鏡に向かい、己の顔に見入っている。数多の女を堕としてきた、自慢の顔だ。

 高層マンション最上階の一室。自称・自分探し中の身には分不相応の部屋であったが、金を稼ぐ手段はいくらでもある。何人かいる女から自由に引き出す事もできる。

 しかし直也は、非常に不機嫌である。ここのところ気分の低空飛行は果てしなく続き、暴れ出したい衝動に駆られる。

 原因はなんといっても、頭に被せられた医療用ネットの間抜けさにあった。

「みっともねえなあ……」と、鏡に向かい呟く。頬の絆創膏が痛々しい。

 ようやく先日、退院する事ができた。正月を病院で過ごす事は回避できたが、利き腕の骨折でギブスが外せず、女との逢瀬もままならない。

 本当に忌々しい、と、自分の顔に向かい舌打ちした。


 あの日の交通事故、霧子に後ろから突き飛ばされた事は間違いないのだが、彼女には確固たるアリバイがあると警察に言われた。霧子は確かに、ずっとA駅前にいたようなのだ。もちろん納得などできないが、仕方がない。もうあの女と関わらなければいい。

 霧子が千春を襲ったという噂も聞いた。あいつにそんな度胸があるかねえ、と疑問に思ったが、本当のところは、わからない。

 それよりも、その件で直也のところに刑事が聞き込みに来た事の方が痛手だ。

 千春とも終わりだな、と呟く。名残惜しいが、厄介事に巻き込まれるのはごめんだ。

 叩けばいくらでも埃が出る身である。とりあえず、怪我が治るまではおとなしくしていようと決めていた。


 それにしても腹が減った。家事要員としてキープしている人妻に、何か作らせようと連絡してみたが、ママ友ランチの約束があるとかで断られた。

「全くどいつもこいつも」

 ツイてない時は、とことんツイてない。


 マンションの部屋を出る。エレベーターで1階に向かう。

「ハンバーガー屋にでも行くか」

 普段、美容のためにジャンクフードは避けていたが、なんだかムシャクシャして少し自暴自棄になっている。

 マンションのロビーを抜け、外に出たところに、その男は立っていた。

「ああ、本当にツイてない」と、歯噛みする。

 いつぞや病室に来た男だ。不吉な黒ずくめの格好で、足音も立てず、するりとベッド脇に立っていたので、死神かと震え上がったものだ。

 確か、拝み屋だと名乗っていた。すぐに看護師を呼んで追い払ってもらったが。


「退院おめでとう」拝み屋はピタリと直也の横に付く。直也は無視し足早に歩くが、拝み屋は直也の隣を離れず、ゼロ距離で話しかけてくる。

「いやあ、たいした事がなくて良かった。君は悪運が強いなあ」

 直也は、拝み屋の顔を一瞥する。

 ろうのように真っ白な顔、何を考えているのか、表情がまったく読めない。

 このまま付いて来られたら、たまったものではない。直也はため息をつき、仕方ないというふうに立ち止まった。


 拝み屋は顔を突き出し、まじまじと直也の顔を覗き込む。

「本当に美しいお顔だなあ。まるでミケランジェロの彫刻のようだ」

「なんなんだよ、あんた」

 思わず語気を荒げ、直也は拝み屋から一歩下がった。すかさず拝み屋は、ずいと直也に一歩近付く。

「乾と申します。拝み屋です」

 すべてを見透かすような輝く鳶色の目に、直也は思わず顔をそむける。何もかもお見通しだと、責められている気がする。

「直也くん、君に聞きたい事があるんです。神代霧子さんの事です」 

 何もかも合点がいった。あの女の知り合いか。気味が悪い者同士という事か。

「話したくない」

 直也の言葉に、乾はすっと目を細める。

「なぜ」

「もうあの女には一切関わりたくないんだ。気色悪い」

「別に関われとは言っていない。事故の状況を教えて欲しいんです」

 乾は、細めた目を直也の顔から外さない。

 直也の身体が強張る。全て白状しろと、その目が言っているようだ。

「事故の状況って、どうしてあんたにそんな事を」

「私は、真実が知りたいんだ。それだけですよ。君もゲス野郎ならゲス野郎なりの……」

 侮辱された事に、瞬間、直也の身体がカッと熱くなる。おまえ、いったい何様だと、するどく乾を睨みつける。

「おや、失礼。口が滑ってしまった」

 乾は表情ひとつ変えない。

「言い直しましょう。君も、カサノヴァを気取るなら、それなりの矜持があるでしょう。一時いっときは関係を持った女性なのですから、助ける手伝いぐらいしてもいいのではないでしょうか」

 直也は観念したようにため息をついた。

「……で、何が聞きたいんだ」

 この男には敵わない、そんな気がする。下手に逆らわない方がいい。

「霧子さんに、背中から突き飛ばされたという事ですが」

「そうだよ、誰も信じちゃくれないけど」

「それは、霧子さんの手の感触を、背中に感じたという事ですよね?」

 直也は首を捻った。手の感触?確かに突き飛ばすというのは、そういう事なんだろう。しかし、何か違和感がある。あれは、手の感触だったのか。

 突然、直也の背中に乾が手を当てた。掌だとはっきりわかる。温もりを感じる。

「本当に、こういう感じだった?」

「いや……」直也は口ごもる。

「もっと弱い感じだったかもしれない」

「ほう、例えばどんな?」

「風のような」「風?」

 乾が手を放し、直也に向き直った。

「風ですか」

「突風に吹きつけられたような、そんな感じだったような。それに、冷たかった気がする」

 乾は、直也の言葉に満足そうにうなずいている。

「でも、あれは確かに霧子だったんだ!俺を追いかけてきて!」

「そうでしょうね」

 乾の肯定の言葉に、直也は思わずすがりつきたい気持ちになってしまう。

「そうだろう?あれは霧子なんだろう?」

「ふん、否定はしませんが、本物の霧子さんではありません」

「どういう事だよ」

「質問を変えましょう」

 乾のまっすぐな視線に、とたんに直也はそれ以上、逆らえなくなる。

「霧子さんと付き合っていた際」

「付き合ってねえよ!」

 直也が即座に否定すると、乾は少しだけ表情を曇らせた。

「……まあいいでしょう。霧子さんはどんな女性だと思いましたか?」

「どんな……?」

 霧子を思い出してみる。おどおどとこちらの顔色を窺い、はにかむように笑い、少し優しい素振そぶりをすると、とたんに嬉しそうに尻尾を振る。

「つまんない女だよ。こっちの顔色ばかり見て」

「嫌な顔をしたり、文句を言われた事はありませんか?」

「ねえよ。俺が約束をすっぽかした時も謝ってたよ、なんか知んねえけど」

「泣いてはいなかった?」

 直也は、電話での霧子の悲痛な声を思い出す。

「泣いてた……と、思うよ」

 乾は、にっこり笑った。思いがけず人懐こい微笑みだった。

「どうもありがとう」

 それだけ言うと、くるりと直也に背を向け去って行く。

「お、おい!」

 慌てて呼び止める直也の声に立ち止まり、振り返る。

「結局、どういう事なんだよ!」

 問いかけには答えず、乾は刺すような視線を直也に向ける。

「君は、人の感情をあまり舐めない方がいい。年を取るごとに、君に向けられた積もりに積もった憎しみが、君の顔に刻まれる。せっかくの美しいお顔が」

 そこまで言うと、乾は少し悲しそうに首を振り、また歩き出した。


 直也は、ただ黙って乾の背中を見つめていた。街を行き交う人々の中にその姿が消えるまで、黙ってそこに立ち尽くした。

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