7節

「ねぇ、いつになったら二人は帰ってくるかな?」


 父、母、子、そして飼い犬。どこにでもある、あまりにも凡庸で、そして、幸せな家庭。暖かな夕食を一家揃って囲んだその家族に、何の憂いがあるのだろうか。


「そうだな……昼下がりに出ても、後二時間はかかるだろうな。どれだけ早くても、帰ってくるのはお前がベッドに入ったころだ」


 父が時計を見ながら答える。その針はちょうど七時を指したところだった。


「えぇ、じゃあ全然先じゃん」


 口を尖らせた息子を、


「しょうがないじゃない。アシガバードはとっても遠いんだから」


 母が優しく宥めた。彼女は片付いた皿を重ねると、


「でも、二人の寝床の準備はしとかないとね。長旅できっとくたくたになって帰ってくるだろうから」


「そうだね。あーあ、早く帰ってきてくれないかなー」


「たった一日いなかっただけで、これだもんな」


 時計を何度も眺め、落ち着きのない息子に父は笑って、


「アーヴァ、お前はヒメカミさんの布団を敷いておきなさい。忘れないうちにな」


「分かったよ、父さん」


 椅子から降り、リビングから廊下に出る。すると、「コンコン」と、木の戸を叩く音が。飼い犬ベンが、力強く吠えた。


「あら、もう帰ってきたのかしら」


 キッチンから母が顔を出し、


「アーヴァ、お迎えに行ってちょうだい」


 廊下に出ていたアーヴァはそれを背中で受け取って、


「分かったー」


 嬉しそうに、玄関の戸の前に立つ。鍵を開け、ノブを外に押し開いた。


「おかえり! お土産買ってき、た……」


 見上げたその顔は、待ち望んでいたものとは、程遠く。その瞳は、血を垂らしたように、赤かった。


「お土産、か……。悪いが、そういったものは用意してこなかった。これは失敬」


 その口から覗いた、二本の、鋭い牙。月明かりに照らされて、その肌はより病的なまでに白くなり、目の前に立つ何かが人ではないことを、彼に予感させた。彼が期待していたのは、もっと、明るい、気さくな――

 牙が覗いたかと思うと、その口の端が歪んだ。


「アーヴァ、どうし――」


「初めまして、愚かなる人間諸君。土産はないが、大層素敵な贈り物を届けに参上した」


 男は、嗤った。

 その家族に、何の罪があるのだろうか、何の罰が科せられたのだろうか。


 ◇


「すっかり遅くなっちゃったな」


 月の明かりに照らされた荒野の一本道に一筋の光芒が走る。舗装されていないとはいえ踏み固められた轍をうまく走れば、衝撃は少なくて済む。道端になんの標識も立っていない、国の端。そのさらに辺境へと伸びる、あまりに寂しい道だ。

 助手席に座った青年は月を見上げて言う。今夜の月はきれいだ。明日には満月になろうかと言う、新円に近づいた天体。どこまでも続く荒野に、太陽と地球、そしてその衛星が織りなす天体ショーはかつて見ていたものとはあまりにも違って見える。


「そうね。お土産選びに時間をかけすぎちゃった」


 誰かに土産なんて送ったことがない俺が悩んだりごねたりしたせいで予定よりだいぶ遅くなってしまった。後部座席に積み込んだ包装された十箱にも及ぶ菓子。百人ほどしかいない村だからこそ、これだけの量で済んだと言える。


「でも、本当にこれでよかったのかな……」


「あんまり高すぎるものは貰う側も気を使っちゃうの。そういうのも加味して、これを買ったんじゃない。それに最後に決めたのはヒメカミじゃない」


 前方に意識を配りながら、ちらりと横顔を覗く。彼は顎に手を当てて、


「まぁ、確かにそうなんだけど……。今になってみたらだんだん自信が無くなってきた……」


「もう、煮え切らないわね。どんなものであれ、誠意を込めて渡せばどんなものだって喜んでくれるわよ」


「そうだといいんだけど」


 後部座席の荷物を、首を軽くひねって見る。自分にとって初めてと言って良い、誰かへの贈り物。他の人はいつも、これだけ不安になりながら贈り物を選び、渡すのだろうか。それとも、慣れてしまえばそうではなくなるのか。今の俺には、想像することすらできない。


「でも、村のみんなに渡すのは明日ね。今日はこんなに遅い時間だし」


 速度メーター横の時計を確認する。朝の早い人たちはもちろんのこと、相当の夜更かし以外はもうすでに夢の時間だ。


「そうだな。――その、今回はいろいろとありがとう。ルナのおかげで助かったよ」


「どういたしまして」


 にこりと、ほほ笑む彼女は月光のもとではまだ幼さの影を残しながら、大人の女性の魅力が引き立てられ、妙に魅惑的だ。

 ルナから視線を前方に移す。チカッと前方で小さな光が見えた。近づくにつれ、大気によって瞬いていた光は確かにそこにあることを強調し始める。


「あれ、村の光か?」


 ルナを横目に、俺は聞く。


「そうじゃないかしら。確かにもうすぐ着くころだしね」


 弱弱しかった光は徐々に大きくなり、その距離が縮まっているのを感じさせる。なんだか随分と明るいな。あれじゃあ、魔物をおびき寄せるようなものじゃないか。


「ねぇヒメカミ。何かおかしいわ」


 ルナが緊迫した声に変わった。


「どう考えても明るすぎる。家の明かりが漏れないようにカーテンで遮光しているはずなのに、この距離でこんなに明るいなんて」


 俺はアーヴァの家を思い出す。確かに夕食時には必ずカーテンを閉めていた。


「じゃあ、何かあったって、ことか……?」


「分からない。でも、その可能性も――」


 その時。ポッと、刹那、空の黒が一部分はぎ取られ、あまりにも赤く、照らし出される。そこに映るのは、無数の、火柱と、天に立ち上る、煙。今のフラッシュは、爆発――。

 思わず、顔を見合わせる。なにがあったのか、言葉かわさずとも理解し合う。

 俺は叫んだ。


「ルナ! アクセル全開に踏め!」


「分かってる!」


 未舗装路で道が悪かろうと、構わずアクセルを踏む。メーターの指す数値が急速に上がり、体に伝わる振動も激しくなる。俺は腰から外していた拳銃と剣を足元から引っ張り出し、手に強く握った。

 速度が上がったため、現実もまた急速にその瞳に大きくなる。否応なく突きつけられる現実は、目を逸らせば消えるわけでもなく、残酷に、脳に刻まれる。

 村の入り口に車体を滑らせるように停車させ、俺は蹴破るようにドアを開けた。飛び込んできた光景に、思わず左手に持った鞘入りの剣が滑り落ちた。


「燃えて、い、る……」


 大きな焚火だ。燃やした火種は、村一つ。春の夜の冷たい空気を暖めてくれる。その温かさにぞっとした。

 固まってしまった俺を、ルナが正気に戻した。


「ヒメカミ! 早くしないとみんなが!」


 はっと我に返る。そうだ、みんな、まだ、この業火の中に、いる……? 想像できなかった。だって、昨日の昼まで、何もない、幸せな、小さな村だったんだぜ? そのみんなの声は、なぜかどこからも聞こえてこない。幻聴でもいいからと懇願したかった。それを聞けば俺は迷わずこの火の海に飛び込んでいける。誰かまだ生きていると、その希望が切れない限り。でも、何も聞こえない。火が遍くを焼き尽くす音しか、聞こえない。この中で誰かが生きているなんて、俺には想像できなかった。

 どこか夢心地のまま、それでも俺は地面に転がる愛刀を握ると、まっすぐ村に向かって歩いた。ルナは先に村の中に入っていったようで、その背が陽炎となって火の中に消えるのが見えた。

 まるで亡霊のように歩き、ようやくたどり着いた一番村はずれの家。窓から炎が噴き出し、黒い煙が星を目指して昇っていく。その家の開け放たれた玄関。俺は立ち止った。

 人だ。人だったものだ。見るも無残に炭化してしまって、性別も、年齢もわからない。死体。それは強烈に俺を現実に引き戻した。鼻を衝くきつい匂い。人が焼けるにおいだ。熱と煙で喉が痛む。崩れ落ちる家々。なにも残さず、灰になる。重力に逆らった黒煙たち。家の残骸と、人の一部を含んで、大気にやがて消えていく。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 現実に戻ったからと言って、そこは地獄に変わりなく。俺の動悸はますます激しくなり、視界が急速に収縮した。

(なんだ、これ――なんなんだよ、これ、何だってんだよ!)

 コンバットスーツの胸元を握り締める。息が苦しい。


「きゃあ!」


 中心のほうからルナの声。導かれるように村に入る。

 中はもっと悲惨だった。家先で手を必死に伸ばして死んだ者、怯えたまま固まって死んだ者。恐ろしいことに、俺はその焼けた人が誰だかを正確に思い出せなかった。この光景ではなく、俺自身に反吐が出そうだった。

 ルナは村の中心、広場後の入り口に立っていた。へたり込んで、動かない。おれはゆっくり近づい――


「うっっ!!!」


 もともと広場だった場所は、目も当てられないほどに変わっていた。その中心には直径15メートルほど、深さ5メートルほどの大穴が開いている。どうやってこれだけの穴を掘ったのかは、至極どうでもいいことだった。そのお椀の底に、彼らはいたのだ。

 誰も彼もがまるで寒い日の猫のように縮こまって丸くなっている。だがそこに、生命の息吹などは感じられない。折り重なって積まれた死人の山。焼かれたことで筋肉が収縮し、丸まっているのだ。その筋肉の収縮に耐えきれなかった大腿骨などの骨がぼっきりと折れ、皮膚から飛び出している。どう考えても人体の一部を欠損しているものも、身体の半分が残りと離れた者も、喉笛にどでかい穴が開いたものも、等しく平等に積み重なり、炭になっている。筋肉、たんぱく質が焼けた匂いと、髪の毛や衣服が焦げた嫌な臭いが鼻腔の奥にまとわりつく。人は少なからず皮下脂肪を持っている。だから鶏肉のように、皮目がパリパリに仕上がって、おいしそうだった。俺は正気を失っていた。


「あ、あ、ああ、あああああああ、あああああああああああああっ!!!!」


 俺は気が狂って頭を抱えた。狂っちまえば、ここから逃れられると、本気でそう考えた。それでも、世界は全く容赦をしなかった。


「あ、ああ……?」


 ゴミか何かと同じように焼却される人の中に、見覚えのある顔。そうだ、焼かれても分かる。あの白い歯、高い鼻、目元がぱっちりして――


「ア、アーヴァ……?」


 彼だ。何とか識別できたが、その損壊は筆舌に尽くしがたい。一か月同じ家で過ごさねばきっと判断もできなかった。あの愛くるしい笑顔は、ひどく醜く、不自然にゆがみ、俺に向かって恐ろしく笑っているようだった。


「う、うそだろ……そんな、みんな、なに、そこでのんきに寝てるんだよ。起きろよ、起きないと、みんな、みんな――」


 ぼろぼろと涙が出てきた。視界が歪んだ。抑えることができない。いつの間にか俺はこぶしで固く、黒焦げた土を握って這いつくばっていた。この期に及んでようやく出た嗚咽。慟哭は、どこまでも闇に溶けていくようだ。


 いつの間にか火は沈静化しつつあった。どれだけの間、俺は泣いていたのだろう。今が何時なのかも、判然としない。ただ、まだ長い夜は明けていないようだ。


「もう、泣くのは終いか?」


 どこからともなく、声がした。生きている者など、俺とルナしかいない、この焼け地で。


「死者を惜しんで泣くのは、愚かなことでは、ない」


 異様に冷徹な声。空気すら凍らせるように、声は続いた。


「私の手で、愚かな人間は、すべて、滅びる定め」


 がれきが崩れる音を聞いて、俺はようやく声の主がどこにいるのかを掴んだ。俺の背後の、もとは診療所だった、がれきの山。そこにそいつは立っていた。


「ならばこそ、最後にこの世での離別を憂いて慟哭することくらい、許してやってもよかろう」


 鮮やかな、紅の瞳が俺たちを見下ろす。ルナの瞳の色に似ているが、抱く印象はまるで違う。黒のスーツに黒のコートを着こなして、この場にいることはフィクションのようだ。そのポケットに両手を突っ込む。ちらりと隠顕する尖った歯、いや牙がグロテスクに白い。その肌も同じように、嫌に青白い。血が通っていない、悪魔。


「人間はどれほど脆弱で、愚劣で、無力なのだろう」


 詩を詠っているようだ。その言葉におおよそ感情は乗っていないが。


「そのような愚者の末路に、これほどふさわしい有終は、ないであろう?」


 露点に達しているとしか思えないその声色の男を、突如爆炎が包み込んだ。


「あんたが――あんたが、やったのかっ!!!」


 伸ばした右手に鮮紅の魔法陣を現出させ、ルナが絶叫した。

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