2節

「フフフ、ついに始まったわね」


 その微笑は、人の持つ生命の温かさが全くと言っていいほど孕まれていない、冷たく、同時に高貴で美しいものだ。


「あら、レイシア、ついに始まったの?」


 闇から浮かび上がるように現れたもう一人の女性。いや、女性の形を持った、何か別の存在。レイシアと同じか、それ以上に秀麗な笑みを浮かべ、その白い腕を、優しくレイシアの肩に乗せる。


「ええ、長かったけど、ようやく結実しそうよ」


「本当に、お疲れさま。ようやっとあなたの代が終わるわね」


 澄み切った宝石が埋め込まれたような瞳を、レイシアから、レイシアの見つめた画面に移す。その画面には、剣を今まさに抜いた青年と、それを食らわんとする、人が言うに「ドラゴン」なる生物が対峙している。理性に怯えが混じった人の視線と、野生的無邪気さを孕んだ化け物の視線がぶつかる。


「そういえば彼、これで何体目だったかしら?」


「今回で304体目」


「あら、なかなか優秀じゃない。その回数だと、使った世界も少ないのかしら? 計画に際して、あなたが期待するのも頷けるわ」


「素体を厳選した甲斐があったわ。それに毎度の彼がなかなかに頑張ってくれたのよ。そうでもなきゃ、ただの人間がその程度の回数で最終フェーズに行きつくなんて到底無理よ」


 レイシアは満足そうに、その口角を上げる。受け継いできた計画の、最終段階が見えたためだ。するとまたどこからか、別の声。


「あまり早とちりするなよ。それにまだ、そのほかの素体があるのだろう?」


 重低音のバス。男のよく響く声だ。声の主は画面の向こうに姿を見せる。


「ええ、そうね。彼のほかにも素体が数人。彼ほどには至っていないけど、期待していますよ。それに、油断は禁物、わかっています。私たちあろうものが、人のように弱くあってはならないわ」


「そうだ。これは『弱さを否定する戦い』だ。計画は大詰めを迎えている。『父』を否定し、そして真の強さを手にするために、我々は決して失敗してはならない」


「そうじゃ」「その通り」「いかにも」「承知」――闇の帳を超えて、幾千もの声が空間に響く。声は反響し合い、うねりを伴って世界を揺らす。


「そうよ、計画は今からが本番なのだから。楽しませてね、姫神寛人くん」


 光を失った世界で、レイシアは笑う。


 ◇


「さぁ、どっからでもかかってきな!」


 勇んで声をあげるも、足の震えは止まらない。特別寒くもないのに、顎の噛み合わせがおかしくなったようにカチカチと音を立てる。理性だけでは抑えきれない恐怖が体のあちこちに姿を見せる。

 ドラゴンが興味を失った女性に目を配る。痛そうに、包帯の下の赤黒いしみが広がった左腕をかばってなんとか立ち上がる。かわいい顔にいくつもの擦り傷をつけている。せっかくの美貌が台無しだと、俺はこの場面から目を遠ざけたいがために意識を向け、はたと、意識を目の前の怪獣に戻す。よそ見をしたら一瞬であいつの腹の中だ。突如として現れた俺に驚いたように、その赤い瞳を向けた。


「あ、あなたは……」


「だいじょーぶ! お嬢さんは下がってな、ここは俺が何とかする!」


 柄にもないことをべらべらと、俺の口は告げる。いや、そうじゃなくて援護を頼むとか、他にもいろいろあっただろうに、この状況で俺は何かっこつけてんだ。どう考えてもあがっている。

 ドラゴンはその喉をゴロゴロと鳴らし、一歩、また一歩と間合いを詰める。俺も合わせて数歩下がるが、ちらりと見た後ろの家陰にさっきの男の子が見える。これ以上下がったら、男の子が危ない。俺はその後退しようとする足を何とか押しとどめる。

 べろりと、長く、やすりのようにざらついた舌が口から出た。あれになめられただけで死ぬのではないかと、縁起でもないことばかり考えてしまう。が、これ以上下がれもしないし、逃げようとしたところで翼の生えているこいつから逃げるのは絶望的。残された道は、前方、ドラゴンを倒す道のみ。俺は十死零生の覚悟を決めた。


「もう、どうにでも、なってくれ!!」


 俺は刀をさらにぎゅっと握りしめてドラゴンに突進する。鋭く、人なんか簡単にミンチにできそうな大爪を立てて、大気を震わす咆哮をあげる化け物。俺は剣を大きく上段に振り上げた。

(お願いだ、何かとんでもないことが、奇跡が起きてくれ! 俺の体に宿っている術式とやら、今こそ出番だ! 俺に力を貸してくれ!)

 鋭利なナイフを並べた大口が、目の前に迫る。思わず目をつぶって、俺はその剣を全力で振り下ろした。

 刹那、そのいぶし銀の刀身にいくつかの魔法円が現れ、その光をもって剣を包み込んだ。その光自体が大きな力を放つその刃を、俺はドラゴンの顔面にたたきつけた。



「……」


 静かだ。目の前が真っ暗で、風の音しか聞こえない。涼しい風が頬をなでて、音の消えたここからさらに音を奪っていく。俺は、恐る恐る、目を開いてみる。

 血赤の口内が目の前にあった。返しの役割を持つのこぎり状の小さな突起を無数につけた歯が、顎のずっと奥まで並んでいた。だがその凶器は俺にかすりもせず、俺にあと一歩というところで止まっている。


「な、にがあった……?」


 すると、ビシッと、なにやらガラスにひびが入る波長の短い音が響く。ガラスのひびは、俺の目の前、ドラゴンと俺の剣が接したところに一本、入っていた。そこから縦ずれの断層のように境界面がずれるかと思うと、突如まばゆいばかりの閃光を放った。


「うおっっ!!」


 閃光と、ほんのわずかに遅れた衝撃波が俺を吹っ飛ばす。ゴロゴロと転がった俺はコンクリートの固い壁面に叩きつけられてようやく止まった。

 爆音と閃光と、それによって生じた大きな土煙が晴れるのにはずいぶんと時間がかかったように感じた。時間の流れが遅延した意識は、煙が晴れたことによって現れたドラゴンの姿を見て元の速度を取り戻す。

 ドラゴンの亡骸だ。それも、きれいに体を両断されている。ゴロンと、大きな目玉が零れ落ちて、もともと目のあった場所に眼窩がぽっかりと開いている。切断面から流れ出た脳漿や血といった体液が、乾いた砂の大地に大きなシミを作る。二枚におろされたドラゴンの体の軸上の大地は大きくえぐれ、その剣撃の強さを如実に示していた。


「まじかよ……」


 固い壁にしたたか叩きつけられて打ち身になった体を、剣を杖代わりに何とか立たせて、俺はその骸を眺めた。剣がドラゴンの頭を切りつけた瞬間は見ていないが、これはどう考えても、俺が、やったんだ。うすら寒い恐怖を感じて俺は自分の手を見た。俺に、こんな力が……。


「お兄さん!」


 少年がかけてくる。その後ろには隠れていたのだろう他の住民も顔を出した。


「お兄さんスゲーや! ドラゴンを一刀両断にするなんて!」


 まぶしいばかりの笑顔。白い歯をのぞかせ、かわいらしいえくぼも似合っている。


「……まぁ、なんとかな――」


 言い終える前に、身体の奥底から、熱い何かがせり上がってくる。食道が蠕動し、熱い何かを急速に俺の口まで運んでくる。


「ごふっ……」


 口からコールタールのようにドロッとした液体が吐き出された。異様に粘性が高い、暗赤色の異臭を放った、「出てはまずいだろ」と生き物の本能が告げる液体が、地面にぶちまけられる。


「お、お兄さん!!?」


 少年は驚いて半歩下がったが、すぐにひざまずいた俺に手をかけてくれた。


「これ血だよね! いきなりどうしたんだよ!?」


「こっちが聞きたい」と俺は頬を引きつらせて笑った。吐血なんて、ましてこんな量、人の口から吐き出せるとは知らなかった。実体験に基づいた知識を得ることができた。これだけの血を吐くと、人は驚くより、自然と引きつった笑みがこぼれるのだ。自身が笑顔が浮かんでしまうと思っていただけで、その顔は苦悶に満ちたものだったのに違いない、少年はさらに驚愕と焦燥の色を強めて、


「先生! 先生どこにいますか!」


 大声で叫んだ。人波をかき分けて白衣を着た初老の男が駆けてくる。この町の医者だろう、黒縁の眼鏡が似合っている。


「げほっ、かはっ……」


 やばい。鼻からも血が出てきた。こりゃ失血死まっしぐら、あの世行きコースだ。さっきまで熱かった神経も、急に冷やされてきたように冷たい。死神が俺の肩をつかんでいる。その肩をつかんだ死神は、今か今かと俺の命が尽きるのを待っている。


「これは大変だ。すぐに診療所に連れて行こう」


 先生の指示でどたどたと成人男性たちが駆け寄って、俺の力の抜けた体を持ち上げる。その時にはすでに、目の前が急に狭まって、世界が遠のいていく感覚を得ていた。

(前の世界でさっき死んだのに、この世界でもこんな簡単に死ぬのかよ……)

 少年が何か叫んでいるが、すまない、何も聞こえない。

 そういえば、ドラゴンに襲われていた女性は大丈夫だったろうか。斬撃に巻き込まれていなければいいのだが……。


 ふっと、視界と意識がブレイカーを落とした照明のように俺の体から姿を消した。


 ◇


 目が覚め、まず視界に入ったのは見知らぬ天井だった。ベッドに寝かされて、仰向けになっているのだ。首を動かすと小さな窓がついていて、そこから青く、高い空がのぞいていた。グッと、腕と腹筋を使って起き上がる。この部屋にある目立つ何かはあと一つ小さなベッドがあるだけで、シンプル、悪く言えば色のない部屋だ。

「あっ」と声が出て、俺は恐る恐る口に手を当てた。その手に赤い液体はついていない。服をめくってみてもそこにあるのは俺のものとはいまだに思えないガチガチの腹筋。その他、あちこちをさすっても痛くもかゆくもない。俺はどうやら助かったらしい。

 ベッドの隣に据え付けられた小さなキャビネットの上にコンバットスーツがキレイにたたまれて置いてある。その上にポンと透明の拳銃が置かれていて、キャビネットの陰に鞘に収まった剣が立てかけてある。ベッドから降り、綿のパジャマを脱いでコンバットスーツに袖を通し、ホルスターに拳銃、左腰に剣を提げて、部屋唯一の出口の合板の扉を開ける。廊下が右に伸び、奥の突き当りに扉がついている。その手前には俺が寝ていた部屋の隣室入り口につけられた合板の扉。その扉が内から開いた。


「ん? おおっ! 目覚めたかい?」


 白いものが混じった髪を撫でつけた初老の男性。薄れ行く意識の中で見た、先生と呼ばれていた人物だ。


「どうだい、身体の調子は。どこか痛むところはないかね?」


「いえ、特に痛いとかそういうのは」


「それはよかった。でも念のために、検査をしておこうか」


 そう言って先生は自分が出てきた部屋に俺を招き入れてくれる。

 小さな木のデスクと診察台とで部屋の半分近くを占める、狭い部屋だ。先生が勧めてくれた椅子に腰かけ、「腕を出して」と言われるままに右腕を差し出す。「衣服はまくってくれるかい?」とのことなので、上着を脱いで、インナーをまくった。


「それじゃあ、こいつを巻かせてもらうよ」


 先生の取り出した、血圧測定器のような代物をきつめに腕に巻き付ける。三本の線が見たことのない機械に繋がっている。手慣れた手つきでそれをいじると、先生は何を納得したのか、「ふむ」とだけつぶやいて、


「うん、充分によくなっているね。退院して大丈夫だ」


 どこをどう以ってしてよいとしているかは分からなかったが、先生がいいと言えば、俺の体はいいのだろう。俺自身、何か悪い調子も感じない。


「先生が治療してくださったんですね。ありがとうございます」


 まくったインナーを元に戻し、上着を着なおす。


「大したことじゃない、礼には及ばんよ。私の仕事だ。それに、君はあのドラゴンから町を救ってくれた英雄だからね」


『英雄』とはずいぶんなほめ方だ。


「そんな、英雄だなんて……。俺も、できることをしただけです」


「ずいぶんと謙遜するじゃないか」


「俺の命を救ってくれた、先生ほどじゃないですよ」


 先生はよく似合う黒縁の眼鏡のレンズを丁寧に吹きながらにこりと笑った。


「――あ、すいません、申し遅れましたが、自分は姫神寛人と言います」


「おっと、私としたことが、自己紹介すらしていなかったね。私はバトゥイル・グスタン。バトゥイル、そう呼んでくれ。ヒメカミ君」


「はい、バトゥイル先生」


 差し出された手を握り返す。握手もとい誰かの手を握るなんて、いったいいつぶりだろう。


「君がこん睡状態から覚めるまで、一週間もあったからね。すっかり自己紹介した気分になっていたよ」


 バトゥイル先生はなかなかに信じがたいことをさらりと言った。


「い、一週間ですか……? そんなに長く寝て……いや、たったそれだけの期間で回復するものなのですか?」


 自分の身体は数日のうちに完治する状態ではなかったはずだ。


「ああ、私の出来得る限りの丁寧に治療はさせてもらったからね。でも都市のように何もかもが備わっている診療所ではないから少し時間がかかってしまったね。都市の医療なら、三日もかからず目が覚めただろうな」


 あれだけの血を吐いても、この世界では最先端の医療さえ受けることができたらものの数日で完全回復するようだ。前の世界では風邪すら完璧に治らない。


「それにしても、術式を使ってあれほどの吐血をするほど傷つくとは、君はいったい何者だい? そんな人、初めて見たよ」


「ええと、まぁ、いろいろありまして……」


 いきなり「自分、実は異世界から来ました」なんて、言っても信じてもらえないだろうし、大量に吐血して頭がおかしくなったのかと思われるのが落ちだろう。術式を使ったのもあの時が初めてだし、ドバっと血を吐くとも思わなかったし、いまだに術式の正体すらも定かではないのだ。余計なことは絶対言えない。適当にお茶を濁した俺を見て、それ以上先生が突っ込んでこなかったのに助けられる。


「そうだ、外に出てみるといい。君が目覚めているのを心待ちにしている人たちは大勢いるのだからね」


 先生はそう言って、廊下に続く合板のノブをひねって、扉を開いて俺を外に誘った。

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