序章 彼は勇者にならねばならない

1節

≪はじめに言葉ありき≫  (新約聖書 ヨハネによる福音書より)


 とある街角の、個人経営の電気屋の店先に置かれた大きなテレビを、一人の青年が見つめていた。右手には牛乳やらジャガイモやらが詰まった買い物袋。彼はこの薄型ハイビジョンの最新モデルを買おうか迷っているわけではない。彼の関心事は、流れ出る映像のほうだ。

 もはや新人とは言わないだろう、入社して確か五年目の、テレビ局きっての美人アナウンサーは澄んだ声で、


「本日、E市において、国家治安安全法に違反したとして、国民管理局第三支部が三十代の夫婦を逮捕したとのことです。調べに対し夫婦は『この国を変えるためだ。そのためならば命も惜しくない』と供述しており―」


 青年は、あわや右手に持った買い物袋を固いアスファルトに落とすところだった。空いたままの左手を心臓に当てて、息を吸い込んだ。びっしょりと手汗に濡れた手でぎゅっと、黒のパーカーの胸元を握り締めた。数回深呼吸をすれば、やがて落ち着きを取り戻した。世界が広がるように、聞こえなくなっていた町の音が蘇り、景色に色が戻った。

 まだニュースは続いていたが、彼はもう決して見ないと、意を決しその場を離れた。女性アナの声は、十メートルも離れれば、もう聞こえない。報道内容なんて、なにも知らない。自分に暗示をかけるように、何度も心の中でつぶやいた。


 日が傾いて、建物の影は、狭い路地だけでなく、大きな通りをも日陰に変えた。

 数十メートル後ろに、営業先への電話だろうか、髪を七三にビシッと分けたサラリーマンが営業スマイルを浮かべながらトーンを一つ上げた声で答えている。今日の彼は青のストライプに橙の色が差し込まれたネクタイを決めている。数週間前見かけた時は、今はかけていない四角い眼鏡にピンクのネクタイだった。

 二車線挟んだ向こうの歩道には白のヘッドホンを首にかけ、スマホの液晶画面をチラチラ見ながらけだるそうに歩く若い女。建物の切れ間から差した夕日が照らした、赤い口紅を丁寧にひいた唇が映える。端正な横顔はいつものように蠱惑的だった。彼女を前見たのは確か…二か月前に駅前の映画館に行った時だった。数人の同年代の男女と楽しそうにおしゃべりしていたのが思い起こされる。彼女は対岸の青年とすれ違う時にちらりと青年を見て――青年の勘違いかもしれないが――すぐにその視線を液晶画面に戻した。

 タイミング悪く目の前で赤に変わった信号の横に設置された防犯用の監視カメラ。そのレンズはじいっと、静かに彼の顔を監視する。比較的新しいカメラを見つめていると、「それではこれで。あっ、はいっ―はいどうも、失礼しますー。はいー」と電話越しの見えない相手に小さくぺこぺこと頭を下げながらサラリーマンが近づいてくる。どんなことを話していたのだろうと考える青年の前で信号の色が青に変わる。停止線を少しはみ出した白いワゴン車がゆっくりとアクセルを効かせて進みだす。青年もサラリーマンに追いつかれる前にのんびりと歩を進めた。


 通りから脇の道に入ると陰はさらに濃くなった。3階建て以上の鉄筋造りの建物に挟まれた木造平屋の上を通して道に光が差し込む。その夏の勢いを失った西日を受けて、アキアカネが空気を羽で震わせる。なるほど秋も深まって、天高い空にトンボがついーっと、線を引くように飛んでいく。夏の色はさすがにないよと、秋色を見せる涼しい風が青年の頬をなでた。


 青年は間もなく自宅だというところの、小川の橋手前で立ち止まった。正面から強い西日が差しているためよく見えないが、人が立っている。強い西日の影になって、その人物はそこの空間が切り抜かれたように、真っ黒だった。立っているならどうということもないのだが、その人物は、じっとこちらをにらんでいる。青年は相手の目が見えないながら、そう感じた。青年は相手の見えない目にとらわれたように固まってしまう。まぶしい西日を避けるために目をそらすことも、手をひさしにすることもなく、青年はただそこで、相手と対峙した。


「もう日が沈んじゃうから帰ろーよ」


 びくりと、青年は体を震わせる。橋の下をゆるやかに流れる小川の横の、乾いた土がむき出しの小道を小学生の男の子数人が縦に列をなして歩いている。


「えー、まだこれからだろ? 今から急げば全然間に合うって」


「そーかなー?」


「いいから、ほら、いくぞ!」


 少年たちは、どこかで拾ったのだろう木の枝を振りかざすガキ大将らしき少年を先頭に、跳ねるように走り、遠ざかっていく。青年は、夢から覚めたように、少年たちを目で追った。姿が川上の橋に隠されるまでその姿を追った青年は、思い出したように立ち尽くす黒い影を見た。

 やはりそこにいて、青年を見つめている。青年は特別何かを覚悟したわけでもないが、きゅっと唇を引き締めて、一歩前に出た。数歩も行かぬ間に、黒い人物は、


「姫神寛人さん?」


 男か、女か、子供か、老人か、全くわからない声で、そう言った。あまりに情報の少ない声色と相手が自分の名前を口にしたことに驚いた青年、寛人は再び立ち止まった。最初に立ち止まった時から何となく感じていたが、この目の前の人物は自分に用事があるらしい。

 夕日はますます赤みを増した。怖いと美しいが同居した、電線と家々の奥に広がる空。遠くに小さく山地がのぞく。上空の風は強いのか、雲はもう二度と同じに取らない形から、もう二度と取らない形に変わる。雲の辺をなぞったように雲はオレンジに縁どられている。

 こんな空は前はいつ見ただろうか…。太陽が山の端に近づくほど山地や家々の影の黒は濃くなった。見えないはずの紫外線や赤外線までもが可視化されているのではないかというような光の渦の中で、寛人は静かに聞いた。


「あなたは…誰、ですか…?」


 黒い人物の口元の影がかすかに動いた気がした。

(笑った……?)

 黒の人物は腕であろう影をゆっくりと前に伸ばした。その手で水をすくい取るように、その手に禁断の果実でも受け取るかのように恭しく、身体からのびる二本の腕を寛人のほうに差し出した。その人物の目から見れば、寛人はその両の手のひらにちょんと乗ったように見えるのかもしれない。


「私は――」


 色のついていない、無色透明の声音が不思議と空間に溶けていく。寛人はその声以外に、世界から音が消えているのに、気が付かない。

 影が、ほほ笑んだ。


「あなたを殺す」


 その時、閃光と言うべき何かが刹那にはしり、それは寛人の意識をどこかかなたに連れて行く。視界は錯覚の螺旋の渦を巻いて落ちていく。ごまんと宇宙にある星をいっぺんに見たような強烈な光が点滅。重力という頸木から解かれたような、異様な浮遊感。全身の血液が沸騰して、心臓に集まるような息苦しさ。どれもこの人生で一度も体験したことのない、不思議で恐ろしい感覚。おそらくは1秒となかっただろう時の中で、混乱した寛人の意識は最後にとらえた。


「これで、そ――次――世――」


 断片しか聞き取れていないが、寛人ははっと、何かを理解した。が、理解したなにかも、その確かに聞いた断片さえすぐに忘れて、意識どころか肉体までもが閃光に引っ張られ、どこかに消えていく。事象を認識する意識の残滓を失って、寛人は暗闇に落ちて行った。


 どさりと、寛人が右手に提げていた買い物袋が固いアスファルトに落ちた。いくつかの商品が袋から転がり落ちても、誰もそれを拾い上げる者はいなかった。川に沿って建てられた街灯がぽつぽつと明かりを宿し始める。日はすでに、地平線のかなたに落ち、世界は薄明に包まれた。

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