8節
右手のひらに顕現した魔法円はルナの瞳と同じく、紅の色に輝いている。その魔法円から噴き出す炎は大気をも焦がしながら男を焼いた。
「あんたが、あんたがみんなをっ!!!」
ルナの瞳は「この男を殺す」と殺意と憎悪そのものを宿した。その身に流れる血と沸き立つ感情に理性を支配され、ルナは無意識のうちに激情の涙を流した。
「爆炎の術式、か」
不意に業火の中から声がした。あまりにも突然で、あまりにも現実的ではなくて、俺とルナは固まった。この炎の中で、奴は確かに生きている。
「かような炎で、この私を焼き尽くせると思ったのか」
揺らめく影は確かに二本足で立っている。火で全身を焦がされているというのにまるで何事でもないというように、言葉を続ける。
「愚劣なる人間ごときが、爪の先ほどのわずかな力を手に入れただけだというのに、人の世という狭く見苦しい世界でつけあがるから、貴様のような弱肉強食の摂理を解さない者が生まれるのだよ、女」
「なにをっ……」
「つまり」
奴はニヒルに笑った。もはや長く語るのは無意味だという諦めと、俺たちへの最大限の侮蔑を込めて。
「貴様はここで死ぬべきだ」
白く細長い指を「パチン」と鳴らすと、ルナが男に放っていた炎はフラッシュのように掻き消え、再び男の姿がはっきりとこの目に映った。その月明かりですら焼けそうな白い肌にも、闇そのもののような黒い装束にも、煤も灰もついていない。
「私の術式を弾き飛ばすなんて……!」
紅の魔法円も皿が割れるように壊れ、光の粉となって落ちていく。光の粉が地面に当たって砕け消える。そこから灼熱の業火を放っていたとは思えないほどあっけない終わり。
ルナは夜空を背景にして立つ男を睨んで、
「――あんたは、いったい、何者なの?」
「月並みな問いだな。人間どもはよくその問いを投げかける。『何者か』。貴様らは劣勢と感じないとこの問いができないようになっているらしい」
「ふん」と鼻を鳴らして男は言った。
「私はブルート。自然摂理から外れた人間を駆逐し、地獄へいざなう、吸血鬼だ」
最後にニヤリと口角を上げた口元から細く白い牙が覗いた。
「吸、血鬼……!」
ルナが目を見張り、狼狽の色を色濃くその顔に映し出す。おそらく俺も似た表情をしただろう。この世界線には吸血鬼なんて生き物もいるのか。
「吸血鬼が、どうして王国領内にいるの。吸血鬼はもう百年以上前に――」
「消え去った、絶滅した、と言いたいわけだ」
ルナの言葉を奪い取ってブルートが続けた。
「だが私は現にここにいる。亡霊でも、呪いでもなく、今ここに実在として私は生きているのだよ」
どういう歴史があるかは分からないが、どうやら吸血鬼はこの王国領内には現在いないことになっているようだ。記録上では存在しない、怪物。それが今俺たちの前で嗤っている。
「どうして、どうしてみんなを!」
ルナがかすれた声で叫ぶ。
「どうして?」
「どうして村のみんなを殺したのかって聞いてんのよ!」
さも当然のように、ブルートは、
「言っただろう、人間は滅びる定めだと。人間は世界の唯一絶対の真理を忘れ、たとえ認知していてもそれを無視し、くだらん生き様を晒しながら地を跋扈している」
「くだらない、ですって?」
ルナの語気がさらに荒々しくなる。
「そうだろう。他者との優劣をつけ、誰かを下に見降ろさなければ自己の肯定も、生きる自信すら勝ち得ない人間ごときが、万物の頭の意を持つ『霊長』だと自ら宣い、生きているのだ。あまりの愚の骨頂だろうに」
「そんなことは!」
ルナは大きく首を振りながら叫んだが、ブルートは取り合わずに、
「人間が愚かだということ。そして滅び消え去らねばならないということ。これは全くをもって真理なのだよ。私の思考が誤りだというのなら、まずは歴史の一つ一つを紐解いてみればいい」
「あるいは」と、ブルートは首筋に手刀を当てて、
「私を殺すがいい。人類誕生以来の、貴様らのいつものやり口、『対立する存在を殺す』というやり方を行使すればいい。相容れないものは、気に入らないものは、須らく目の前から削除すればよいという、貴様らの十八番を用いればいい」
あまりの極論に、俺も、ルナも固まってしまう。なんという、狭窄的思考。言っていることが真実だとしても、生理的に受け付けない、野蛮な考え。どこかで習ったナチスのホロコーストの動機のような、あまりに惨めで、残酷な理想――いや、狂気。
「――あんたは、人の心の温かさを知らないの?」
「心の温かさ、だと?」
ルナは下を向いて、こぶしを震わせて問いかける。
「誰かを大切に思うってことを知らないから、だからそんなにも残酷になれるんでしょ!!」
顔を上げた弾みで、その目から涙が舞った。
「排除しない選択を選ぶことができる人の温かさ、どんな相手にも寄り添うことのできる人の強さ、私は確かにそれを知っている。この村の人たちだって、みんな、それを、確かに持っていたのに、どうして――」
言葉の最後は涙に滲んだ。幾筋もの涙が頬を伝った。
「そんなもの、ただの幻想だろうに」
吐き捨てる。ブルートは続けて、
「目には見えてこないから、その存在を信じたくなるのだ。ありもしないものを、ただ自己肯定と弱さの保障として、おこがましい理想のように夢見ているだけだ。人の温かさとやらも、貴様らが自らの愚かさから目を背けるための弁解に過ぎないのだよ」
「――どうして、そんなに悲しいことばかり言うんだよ……」
俺は歯を食いしばる。ブルートが人をあまりにも歪んで捉えていることに、そしてそれ以上に彼の言うことを俺が理解して、どこか納得してしまっていることに、無性に腹が立った。なぜ俺はこんな奴の言うことが「確かにそうだ」と思えてしまうのか。どうして「人はそんなものじゃない」と叫ぶことができないのか。俺は全身をかきむしりたくなるような衝動に駆られる。
「悲しいことではないさ」
ブルートは魔法円を呼び出す。地面より染み出した赤黒い粒子が魔法円に集まって形を成していく。粒子は一振りのサーベルの形を取り、ブルートの手に収まった。
「心だの、愛だの、思いだの、そんな高尚なものは存在しないのだよ。あるのは、それを夢想する身勝手な欲望と、元から無いものをあたかも持ち合わせているように繕う低俗な矜持だけだ。当たり前のことを、どうして悲しいと思うか」
「だが、」。ブルートは突然明かりが消えたような寂しさを纏わせた。
「ありもしないものを夢想したのは、過去の私のことでもある」
それはあまりにも悲しい、自己肯定の懺悔のようだった。俺はその白い顔に、あまりに深い憂いを確かに見た。
「リーズ、エイナス。今度は、私は間違ってなどおらんだろう?」
誰かの名前を呼んで、その目に涙を浮かべた。それは誰か大切な人を思う、温かい涙に見えたが、ブルートはそれをぬぐい去ると、
「そうだ、正しいのだ。そして、まだ終わりではないのだ。そう、そうだとも。まだ私は、何も果たしてはいないのだ」
確かにその目に狂気を感じた俺は、肌の泡立ちを感じるとともに、転がっていた剣を拾い上げてルナのところに全力で駆けた。
「絶やすまで、終われないのだ!」
診療所のがれきの山から姿を消す。立っていたがれきの破片が後方に吹き飛ばされる。
「ルナっ!!!」
俺は迷いなくルナを突き飛ばす。走る途中に鞘から剣を抜き、今、それを構えた。目の前にはすでに吸血鬼が血赤のサーベルを振りかぶって笑っていた。
本来ならばルナの首を跳ね飛ばすはずだった、目にもとまらぬ速度で空を切ったサーベルが叩きこまれる。横なぎの一閃は何とか剣の横腹で受け止められた。が、ブルートはそのまま力任せにサーベルを振りぬいた。吸血鬼の持つ純粋な腕力に耐えきれなかった俺の足は地面を離れる。体が宙に浮いたと気づいた時には、俺はまっすぐがれきの山に突っ込んでいた。コンバットスーツを突き破ってコンクリート片、木片、金属片が体に突き刺さる。「ミシッ」と筋肉がちぎれて、聞きたくもない骨折音が耳に届いた。衝撃の強さゆえか、内臓が傷ついて血が口から噴き出した。
「ごばっ、はっ……」
「ヒメカミ!!!」
ルナは叫んだが、土埃とがれきにうずもれた俺に駆け寄ってはくれなかった。
「まずは貴様からだ、女」
ブルートがルナの首に手をかけたのだ。指が細い首筋にぎりぎりとめり込む。
「かはっ……!」
ルナはブルートの手を精一杯剝がそうとするが、その手が動くことはない。ブルートはルナの首を右手一本で絞めたまま、まるで漫画のようにルナの体を持ち上げた。頸動脈を絞められてルナの瞳が濁り始める。
「ル、ナ……!」
がれきの山から這い出そうとするが、歯を食いしばるだけで、体中に電流が走る。体の熱さは電流によってさらに加速し、俺の命を確実に削る。
「ぐ、がぁ……ぐぅうぉおおお!!!」
それでも俺は、全身に力を入れる。眼球が破裂しそうなほどに力み、食いしばった奥歯がきしんだ。横腹に突き刺さった尖った木材を力任せに抜いて、投げ捨てる。臓器の肉をこびりつかせた木材は焼かれた地面に転がり、点々と血の跡を残した。穴の開いた横腹からぼたぼたと赤い何かが滴るが、構わず俺は立ち上がった。
「ル、ナを、放せヨ゛……!」
意志ではなく、意識で叫んだ。俺の体は反射反応すら感じないのではないかというほど、傷ついている。
「ルナを、は、な――」
俺は前のめりにがれきに突っ込んだ。がれきの斜面を力なく転がり、ズルズルと地面に伸びる。家屋の残骸の山から這い出るまでが、俺の限界だった。もう、自身の痛覚さえ、効かなくなった。
「ヒメカミ……!」
「そうだ、弱者はただ這いつくばって、己の弱さを悔いていればよいのだ」
ブルートは俺を吹き飛ばしたあの剣を腰だめに構える。
「見ていろ、お前に仲間が臓物をかき回されて死にゆく様をな」
歪む視界の中で、吸血鬼に命を握られたルナのもがきが滲んだ。
「ぐ……ぁぁあうぅああっ――」
黒くすすけた土を握り、上体を起こそうとするも、叶わない。いくつもの命が冒涜され、奪われ、そしてまた、今度は目の前でそれが行われているのに、情けないことに俺の体は一つも言うことをきかない。
東の地平線がほんのりと白み始めた。目の前で今、世界の夜明けとともに、ある少女の人生の日の入りが訪れようとしていた。
「さようならだ――」
ブルートの剣を握るこぶしが固くなったその時、彼はバリトンの声を闇夜に響かせながら、空よりやってきた。
「必殺!!! 天空大鷲落とし!!!」
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