第8話 Poison(後)

 男が二杯目のグラスに伸ばした左手に、仁美は目をった。


「あっ、気になる?」

 仁美の視線に気づくと、男は手を目の高さに掲げて見せた。その薬指にはさっきから指環が銀色の鈍い光を放っている。


「とっとと家へ帰ればって思う? 実はいま家には帰りづらいんだよね。妻の機嫌を損ねちゃっててさ」

 左手をカウンターテーブルに置いて苦笑いした。

「そうだ。ちょっと相談に乗ってくれると嬉しいな……これもなにかのご縁ってことで」



 妻の機嫌を直してもらうにはどうすればいいと思う?


 給湯室の罪ない噂話に興じるような、軽い調子で男は訊いた。そんな軽く、しかも赤の他人に尋ねるなんて、とも思ったが、それでも妻の機嫌をとるため助言を求める男の姿は、まだ救いがあるように思える。

 そういうことなら一肌脱いでやらないでもない。


 それにしてもウチの夫こそ、もっと私の機嫌を直すよう努めてほしいものだと仁美は思う。

 あんなろくでなしを私はまだ好きでいるのだろうか――不本意ながら仁美は肯定せざるを得ない。自問して直ぐ出た答えを、奴にも見透かされているだろうと気づいてまた不愉快になった。

 そして、自分が夫を愛している間は、仮令たとえ他の男に体を許したところで、奴は嫉妬しないような気がするのだ。それでは意味がない。

 どうにかして奴に鉄槌を下してやりたい。私の受けた苦しみの半分なりとも奴に味わせてやりたい。どうすれば奴に痛烈な一撃を与えることができるだろう。




 思わず吐いたため息に、男が不思議そうな顔を向けた。ああ、と気を取り直して仁美も男の相談事へ意識を向け直す。


「まずはなにがあったのか聞かないとね」声に余裕と潤いとを籠めて。

 すると男は気まずそうに左右を見て、声をひそめた。

「他人に聞かせるのはちょっと恥ずかしい話でね……ちょいと耳を」

 すっと肩を抱き寄せ、顔を近づけた。鼻が髪を撫でる。こいつ、と思ったところへ耳許で吐息とともに囁き声。


「妻を満足させる前に果てちゃったもんだから」


 はぁ? と声を上げそうになるのをやっとでこらえて、それは奥様とまず相談すべき問題では、と莫迦みたいに真面目に答えてしまった。


「それが恥ずかしくって、話し出せないんだよねえ」

 夫としての沽券に関わるのだと男は言った。


 だからさ、どうすれば満足させられるのか、女性視点からアドバイスがもらえたらなあって。

 思わず動顛してしまった顔を間近で見つめて、男は肩を撫でた。職場だったら間違いなくセクハラな会話に過剰接触だが、舞台がバーになれば途端に許されるのだろうか。それでもつい答えてしまうのが仁美のわるいところだ。


「なにがいいかなんて、ひとそれぞれじゃないの?」

「じゃ、きみの個人的な意見を聞いてみたいな」


 指環をめた左手が、仁美の左手に重ねられた。ふたりの指環がこすれる感触。顔を上げると、目の前で男は実に爽やかに、にっこり笑って言った。場所を変えてさ、じっくり話さない?


 結局ナンパかよ。奥さんの機嫌なんかどうでもいいな、こいつ。

 呆れながら男をもう一度観察した。容姿は人並み以上、女慣れた様子は浮気相手として悪くなさそうだ。



 今夜会ったばかりの男と寝るというのは自分の殻を破る冒険のようで、正直云って惹かれるところが無いではなかった。少ない男性経験、しかもこの数年は夫ひとりしか知らない自分が、他の男と経験値を高めることは自分にとって意義深いようにも思える。倫理的に云えば夫公認、もとより夫に仁美を非難する資格など皆無だ。

 だが冒険とは即ちきけんおかすのいであって、常に優等生で道を踏み外すことのなかった仁美にすればまるで崖下に我が身を投げ棄てるかのような、自身の生き方に反した愚行に思えるのだった。


 なにより口惜くやしいのは、そんな思いまでして仁美が身をなげうったところで、その不倫行為を夫はすずしい表情かおで受け容れるだろうことだ。嫉妬に身を焦がすことも、怒りに蒼褪めることもないだろう。だとすれば仁美の行為に意味はない。

 ああ。どうすれば奴の生ぬるい笑顔を凍らせてやれるだろう。



 顔を不機嫌に曇らせた仁美は、冷たい怒りを目の前の男にぶつけようとして、口を開く寸前で思いとどまった。

 私は冷静。見知らぬ男にみっともない醜態を晒しはしない。

 できるだけ落ち着いた、だが毒を一滴ひとしずく垂らした声で諭した。


「ほかの女で試すより、奥様とじっくり時間をかけて確かめていくのが本筋じゃない? たとえでも、その気持ちが女は嬉しいのよ」


 仁美の言葉に男は重ねた左手の動きを止め――それからさりげなく、ゆっくりと手を引っ込めた。


「そうか……そうだよね。いや、いいことに気づかせてくれたよ。うん、やっぱりきみに相談してよかった」


 おやっと思うと、引いた左腕の時計を見ておもむろに立ち上がる。仁美の様子から脈がないと読んだのか意外なほどあっさり引き退がる男の顔を、すこし拍子抜けして仁美は見上げた。


「そう思ったら早く妻の顔を見たくなっちゃった。ごめんね……ここで失礼するよ」

 ドラマなんかではこんなとき男どもは大抵頭の悪そうな捨て台詞を吐いて去って行くものだが、この男は退き際もなかなかスマートだ。きっと遊び慣れているに違いない。

 本当に家に帰るのか、他の店へ別の女をひっかけに行くのかは知らないが、仁美にはそんなことどっちだっていい。



  ***



 ひとり残されたカウンターで、氷だけになったグラスをしばらく手のなかで弄んだ。

 どっと疲れたが、胸の奥に甘美なものが残らなかったと云うと嘘になる。ほんのささやかなアバンチュール。それに、その気になればいつでも浮気はしてやれるとも分かった。


 ……だが今夜はやめておこう。べつに貞操がどうとか、ではない。

 よく知らない男と成り行きで寝るぐらいでは、足りないと思うのだ。そんなものでは奴はこたえない。だいたい自棄やけになって其処そこいらの男にひょいと飛びついたりしたら、あとから自分が惨めに思えてしまうに違いない。

 夫公認の浮気から失うものは我にのみ多く、彼にすくない。不当なほどに。


 どうせなら、浮気ではなく本気になるような男を見つけよう。奴を忘れるぐらいの、とびきりいい男を。

 そうだ。夫への恋心が無くなればいいのだ。

 そのとき初めて奴は狼狽えるのだろう。そうして初めて、仁美の復讐は成る。


 じっくりと、いい男を探してモノにしよう。その男を振り向かせるためなら、貢いだっていい。体だけの関係だっていい。その代わり私は、その男にぞっこん惚れ込むんだ。故意わざと奴の目につくところへ連れ出して、見せつけてやろう。


 そのとき私は「本命はあなた」なんて言ってあげない。

 あなたなんか、幸せな家庭を演出するための飾りでしかないわ。おとなしく金だけ家に納めてたらいいのよ。ああ、早く言ってやりたい。奴が蒼い顔するのが楽しみだ。




(Poison:おわり)

(全編:了)


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苦い恋が薬になんてなんない 久里 琳 @KRN4

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