Poison 社会人・女子

第7話 Poison(前)

 夫の言葉を怒りとともに反芻していた。

 結婚して五年、実に七度目の浮気発覚である。


 八時までの残業で溜まっていた案件を片付けたあと真っ直ぐ家に帰る気がしなくて、金曜の夜を行きつけないバーでひとり過ごしていた。以前一度だけ後輩に連れられて来た、お洒落な、敷居の高めな店。

 子供はまだいないとは云え、ずっと人の妻としてこのような場に足を踏み入れることを避けてきた仁美には、此処はすこしばかり居心地がわるい。


 夫はまったく悪びれることなく浮気を繰り返すのに自分だけがそんなことを気に懸けるのは思えば滑稽な気もするが、そこには意地もあったのかもしれない。

 自分が堅い方なのだとは分かっている。かと云って夫の感性がまともなんてことは断じてない、と仁美は思う。



 七度目の浮気をただしたとき、夫の言葉に謝罪は毫もなかった。


「本気じゃない、ただの浮気だよ。なにがあったって一番はお前なんだ。わかってるだろ」


 奴は、なにが不満なのだと云う表情かおをした。

 あまりの言い草に、煮えたぎる罵言のどれをぶつけてやればいいか分からず、結局ひとことも返せなかった。怒りが過ぎると人は言葉を失い、身動みじろぎさえできなくなるらしい。



 結婚する前はそんなことはなかった。付き合っているあいだ三年、彼は仁美ひとすじだった筈だ。少なくとも彼女の知る限りは。


「その頃は一生お前だけを愛すると思ってたよ、心から」

 だが心変わりは人として避けられないのだと奴は言う。

 所詮、人間は一生かけてひとりを愛し続けることなど、できないのだと。


「だから、結婚なんて制度があるんだ」

 人の本性を押さえつけるための制度。そんなわけがあるかと直感に従って罵ってみても、彼は肩を竦めるだけだった。


「仕方ないんだ。遺伝子が俺たちをそう縛りつけるんだから」


 生物の本能は遺伝子を遺すために設計されている。遺伝子を遺すために人間も生殖戦略を練るのだそうだ。出来の悪い教え子を諭すように彼はゆっくり噛み砕いて説明してくれた。


 生殖。

 愛をそんな味気ない言葉で語るな。大声で言い返したいところだが仁美は、口で夫に勝てたことは一度もない。ぐぬぬと歯ぎしりして彼の言葉を聞くしかなかった。



  ***



 雄と雌とでは生殖戦略が違う――浮気な夫はかく語りき。


 ヒトの雌は年に一人しかみごもれない。出産もその後の子育ても命懸けだ。これだけコストの高いイベントに、軽率な失敗は許されない。勢い、優秀な遺伝子を持つ繁殖相手パートナーを慎重に選ぶことになる。

 ところが、雄は事情が違う。年じゅう其処らじゅう子種こだねをばら撒くことが可能。であれば、多少の当たり外れは気にしないのだ。子種を注入するチャンスがあれば、見逃さない。


 相手は複数、できればタイプの違った雌である方が望ましいのだそうだ。

「多様性が求められるんだよ」


 畢竟、男が浮気するのは生物として必然なのだと彼は言う。そんなことも分からないなんて、ばかだなあと妻を愛おしむ表情で。

 今度こそ仁美は怒りを爆発させた。



「でもね」

 仁美の罵詈雑言を一通り受け止めたあと、彼は続けた。


 雌だって、一生の間に一人や二人産んでおしまいじゃない。その気になれば五人、十人だって産めるんだ。それがぜんぶ単一の雄とのカップリングじゃ、多様性に欠けるというものさ。別の雄との子が欲しくなっても不思議じゃない。


「だから、女だって浮気するのさ」

 自信を持って言い切った。だからね――

「仁美も浮気していいんだよ。無理して本能を押さえ込むことはないんだ」


 どうだい? 理解ある夫だろ?

 声にこそ出さないが、愛情に満ちたどや顔にそう書いてある。

 得意げなその顔に、右ストレートをえぐるように打ち込んでやろうかと心底思った。



  ***



 隣に座った男が、さっきから親しげに話しかけてきていた。シャツを清潔感たっぷりに着こなして、短く刈った髪に、陽に焼けた顔。若く見えるけれども身に着けたものの趣味がいい。話のうまい男だ。はじめ退屈しのぎに相手をしていた仁美は、いつの間にか会話を楽しんでいた。


「どんな仕事してるの? いや、当ててみせようか」


 トレーダー、バイヤー、エディター。うーん、ロイヤーだったりして。いたずらっぽい笑顔で横文字を並べる彼につられて、仁美も首を傾げて遊戯に応じた。

 違う、さあてね、どうかなあ……。答えるたびナチュラルカラーのリップを塗った脣から白い歯がちらちらと覗いた。



 いまどきの女性が大抵そうであるように、仁美は結婚後も第一線で仕事を続けている。夫は世間並以上の収入に恵まれていたが、仕事を続けたいと言う仁美に一も二もなく賛成し、協力してくれた。


「夫婦が対等でいるためには、妻にも経済力が必要だ」


 数多あまたある、彼の持論のひとつである。


「いつか相手が嫌になるときが来るかもしれない……いや、きっと来る」


 ここでもまたお得意の冷めた男女観だ。

 そんなとき、経済力がなければ判断が濁る。不本意な我慢を強いられるかもしれない。だから女が経済力を手放すのは戦略としてお勧めできない、と奴は言う。


 彼は断じてフェミニストなどではないが、冷たいマキャベリズムの味するその婦人論はどんな男女同権論者の権高けんだかおしえよりも実用的だ。




 夫の言葉を脳から追い出しながら、目の前の男の顔を眺めた。わるくない顔だ。造りもそうだが、表情豊かに動く目と、笑うたびに口の端に浮かぶえくぼに愛嬌があって、仁美は好感を持った。

 シャツの袖からのぞく太い手の上に、酒で巡りのよくなった血が血管を浮き立たせている。顔に似合わずごつごつした指の先には爪が短く切り揃えられていた。



 この男と寝たら果たして夫への意趣返しになるだろうか、と仁美は想像した。


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