12

『心残り? あるに決まってる』

 俺の問いかけに、あいつは笑って答えた。

『知りたいことも調べたいこともまだまだあるし、行ってみたいところも沢山ある。何よりも、見たいものがある』

『なんだ?』

 問わずにはいられなかった俺に重ねられた、あまりにも胸に迫る言葉。

『君の、幸せな未来』

 俺はこの時一体、何と答えればよかったのだろう。今でもそれが判らない。

 ただ動揺して見つめるしかない俺に、何の邪気もない笑顔であいつは言った。

『これから先の未来にきっとある、君と奥さんとで築く家庭。君の子どもの顔。必ずある、当たり前に幸福な未来。それが、見たい』

『俺は誰かと所帯を持とうなんて気は、これっぽっちもねえぞ』

『さあ、どうだろう』

 くすくすと、どこか不敵にあいつは笑った。

『君が、自分で思っている以上に寂しがり屋だってこと、僕は判っているつもりなんだけどな』

 脳裏をよぎった記憶に、俺は苛立たしげに髪をかき回した。

 夢か幻ならいっそいいのに、それはぼんやりと霞みながら、いつまでも俺の中で現実であり続ける。

 ロスマリンと自分が一緒になる、その可能性について初めて思い至った瞬間、即座に浮かんだ言葉は「ない」だった。

 ないだろう、それは。一国の王妃になろうかという身分の女が、十七も年上で、しかも貧民出の傭兵の下に嫁ぐなど。ましてや、右手が肩から先まるでないときている。この組み合わせが許されると思える奴は、よっぽど頭の中がおめでたいだろうと当時思ったし、それは今でも変わらない。

 だがさすがに七年たった今、考える。

 俺に責任はないはずだ。俺はあいつに何もしていない。思わせぶりな言動や行動を、取った覚えもない。俺が心の奥底で、あいつのことを思っているなど、伝わってもいない……はずだ。

 惚れているならここまで自分を邪険にするはずがない、そうあいつだって思っているだろう。

 ……当の俺自身が、馬鹿じゃねえか俺と思っているくらいなのだから。

 だが二十五になる今まであいつが嫁に行かなかったのは……俺のせいなのだろうか。

 そうしてあいつは今、侯爵家から離れて市井に降りることを考えているという。確かにあいつなら、身分にも夫なんてものにも依存せず、自立して生きていくことができるだろう。

 だが俺は、それを黙って見送っておしまいにして、本当にいいのだろうか。

 あいつの計画の協力者として、この街であいつが別の男と一緒に生きていく様を、横で見続ければいいのか。

 それとも「俺たちが代わりにやるから」とあいつから計画を取り上げ、カイルワーンのこともアイラシェールのことも忘れて新しい人生を歩めと突き放せばいいのか。

 それとも。それともだ。

 判らない。考えれば考えるほどに、判らない。

 あいつはどうして、こんな俺がいいのだろう。

 俺の何がいいのだろう。

 そうして俺は、どうしたらいいのだろう。

 あの施政人会議の日――狸たちに突き上げをくらい、セプタードに気持ちを検められたあの日以来、思考は完全に堂々巡りだ。どうにもならない自分を持て余しながら巡回から傭兵館に戻れば、何やらざわついている。

「ロスマリン様が急に来られてね。今日一日だけですぐに任地に立たれると言うから、慌てておもてなしの準備中」

 リネンを抱えて忙しく行き交う女中の言葉に、俺は懸念を覚えて一室の扉を叩いた。

 階上にある最も上等な客室は、今ではすっかりロスマリンの部屋と化している。

「騒がせてしまってごめんなさい。本当は寄らずに行こうかと思ったんだけど、一応あなたにも話をしていこうと思って」

 窓辺に座っていたロスマリンは、俺の顔を見るといつになく曖昧に笑った。だから俺は即座に思った。

 変だ。

 声が漏れぬよう、きっちり扉を閉め、俺はすぐ近くで奴と向かい合う。

 言い逃れを許さない距離で。

「行くって、どこへだ」

「これまでの調査の続きで、マリコーンへ」

「前回の調査から、まだ一月もたっていないっていうのにか? まだ満足に荷ほどきすらできていない頃合いだろうが」

 詰問した俺に、ロスマリンは目をそらした。およそ奴らしくない反応に、俺は苛つく。

「急がないと冬が来てしまう。帰ってこられなくなってしまう前に、どうしても調べておきたいことがあるの」

 刹那、頭の中で線がつながった。前回来た時、こいつは何と言ってた?

「どうしてカティスはお前を間諜に使うんだ」

「陛下が命じられたんじゃない。陛下も、王妃様も全力で止めてくださった。我が儘を押し通したのは、私の方」

 苛立ちもあらわに吐き捨てた俺に、ロスマリンは奴を弁護するように言い募った。

 ああ、そうだ。俺だって判っている――ロスマリンを誰より案じているのは、他ならぬカティスだろうことくらいは。

 ロスマリンに何かあったら、カイルワーンに申し訳が立たない。俺を始めとした傭兵団の面々以上に、カティスがそう感じているだろうことくらい。

 だからこそ、苛立つ。俺たちの気持ちなどお構いなしの、ロスマリンの行動に。

「マリコーンで、何が起こっている」

「判らない。だからそれを調べにいきたい。ただそれだけ」

「どうしてお前でなければならない? カティスは手練れの間諜を、何人も持っているんだろう。お前みたいに凄絶に目立つ女が行って、相手を刺激するよりは、よっぽどましだろうが」

 厳しい言葉に、ロスマリンがぐっと詰まるのが見えた。

 少しばかり俯いた顔が歪む。それを俺は、葛藤と見て取った。

 奴の中で一体どんな感情が、相争っているのか。それは俺には知るよしもないのだが、やがて。

 ロスマリンはきっぱりと顔を上げた。

「陛下にも申し上げた。バルカロール侯爵家の人間である私が行くことで示威になれば、未然に陰謀の類を思いとどまらせることができるかもしれない。それは私にしかできない仕事だから」

 それを聞いた瞬間、俺の中で一本線が切れた。

 この馬鹿は、何も判っちゃいない。

「そんなにお前は、俺にはっきり言わせたいのか」

「……何を?」

「お前は女だ。男には、女を力ずくで従わせる手段があるってことを。そうやってお前を手に入れれば、お前や侯爵家が持つ財産や利権まで労せず手に入る。どうしてそのことが、お前には判らない」

 俺や傭兵団の面々、そしておそらくはカティスが恐れているのは、畢竟そこだ。

 体を無理矢理でも従わせれば、心までも従属させられるだなどと考えるのは、この女に対しては浅はかだろう。だがそんなことを企もうとする輩はそもそもがこいつのことを判ってなどいなかろうし、凶行に及ばれては、すべてが一巻の終わりだ。

 だというのに、当の本人は、俺の言葉に一瞬きょとんとした顔をすると、やがて盛大に苦笑した。

「やだ、ブレイリー、それ本気で言ってるの?」

「……どういう意味だ」

「たとえ、それで私に付随するものを手に入れられるとしても、私を抱こうなんて考える酔狂な男が、どこにいるっていうの?」

 さっきですら、一本線が切れたと思ったのに。

 ぶちぶちと音をたてて、何本もの線が頭の中で弾け、千切れ飛ぶ音が聞こえた。

 信じられねえ。

 この女は、本気でそう思っているのか。本気で。

 だとしたら、卑屈にもほどってものがあるだろう。

 こいつは常日頃宮廷で、何を言われているというのだ。それほどまでの醜女だと、嘲られているというのか。

 だとしても、それを真に受けるだけ馬鹿だろう。その光景を推測しているだけの俺ですら、判るというのに。

 外見の華やかさや身分に依拠するしかない馬鹿女どもは、それ以外にお前を貶める言葉を持たないということ。そんな馬鹿な言葉でしか、すべてにおいて勝るお前相手に自尊心を保ち得ないのだということ。

 そしてそれは、男だって同じだ。以前お前が自分で言ったように、政治判断まで伴うとあらば、お前に愛を語ることは容易ではないだろう。ましてやお前という女を相手にして、男として胸を張れるほどの自負を持つことは並大抵のことではない――俺のように。

 だがそれは、お前に女としての魅力がない、ということと同義じゃない。

 ましてや、女としての身の危険がない、ということでは絶対にない。

 今まで何事も起こらずにすんだのは、ひとえに幸運だったということ。そして任地が、バルカロールの威光が通用するところだったということだ。

 だが今もし、マリコーンの領主が謀反を画策しているというのならば。

 飛んで火にいる以外の何だというのだ。その身柄を押さえられれば、格好の人質にできるではないか。

 そしてその先、謀反を企む輩がお前をどうするかは、考えるまでもないだろう。

 こんな簡単なことが、どうしてこれほど聡明な女に判らないというのか。

 いや、判っていないわけでもないのかもしれない。その上で、それでも自分は女として何の魅力もないから安全だ、と言い切るとしたら。

 それはもしかして。

 依怙地、か?

 十八歳から二十五歳。この女として最も美しい時期ですら、惚れた男に何もしてもらえなかった――優しい言葉の一つもかけてもらえなかった。

 女として、一度として振り向いてもらえなかった。

 それがこいつを、こんな捨て鉢な行動に追い込んだのだろうか。

 その可能性に至った瞬間、俺の中で最後の歯止めが焼き切れた。

 もしそうだとしたら。

 本当にそうだとしたら。

 俺のこの七年間は、一体何だったというのだろう。

 胸の中で焦げ付いていく感情を、ただひたすら飲み込むしかなかった、この七年は。

「だから、心配なんてする必要はないわよ。もしそんな珍しいのがいたとしたら、謹んで蹴り飛ばしてやるから」

 冗談めかし、だが紛れもなく本気の顔をして、そう締めくくったロスマリンに俺は。

 もはや、何の言葉を尽くす気力も失せた。

 ただ無造作に奴の腕を掴むと、片足を払う。

 何の抵抗もできず、あっけなく体勢を崩した奴を、そのまま寝台に落として押さえ込んだ。

「ちょっ、と、あっ、きゃあ!」

 細い両手首は、左手一つですらまとめて押さえ込める。

 太ももに跨がり足を絡め取れば、下肢はもうかけらも動かせはしない。

 突然のことに奴は懸命に身じろぎするが、それは何の意味も持たない。

 見下ろした顔が、八割の動揺と二割の恐怖に歪むのを見て取って、俺は冷徹に言い捨てる。

「蹴り飛ばすんだろう? やってみたらどうだ」

「ブレイリー……」

「片腕がない男すらはねのけられないお前が、何を粋がっているんだ。男を侮るにもほどがある」

 刹那、それまで白かったロスマリンの顔に朱が走った。屹として俺を睨み……だが俺は、引かない。

 触れられるほど近さまで顔を寄せると、奴の目が大きく見開かれた。

「怖いんだろ」

 言葉とともに吐きだした息が頬にかかるだけで、押さえ込んだ体がびくりと震える。今自分が置かれている状況に、ロスマリンが怯えているのが直に伝わってくる。

 だから俺は、奴に最後通牒を突きつけた。

「これ以上怖い目に遭いたくなければ、痛い目を見たくなければ、すぐ王都に帰れ。いいな」

 その瞬間、ロスマリンは凄まじく剣呑な目で俺を睨んだ。

 これで何もかもが終わった。今までの微妙すぎる関係も、奴の勘違いも、何もかも。

 そう思ったのに。

 ロスマリンはその挑みかかるような眼差しのまま、少しばかりは動かせた顔を俺に向けて。

 俺の口に噛みついた。

「――っん」

 たかが口づけ、だった。けれども俺の頭はその瞬間、錆び付いたからくりのように動かなくなってしまった。

 ただ唯一自由になる唇が、俺のものを求めて動き、吸い、先を求める。

「侮っているのは、どっち? 馬鹿にしないで」

 俺に押さえつけられ、自由を奪われた姿勢のまま、榛の瞳だけは爛々としていた。唇を放した後、怒りとしか言いようのない強さをもってぶつけられた言葉に俺は、言えることがあったはずだ。

 これが貴族の娘がやることか、とか。

 自分から仕掛けてきてこの程度か下手くそ、とか。

 怒ることも呆れることも窘めることも嘲ることも。なんだってできたはずだった。

 けれども、もうその時すでに、俺の頭の中の線は焼き切れてしまっていた。

 だから俺は、すべての自制をかなぐり捨ててしまった。

 俺を解き放った唇を、今度は俺から奪い戒める。触れあうよりも先を求めて、舌を差し入れて思う存分貪れば、満足に音にもならない微かにあえぎがこぼれ落ちた。

 初めて受け入れたのだろう他人の感触に、始めぶるりと震えてこわばった体は、やがて舌が絡み合うほどにほどけて、くたりと力を失っていく。

 押さえ込んでいた両手首を解放すれば、細い腕はためらいなく俺の背中に回された。

 それはおそらく、無言の答えだったのだろう、と俺ですら思った。

 だからすることのなくなった左腕は、行き場を求めて、当然そこに辿り着く。

 奴の襟元、きっちりとはめられている小さな幾つものボタンに。

 けれども。

 けれども。

 もし右腕が残っていたら、俺は左腕を叩いていたことだろう。けれどもそれが叶わないから、俺は爪が刺さるほどに拳を握りしめて、その部屋を後にした。

 自室に辿り着いて、寝台に思わず崩れ落ちて、全身からのため息をつく。

 この顛末をセプタードやアデライデに知られたら、間違いなくこう言うだろう。

 お前らは馬鹿かと。

 判っている。ロスマリンも信じられないほど馬鹿だが、それ以上に俺が馬鹿だ。

 四十二と二十五でやることじゃないだろう。

 だがそれでも、やっぱり踏み込めない。あのまま先に進んでよかったとは、到底思えない。

 そうして翌朝、それ以上顔を合わせられなかったロスマリンが、マリコーンに出立したと聞いた俺は、言葉もなくただ再び重苦しいため息をつくことになる。

 そうして思わず独りごちた。思わず問いかけてしまった。

 俺はどうしたらいい、カイルワーン、と。

 だがその答えが降ってくるまでは、俺が否応なく決断を迫られる時が来るまでは、本当にまもなくの時間しかなかった。

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