20
第二中隊からの伝令が俺のところに辿り着いたのは、三階の客間でのことだった。
扉の外鍵はすでに開けられていた。それは俺たちよりも先に、この部屋の鍵を持つ者が辿り着いていることを意味する。
部屋はすでにもぬけの空。俺は奥歯を噛みしめるよりない。
伯爵がすでにロスマリンを押さえているというのなら、そこからどこへ向かう。
この館を放棄し、脱出を試みるだろうか。それともこの館のどこかで、俺たちと対峙することを選ぶか。
「団長、至急二階大広間へ! 第二中隊がロスマリンさんを発見、保護しております!」
だがその思いをぶった切り、伝令が息せき切って告げたことに、俺は安堵するより先に戸惑った。
あいつ、なんで二階にいるんだ? どうやってこの部屋を抜け出したんだ?
だがそれを確かめることは後でもよいこと。俺は踵を返して、階下への道を辿る。
外鍵を開けた者がいると言うことは、伯爵側にもロスマリンの逃亡は伝わっている。ならば敵勢もあいつを探していることだろう。
ジリアンたち第二中隊だけで守り切れるか。あの人数で、足りるか。
そうして駆け下りた階段。二階の回廊は乱戦になっていた。一階、そして奥にある兵営を制圧に向かっている二番隊所属の者たちの姿は伺えない。
制圧までには、まだ時間がかかる。手勢をこちらへは割けない。
そうして辿り着いた中央部。扉を蹴り開け、その光景を目にした瞬間。
俺は己の心音を、己の耳で聞いた。
全身の血が泡立ち煮える。そんな錯覚を覚えた。
ジリアンを始めとした第二中隊の者たちが、多勢に懸命の防戦を強いられていた。
そして見知らぬ男が、ロスマリンを抱き上げていた。
男の腕の中、何の抵抗もできず力なく投げ出されている四肢が、あいつの状態を物語っていた。
戦っている奴らとは明らかに違う身なり。そして傲然と場を睥睨する目に、俺は悟る。
貴様か。
貴様が伯爵か。
その時俺を捕らえた感情を、何と呼ぶべきなのか。怒りか憎しみか憤りか、判然としない衝動が、ただただ赤く熱く渦を巻き、そして。
言葉が落ちる。
触るな。
そいつに触るな。
そいつは親友たちの心を、慈しみで満たしてくれた子どもだ。頼る者のなかった親友の妻を、守り支えてくれた娘だ。
一度も告げられたことはない。けれども本当はずっと思っていた。
ロスマリン、俺はお前に感謝してもしたりない。手の届かない存在になってしまった俺の大切な人たちは、お前がいたことでどれほど心慰められたのだろうか。どれほど救われたのだろうか。
そのことは、俺の中でどれほど大きな意味を持っていただろうか。
愛よりも恋よりも前に。俺自身とのことが始まるよりも前に。
お前の存在を知った時から――出会い、お前の実像を知る前から、お前はすでに俺の心の中の聖域にいたんだ。
その当人に出会うことができたことは、これほど深く関わり合うことができたことは、それだけで俺にとっては本当は僥倖だったんだ。
俺自身のことなんてどうでもいい。俺はただ純粋に、俺はお前に報いたかった。お前が叶えたいと願うこと、そのために力を尽くしたかった。
そして何より、お前に幸せになってほしかった。
七年抱き続けたその思いには、一欠片の偽りもない。
愛し愛される伴侶を持ち、子を産み育て、空しさを癒してほしかった。その思いには、本当に何の偽りもなかった。
そうして七年。それだけの月日をかけて、お前はそう思っていた俺の心の穴にさえも入り込んでしまった。
俺の大切な人たちを救ったように、お前は俺さえも泥沼から掬い上げてしまった。
認めるしかない。お前は本当に、大した女だ。
判っている。身分違いだ。釣り合わない。俺には触れられるはずもない高嶺の花だ。それは何も変わらない。
だけど、もはや嘘はつけない。自分を騙すことはできない。
たとえそうであっても俺は、お前を誰にも渡したくない。
誰にも、渡さない。
「触るな」
「なに?」
怒りに震えてこぼれ落ちた言葉に、伯爵は眉をひそめた。その不快な顔は俺の激昂を誘う。
「薄汚い手でそいつに触るなっ、この下衆がぁっ!!」
伯爵に向かった俺に、主君を守るべく兵士が二人がかりで立ちはだかる。それを一瞥した伯爵はロスマリンを連れ、悠然と広間を去ろうとした。
行かせるわけにはいかない。
「邪魔だっっっ! どけっ!」
上段から俺に振り下ろされようとした刃。それを己の剣で受け止めようとした、その瞬間。
俺の耳は、ばちんというあらざる音を確かに聞いた。
俺の中で何かが弾けるのを感じ、そして。
目の前から、黒い紗幕が、落ちた。
突如、世界が明るくなった。
ぼやけてぶれていた輪郭が明瞭になった。
今までも見えていたはずのもの全てが、遥かに鮮やかな色彩をもって、俺の目に飛び込んできた。
そうなって初めて俺は自覚した。
自分の目が今まで、まるで見えなくなっていたのだということに。
ずいぶん長い間、自分の視界が薄暗くぼやけていたのだということに。
それは刹那。瞬きほどの時間、俺は嘆きをあげる。
ああ、確かに俺はセプタードが言うとおり、心が壊れていたんだ。
喪失に、心が病んでいたんだ。
そして明瞭となった世界の中で、敵が動く。その軌跡がすべて、恐ろしいほど緩慢に見えた。
ゆっくりと動く世界の中で、俺は剣を水平に繰り出し踏み込む。
受ける必要などない、胴が抜ける!
衝撃に目を見開き、眼前の敵兵はどうっ、と倒れた。
逆手に構えていた剣を回して順手に、振り下ろすもう一閃。もう一人の右手を切り裂けば、それでもう障害とはなりえなかった。
俺は床を蹴り、伯爵の下へ駆ける。ロスマリンを抱き上げている奴は、両手が塞がっている。
剣を抜いて俺に応戦するには、あいつを放すしかない。
あいつを投げ捨て、剣を抜くか。それともあいつを放さず庇う道を選ぶか。
俺は確信をもって剣を振り上げ、対する伯爵の決断は予想通りだった。
「片手で勝てるつもりかっ!」
ロスマリンを無造作に投げ出し、伯爵は抜刀した。両手で受け止められた俺の剣は、意外な膂力で掬い上げられる。
鈍い音を立ててもぎ取られ、俺の剣が後方へと飛んだ。
「団長!」
誰かの悲痛な叫びも耳に届いた。だが俺は動じない。
阿呆、下半身ががら空きだ!
左足を引き反動をつける。ぶん、と重く風を切る音が微かに響き、そして。
渾身の回し蹴りを伯爵の脇腹に叩き込んだ。
「がはぁっ!」
剣の腕はそこそこだったが、実戦に出たことがないのだろう坊ちゃんに耐性などまるでなかった。
衝撃によろけた奴の顔面を、正拳でしたたかにぶん殴った。鼻から血が散ったが、知ったことじゃない。堪えられたのは二発がいいところ、剣を取り落とし、崩れ落ちたのを見届けて俺は叫ぶ。
「こいつを拘束しろ!」
俺が率いてきた第一中隊は、俺の様子を黙って見ていたわけではない。第二中隊の加勢に入った者もあれば、俺の助力をすべく機を窺っていた者もいた。俺が命ずるや否や、数人がかりで取り押さえ縛り上げる。
広間の形勢は、一気に逆転した。飛ばされた剣を拾い、床に投げ出されたまま動けないロスマリンに駆け寄りかばうことしばし。配下たちが場を制圧するのを見届けると、俺は床に膝をついた。
当て身でも喰らわされたのだろう。ロスマリンは鳩尾を押さえて苦しげに顔を歪めていた。その上、抱き上げられた高さから放り出され、床に叩きつけられたのだ。痛くないはずがない。
俺は背中に手を回し、上半身をそっと抱き起こす。か細い体は、俺の左腕と片膝だけで支えるに足りた。
「痛かったろう。大丈夫か」
俺の問いかけに、ロスマリンは目を開けた。苦しそうなか細い吐息を漏らすと、殊勝に頷く。
その様に、胸が詰まった。
「すまない、長らく待たせた」
俺は万感の思いを込めて、告げる。
「迎えにきた」
ロスマリンの目が潤んでいたのが、痛みのためなのか違うのかは判らない。だが俺の言葉に痛々しげに笑むと、両手を伸ばして俺の首に回した。肩に頭を埋めて、耳に震える言葉をこぼす。
「ありがとう……ずっと、ずっと待ってた」
お互いの言葉の真意は、深淵は判らない。お互いあえて告げない。けれども問う必要もなかった。
俺はロスマリンの背中を支える手に力を込めた。柔らかな体を己の胸の中に収めることに、もはやためらいはなかった。
その髪に、耳に唇を寄せ、触れあう肌の温かさに俺は慨嘆する。
ああ、俺はなんて馬鹿だったんだろう。
どうして俺はこの温もりを、他の男に託せるなどと考えたのだろう。
他の男のものになるのを、黙って見送れるなどと思ったのだろう。
駄目だ、もう何一つ嘘などつけない。
放したくない。その思いが、すべて。
時間としては、ほんのわずかの間だったはずだ。理性もまた、心の底で警告を発してはいた。まだ油断するなと。まだ終わってはいないと。
けれどもその一瞬は、あまりに至福に過ぎて。
だからその瞬間、俺は動けなかった。
鈍い音を立てて、俺とロスマリンのすぐ横に、クロスボウの矢が突き刺さった。
「動かないで。次は当てます」
開け放たれていた大扉。絶妙な角度から放たれた矢は、俺たちの動きを封じるに十分だった。
膝をつき、まだ動けないロスマリンを庇う俺。そんな俺に向けられた、複数のクロスボウの照準。そして俺とロスマリンの命が、何より生命線である部下たち。
最悪の状況だった。そのまま広間になだれ込んでくる敵兵に対して、誰一人なすすべがない。
「この男と姫の命が惜しければ、剣を捨てなさい」
傲然と命じたのは、まだ年若い女だった。乗馬服を身に纏い、鞭まで持っているのは正直やり過ぎだと思う。伴ってきたのは、揃いの兵装の騎士。
なるほどこいつが黒幕。
「メルル・ブラン王女……」
己が失態を恥じるような、しかし助けを喜ぶような呻きを、伯爵はもらした。だが手足を拘束されて転がされている伯爵に、王女と呼ばれた女は冷たい一瞥をくれた。
「ここまでいいように敵に踏み込まれるとは、この役立たず」
俺はできうる限りロスマリンを庇いながら、まるでお人形のような風情の王女を見やる。
傭兵団の生業が依頼を受けての派兵である以上、俺たちは他国の情勢や内情に無頓着ではいられない。当然、大陸各国の王族の名くらい把握している。
メルル・ブラン・シュペールバルク。サフラノの第一王女の名に、俺は思案を巡らす。
直接アルバ北方――バルカロール侯爵領を狙える位置ではない、南国のサフラノが黒幕。それが意味するところは何だ。こいつの狙いは、なんだ。
「もうじき場外の傭兵たちも、この状況を察してこちらへ加勢してくるでしょう。そうなれば、こちらが圧倒的に優勢となります。お騒がせして申し訳ありません」
王女が率いてきた騎士に解放され、伯爵は膝をついた。そんな奴に、王女はすげなく言い放つ。
「当然です。何のために私たちが資金を提供して、傭兵を調達させてやったと思っているのですか」
王女と伯爵の会話を、俺は冷徹に聞く。
俺たちの狙った情報の途絶は、成功している。
奴らは俺たちが何者なのかに――そもそも自分たちが徴募した傭兵だということに、まだ気づいていない。
今回の作戦の要は、結婚式に参列するために領主館に滞在している貴族を――謀反人を捕らえること。そのためには、敵の退路をまず最初に断つ必要がある。だから手勢の大部分を割き、城だけではなくマリコーンの街の同時制圧を図ったのだ。
領主館の二つの出入口、北門と南門は一、二番隊で最初に確保している。そこからは一人も外へは出さないし、城外からのいかなる知らせも入れない。同時に三番隊が他の傭兵たちを押さえていれば、三、四、五番隊の動きも、城を襲った一、二番隊の素性も、敵は容易には掴めないはずだ。
物見から、城外もまた戦闘状態に陥っていることは伝わっているかもしれない。だがそれがどれほどの規模なのか、戦況がどうなのかを詳細に把握することは、この暗さでは困難だろう。
だとすれば、この状況で俺がなすべきことは明白。
おそらくサフラノの近衛だろう騎士たちが歩み寄り、俺とロスマリンを引き剥がす。立たせられ、後ろ手に拘束されても、一切抵抗はしない。
ジリアン以下、部下たちにも俺の意図は伝わっていると信じる。誰もが抵抗をやめ、声はおろか身動きする音すら潜め、場の成り行きを注視している。
刃の上を渡るような緊張感の中、最初に動いたのは伯爵だった。己の剣を拾い上げると、拘束されている俺に詰め寄る。
「平民の傭兵風情が、よくも私の顔を……殺してやるっ!」
奇声を上げて剣を振り上げた伯爵に、ロスマリンや背後の部下たちが悲鳴を上げた。俺もその瞬間、死を覚悟した。
だが。
「うるさい」
的確なただの一言は、場を思いもかけない形で鎮めた。
サフラノ騎士が、伯爵の頸動脈に見事な手刀を叩き込んでいた。たやすく失神し、再び床に崩れた伯爵を、王女は侮蔑に満ちた眼差しで見下ろす。
「大事な情報を握っているかもしれない相手を、殺してどうするの。邪魔よ」
解くんじゃなかったわ、もう一回縛っておいて。平然と言い捨てる王女に、俺たちは安堵するとともに唖然とする。
そして王女は俺と同じく捕らえたロスマリンに、どこか呆れたような声音をぶつけた。
「それにしても、お愉しみのところを失礼いたしましたわ、ロスマリン様。……まさか貴女に、よそに恋人がいらしたとは、思いもよりませんでした」
「貴女が勝手に誤解しただけでしょう? 私は今までの人生で一度も、兄様の恋人だったなどと言った覚えはありません」
痛みに顔をしかめながらも、ロスマリンは王女を睨んで言い放つ。だが王女は、顔色を少しも変えなかった。
「それにしても、バルカロール侯爵令嬢をものにせんとす、宮廷の名だたる貴公子たちを袖にした挙げ句、選んだのがこの男ですか」
乗馬靴の踵の音を鳴らして近づいてくると、王女は手にしていた鞭を俺の頬に当てた。フラップで顎を突いて顔を上向かせるそのやりようは、まるで奴隷の検分だ。
俺を見定めるようにねめつける目はどこまでも冷たく、人ではなく家畜や物を見るようだ。そして実際、この女にとって俺はそんなものなのだろう。
平民にも心があるのだと、同じ人間なのだと考えもしない。見下す、という言葉を思い浮かべもしないほど、呼吸をするように人を物のように扱う。
そんな王侯貴族の傲慢を、俺は久しぶりに目の当たりにする。
ああ、懐かしい。反吐が出るほどに。
「その身なり、騎士ではなく傭兵のようね。ロスマリン・バルカロールを射止めるような男が、一兵卒であるはずがない。お前が指揮官?」
「それを確かめてどうする」
「答えなさい。お前たちをここに差し向けたのは誰? アルバ国軍も、バルカロール侯爵家も動いていないことは判っています。ではあなたたちは何者? 誰に命じられてこの館を襲ったの?」
「……俺のことをロスマリンの恋人だと思っているのなら、どうして単純に自分の女を取り戻しにきたと考えないんだ」
俺はごく当たり前の回答を返す。それは率直な俺の本音だが、同時に疑問でもある。
この女は、どうしてまず俺たちの背後に黒幕の存在を疑い、確かめようとする。
「秘めた恋人が、自ら剣を握り兵を率いて、囚われの姫を助けに駆けつける。麗しくて胸躍る物語ですわね。でも現実が、そんなに単純なはずがありません」
「ロスマリンは俺のものだ。他の男には渡さない。それ以上の理由がいるものか」
「格好いいこと。だけどそうだとしたら、これだけの兵を自分のために自由に動かすことのできるお前は、一体何者なの? ということになるわよね。そんなこと、ただの平民にできるはずもない」
確かにごもっともだ。それはカティスやルイスリール――アルバの王侯貴族たちにもできなかったこと。臣民の税で兵をまかなう君主や領主の道理で考えたら、確かにそうなる。
だが俺たちは傭兵団だ。俺たちには俺たちの道理がある。平民だからこそできることが、掴める自由がある。そんなことは、王女様には予測もできないだろう――その分、懐の問題があるのはルイスリールには見抜かれていたわけだが。
「答えなさい。これだけの兵を用意し、お前に与えた者は賢者?」
突然出てきた予想外の尊称に、俺は目を見開いた。驚愕が胸を叩き、だがやがて理解の念がこみ上げてきた。
頭の中で、謎の点がやっと線として一本に繋がった。
ルイスリールと最初の軍議を持った時、セプタードが口にした疑念。
なぜ伯爵は、ロスマリンの結婚を喧伝しなければならなかったのか。
カイルか。目的はカイルだったのか。
「そうか、お前たちはカイルを探していたのか」
愕然として呻いた俺に、王女の眉宇がぴくりと動いた。
「消息不明のあいつをおびき出すために、ロスマリンの不自然な結婚を――危機を内外に知らしめたのか」
ああ、と俺は内心で呻く。胸の中が納得と悲歎でいっぱいになる。
どうして俺たちはこの九年間、一度も思い至らなかったのだろう。
あれほどの男が、アルバの王権を離れて野に下ったのだ。他国の王たちが、手中に収めようと画策するのは当たり前のことだ。
それはこれほど大がかりな陰謀――争乱を起こしても構わないと思わせるほどの大事だ。あいつには、それだけの価値がある。
賢者カイルワーンとは、そういう存在だ。それを一番よく判っているのは、他ならぬ俺たちだったろうに。
「やはりお前たちと賢者は、無関係ではないようね。わざわざここまで出向いて、罠を仕掛けた甲斐がありました」
失言だったかもしれない。ちらりと思ったがもう遅い。王女は喜色を浮かべて俺に迫る。
「答えなさい。賢者は生きているの? そして今どちらに?」
その答えを、確かに俺たちは知っている。俺たちとロスマリンだけが知っている。
だがそのことが、どれほど心痛むものなのか。この女には判りはしないだろう。
触るな。無神経に、興味本位で触るな、あいつに。
「あいつの居場所なんて、もう誰にも判らねえよ。お前にも、俺たちにも、誰にも」
嘘ではある。けれども心情的には嘘ではない答えを俺は口にした。
思ってしまう。俺は今でも思ってしまう。
カイル、お前は今でもどこかにいるのか。
どこかにいて俺たちを見てくれているのか。
もしそうならば、出てきてくれ。姿を見せてやってくれ。
俺たちにではなく、お前の魂の半身に。
「それが判るならば、それを辿る術があるというなら、とうに俺たちがやってる! お前らなんかに譲らず、俺たちが――いいや、カティスに会わせてやってる!」
それは狂おしいほどの、泣き叫びたいほどの俺たちの本心。俺たちの願いだ。
俺たちの気持ちなどどうでもいい。そんなものはどうだっていい。
俺たちなんて、どうでもいいんだ。
カティスに、どうかカティスに。
一目だけでいい。一瞬だけでもいいんだ。
カティスにあいつを会わせてやることができるのなら、どれだけいいだろう。
だけど俺たちは知っている。
それは再び繰り返す、過去の中でしか叶わない。
悲歎に満ちる俺の脳裏に、一つの情景がよぎった。その像は俺の胸に、あの時抱いた感情までも鮮やかに呼び起こす。
十五年前、999年の秋。カイルワーンが施政人会議を立ち上げ、総代表の席に就いた時。ギルドホールに設けられた奴の執務室を、傭兵団の用向きがあって訪れた時のことだった。
市内警護に関する相談だったのだろうか。大きな机一杯に図面と表を広げ、カティスとカイルワーンが議論をしていた。
その時カティスは、気力と自信に満ちた、凛とした顔をしていた。
その顔を見た瞬間、俺は胸が詰まった。
判っていた。それは確かに、カイルワーンを初めて見た時から薄々判っていたこと。
でも俺はこの時、確信を諦念をもって受け入れた。
王と宰相だ、と。
これこそが、未来の国王と宰相の姿だと。
この時の俺はまだ、カイルワーンの真実を知らされてはいなかった。けれども俺はこの瞬間、運命を――今の今まで抗い続け、覆すために罪を犯すことすら厭わなかった運命を、認めた。
己の敗北を、悟った。
カティスはこの先こうやって、カイルと対等の立場で向かい合い、支え合い、共に覇道を進んでいくことになるのだろう。
こんな風に、二人で国を治めていくことになるのだろうと。
俺はこの時、決して変えることのできない未来を見た、と思った。
この時俺が感じた感情を、何と表現したらいいだろう。
敗北感と寂寥と哀惜と、それに優る安堵を感じた。
これは救いなのだと。
カティスは救われたのだ、と真に感じた。
それはカティスが心を閉ざしてしまった、あの十歳の時からずっと、俺が願い続けてきたこと。
俺も、セプタードも、他の誰もが叶えられなかったことを、カイルワーンが為したのだと悟った。
そして同時に俺は、己が何を間違っていたのかに気づいた。
俺とカティスの関係が、とても一方的だったのだということ。
俺が常にカティスを、目下として見ていた――対等の者として見ようとしていなかったこと。
結局俺のしていたことは、愛玩だったのだということ。それに気づいた。
自分より弱いものを守ることで、己の庇護欲を満たそうとしていた。それはどれほど一方的で、独善に満ちた行いだろう。
カティスはきっと、一方的に守ってほしくなんてなかったのだろう。
必要だったのは、保護者ではなかったのだろう。
当然だ。結局庇護愛の底には、相手を自分より弱いものと見なし、見下し憐れむ気持ちがあるのだから。優越感を満たそうとしているだけなのだから。
あいつだって、そんなものを押しつけられたくはなかっただろう。いい迷惑だ。
カティスが欲しかったのは、対等の相手だ。
お互い対等に向かい合い、分かち合い、支え合う。必要だったのは、そんな存在だったんだ。
ああ、と俺は内心で呻きを上げた。胸の中がこみ上げてくる思いでいっぱいになった。
安堵に体の力が抜けていくような気がした。それくらい心底ほっとした。
俺はそうして、あいつにすがりついていた手を、放した。
もうカティスは大丈夫だ。
もう俺はいなくていい。
そう心の底から思った。
それなのに、どうしてあいつは自らの半分を、あんな形で喪わなければならなかったのだろう。
カイルワーンが未来から来たこと――あいつがこの国の未来も、カティスのこの先の人生も全て知っているということ、それを聞かされた時、俺には絶望的な未来が見えた。
カイルワーンはきっと、己がカティスの傍らにあることを――預言者が長らく王の側に侍ることを、決して許しはしない。そのことがもたらす弊害を、あいつが看過することは決してない。
俺は親友としての二人の信頼関係に絶対の信を置きながらも、王と預言者という関係に破綻の未来があることに気づかずにはいられなかった。
ずっとそばにいられたら、どれだけよかっただろう。長い人生を共に歩むことができたら、どれだけ。
だけどそれは叶わない。カイルワーンは必ず、カティスの下を去る。
決して口にはしなかったが、俺はその確信を、即位の段階ですでに抱いていたのだ。
だけど五年。たった五年。まさかそれほどの短い時間しか与えられていなかったとは。
そしてその別れが、あんな無残な形になろうとは。
カティスがすべてを一人で背負い込み、あれほどまでに沢山の人に不信を投げつけられることになろうとは。
仕方がなかったのは判っている。それしか選ぶ道がなかったことも。そしてカティス本人が、誰に判ってもらえなくてもいいと思っているだろうこともまた。
だけど、だけどだ。俺はそれを受け入れられない。あいつを罵る声を、あいつを非難する声を、俺は聞き流せない。
誰が判ろうとしなくても、俺たちは判っている。
カイルワーンを喪ったことが、この世で一番苦しいのはあいつだ。
あいつ以上に悲しんでいる者は、苦しんでいる者は、この世にいないんだ。
あれから九年。その月日を、あいつはどんな思いで生きたのだろう。沢山の夜を、どうやって越えたのだろう。
それを知ることはできない。俺たちにはもう手は届かない。あいつの心の平穏を祈ることしかできない。
だからこの目の前の女に思う。
他国には他国の事情が、思惑が、国益があろう。判ってもらおうだなどとは思わない。
だが許せない。
俺は、無神経にカティスの悲歎に、喪失感に触ろうとするこの女を――サフラノを、決して許せない。
「触るな……カティスの傷に、薄汚い興味や了見で触ることは、決して許さない!」
激して叫んだ俺に、王女は冷徹な眼差しを向けた。
「一国の王や宰相を、尊称もなく呼び捨てるお前は一体何者? 一介の平民とは思えない」
「一介の平民だ。カティスだってカイルだって、即位するまではそうだった」
それは俺の矜恃だ。俺が陛下などと呼び跪いたら、カティスはさらに孤独になる。それがどれほど無礼なことだと判っていても、俺は譲れない。カティス本人にとって障りがある場以外、何があっても譲れない。
「名乗りなさい」
俺は答えない。無言でただにらみ返した俺に、王女は不快そうに眉をひそめ、そして。
鞭が空を切る、鋭い音が広間に響き渡った。
「やめてっ!」
ロスマリンの悲鳴が広間に響き、俺はその声の方が鞭打ちよりも痛かった。
口の中が切れ、血の苦い味が広がる。この感覚も久しぶりだ。
つくづくこの目の前の女は、俺の中の封じておきたいものに触ってくる。
「答えなさい。答えなければ、お前ではなくロスマリン姫にも危害を加えますよ」
「あいつは人質だろう。傷つけていいのか」
「従属させられれば有益な駒だと思っていますが、それが最優先ではありません。最も大事なのは、賢者を手に入れること。その消息を確かめること。こうなればむしろ、お前に対する人質として扱った方が適当ですらあるわね」
ふと王女は笑うと、ロスマリンに歩み寄る。その酷薄さに、俺の背筋に寒気が走る。
嫌な予感がした。
「それに、傷をつけない危害の加え方もあるわよね」
手にした鞭が、ロスマリンの首元をなぞる。それの示唆するところは、明らか。
「やめろっ!」
今度は俺が叫んでいた。
王女に付き従う騎士の一人が、ロスマリンの喉元に剣先を伸ばした。巧みな切っ先は、喉から胸元のボタンを一つずつ飛ばしていく。
胸元まで大きく服を切り裂かれたロスマリンは、それでも悲鳴を上げなかった。けれども恐怖と辱めに青ざめた面差しに、王女は愉悦を浮かべて俺に迫る。
「お前がこれ以上逆らうなら、裸にしますよ。お前はこれ以上恋人の恥ずかしい姿を衆目に晒して、辱めたいのかしら?」
王女は意地悪く笑い、俺に迫る。きっと唇を噛み、そして。
俺はふと上目遣いだけで上を見た。
王女の背後の、ずっと上を見た。
目配せをし、小さく頷いた後、観念したように答える。
「……ブレイリー・ザクセングルスだ。さっきも言ったように、何の変哲もないただの平民だ」
「所属は?」
「レーゲンスベルグ傭兵団」
俺の答えに、ああ、と王女は得心したように笑む。
「レーゲンスベルグといえば、英雄王と賢者の出身地。……なるほど、お前は即位前の二人と旧知の間柄だったというわけね。そうか、故郷にはお二人の過去を知る者がいたとしても、何もおかしくはないものね」
さも面白そうに目を輝かせて、王女は俺に迫る。
「だとしたら、お前はお二人がどうやって出会ったのかを知っている?」
「……ああ」
ロスマリンが人質に取られている以上、俺は答えを拒めない。渋々首肯する俺に、勢い込んで王女は迫る。
「ならば賢者の過去も――あの御方が、何者なのかも知っている?」
知っている。けれども是とは決して答えられない――答えたところで真実があれでは、苦し紛れの偽りか、さもなくば頭がおかしくなったと思われるかどちらかだろう。
だから俺は、偽りではないが真実でもない答えを口にする。
「カティスは生まれも育ちもレーゲンスベルグだ。貧民街で、俺たちと一緒に平民として育った。カイルワーンはカティスが旅先で拾って、レーゲンスベルグへ連れてきたんだ。998年のことだから、革命のそんなに前のことじゃない」
これはちょっと腕の立つ諜報ならば、レーゲンスベルグの街ですぐに調べられること。当時からあの街にいた者にとっては、当たり前の事実なのだから。
「身よりも行くあても何もないと言うから、カティスや俺たちが面倒を見ることにした。……その旅先でどんな出会い方をしたのか、どんなやり取りがあって俺たちのところに来ることにしたのかまでは、知らない。ましてあいつが何者だったのかなんて、俺たちじゃ知るよしもない」
俺の回答に、王女は目を細めた。しばらく俺をねめつけると、やがて薄ら笑いを浮かべた。
「十四年もの間、各国諜報が追いかけてきた難問ですものね。この程度の尋問で口を割るようなら、とうに明らかになっていることでしょう。……面白い、覚悟なさい」
王女の鞭が俺の頬から耳、首筋をなぞり、その感触のおぞましさに俺は身震いをする。それはまさに、気に入りの玩具をいじり回す子どもだ。
だが俺は、お前のおもちゃになる気など毛頭ない。
「気に入ったわ。姫だけではなく、お前も本国へ連れて帰ります。賢者を直で捕捉することは叶わなかったけれども、仕方がない。お前が知り得ていることすべて、我々の手の中で包み隠さず明かしてもらいます」
王女は残忍で傲岸で、そして蠱惑的な笑みを俺に向けた。それはまさに、人に命じることが当たり前の存在のみが持ち得るものだ。
「そして我々に膝を折り、従うものになりなさい。どうやらお前は、ロスマリン姫だけではなく、カティス陛下への人質としても有用なようだから。存分に役に立ってもらいます」
目の付け所は悪くはない。俺は確かにカティスの泣き所かもしれん。マリーシアに告げられたとおり、あいつはまだ俺に情を残しているのだから、交渉の材料とするのに悪くはなかろう。
俺やロスマリンを意のままにすれば、カティスの喉元に刃を突きつけられる。理屈の上ではそう。
だが、だ。俺は王女の宣告を、鼻で笑った。
何をふざけたことを抜かしているんだ、この女は。
「どうやって俺を堕とすつもりだ。拷問でねじ伏せるか? それとも快楽や薬物で縛るつもりか? ……笑わせるな、簡単に人の心を思い通りにできると思うなよ、お姫様」
「なんですって?」
「いつだってお前たち王侯貴族はそうだ。俺たち平民を――他人を、虫けら同然にしか考えていない。だから平然と自分に従うと、自分の思い通りになると思い込む。だがな、俺たちにだって心もあれば誇りだってある。どんな身分であろうと、他人が自分の意のままになると思うのは、傲慢極まりねえことなんだよ!」
視線の端で、痛そうに顔を歪めてロスマリンが俯くのが映った。ああすまない、と心の片隅で俺は詫びる。
大貴族であるお前には痛かろうな。実のところ言ってて俺も痛い。けれどもその痛みを含めて、俺の本心でもあるんだ、ロスマリン。
お前がそうだと言ってるわけじゃない。だけどお前はそんな奴らを、腐るほど見てきただろう。俺もそうだ。
だからこそ俺もお前もこれから先、そこから目を背けてはならない。
俺たちは、見過ごしてはならないんだ。
「それにだ。俺やロスマリンを本国に連行するだと。笑わせるな、どうやってだ」
一転、俺は不敵に笑う。このお姫様は、まるで状況が判っていない。
そう、そろそろ頃合いだ。俺のこの言葉に、あいつが微かに頷くのが見えた。
「サフラノから忍んできたというのならば、海路だな。当然自国の船が、マリコーンの港で待っているんだろう。その船で、この街を脱出するつもりでいる――そうだろう?」
「お前、何が言いたいの?」
突然の俺の言葉に訝しむ王女に、冷然と告げる。
「だとしたらその船、もうないぞ」
ざわり、と広間の騎士たちにどよめきが広がった。同様に王女のお人形のような面にも、動揺が広がる。
「マリコーンの全域は、すでに俺たちが制圧した。当然、港も停泊している船舶も全て俺たちの管理下にある。船員たちが不穏な動きをするようなら、容赦なく沈めろと言ってある。どうあれその船は、お前たちの手には戻らない」
「お前……何を言って」
「城内の兵営にいる伯爵の兵は、この部屋に転がっている奴らだけのはずがない。そいつらはなぜここに来ない? さっき話した城外の傭兵たちは、なぜ一向に駆けつけてこないんだ? そのことを、お前はどうして不思議に思わないんだ? 王女様」
どうして、と俺は不敵に笑う。
「どうしてお前は、俺たちがこの城に攻め込んできた奴らだけだと思ったんだ? 俺の所属を教えてやったのに」
知らないお前が悪い。侮ったお前が悪い。
国を背負って陰謀を企てておきながら、俺たちの兵力も実力も、知らないお前が悪い。
「我らレーゲンスベルグ傭兵団、総員五千人を侮るなよ。俺たちの全軍をもってすれば、この程度の街や城の制圧なんてたやすい仕事だ。ましてや、味方として街の中に堂々と迎え入れられていたんだからな」
「まさか、そんな……」
「たった二週間で、八千もの傭兵を雇用できたのを、お前は不自然に感じなかったのか? 当たり前だ、そのうち五千が正体を偽った俺たちなんだからな。残り三千も、今頃は寝首をかかれているだろう。……判ったか? お前たちにはもう逃げ道はない」
王女の、騎士たちの注目――注意が、一心に俺に向けられているのを確かめて、俺は宣した。
全ての意識を己に振り向けるべく、高らかに告げる。
「お前たちは、とうに袋の鼠なんだよ!」
もっとも、と俺は意地悪く笑う。
「俺たちが攻め込んだ時点で、一目散に脱出していれば間に合ったかもしれないのに、ロスマリンや俺にぐずぐず構って大事な時間を浪費したな」
ここで俺がしていたこと、それは時間稼ぎだ。ロスマリンまで餌にする危険な賭だったが、関心を俺に振り向けさせることで、うまく事を運ぶことができた。
だから俺は、王女の愚かさを笑う。
自分の興味にしか目が向かない。自分がしくじる可能性など、危機を迎える可能性などかけらも考えない。
自分の思い通りにならないなどとは、思い浮かべることもない。
世間知らずで視野狭窄で傲慢な、まさにお姫様だ。こいつに付き合わされた連中は、たまったもんじゃないだろう。
だが俺たちは、容赦などしない。
親友は言った。俺たちの女に手を出したこと、俺たちに喧嘩を売ったこと、地獄の底で後悔させてやれと。
ああ、そうだ。ロスマリンにこんな思いをさせたこと、カティスの痛みに触ろうとしたこと、カイルワーンを虜にしようと謀ったこと、そのすべてを俺たちは許すわけにはいかない。
レーゲンスベルグ傭兵団は、身内に手を出す者に、決して容赦はしない。
それが団長や、部隊長格でなくとも。ただの一兵卒であったとしても。
「囚われの身でお前は何を言っているの? お前や姫が私の手中にある以上、お前の配下は手出しなどできはしまい」
微かに青ざめ、けれども強がるように言い放つ王女に、俺は告げた。
まるで死刑宣告のように。
「まだ判らないのか? お前の後ろに、死神が立っているぞ?」
「……なに?」
「その刃から逃れられる者はこの世にはいない。どれほどの手練れであろうと、その前に立ち塞がることすら叶わない。できることはただ許してと叫び、慈悲を請うだけだ」
俺の眼前に立つ王女の背後には、正面大扉。サフラノ兵がなだれ込んだ後、再びそれは彼らによって閉められた。それが仇になったこと――自ら墓穴を掘ったことに、奴らは気づいていない。
この大広間の外がどうなっているのか、この扉の向こうに何があるのか――そこから何がやってくるのか、知る手段がない。
知らず、視線がその扉に集まる。俺やロスマリンを拘束している騎士も、ジリアンたち配下を集め、監視していた他の騎士たちも。
俺から目をそらしたら負けだ。そのことは王女も判っているのだろう。けれども見えない自分の背後から、危険が迫っているぞと脅されて、恐怖を感じずにいられる者がどれくらいいるだろう。
こわばった顔つきで俺を睨む王女に、俺は小さく息を吸い込む。
メルル・ブラン・シュペールバルク、お前の負けだ!
「さあ、来たぞ、死神が!」
俺の叫びに、たまらず王女は振り向く。場の騎士たちの視線が、扉に集中する。
その瞬間、死神の翼がはためく音が、大広間に響いた。
馬鹿が! ひっかかったな!
死神は、上だ!
普段は楽団が陣取る頭上の張出露台。そこから一気に身を躍らせた剣士は、落下する勢いそのまま、俺を拘束していた騎士を一刀のもとに斬り捨てた。
隻腕の俺は侮られ、押さえ込まれるだけで縛られてはいなかった。解き放たれるとすぐさま腰の短剣を引き抜き、ロスマリンの下に駆ける。
そしてあいつもまた、ただ囚われているだけのお姫様ではなかった。己を捕らえる騎士の注意がそれたのを察し、自分の首を拘束する腕に噛みついていた。
思わず緩まる騎士の腕からあいつが滑り落ちるように逃れるのを見、俺は感嘆した。そしてためらわず、敵へと短剣を振り下ろした。
どうっ、と音を立てて、騎士たちは崩れ落ちる。二三歩前に出て、よろけたロスマリンを抱き留めると、あいつは俺の腕の中で呆然とした呟きをもらした。
俺たちを背にかばって立つ剣士の、その佇まいを見て。
「セプター……ド?」
驚くだろう。目を疑うだろう。今ここにいるあいつは、お前がよく知る気安い酒場の主とは別人なのだから。
白灰色の髪に黒灰色の兵装が驚くほど映え、手にした名剣が灯火で煌めいている。
その覇気は場を圧し、意気地のない者は足がすくんで動けなくなるほど。
謀の中で俺は死神と呼んだ。でも本当は、こう思っている。
これこそが、剣神。
「そうだよ、これもあいつだ」
俺はロスマリンに、努めて穏やかに告げた。何も恐れることはないとばかりに。
胸の中に激情がこみ上げてくる。ふつふつと沸いて、その熱でいっぱいになる。
あいつの一人の人間としての幸せを思った。だから二度と剣を握らせたくなかった。その思いもまた嘘じゃない。
だが本当は。心の奥底では、きっとずっと願っていた。
これこそが俺が、魂が焦げつくほど憧れ目指し、届かぬ絶望に狂うほど泣いた男の姿。
本当はもう一度だけでいい、見たかった。
会いたかった。狂おしいほどに。
「これがセプタード・アイル。これまで運命を共にしてきた、俺の相棒だ」
もう卑下しない。カティスの運命がカイルワーンであったように。愛とは恋とは違う場所で、その人生の糸の片端に結ばれた運命の相手だったように。
出会ってから三十二年。同じ宿命に抗い、戦い、従い、生きた。常に共にあった俺の運命の相手は、お前だ。
そしてお前の運命の相手もまた、俺。
お前と共に行く者は、俺だ。
俺の言葉を聞いたセプタードは、ふと口元だけで笑った。それはこそばゆそうで、だがこの上なく誇らしそうに見えた。
「待たせた。お前が時間を稼いでくれてる間に、全部終わった」
俺は頷く。俺がロスマリンの救出に向かう代わりに、城内制圧はセプタードとルイスリールに預けた。その指揮官であるあいつが、露台の物陰に潜んでいることに気づいた時、察したのだ。
こいつがここに来られている以上、制圧戦は成功しているのだと。万全を期し、もう少しだけ時間を稼けばそれで十分。
おそらくこの広間はもう、配下たちによって包囲されているだろう。もはや王女たちに、逃げ場はない。
あとは俺とロスマリンが、拘束から逃れればいいだけ。そしてそれはもはや案ずることはない。
セプタードがここにいる。あいつが俺たちを解き放つ。それは絶対の確信。
あいつは俺に頷き返すと、今度はロスマリンに告げた。驚くほど優しい声音で。
「長い間、辛い思いをさせてごめんな。だけどあと少しだ。これですべて、片がつく」
あいつが今この時のことだけを話しているのではないことは、俺にも判った。
「全部終わったら、みんなでうちでおいしいものいっぱい食べような。好きなもの、何でも作ってあげるから」
この一言に、ロスマリンの小さな体から強ばりがほどけるのが判った。あいつの目にこぼれんばかりに涙が盛り上がっているのを、俺は不思議な思いで見る。
うん、と泣き笑いをしながらロスマリンは頷く。それを見て取って、セプタードは場を見回す。
あいつが飛び込んできたあの一瞬、ジリアンたちもぼうっとはしていなかった。自分たちから注意がそれた瞬間、見張りの者たちに襲いかかって得物と自由を取り戻していた。
もはや人質はいない。おそらく広間の外に待機しているだろう団員たちを呼び込めば、その圧倒的彼我の差で場は収まるだろう。
だがそれでも。俺は苦笑せざるを得なかった。
こいつは、やる気だろうな。
たった、一人で。
「これが兄弟たちから託されてきた、俺の仕事だ。ブレイリー、お前はロスマリンを守れ」
「……ああ」
「お前たちも手出しは無用。己の身を守れ――団長の御為に、一人とて欠けるな」
「必ず」
剣を構え、自分たちを押さえんとする騎士たちを牽制する姿勢のまま、ジリアンも答えた。
あいつらも感じている――感じられるだけの者に、俺やウィミィたちが手塩にかけて育てた。
ただ剣をたずさえるだけで、威を発し他を圧する。その圧倒的な気配を感じ取れれば、割り込もうなどというおこがましいことは考えられはしない。
そうして奴は宣する。王女に、伯爵に、そしてこの陰謀に関わった全ての者たちに。
「俺は傭兵団だけではなく、レーゲンスベルグに住む多くの者たちに信託されてきた。――そこにいるのは、我らの魂の支柱。我らはこの男を貶めること、辱めること――遊び半分で触れ、傷つけることを、決して許さない。それは傭兵団のみならず、ギルド連合、施政人会議、そして街のすべてを永劫敵に回すことと知れ」
吹き上がるのは怒気。判っている俺すら一瞬足がすくむほどの迫力と圧に、俺はロスマリンを抱く腕に知らず力を込める。
「我らの親愛なる団長ブレイリー・ザクセングルスと、その奥方となるべきロスマリン・バルカロールを、戯れで弄んだこと、挙げ句虜にしようとしたことを、我らの誰一人許すつもりはない」
すう、と息を吸い込み、一拍。
冷たい眼差しが、王女へと注がれ、そして。
「我らの怒り、身をもって知れ」
何の構えもなかった。たん、という軽く床に踏み込む一歩目の音を知覚した次の瞬間。
王女を守っていた騎士の一人が、音もなく崩れ落ちた。
誰一人、その剣の軌跡を捉えられなかった。
「いや……いやぁぁっっっっ!!」
ここに至って、王女は悟ったのだろう。自らが真に進退窮まっているのだということに。悲鳴を上げ、床にへたり込む。
「命が惜しい者は、投降しろ」
宣告に、悲鳴と奇声と怒号が響いた。果敢に挑みかかる者もいた。無謀にも多勢を嵩にかかった者もいた。
けれどもそのすべてが、白刃の前に砕けた。
セプタードはほとんど自ら仕掛けてさえいない。まるでまとわりついてくる虫を払うような、そんな無造作なさばきで、襲いかかってくる者たちを除けてしまう。
受け止めることも叶わない。避けることも叶わない。
無造作に振り下ろしたようで、一分も隙もない怜悧な太刀筋は、たやすく人を切り裂いていく。
まるであいつと敵とでは、時間の流れが異なっているかのようだ。
一人、また一人と屈強な騎士たちが膝をつき、屈していく。
俺はその情景を、感嘆と寂寥とともに見た。
ああ何と愛おしく厭わしい光景だろうと。
この友が剣を捨てた時、師である父に何と言われたのか、俺は知っている。
――お前が戦場に出れば、足下に死体の山を築くことになる。
だがそれがお前の幸せか。
本当にお前に幸福にもたらすことになるのか――
と。
師の言いたかったことが、俺にはよく判る。
俺はお前の剣を心底愛している。けれども同時に思う。
やはりお前の剣は、お前を幸せにしない。
お前が剣を捨て、選んだ幸せは――アデライデと築いた人生は、何一つ間違っていない。
だからこそ思う。今目の前で繰り広げられているこの光景、ここに立ち会えたことは紛れもない僥倖。
これこそが今生一度の、剣神の顕現だ。
強く、速く、美しく、そしてどこまでも残酷で容赦ない。
どれほどの才を持った者でも、修練を重ねた者でも到達し得ない界に立ち、その高みから剣を振り下ろす。そうして弱くて愚かな人の子たちが次々と砕け散り斃れていく。
おそらく兄弟弟子たちは皆、見たかったと地団駄を踏むだろう。俺も立ち会いたかったと悔しがるだろう。
俺たちは――同じ師の下研鑽に励んだ兄弟弟子たちは、この剣を激しく羨みそして愛していたのだ。
その思いは、きっと誰一人変わってはいないだろう。
愛しているからこそ、心底思い願う。
これはもう二度とあってはならない。
セプタード、お前は神でなくていい。
人でいい。アデライデの夫で、ヒースやアリス、エリーの父親でいい。
そして人である、俺の友であってくれ。
ぎぃん、という刀身が震える音が余韻を伴って響いた。最後の騎士の剣が弾け、後方に飛ばされていく。
その終末の音にわずかに瞑目すると、俺はセプタードの下に歩み寄った。
「これで全て終わりだ、メルル・ブラン王女」
床にへたり込んでいた王女を二人見下ろし、淡々と告げる。
「御身、我らが預かる」
俺たちを見上げていた王女が力なく頷き、すべての戦いは終わった。
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