03
大陸統一暦1000年から1004年は、アルバ史において激動かつ戦乱の時代である。『六月の革命』に引き続き、ノアゼットを後ろ楯としたフレンシャム候の反乱、センティフォリアの侵攻とオフィシナリスの介入と、若い王の宮廷は一時として休まることはなかった。
しかしある別の見方をすれば、この四年間はカティス王の治世において、最も堅実で安定した時期だったとも言える。
アルベルティーヌ城代として、絶対不惑の預言者であるカイルワーン・リーク大公が鎮座していたからだ。
周辺諸国四方八方から攻められたこの時、カティス陛下は国軍元帥ジェルカノディール公爵と共に、驚くほどの頻度で親征を行ない勝利を収めた。それを叶えたのは、軍師でもある宰相が授けた必勝の策と、陛下の指揮官としての技量――それも勿論だが、陛下が不在の際、宰相が城代として内政を全て引き受けていたことが大きい。
それは国権の専横、と見る向きもあろう。王のいぬ間に、寵愛を笠にきて宰相が独裁を振るっている。そう捉えられても不思議ではなかったし、反宰相派――と呼んでいい、兄様に反感を抱く貴族も少なからずいた――は、兄様をそう糾弾した。しかしながら廷臣たちは、国王と宰相の間の絶対の信頼関係を熟知していたし、宰相の判断に王が後に異を唱えたことも一度としてなかった。
陛下は留守にした城や首都――自分の足元に一度として気を取られることなく、目の前の戦いに集中できた。これは経験浅い新王にとって、何より大きなことだったろう。
これは後に聞かされた私とマリーシア様しか知らないことであるが、兄様は実際には独断で国政を動かしていたのではない。陛下の不在中に、重要かつ高度な政治判断が必要となるその時、兄様は事態に先んじて陛下に判断を求め、了解を取っていたのだ。
兄様に「不測の事態」は存在しない。国元で起こる謀叛も、他国の突然の介入も、敵軍の奇襲も、自然災害さえも、何もかもがお見通しだ。
無論兄様自身は、自分が預言をすること、それに基づいて行動することを根本的には忌避していた。だが困ったことに、自分の知る歴史が「自分が預言を元にして行動すること」を前提にしているのだから、もう割り切るより仕方がなかったらしい。
兄様は歴史の定め通りにアルバを動かすより他なく、陛下もそれを知っていた。それでもなお兄様は、決して独断で政治を行おうとはしなかった。それは兄様の臣下としてのけじめであり、だから主君としての陛下からの信頼は、決して揺るぐことはなかったと言えるのかもしれない。
だからこそ、と私とマリーシア様は、後にため息をこぼすことになる。兄様が決して陛下には言えなかった屈託、陛下が無自覚だった兄様の沈鬱について。
兄様はおそらく、宰相としての、為政者としてのそんな自分を、誰より疎んじていただろうと。
そしてそんな『ずる』に陛下が慣れてしまうことを、誰よりも恐れていただろうと。
陛下には陛下の『王』としての苦悩があったように、兄様には兄様の『預言者』としての苦悩があったのだ。
それでも預言者である賢者を擁するロクサーヌ朝は、磐石であり鉄壁だった。
これも卵と鶏なのだが、そんな最初五年で兄様が国の基を徹底的に固めていったからこそ、その後のカティス王の安定した治世、そして二百年に及ぶロクサーヌ朝があるのだということを、兄様自身も判っている。だから兄様は失踪までの五年を、全力で走り抜けていったのだ。
もし、と私と陛下は思わなくもない。もし兄様がその速度をもう少し緩めてくれていたら、その五年はもう少し長くなっていたのではないか。あの無茶ともいうべき全力疾走が、『五年』という長さを規定してしまったのではないか、と。
けれども同時に私は気づいている。兄様は最初から、自分が陛下のそばにいられる時間が五年であることを知っていた。だからこそ、その五年間だけはそこにいていいと――全力で陛下に尽くしてもいいのだと、自分を許すことができたわけで。
このことを考えるたび、私とマリーシア様、そして『彼ら』は何ともやり切れない思いに駆られるのだが、これは陛下には誰もが決して言えずに胸の中に収めた話だ。
かくしてカティス王の宮廷は、大きく三つの時代に分けられる。その最初期である「賢者カイルワーンのいた宮廷」で、私は育った。
あの謁見の日、国王と大公が私をすこぶる気に入ったことから、私はその後アルベルティーヌで育てられることとなった。実際、間もなくフレンシャム候の反乱が起こり、文官の次席である父は自領に帰り損なった。戦乱の中、私一人を国元に帰すのも心もとなく、だったら王都で一緒に暮らした方がよかろうということになったのだ。
そうして私は、思春期のほとんどの時間を、モリノーではなくアルベルティーヌで過ごした。
「カイルワーン兄様、お邪魔してもよろしいですか?」
兄様の部屋である『銀嶺の間』を守る衛兵は、私の顔を見ると無条件に通してくれる。そこでいつも私が目にするのは、書斎の机に向かっている兄様の後ろ姿。私の声を聞きつけると、穏やかな笑顔が迎えてくれる。
兄様はアルバ王国の宰相であると同時に、陛下より賜ったリーク大公領の領主でもある。しかし結果として、一度として自領に足を運ぶことはなかった。兄様としては、爵位も領地も、宮廷の序列に混乱を与えぬために便宜上拝領したものだったのだし――そしてそれを五年で陛下に返上することも、知っていたわけだし――代官が適正な施政をしていれば、それでよかったのだろう。
兄様は自分の仕事はアルバの内政、そして城と王都を守ることだと思っていたらしい。だから特別の視察などを除いて、およそ城から離れることはなかった。だから宰相としての執務時間以外は、ほとんどこの部屋にいたと言っても過言ではない。
「今日の夜会には、ロスマリンも来ると思ってた。おやつが入るお腹の余裕はある?」
「当然、準備はばっちりです!」
「お腹の準備? 今日の晩餐はご馳走だったろうに。我慢してきたのか?」
「兄様のおやつを逃すほど、ロスマリンはうかつではありません」
胸を張って言う私に、兄様はくすくすと笑った。居間のテーブルの上には、かぼちゃパイ。あの日以来の大好物に、私は遠慮なく手を伸ばす。
あの謁見の日以降、私は登城の特許を得て、こうして一人で兄様の私室を訪ねるようになった。それは無論、男女の逢瀬、という意味ではない。私が『兄様』と呼ぶことから判るように、賢者カイルワーンは私のことを妹のように可愛がってくれたということだ。
アイラ姉様のことを聞かせてほしい。その兄様の願いを叶えることに、一つの否もない。けれども私が姉様と過ごした時間は、たった三ヶ月だ。すぐに話の種は尽きてしまった。
だから代わりに、私は問うた。姉様の話を聞かせてほしい、と。姉様のことが知りたい、できればお二人の思い出を聞かせてほしい、と。
私の願いを、兄様は聞いてくださった。兄様からあふれてくる思い出はとめどなく――それは兄様の記憶力が並外れていたためだったということには、大人になってから気づいた――一日二日で語り尽くせるものではなかった。
そして私はほどなく、兄様が『賢者』と呼ばれる所以を実感する。あの博識な姉様ですら比べ物にならないほどの知識と学識。その持ち主は、私の沢山の疑問に適格な答えを与えてくれた。驚きと、疑問が明かされる喜びに顔を紅潮させた私に、兄様はこそばゆそうに、だがどこか寂しげに言った。
「アイラもこんな風に、君に色々なことを教えたんだろうね」
アイラは楽しそうだった? その問いかけに、私はこう答えるしかない。
「そうだったらいいなと……ご迷惑でなかったのならいいと、そう今でも思っています」
兄様はうん、と優しく笑った。その内心を計り知ることは、私にも誰にもできない。
けれども兄様は私に、いつでもここを訪れていいよと言ってくださった。そしてそのたびに、沢山の思い出話と、あふれんほどの知識を私に与えてくれた。それを幼い私は一つもこぼさぬよう、館に戻ってから懸命に書き留めた。
そうして綴った日記が、後に大きな意味を持つことを、この頃の私はまだ知らない。
この日の夜会のように――両親が未成年である私を伴うほど盛大なものであるにも関わらず、兄様が出席していなかったことからも判るように、兄様はアルバ社交界にほとんど姿を見せなかった。戦勝祝賀会など公のものや、国賓を招いての晩餐会など、宰相や大公として必ず出席しなければならない行事以外は、ほとんど出てこなかった。反宰相派はそんな兄様を批難したが、私にもその理由は判る気がする。
単純に兄様は、社交界というもの自体がうざったかったのだろう。
同時に、兄様は夜のわずかな時間すら惜しかったのだ。
余人の知るところではないが、兄様には宰相や軍師として陛下を補佐するだけではなく、歴史家としての務めがあった。
賢者カイルワーンは沢山の文献を後世に残したが、それは兄様の意思で行われたものではなく『未来で存在していたから、過去において作らなければならない』という卵と鶏の矛盾のためだ。そしてそれこそが、兄様を『賢者』たらしめたもの、兄様に預言者としての力を与えたものだ。
だから兄様は、姉様と歴史を遂行すると約束をした以上、どんなに忙しかろうと心理的に辛かろうと、賢者の著作を完成させなければならなかった。
だから私の知る兄様は、いつも自室の机に向かっていた。
兄様にとって、時間はいくらあっても足りなかったろう。それでも私の訪れをいつも喜んでくれて、この日のようにおやつを用意してくれていることもしばしばだった。迷惑をかけているかもしれない、とは思ったが、それでもいつも慈愛に満ちた笑顔が私を迎えてくれた。
今思えば、私と過ごしたその時間は、兄様にとってはささやかな休息時間だったのかもしれない。
無論、幼いとはいえ女である私が独身男性の居室を訪れることは、貴族社会の通俗観念をもってしても問題ではあった。でも今にして思えば、兄様は私をうまく隠れ蓑にしていたのかもしれない。
なぜならこの頃の宮廷婦人たちの最大の関心事は、誰が国王や宰相を射止めるかだったのだから。
「あ、やっぱりロスマリンも来てたか」
「……夜会はどうした? 国王陛下」
気配も感じさせずに突然現れた陛下に、兄様は平然と言い放つ。
「その台詞は、そっくりそのままお前に返すな、大公閣下」
そんな憎まれ口にも、陛下は動じない。一方そう言いながらも、すでに兄様の手がもう一杯お茶を淹れている――そもそも最初から三客茶碗がある辺りが、この二人の関係をよく表していると思う。
「俺がいない方が、羽目が外せていいんじゃないか?」
「君目当ての女性たちは、がっかりしただろうに」
「俺がいても、あからさまにがっかりした奴らもいたけどな」
「……勘弁してくれ」
心底参ったとばかりの渋面を作る兄様と、無造作に手づかみでパイを頬張る陛下に、私は我関せずを貫くことに決めてお茶をすすった。判らないでもないけど、と内心で呟くも、父たちの心労を察すれば、この点においてはこの二人は本当にしょうもないなと思わずにいられない。
兄様のみならず、どうして陛下までもこう色恋ごとがどうでもいい人なんだと。
子どもの頃の私ですら感じていたことだが、この二人はほとほと心憎い存在だ。国王や大公というこの国最上の身分、救国の英雄という至上の名声、民衆の天井知らずの尊崇、そして方向の違う、けれども等しく人を惹きつけずにはおられない容姿。本人の『心』以外の部分が、どうしてここまで非の打ち所がなかったのかと、二人を一度も『男性』として見なかった私は、半ば呆れをもって振り返る。
その『心』という外側から見えない部分が、この二人の最大の問題であったわけなのだが、王妃や大公妃を目指す女性たちには、そんなことは知るよしもないし、どうだってよかったわけで。
そんな女性たちのあの手この手は、アイラシェール姉様という永遠の伴侶がいる兄様にはもう、うざったくて仕方がなかったことだろう。
私という存在は、そんな兄様にとって非常に都合がよかったに違いない。副宰相にして革命の功績者であるバルカロール侯爵の長女。大公に釣り合う身分の女性は、私以外にはジェルカノディール公爵の令嬢か他国の王女くらいしかいない。そんな私が恋人という誤解は、兄様にとって実に都合のいい煙幕だったのだ。
だがバルカロール家が、それを誤解で終わらせたくないと思ったのは、まあ当然の成り行きかもしれない。その顛末を、私はずいぶん後になってから、父から思い出話として聞かされることになる。
大陸統一暦1004年、諸外国との一連の終戦直後のことだ。後述する『事件』の、おそらく少し前のことだろうと推測する。
私との縁談を父にもちかけられた兄様は、しばらく黙っていたが、努めて穏やかな口調で問い返した。
「エルフルト、正直に答えてほしい。この縁談は、誰のためを思ってのものなんだ?」
「……どういう意味でしょう」
言葉の意味を捉えかねた父に、兄様は苦笑した。
「これは大公家の姻戚になるという、侯爵家としての戦略なのか。それとも僕の臣下として、ささやかな慰めに娘を差し出したいということなのか。それとも一人の父親として、娘を最も幸福にできる男が僕であると見込んだということなのか、そのどれだと僕は聞いているんだ」
直截な言葉に、父は言葉を返せなかった。詰まる父に、兄様は傍から聞いたひどく自虐的な――だが本人にとっては真理以外の何物でもない、とどめの一撃を放つ。
「君は僕が、自分の娘を一人の女性として誰よりも愛し、最も幸せにできる男だと思えるのかい?」
アイラシェールのことを、そして彼女を思い続けている僕のことを、誰よりも知っている君が。
言外の声は、父ならば誰よりも聞こえただろう。だからこそ父は答えられなかった。誰よりも兄様を理解している臣下だからこそ、はいともいいえとも答えられなかったのだ。
そんな苦渋をにじませる父に、兄様は今度は楽しそうに笑った。
「ロスマリンは君が余計なことをしなくても、誰よりも自分を愛し、幸せにしてくれる男を選んでみせるよ、きっと」
「……閣下は、もしやロスマリンの未来も全てご存知なのですか? もしや私の娘としてではなく、ロスマリン自身のことをご存知だったのですか?」
「実は生涯の全部を知っているわけじゃない。でも伝わっている人生の一部分でさえも、ある一側面においては君より有名。バルカロール侯爵エルフルトの娘としてではなく、ロスマリン・バルカロール一個人としてちゃんとアルバ史に名を残す」
「……それは、ロスマリンが、アイラシェールやあなたと出会ったからですか」
問いかけに、兄様は視線を落とした。
「そういうこと、なんだろうな。彼女の人格形成という話をしたら、どうしたってアイラや僕の影響を抜きにすることはできないんだろう。だけど」
「……だけど?」
「だからこそ、僕たちは願わずにはいられない。……エルフルト、僕からの頼みだ。どうか君は、ロスマリン自身の幸せを第一に考えてやってくれないだろうか。侯爵でも副宰相でもなく、ただの一人の父親として、一番の味方になってやってはもらえないだろうか」
国のためでもなく、家のためでもなく。何より自分やアイラのためではなく、彼女自身の幸せのために。そう兄様が言いたかったのだろうと、父は後に語る。
「君たちはそうは思わないかもしれない。でもね、僕ら自身は判っている。僕とアイラはね、とっても勝手だったんだよ。自分たちのことだけ、自分たちの幸せだけを追いかけて輪を閉じてしまった。二人だけで完結して、そこに巻き込まれ、共に閉じられて悲しみを繰り返す人たちのことなんて、何も考えていないんだ」
その時、兄様が誰のことを思っていたのか。それは察して余りある。お互いのことを何より誰より最優先に思うが故に、最後の最後ですれ違ってしまった人のこと。
「それを歴史の定めだと、変えられない因果だと、割り切るしかないことは判っている。ロスマリンがアイラや僕に出会うことは、何度繰り返しても変わらないし、何度でも定められている未来へと進んでいくだろう。それでも僕たちは願わずにいられない。僕たちと出会うことで成り立っていくロスマリンの未来が、僕たちのための犠牲にはならないよう。僕たちと出会ったことで選ばれる、彼女のたった一つの道が、彼女の幸せにつながっていくことを」
これ以上、犠牲を見るのは沢山だ。兄様がそう絞り出すように呟いた言葉が忘れられない、そう父は言った。
結局のところ、兄様の苦しみは誰にも判らなかったのだと私は思う。そんな兄様が、私や陛下の何を苦しめていたのか、芯のところでは結局判ってはくださらなかったように。
もしも、と私は思う。もし私が何も気づかなかったとしたら、兄様の苦しみはもう少し軽いものとなったのかもしれない。けれどもその時の私はそれに思い至らず、ついにこの問いを口にすることになる。
そば近くにいれば、当然のごとく誰もが胸の中に抱く単純かつ根源的な問いを。
そう。兄様とは、何者だと。
それをついに切り出したのも、統一歴1004年。今にして思えば、そこは兄様にとってもアルバ宮廷にとっても、秘かな転換点だったのだ。
「兄様、私、どうしても判らないことがあるのですけど」
「……なんだい?」
私は意を決して問いかける。それは私がない頭を懸命に絞って考えた、逃げ道なしの問いかけ。
「昔兄様から、木星にも月があるってお話を聞いたことがあります。覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」
「兄様はその知識を、どこで得られたんでしょうか」
「どこって、天文の論文だけど」
要領を得ない兄様に、私はとどめの一撃を繰り出す。
「その論文、私も王立学院図書館で見せていただきました。ただ、司書さんが言っていました。この論文が発表されたのって、二ヶ月前だって。今し方オフィシナリスから入ってきたと、そう言ってました」
その瞬間、兄様はあからさまに『しまった』という顔をした。だから私はできるだけ責める色を殺して、問いを重ねた。
「昔から、不思議でしょうがなかったんです。兄様が子どもの頃から勉強されたという図書館は、一体どこにあるんですか?」
「……ロスマリン?」
どういう意味だとばかりに名を呼ぶ兄様に、私は小さく吐息を漏らした。
「私は侯爵令嬢の特免で王立学院図書館に入れてもらってますが、兄様や姉様ほどの知識が得られるだけの蔵書はないと思います。事実、今まで教えていただいたこと、本で確認しようとしたんですが、その多くが原典を見つけられずにいます」
兄様は何も言わずに、私の顔を凝視している。
「だとしたら、他の国の図書館ですか? でも、王立学院以上の図書館って、どこの国にいけばあるんだろうと思います。オフィシナリスとかフェディタとか、アルバより大きな国に行けばあるんですか? 仮にあるとしても、その蔵書を兄様や姉様の年齢で自由に閲覧できて、あれだけの知識を身につけられるだけ勉強できたってことは、お二人は平民ではないですよね。王族か貴族――でも、他国のやんごとない方たちが、どうしてモリノーの芸人一座や、レーゲンスベルグの市井におられたんですか」
それは本当は、聞いてはいけないことなのかもしれない。私が無邪気な子どもだからこそ、兄様はそばに置いてくれていたのかもしれない。だから長い間迷った。拒絶され、不興を買って妹分の立場を失うくらいなら、何も言わない方がいいのかもしれない。そうも思った。
けれども、もう黙ってはいられなかった。なぜなら――。
「……ロスマリンは、幾つになったんだっけ」
「今年で十五です」
そう、私はもう十五だ。もう子どもではない。
子どものままでは、無邪気な妹分のままではいられない。
そんな私の思いを読んだか知らず、兄様は深くため息をついた。
「いつまでも子どものように思っていたけれど……そうだよな。四年もあれば、一人前の女性になるには十分だ」
兄様は椅子にもたれ、しばし天を仰いでいたが、やがて意を決したように私を見た。
「実を言えばね、最終的には君は全てを知るような気がしていた。アイラがなぜ死んだのか、それを君に隠し続けることはできないだろうと。だからいずれエルフルトが、君に全部を話すだろうと。……でも、僕の口からそれを言わなければならなくなるとは、正直思っていなかった」
まだ自分に時間が残っている、今この時に。
そう兄様が思っていたことを知るのは後のこと。そしてこの時点で私が真実を知ったことが、運命と歴史を構成する一要素であったこと、兄様ですらそれに気づいたのは多分最後の頃だろう。
運命に従うこと。定めを呑み込むこと。この一瞬すらそれであることを、兄様は長い物語をもって私に教えてくれた。
あんなにも知りたかった姉様の死の真相をもって、長い物語が幕を下ろした時、私は顔を上げられなかった。
拳を握りしめた。爪が刺さればいいのに、と思った。そうすれば、傷の痛みで胸の痛みも少しは紛れるだろう。
体が震えて止まらなかった。目頭が熱くなってたまらなかった。けれども唇を噛みしめて、私は喉から音が洩れることさえ懸命にこらえた。
泣きたくなかった。
可哀想だと、誰に言う資格があるだろうか。
残酷な運命だと、哀れむ権利が誰にあるだろうか。
悲しいなどと、どの面を下げてこの目の前の人に言えるのだろうか。
望んだのは自分。話してほしいと願ったのは自分だ。だから聞かなければよかったなどとは思わない。けれども、けれども。
あまりにも、やり切れなかった。姉様が大好きだった者として、兄様が大好きな者として、あまりにもあまりにもやり切れなかった。
この時の私は、まだ幼くて――そして呆然としていて、このやり切れなさの理由が明確な形とならなかったが、それはやがて彼と出会うころになって、たった一つの言葉となる。
あまりにも完璧すぎる輪。完全すぎる恋の成就。一方は己の命、一方は己の残りの人生、それを全て犠牲にして叶えた恋に、否を唱えられる者はいない。けれどもそれを見せつけられた者たちは皆叫びたい。叫びたいのだ。
納得できない、と。
それでも納得できない、と。
だって私たちは、この人たちが好きだったのだ。だって私たちは、この人たちに当たり前の幸せを掴んでほしかったのだ。
そしてそのために、自分たちにできたことは、何一つ、何一つなかったのだ。後にも先にも、何一つ。
悔しくて、あまりにも悔しくて、割り切ることも呑み込むこともできない。うなだれ、ただ肩を震わせている私に、兄様はぽつり、とこぼした。
「大人になるって、厄介だな。四年前のロスマリンだったら、僕もためらわずにだっこできたのにさ……今じゃ、こう聞いとかないと駄目だ」
「にい……さま?」
「ロスマリン、抱きしめてもいいかな?」
返答はできなかった。したら、ようやくで堪えているものがあふれ出てしまいそうだった。
そんな私に伸ばされた腕は、軽く肩を抱いて背中をなぜる。そこに優しさがあることに、気遣いがあることに、私は胸が痛む。罪悪感で胸が痛む。
「泣いていいよ、ロスマリン。こらえなくてもいいんだ。泣きたい時は、泣いていいんだよ」
その言葉にもはや、涙は止められなかった。どんなに食いしばっても、伝い落ちる涙は止めようもない。
私はただ、声もなく泣く。
「君がこの真実を知ること、運命の存在を知ることがどんな意味を持つのか、僕にも判らない。歴史や未来にとっても、君の人生にとっても」
「……はい……」
「でも、ただ一つだけ言えるのは、君の人生はそれでも君だけのものだ。君は君の思う通りに生きてごらん。そうやった生きた君のことが、僕もアイラも大好きだったよ」
不思議な過去形で語られる言葉が、重大な預言だったことに気づいたのは、興奮が冷めた後のことで。
かくして私の運命と人生は、大きな転機を迎える。それがあらかじめ決まっていたことであったとしても、だ。
そして時は大陸統一暦1004年から1005年を迎える。決して正史では語られない、数多くの人たちが歯を食いしばり、魂さえ削って駆け抜けた一年。
声さえ殺さなければならなかった慟哭に満ちた、賢者カイルワーン最後の一年間が、幕を開ける。
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