17

 私とグリマルディ伯爵の婚礼準備は、着々と進んでいた。伯爵に捕らわれてから二週間、私はそれを大人しく受け入れるふりをする日々を送った。

 大人数のお針子が雇われ、突貫工事で花嫁衣装が仕立てられる。伯爵からつけられた侍女たちは、私の体を磨き上げることに執心した。髪をくしけずり切りそろえ、爪や肌を整える。気を許せぬ者たちに裸身を預けることは激しい不安と嫌悪を伴ったが、全力で堪えた。

 そして伯爵の不埒も、また。

「ロスマリン、お前に会わせたい御方がいる。私の、とても大事な客人だ」

 私をすでに手に入れたつもりでいる伯爵は、気安くそう告げた。

 この二週間、伯爵は私を幾人もの貴族に引き合わせた。その誰もが私と伯爵の結婚を寿ぎ、アルバ北部貴族の連携成立を喜んだ。私は伯爵への屈服と従順を装いながら、そんな彼らを深く観察する。

 いずれも見覚えはある――その程度の勢力しか持たぬアルバ貴族だ。その名を聞き出し、心の中に刻みつけながらも、私は違和感を消せずにいた。

 この程度の連中が寄り集まったところで、それでどうなる。彼らが同時に蜂起したところで、どうだ。

 こんな奴らが持つ程度の軍勢で、カティス陛下率いる国軍に勝てるわけがない。

 だとしたら、グリマルディ伯爵のあの自信の根拠は、なんだ。

「判りました、参ります」

 椅子から立ち上がり、ドレスの裾をさばいた私を、伯爵はたやすく捕らえる。

 己が手中に収めると、いつものように唇を奪った。

 もはや私も、抵抗はしない。表情を変えず目を閉じ、沸き上がってくる嫌悪感を必死に呑み込み、この苦行が一秒でも早く終わることをただ希う。

 この二週間、伯爵がこの先に進もうとしたことは何度もあった。けれども私は何とかそれをかわし続けている。――このアルバ随一の姫、ロスマリン・バルカロールに恥をかかせるのか。正式に婚姻せぬうちに行為に及ぼうなど、貴族としての礼節はどこへ行った。これ以上狼藉に及ぶなら、舌をかみ切って死ぬぞ。この脅しで、何とか乗り切れている。

 けれどもそれも、結婚式までだ。もしそれまで助けが来なかったら、私はもうこの男を拒む術がない。

「……お客人がお待ちなのでは?」

 伯爵の腕に捕らわれた姿勢のまま、私は言い放つ。残念そうに舌打ちをすると、奴は私を解き放った。

 そうして導かれた応接室で待つことしばし。先触れの後に現れた人物に、私は弾かれたようにソファから立ち上がる。

 私も貴族の生まれである以上、礼儀作法は叩き込まれている。自分より身分や位の高い人物に直面した時、礼を取るのはもはや反射だ。

 目の前に現れたその人物は、座って出迎えていい相手ではなかった。そして正式の場であれば、当然のように頭を垂れるべき相手。

 刹那呆然と立ち尽くした私に向けられたのは、鈴を転がすような愛らしい声音。

「ごきげんよう。久しくお目にかかります、ロスマリン様」

 はっと我に返った私は、裾をさばいて跪いた。今は何が起ころうとも、伯爵に逆らうことなどできない。この人物を、伯爵が招いたのならばなおのこと。今は礼を尽くすのみ。

 しかし内心の動揺を、抑えることはできなかった。

 私はこの目の前の女性を知っている。マリーシア様付の宮廷女官として、使節としてアルバを訪れる彼女をたびたび接遇してきたのだから。

 それがまさか、こんなところで出会うことになるとは。

「お久しゅうございます、メルル・ブラン王女殿下」

 現サフラノ国王の長女にして王太子の妹、メルル・ブラン王女は私の挨拶に、にっこりと笑った。

 白金色の髪に水色の瞳が可憐で、華奢な肢体と相まって文句なしに愛らしい女性だ。現在二十歳のはずだが、十六、七歳くらいにしか見えない。

「恐れながらいつアルバにおいでになられたのです? 恥ずかしながら、まったく存じ上げませんでした」

「これはごく私的な訪問ですもの。実はグリマルディ伯爵とは以前から親しくさせていただいておりまして。伯爵が結婚されると聞き及んで、とるもとりあえず海路駆けつけた次第ですの」

 扇で口元を隠し、メルル・ブランは笑う。私は跪いたまま彼女を上目遣いに伺うしかない。

 黒幕はサフラノなのか。だがその狙うところは、なんだ。

 アルバは――ロクサーヌ朝は正直、サフラノに弱みがある。

 ウェンロック先王の正妃、ルナ・シェーナはサフラノの王女。現国王の叔母にあたる。緋焔騎士団が摂政として立て、独裁の隠れ蓑とした彼女の命を、陛下と兄様は救うことができなかった。ウェンロック王が殺害された後、まもなく自害した、ということすら、マリーシア様が見いだされるまで判明しなかったのだ。亡骸を、故国に返還することも果たせなかった。

 それは前王朝――緋焔騎士団の罪であって、陛下や兄様のせいではない。しかしサフラノの国民感情として、アルバに不審や不快感を抱かれてしまったことはいかんともしがたい。故に、サフラノに対しては陛下はかなり気を使っているはずだ。

 そんな中、王女が御自ら、陰謀のまっただ中にいる。これを私は、どう解釈したらいい。

「伯爵、私は以前から、ロスマリン様とゆっくりお話しをしてみたかったのです。席を外してくださらないかしら」

 突然の申し出――命令に、伯爵は狼狽した。だがそんな彼に、王女はまったく邪気のない口調で言い放つ。

「女同士の語らいに口を挟もうなんて、伯爵がそんな無粋な方だとは思いませんでしたわ」

 言外ににじむ『無礼者』という言葉に、伯爵は唇を噛んで退室していった。

 残されたのは、私と王女と衛兵。帯びている剣の紋章から、彼らが王女の護衛と悟る。

 メルル・ブランは優雅な身のこなしで上座のソファに落ち着くと、私はその対面に招いた。ふう、と一息ため息を漏らしてくつろぐと、私を見て笑う。

「さて、この度のご婚約、誠におめでとうございます。そして誠にご災難様でした」

 平然と言ってのけた王女に、私は目を見張った。やはり彼女は何もかも知っている。

 そして彼女は険しくなった私の表情を見て、忍び笑いをもらした。

「ご安心ください。伯爵は盗み聞きなどできないところまで遠ざけるよう、命じてありますから。私はロスマリン様と、忌憚なくお話をさせていただきたいのです」

「ならば無礼を承知で、率直にお伺いします。殿下は私に、何をさせるおつもりなのですか?」

 私は真正面から切り出した。

「ここに捕らえられてから二週間、私なりに考えてみましたが、判らなかったのです。人質としての己の価値を、否定する気はありません。しかし私を虜にしても、バルカロールは手に入らない。伯爵が私との婚姻をもって、何を狙おうとしているのか、なぜ婚姻が必要だったのかが判らない」

 それはこの時は知るよしもないが、セプタードも抱いて論議となった疑問であったらしい。

 だが王女は私の問いに、心外だとばかりに笑う。

「ロスマリン様。貴女はごく単純に、自分が伯爵に懸想されているのだと、お考えにはなりませんでしたの?」

「え?」

「今回の件は、私どもには勿論別の意図があります。しかし元々は伯爵が貴女に恋情――いいえ、邪な欲望を抱いたのが事の起こりでしたのよ。貴女が自領に飛び込んでくる好機を狙い、既成事実をもって我が物にしようとした。ただそれだけのことだったのですよ、最初は」

 私は返事ができなかった。それくらい、王女の発言は色々な意味で、あんまりだった。

 簡単に『ただそれだけ』言うな、という言葉は呑んだ。そして同時に思わずにはいられない。

 あの伯爵、私のどこがよかったというのだろう。どこに欲情を抱いたというのだろう。

 そう思うのは卑下からではない。だってあの男は、私とほとんど接点を持ったことなどないではないか。そんな男が、私のどこを見て、何に惹かれたというのだ。

 恋慕とはそういうものなのだろうか。まったくもって理解できない。

「けれども、それは北の雄・バルカロールに対し弓を引くも同然ですし、王妃付の一の女官である貴女に狼藉を働くことは、国家への反逆と受け止められても仕方のないこと。そう考えてうじうじ悶々としていたので、焚きつけて差し上げたのです。ロスマリン様は本当は家と王朝に縛られていて、そこから逃れたいのだと。この境遇から解き放てるのは、あなただけだと――実行に移すのなら、私たち列強が後ろ盾になってやっていい、と」

「列強とは、まさか」

「ええ。今回の一件には、サフラノの他にフェディタもオフィシナリスもエグランテリアもガルテンツァウバーも一枚噛んでいますわ。これだけの国が団結して後押ししたら、そりゃあ誰だって強気に出られますわよね。アルバ全土は乗っ取れないまでも、自分たちの領地を集めて独立、くらいのことは考えたんじゃないかしら。その盟主として貴女を女王に、とかはあり得そうな話ですわね」

 私はその瞬間、まさに血の気がひいた。それはアルバを取り囲む諸外国のすべて。それが一致団結して襲いかかってきたら、アルバ全土が戦場になる。

「そんな……一体どうやったら、それほど沢山の国が、同時に挙兵する約定など結べるというのです。一体誰がそんな困難を成し遂げたのです」

「まったくですわ。普通でしたらそう考えますよね。でも伯爵とそのお友達一同は、そう思わなかったようですよ。だから私どものそそのかしに、ほいほいと乗ってきた。――馬鹿じゃないかしら」

「……はい?」

「ロスマリン様も、そんなことできるわけないと思ったでしょう。その通り、できるわけがありません。だから、挙兵なんてしません」

 本当に、私はこの瞬間、王女にまったくついていけなかった。

 完全に硬直した私に、王女は平然と言い放つ。

「列強五カ国はある目的遂行のために、今回の件に干渉していますが、兵力をもってアルバを侵そうなどとはかけらも考えていません。――冗談ではありませんよ、戦神の誉れ高きカティス陛下と事を構えるなんて。そんなこと、どの国も怖くてできっこありませんよ」

 ふう、と小さなため息をついて、王女は言い放つ。

「その愚を犯したセンティフォリアとノアゼットは、どうなりました? 我々はかの国の二の舞を演じたりはしません」

「つまり、それでは列強五カ国は、一致団結して伯爵を騙したと……」

「そういうことになりますわね」

「それでは、この反乱は国軍にすぐに鎮圧されますよ」

「それで一向に構いませんし、伯爵がどうなっても結構です。私たちの目的は、反乱を成功させることではありませんから」

 私はあまりのことに、ただ呆然と呟く。

「訳が判らない……」

「そう言いたいのは、むしろ我々の方です。貴女たちは、あまりにも訳が判らない。列強五カ国の王たちは皆そう思ったから、私が持ちかけた計画に乗ったのです。その答えを知ること、確かめることは、これほどの争乱を起こすだけの価値のあることなのだと、貴女は想像もしたことがないのでしょうね」

 王女は不意に口調を変えた。冷たく厳しい声音に、私は寒気を覚える。

「貴女は自分がどれほど諸外国の注目を集めているのか、どれほど我々が喉から手が出るほど欲しい情報の持ち主と目されているのか、全く自覚されていないようですね。――はっきり申し上げましょう、この一連の騒乱の目的は二つ。貴女を手中に収めること、そして貴女を利用することで、九年にも及ぶ懸案事項に決着をつけることです」

 九年前――大陸統一暦1005年。その瞬間、私は雷に打たれたような錯覚とともに、閃いた。

 大陸統一暦1005年とは、アルバに何が起こった年だ?

 まさか。

「そうです、お判りになりましたね? 私は貴女にこれを問うために、この計画を立案したのです。今あなたを助ける者はいない。決して逃れられはしない。ですから答えていただきます」

 獲物を決して逃さぬ狩人の眼差しが、私を捕らえた。

「九年前、カティス陛下とカイルワーン大公閣下との間に、何があったのですか」

 やっぱりそれか――私は内心で絶叫した。

 何があろうとも、決して答えられない問いを突きつけられ、私は体の震えを懸命に押し隠す。

 王女の言いたいことが、ここに至って判った。

 その真実がカティス陛下から得られないのならば、次に標的とされるのは確かに私以外あり得ない。

「陛下と大公の妹分とされ、側近くに仕えていた貴女は、誰よりも近くで真実を見ていたはずです。答えてください。あの偉大な御方――賢者カイルワーンは、ご存命なのですか。それとももう亡いのですか」

 私は確かに真実を知っている――陛下ですら知らないことすら。だがそれは決して明かせない。

 だが王女は、決して私を逃そうとはしない。

「我々がどれほど切実にその答えを求めてきたのか、懸命に手がかりを探し続けてきたのか。そうして費やされた九年という月日がいかに長かったのか。その全てが貴女には想像もつかないことでしょう」

 最初からお話ししますわ、と王女は気を取り直すように呟くと、私に向かう。

「九年前カティス陛下は、賢者が宰相をはじめ全ての役職を辞し、領地と爵位を返上して失踪したと発表された。しかし我々サフラノを始め、他国の人間にとってそれは、容易に信じられるものではありませんでした。一体どんな理由があれば、あれほどの方を放逐するなどということがあり得るのかと」

「それはアルバ人だとて同じです。誰にも信じられはしなかった」

 私は当然の回答を王女に返す。その報は、貴賤を問わず全てのアルバ国民を驚愕と悲歎と不安の底に叩き込んだ。

 以降陛下と父は、混乱を収めるのにどれほど苦心したことだろう。

 陛下は宰相の後任を命じた父にも、何も語りはしなかった。けれども父は数少ない、兄様の正体を知る者だ。陛下が歴史に真実を記さぬために、全ての汚名をかぶったことを察した父は、黙してその命に従った。

 だが数日後、城に詰め通しだった父がようやく戻ってきた後、自室で独り慟哭していたことを、私は知っている。その物狂おしい叫び声は、今でも鮮やかに脳裏に甦ってくる。

 我が君――遠くなってしまった人のことをそう呼んで、泣き叫んだ父の内心は、私にも計り知れない。

 あの時私は、父がどれほど臣下として兄様を恋い慕う者であったのかを実感した。

 でもそれも、真実を知る者の嘆きだ。真実を知らぬ者にすれば、あの一件はひたすらに不可解で、不審だったことだろう。アルバ宮廷が立ち直るには――陛下が寵臣以外の諸侯たちの信を取り戻すには、本当に長い時間がかかったのだ。

「であると同時に、もしそれが真実であるならば、諸外国にとっては垂涎の事態です。この大陸の全ての国の王が、諜報に同じ命を下したことでしょう。――何としてでも賢者の消息を探れ、見つけ出すことができたのなら、いかなる手段を用いてでも自国へお連れせよ、と」

 私はその瞬間、心底ぞっとした。心に浮かんだ言葉はただ一つ。

 危なかった。

 王女の語る言葉は――九年前、他国の王たちが考えたことは、あまりにも当然だった。

 たった五年でセンティフォリアとノアゼットを併合し、政治体制を整え、最後には憲法まで制定した偉大なる軍師にして大宰相。この時代のいかなる者も比肩し得ない大天才。アルバの黒い天使とまで呼ばれた人が、野に下った。そう聞いたら、誰だって思うだろう。

 欲しい、と。

 あの英明な男を己が手中に収めたい、と。

 己に跪かせ忠誠を誓わせたい、と。

 大陸統一暦1005年のあの時、兄様は沢山の国に狙われていたのだ。そして兄様自身はきっと、そのことに気づいていなかっただろう。

 あの時もし、兄様が他国に捕らえられ、連れ去られていたら――想像するだに、背筋が寒い。

 兄様はあの時、自身を狙う魔手をすんででかわしたのだ。そのことに九年もたってから気づかされて、私は内心で再び彼らに感謝するしかなかった。

 ああ、やっぱりあの時、兄様は彼らにしか守れなかったのだ。

 そして彼らは兄様を守りきってくれた。それはどれほど困難なことだったのだろうか。彼らがどれほど細心の注意を払って為したことだったのだろうか。

 目頭が熱くなる。けれども今は泣いている場合ではない。ここで私がしくじれば、彼らの努力が全て無になってしまう。

「それから九年、各国諜報の精鋭たちが賢者の消息を追い求めましたが、誰一人手がかりを掴んでいません。ただ一つ確定的なことは、賢者は王宮内にはいない。1005年9月27日夜、賢者は間違いなく城から消えた」

 それは偽りなく真実。私は固唾を飲んで、王女の紡ぐ言葉の続きを待つ。

「我々にとって最も気になることは、カティス陛下が真相を黙して語らぬことです。陛下は一体何を隠しておられるのか――ロスマリン様、私はサフラノ王女としてアルバ王宮に招かれ、大公閣下に幾度かお目にかかっております。最初は六歳の時、陛下の戴冠直後でしたわ。私とお兄様を最正装でお迎えくださった二人のお姿に、思ったのです。まさしく太陽と月、なんと凜々しく眩く麗しい一対であるものか、と。……なるほど国を救う英雄とはこういうものであるのか、と、幼心にひどく胸を打たれ憧れました」

「……はい」

「それと同時に、感じたのです。共に革命を成し遂げ王朝を築いたこのお二人の間には、余人には決して入り込めない強固な信頼関係が――絆があるのだろうと。そのことは、ロスマリン様も否定されることではありますまい?」

「仰る通りです」

 否定しようもない事実を改められ、私は首肯するしかない。

「ではお伺いします。お二人のあの絆は、壊れたのですか? 世間で囁かれるような、嫉妬だの確執だのという醜い理由で壊れるような、そんなちゃちなものであったのですか?」

 痛いところを突かれた、と思った。

 私は真実を守り通すためには、嘘をつくべきなのだ。陛下がどれほど誤解をされても構わない、どれほど罵られ嘲られても構わないと覚悟を決め、全ての汚名をかぶることを貫いているのだ。そのご意志を、私がどうして無にすることが許されよう。

 でも、言えなかった。言いたくなかった。だって私は知っている。

 陛下と兄様にとって、どれほどお互いがかけがえのないものであったのか。

 どれほどお互いが無二の存在であったのか。

 自分ではなく相手の幸せだけを、お互いにどれほど全霊で願い続けていたのか。

 あの日どれほど離しがたかった手を離し、別れたのか。

 それを私と彼と、彼の盟友たちは知っている。私は、私たちはそれを否定したくない。

 だから私は言ってしまう。

「殿下、私は何も真実を存じ上げません。それでも、ただ一つだけ言えることがあるとすれば、今この世で最も賢者カイルワーンを愛しているのは、カティス陛下ご自身です。それだけは疑いようがない。それが大公閣下失踪後、九年間の陛下を見続けた私が出した結論です」

「ええ、そうなのでしょうね。……でもロスマリン様。この世には、誰よりも愛しているからこそ殺す、ということもありましてよ。自分の手で殺してしまえば、誰にも奪われることはない。永遠に自分だけのものになるのですから」

 平然と紡がれた言葉に、私は呆然とした。

 今、この目の前にいる人は、何てことを言った。

「はっきり申し上げましょう。各国諜報の間では、大陸統一暦1005年9月27日に、賢者カイルワーンは王宮内で殺害されたのだろう、という説が主流となっています。そしてその犯人として最有力視されているのは、カティス陛下ご自身」

「無礼者!」

 私は弾かれるように立ち上がり、叫んでいた。一国の王女に対して放っていい言葉ではない。けれども決して許せるわけがなかった。

「いかに王女殿下であろうとも、我が国の国王陛下に対して、なんたることを! 臣の一人として、決して許すことはできません!」

「なるほど貴女は、この推論に怒りを覚えると。一つ判断材料をいただきましたわ」

 いきり立つ私に、王女は笑みさえ浮かべてみせる。私は怒りが瞬時に冷え固まっていくのを感じた。

 私は今この女に、一言一句試され、計られているのだ。

 冷静さを欠いたら、負ける。下手すると、丸裸にされる。

 私は唇を噛むと座り直し、息を整えてから続けた。

「ならばお伺いします。仮に陛下が大公を殺害したとして、それを『失踪』としなければならない理由は? 自分に対して謀反を企てたため、その場で処刑したと言えばいい。大公が追及が自らに及ぶのを恐れ、命を絶ったと言えばいい。陛下が自ら汚点をかぶるような真似をして、沈黙する必要はありません」

「その通りです。ただ陛下が、賢者が自分に反逆したという事実を葬りたかった、という可能性もありますわよね。その露見を恐れて、殺害に至ったと考えることもできる。それくらい、大公閣下は国民の絶大な親愛を集める存在でしたから」

 その推論は、あまりにも的外れだ。けれども私は途方に暮れてしまう。

 そりゃあ的も外れよう。未来人であるという兄様の真実は、人知の外なのだから。

 あの真実を推測できる人間など、この世には一人もいやしない。それを除いて状況証拠だけで推測をしたら、それは的外れなものにしかなりはしないだろう。

 けれどもそれを、彼らは知り得ない。そして私が今ここで真実のすべてを明かしたとて、受け入れられることはないだろう。

 兄様の真実を知っているのは、この世でたった七人。カティス陛下、マリーシア陛下、アンナ・リヴィア母后、父、セプタード、ブレイリー、そして私。この七人がなぜこの信じがたい真実を受け入れたのか。それは『その真実をもってしか、兄様の謎を解決できない』ことが身にしみた、ということもあるのだが、根本はそれではない。

 アイラ姉様から教えられたマリーシア様を除いた六人。この六人は真実そのものだけではなく、兄様自身を信じたのだ。それは結局、兄様を愛したということに他ならない。

 私たちは心底、兄様自身を愛していた。だからその真実を信じることができたのだ。それくらい、兄様の真実は常軌を逸している。あの真実は、愛情に裏打ちされた絶対の信頼がなければ、到底受け入れられるものではない。

 今私が置かれている窮地は、私が真実を明かせないことだけではない。仮に私が彼女らに屈し、全て暴露してしまったとて、それを誰にも信じてもらえないことだ。

 私は彼らが納得できる答えを差し出せるまで、責め続けられることになるだろう。

 しかしそんなものが存在していない以上、一体どうしたらこの事態を解決できるというのだ。

 追いつめられる私に、王女は更なる推論を紡ぐ。

「あるいは犯人が別人だったとしても、陛下は大公が殺害された理由を公にできなかった。その原因、または犯人を隠蔽したかった。それもまた有力な説として囁かれておりますのよ」

「お待ちください、殿下。アルバ宮廷はあの時、大公を失ったことで大混乱に陥りました。あの日の夜、大公が城で殺害されたのなら、犯人は宮廷人だということになる。大公がどれほど陛下とアルバにとって必要な御方だったのか、判らぬ者は城内にはいません。一体誰が、何の理由があって大公を殺害したと? そしてどんな理由があれば、陛下がその犯人を庇うと?」

「陛下を虜にしている同性の愛人を排除しなければ、アルバに未来はない。王妃を迎えるどころか、女性に手を着ける気配もない王に、そう思い詰めた者が廷臣にいたのではないか――我々はそう考えているのですよ、ロスマリン様」

 的外れの矢は、あまりにもとんでもない方向へと飛んでいった。

 ちょっと待て、その推論はあまりにも、ない。

 瞬間、私は卒倒したくなった。目を剥いて、崩れ落ちたくなった。

 そんな私に、メルル・ブランは平然として問いかけてくる。

「で、実際のところはどうでしたの? 陛下と大公の間に、やはり肉体関係はおありでしたの?」

 知るかぁぁぁぁぁっっっっっ!

 私はその瞬間、内心で絶叫していた。

 はしたないにもほどがあるが、私の気持ちを表すのに、それ以外の言葉はない。

 頭がクラクラしてきて、私は思わずソファの肘掛けに片身を委ねる。

 ただ現実、兄様がそれを疑われてしまう容貌であったことは、否定できやしない。

 なにせ当の陛下が私に言ってしまっているのだから。レーゲンスベルグに来た当初、兄様が女衒や人買いにさらわれないよう、暴漢に暗がりに引きずり込まれ暴行されないよう、自分やブレイリー、セプタードが相当注意を払っていたと。

 男色の――特に少年趣味の持ち主たちにとって、十九歳当時の兄様の容姿は垂涎の的だったろうと。

 そして同時に、陛下にまったく女っ気がなかったことが、宮廷内で密かに問題視されていたのも事実なのだ。即位からマリーシア様が現れるまでの七年間、もしかしたら陛下は一度も女性と寝所を供にしていないかもしれない。それは世継ぎをもうけることが責務である以上、ちょっとあり得ない事態だったろう。

 私はアデライデさんが、陛下とどういう関係だったのかを知っている。兄様がレーゲンスベルグに現れるまでは、娼館に頻繁に足を運んでいたことも知っているのだ。だからなおのこと、これだけ長い間女性に触れようとしなかったことは、実は私にとっても結構謎だ。

 これでは男色を疑われても仕方ない。しかも公私ともに最も至近にあったのが、あの兄様では。

 絶対にそんな関係じゃなかったとは、私ですら断言はしきれないのだ。

 ただ諸外国の諜報――ひいては国王たちに、そう思われているのは、気分がよくない。よくないのだが。

 陛下が兄様を妬み憎んで宮廷から追放したと思われるのと、陛下が兄様に溺れるあまりに殺害されたと思われるのでは、どっちがましだろう。

 どっちにしても陛下が気の毒で、貧乏くじであることには変わりがない。

 私が別の嘘をついて、諸外国を納得させる――というか騙すのが最善だ。だが海千山千の彼らを納得させられるような嘘を、今この時だけで、どうしたらひねり出せるのか。

 そもそも、陛下に傷がつかない嘘があるのなら、陛下自身が最初からついてる。

「存じ上げませんよ、そんなこと」

 ただもう私はこう答えるよりない。だがそんな私に、王女は意外にも首肯する。

「今の貴女の様子では、見るからにそうですわね。そしてそれを知ることは、今となっては下世話な興味に過ぎません。ただ私どもは、動機や犯人がどうあれ、本当に大公閣下が殺害されたというのならば、その確証がほしい――お判りになられますか? 九年もたった今となっては、賢者が亡くなっているのなら、それはそれで仕方ないのです。ただこのままでは、各国諜報はその任を終えることができない。確証なしでは、今さらどの国も退けないのです。賢者捜索には、それぞれの国の面子がかかっていましたから」

 メルル・ブランの声音に潜む倦怠に、私は背後にある空気をなんとなく悟った。

 おそらく列強各国は、兄様の探索を打ち切りたいのだ。けれどもその契機が、見つけられずにいる。

 だから答えが、ほしい。

「九年間、どの国も何の手がかりも掴めなかった。これだけの人数が、あれだけ目立つ御方を捜索していたのです。これはもう賢者はこの世にはいない――それが大勢だったのですが、そう断定するには一つ、気になることがあるのです。……ロスマリン様、貴女ですよ」

「……はい?」

「貴女がアルバ国内を学術調査と称して旅しているのは、賢者を探すためではないのですか?」

 的外れな矢は、どこまでも大外へと飛んでいく。だがこの指摘は、ある意味ではあながち外れていない。

 私は確かに、兄様を探している。私の研究の一つは、そうとしか言いようがないからだ。

 陛下が兄様を歴史から抹消していく過程で、兄様の伝聞がどう変化していくのか。兄様がどんな過程を経て神格化されていくのか。その断片を、今の段階で拾い集めて後世へと残しておきたい。私がしている採集作業とは、そういうものだ。

 だけどそれは、実体の兄様を探していると言うことではないのだが。

「我々は、貴女は真相を知っていると目しています。その貴女が自ら宮廷を出、その足で賢者を探している。この事実に、我々は迷わざるを得ません――貴女はまだ、賢者が生きていると考えているのではないかと」

 メルル・ブラン王女は、真っ直ぐに私の目を見た。その水色の目が、わずかに潤んでいる。

「貴女はいなくなった恋人を、探し求めている。違いますか?」

 違います!

 そもそも私は兄様の恋人じゃないし!

 そう叫びたいのだが、言っても無駄だと悟った。なぜなら王女の目が、実にうっとりと私を見つめていたからだ。

 あ、駄目だこれ。絶対、自分が想像した悲劇の物語に酔ってる。

「だから私は、伯爵が力尽くで貴女を手に入れようと画策しているのを知り、今回の計画を立てました。――ですからロスマリン様、あなたは大陸中に響き渡るくらい大きな声で叫んでください。賢者がどこに隠れていようと、聞こえるくらい大きく」

 艶麗かつ残忍な眼差しが私を捕らえる。陶酔した声音が私を縛る。

「私を助けて、と」

 ぞくり、と背中を悪寒が走る。優雅な身のこなしで立ち上がった王女は、私の隣に腰を下ろすと身を寄せてきた。

 伸ばされたたおやかな手は、私の手首を掴んで離さない。

「貴女の結婚はアルバだけではなく、同盟を結んだ五カ国で盛大に報じられています。これを聞いた誰もが思うことでしょう――おかしいと。あまりにも性急で不自然ですもの。これが陰謀により強要されたものであることは、頭の回る者ならすぐ判ることですし、暗に匂わせて報じてもいます。賢者がもし存命ならば、貴女の危機であることが、耳に入らないはずがない。あれほど可愛がった貴女が捕らえられ、無理矢理意に添わぬ男のものにされようとしていると知って、何もしないはずがない」

 ここに至り、私は陰謀の全容を悟った。

 私は兄様をおびき出すための餌なのか。

「結婚式までの一ヶ月間に、何も起こらなかったら――賢者が何の行動も起こさなかったら、我々はかの方ははもはや亡いものと判断します。そしてもし姿を現したら、その時はお互い一切遠慮なし。その代わりどんな結末になっても後腐れなし。それが我々が結んだ盟約ですから、なかなかの見物になると思いますよ」

 にこりと微笑む王女が怖い。

 おそらく今この館には、各国の手練れが集結しているのだろう。兄様を捕らえ、自国の王へと捧げるために。そして九年にも渡る、長い任務に終止符を打つために。

 その者たちが相争うことを『見物』と言ってしまう王女の心根が、私は恐ろしい。

 だが私は、兄様が決して現れはしないことを知っている。だから思う。

 その結果、この一件はどこに落ちる。どんな結末に辿り着く。

 震える私の心を読んだように、王女はさらに絶望を告げる。

「そしてたとえ賢者が現れなかったとしても、私は貴女を解放するつもりはありません。私と共にサフラノへ来ていただきます」

 強く握りしめられた手を、私はほどけない。王女は逃れようとする私を、口づけられるほどの近さまで追いつめて宣する。

「グリマルディ伯爵は、私とサフラノ王家に臣従を誓いました。貴女は我が国の臣下の妻、王宮にあって我が国に仕えるのは当然のこと。サフラノによる、バルカロール侯爵令嬢の拉致ではありません」

「そんな抗弁が通用するとでも」

「では貴女は、アルバが貴女一人を奪い返すために、サフラノ王宮に国軍を差し向けられるとお考えですか? バルカロールだけで、我々に太刀打ちできるとでも?」

 私はその残酷な宣告に、身を震わせるしかない。

 王女の言うとおりだった。もし私がサフラノの王宮に収められてしまったら、もはや陛下も父も、簡単には手出しはできない。武力で解決できる問題ではなくなってしまう。

 それがどれほど、サフラノの横暴であったとしても。

 そう、悔しいが、たかが女の身一つだ。たかが私一人のために、国が力を傾けることなど許されない。

「私どもは、貴女という女性を高く評価しています。貴女の知識や行動力は、あの伯爵の慰みものに費やすには惜しい。どうです? 我々に従うのならば、あの男にはこれからは指一本触れさせませんよ。王宮内に確固たる地位も用意するし、学究を望むのならばそれも叶えましょう。アルバに仕えるより、もっとずっと自由にして差し上げますが、いかが?」

 きっとして睨む私に、王女はにこりと微笑んだ。その笑みは華やかで艶やかで、すこぶる残酷だった。

 捕らえた獲物を嬲る獣の目だ。私を手中に収めたと、確信した者の目だ。

 嫌だというのはたやすい。けれども拒めば、この後私は何をされるだろう?

 一番簡単なのは、抵抗する気力を完全になくすまで痛めつけること。今この館には、それをしたくてうずうずしている輩がいるのだ。王女がそれを命じたら、私はそれをかわす術はない。

 きっと、身も心も壊れるまで犯され、征服される。その上で連れ去られ、他国の室に収められてしまう。

 そうなればもう、抜け出す手立てはない。

「……御心のままに、王女殿下」

 屈辱と恐怖に震えながら答えた私に、王女はにこりと笑って私の手を離した。

 そうして差し出された手が何を要求しているかは、明白だった。だから私はその指に家臣としての親愛を捧げる口づけを贈り、頭を垂れる。

「そうするしかありませんよね、ロスマリン様」

 答えられぬ私に、王女は厭わしいほど愛おしみにあふれた優しい口調で告げた。

「幼い貴女がアルバ宮廷で見たものについては、本国に戻ってからゆっくりと聞かせてもらいます。お聞きしたいことが、沢山ありますのよ」

 私はただ無言で、頷くよりなかった。

 客室という名の牢獄に戻されて、私はへたり込む。己を抱きしめた腕が、体が小刻みに震えた。

 どうしよう。どうしたらいい。その言葉ばかりが、頭を回る。

 このままもしサフラノに拉致されたら、両親と弟に一体どれほどの迷惑をかけてしまうだろう。両陛下にどれほどの心痛を与えてしまうことだろう。

 それくらいなら、いっそ潔く――そう思った瞬間、ノックの音が響いた。

「ロスマリン様、失礼いたします」

 入ってきたのは、婚礼衣装を縫っているお針子の一人。

「お疲れのところとは思いますが、首飾りの調整をさせていただけませんか?」

 お針子の手には細いレース編み。どうやら胸元の宝石飾りの他に、首にはレースを巻こうという趣向らしい。

 有無を言わさぬ口調に私は頷くと、椅子に座る。私の背後に回ると、お針子は髪をかき上げて首にレースを結び、そして。

 私の耳元に唇を寄せた。

「どうかそのまま動かないで。顔色を変えず聞いてください。私はアルバ廷臣のさる方にお仕えする者。今回の騒乱に際して命を受け、この館に潜入していました」

「え……」

「姫様、どうか今しばらくご辛抱ください。救出の軍勢はすでに着いています。準備が整い次第、この館とマリコーンの制圧戦に入ります」

 刹那、凍えきった体に火が灯った。熱が巡ってくるのを感じた。

 先ほどまでと全く別の震えが来た。

「どうかその方に、急いでください、とお伝えください。私は他国に拉致されようとしています。そうなってしまえば、アルバは手出しができなくなってしまう」

 誰の手の者なのかは、敢えて問わない。そんなことより伝えねば、確かめねばならぬことがある。できうる限り声を潜め、だが勢い込んで、私は請うた。

 そんな私に、お針子はレースの長さを調整するふりをしながら告げた。

「主はあと一日は準備に時間がほしいと。ですので決行は明後日未明でと伝えます」

 夜襲を告げられ、私はほんのわずかに頷く。そして意を決して告げた。

「あなたにお願いがあります。忘れもののふりをして、鋏を一本置いていってください」

「それは……」

「自害に使うつもりはありません。脱出がうまくいくよう、自分でも何とかしたいのです」

 後ろに回した手に、お針子は小さな裁ち鋏を握らせてくれた。それを服の中に隠した私に、彼女は気遣いにあふれる声音でささやいた。

「御身に何かあれば、主はマリコーン占領の大義名分を失います。証人としての貴女を無事に確保することこそ全てに優先するのだと、どうぞ心に刻んでいてください」

 私は頷く代わりに、彼女の腕を掴んだ。この胸の中の思いがあまさず伝わるように、と願いながら。

 大丈夫。もう挫けたりしない。諦めたりしない。

 私は絶対、アルベルティーヌへ帰る。

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