08

 まるで祝祭のように、いつもそれは突然俺を襲ってくる。けたたましくも華やかな、一陣の嵐。

 買い物と見回りを兼ねて訪れた市場。品物を吟味していると、背後にいるのだろう少女たちの歓声が耳に入った。

「ちょっと、ちょっと! ロスマリン様がいらしたって!」

「え? うそ! どこからの情報よそれ!」

「リリーがさっき城門でお見かけしたって。きっと着いたばかりね」

「今度はどんなお召し物かな。この間いらした時に着てた緑の乗馬コート、とっても素敵だったよねー」

「どこかでお姿だけでも見れないかなー。いっつもいっつも傭兵団の野郎どもが独占して。憎たらしいったら!」

 ……その傭兵団の団長が、ここにいるんだが。大きなため息をこぼしたくなるのを、俺はこらえた。

 当の俺としては、お前らが羨ましがっているそれが、大迷惑この上ないんだが。

 だが俺がどう思おうと、その騒ぎから逃げうることはない。これは早めに館に戻って、片付けるものを片付けないと――そう思い、荷物を改めて抱え直したところで。

 背後で少女たちの黄色い歓声――いや、悲鳴が上がった。

「連絡をする前に、こんなところで行き会えるなんて、今日の私は運がいいんだ」

 厄日だ。俺は率直に思った。

「ただいま、ブレイリー」

 だから、なんで『ただいま』なんだよ。荷物を持っていなければ、俺は頭を抱えていたことだろう。

 渋々振り返れば、そこに一人の貴婦人――と呼ぶべきか、いささか迷う格好をしている女の姿がある。

 無論それはみすぼらしいとか、みっともないとかいうことではない。奴が身につけているものは、いつでもいいものばかりだ。

 だが、しかし。

 乗馬靴の中に裾を押し込める細身のズボンをはき、横向きに座る女物の鞍ではなく、男物の鞍に平然と足を開いて跨がっているそいつを、貴婦人と呼ぶのはあまりにも世の常識を凌駕しているだろう。

 丈の長い乗馬コートの形はすらりと優美で、さりげなく刺繍やビーズをあしらってあったりするから、男装とは呼べない。だが他の貴族女性からしたら、あまりの男勝りぶりに目を剥くだろう。かといって庶民的と呼ぶには、全てがあまりにも上等で品がよすぎだ。

 ……相変わらず、凄絶に目立つ女だ。

 今となってはこの街で知らない者などいない、バルカロール侯爵令嬢ロスマリンは、黒毛の馬上から笑う。やっかみと好奇の視線が集まるのを感じて、俺はとうとう深いため息をこぼした。

 本当、勘弁してほしいと思う。

「今回は何の用だ」

 仏頂面で言い捨てた俺にも、ロスマリンは動じない。俺のこんな反応は、いつものことだとばかり。

「ハイアワサでの調査が終わったの。アルベルティーヌに帰る途中、寄ったのだけど。悪い?」 

「……いや」

「あとレーゲンスベルグ大学で、集中講義があるの。二週間くらいはいるつもりだから、よろしくね」

 よろしくって、簡単に言うなお前。

「いい加減宿を取れ。金がない訳じゃないだろう」

「部屋なら余ってるでしょう? 泊めてくれたっていいじゃない」

「未婚の娘が、こんな柄の悪い奴らがたむろするところに出入りするなと言っているんだ」

 耳目があるからこそ、俺は今まで何年間も繰り返してきたことを改めて口にする。

 俺たちとロスマリンが親しいのは、レーゲンスベルグではもはや周知のこと。だがそれでロスマリンにふしだらだの何だのと悪評が立っては、俺たちはカイルワーンに申し訳が立たない。

 だが――いや、奴も判っているからこそだ、手綱を握りながら意地悪く言ってのける。

「このロスマリン・バルカロールを押し倒す度胸のある男が傭兵団にいるというなら、いつでもいらっしゃい」

 この一言に、周囲がどっと笑った。俺たち――というより俺一人がコケにされた格好だが、あえて反論はしない。俺とロスマリンは世間で邪推されているような関係ではないし、真っ赤になって否定するより笑いに落とした方が受け入れられることは、身をもって知っている。

 だがそもそもは、奴が立場や身分をわきまえようとせず、俺らのところに突貫してくることが問題なのだが、それを今更言っても始まるまい。

 なにせ、ロスマリンが初めて俺たち傭兵団の下を訪れたあの日から、もう七年がたとうとしているのだから。

 ロスマリンは二十歳で王立学院を卒業した後、そのまま学者の道を選んだ。『王立学院初の女子学生』という肩書きは、やがて『王立学院初の女性教官』『アルバ初の女性博士』となり、二十五歳の現在『アルバ初の女性教授』も叶うのではないかと噂されているらしい。

 そんなバルカロール博士は研究室にこもるのではなく、一年の半分近くを旅の中で過ごす。実地調査というらしいが、アルバ各地に赴いて資料を採取したり、現地の人から聞き取りをしたりするらしい。残りの半年のうち大部分は、アルベルティーヌで採集資料の整理や研究、王立学院での講義に費やす。

 無論アルベルティーヌにいる間は、マリーシア王妃の一の女官としての勤めもちゃんとこなしているらしい。国王夫妻に全幅の信頼を置かれていることは勿論、王子王女たちにも慕われていると聞く。

 そして残りの時間は、レーゲンスベルグにいる。

 燧石銃交渉の担当女官のふりをして、館に潜り込んできた七年前のあの日以来、あいつは足繁く俺たちのもとを訪れる。最初のうちは殊勝に宿を取っていたが、そのうち面倒くさくなったのかどうだか、傭兵館――と俺たちの本拠地は市民に呼ばれるようになった――に泊まり込むようになった。

 未婚の娘、しかもアルバ一の大貴族の令嬢が、傭兵が多数たむろする館で寝起きするとは、危機感がなさ過ぎる。そう俺たちは何度となく言ってきたのだが、それに対してロスマリンが言うことは。

「この館以上に、レーゲンスベルグで安全な場所ってあるの?」

 それはある意味において全く正しいから、俺たちは返す言葉がない。

 傭兵団の本拠を襲う、命知らずの物取りはいない。ロスマリンによからぬ思いを抱く男がいたとしても、忍び込んで事を遂げることは不可能だろう。中にいる団員がロスマリンに狼藉を働かなければ、確かにこの館ほど安全な宿はない。

 だがそこまで信頼されることは、男としてどうだろう――そんな思いに駆られないこともないが、無論間違いが起こったことはなく。

 そうして七年。ロスマリンはレーゲンスベルグに、盤石の地歩を築いた。

 七年前のあの時は偽りだったわけだが、その後あいつは高等女官として、レーゲンスベルグ施政人会議とアルバ王国間の様々な交渉事に手腕を振るっている。

 現宰相バルカロール侯爵の長女であり、レーゲンスベルグに一個人として投資も行っているあいつに対する、施政人会議の信頼は厚い。学者としての仕事は多忙だが、ここぞという大事な交渉には、必ずあいつが責任者として派遣されてくることを、俺たちは知っている。

 そしてあいつは上流階級だけではなく、庶民たちにも馴染み深く親しまれている。先に述べたように、あいつはカイルワーンから譲られた資産を、このレーゲンスベルグで運用している。ロスマリンに雇われる形で商売をしたり工房を構えたりしている者もいるし、医療や娯楽にも盛んに投資している。

 その最たるものが、モントアーレ一座の後援だ。

「これからソニアさんたちに会いにいこうと思っているんだけど、ブレイリーもどう?」

 元々見回りに来ていたのだから、否を唱える理由はないし、邪険にするとまた後ろのガキどもから非難の声が上がりそうだ。俺が渋々頷くと、ロスマリンは後ろに控えていた男に告げる。

「ここでこの人に会えたから、供はもう大丈夫。アルベルティーヌに先に戻って、学院と王宮に帰還予定を伝えてください」

「承りました」

 さすがにロスマリンも、独り旅はしていない。いつも同じ奴ではないが、何人かの随行が旅程を共にしている。それが学院の助手なのか、バルカロール家の家来なのかは判らない。だがそいつらはいつも、レーゲンスベルグまで来るとロスマリンを独りにする。

 それは護衛役として俺たちを信頼しているのか、レーゲンスベルグという街を信頼しているのか、それともこの街では一人になりたいとロスマリンが望んでいるためか、本当のところは判らない。

 随行に馬を傭兵館へと預けに行くよう指示した後、ロスマリンは俺と肩を並べて歩く。モントアーレ一座と俺たちレーゲンスベルグ傭兵団の奇妙な縁について、俺は途上考えずにはいられない。

 モントアーレ一座はアイラシェールが侯妃として冊立された時に、本拠であるモリノーを離れていた。それは彼女が娼館の出であることを隠すための気遣いであったというが、その判断は結果的にひどく正しかった。

 アイラシェールが魔女と呼ばれ、国中の憎悪と忌避を集める存在になってしまう前に、一座とのつながりを知られていない土地に移っていたことが、彼女たちの命を救ったのだ。

 新たな本拠を獲得できず、流浪を続けていた一座を見つけ出し、新たな本拠としてレーゲンスベルグを提示したのが、ロスマリンだった。アルバから独立しているここ、そしてカイルワーンへの恩義をいまだ胸の中に秘めている者たちが住まうここなら、あなたたちも安心して暮らせるだろうと。

 そうしてロスマリンの後援で建てられた劇場兼酒場『葡萄紅』が、今の一座の本拠地だ。奴との絡みで何となく贔屓にしているうちに、俺たち傭兵団と一座はすっかり懇意になってしまった。

 それはアイラシェールとカイルワーンの二人がもたらした、大きな時代の波に巻き込まれた者同士の不思議な共感でもあったし、社会の下層に位置する者同士の連帯感だったのかもしれない。

 要するに、俺たちと彼女たちは、人と人として以上に、集団同士の馬が合ってしまったのだ。

 結果、傭兵団の中の何人かが一座の女と結婚した。そうした女房たちや、舞台の一線から退いた女たちが、傭兵団のために働いてくれている。傭兵館や団の雑務は年若い見習たちの仕事ではあるが、そんな子どもたちの面倒を見たり仕事を教え込んだりと、女性たちの知識と手を借りたいことは山ほど存在した。

 そんな成り行きを、ロスマリンは心から喜んでいる。奴が傭兵館に滞在したがるのは、自分の面倒を見てくれるのが、そんな気の置けない女たちであるためかもしれない。彼女たちもロスマリンの滞在を喜び歓迎するものだから、俺の『いい加減にしろ』という意見は、いつだって黙殺されることになる。

 それが俺の本音――あいつが館内を無防備な格好でふらふらしているのが、実は俺がとてもしんどい、ということを奴らが理解した上でのことなのか、悩む。

 昼下がりの『葡萄紅』は、仕込みの真っ最中。女たちは稽古を終え、めいめい舞台前の休息を楽しんでいた。

「ロスマリン様、お久しぶりです。次のお越しはいつかと、皆待ちわびておりました」

 出迎えた座長のソニアは、昔と変わらぬ艶麗な面に笑みを浮かべた。俺より年上のはずだから、とうに四十を越しているのだが、その容色は今なお健在だ。

 と言っても、一座がアイラシェールと出会ってからすでに十六年。ソニアもすでに舞台を退き、一座の運営役に徹しているし、構成員も大分入れ替わっている。レーゲンスベルグに本拠を構えて以来、念願叶って売春からも足を洗い、今舞台に上がっているのは、もはや技芸のみを売りに日々研鑽を積む者たちだけだ。

 先に述べたように、かつての団員たちは、結婚したり俺らのところで働いていたり、また一座の裏方をこの『葡萄紅』で務めていたりする。舞台から降りても、体を売らなくても、女たちが生きていける体制がようやく整った。

 そこに至るまでのこの十六年間のソニアの辛苦は並大抵のものではなかっただろうし、後援者としてのロスマリンの力もやはり無視できない。

 この劇場を、そして一座の様子を見るたびに、ソニアもロスマリンもたいした女だと、掛け値なしに認めざるを得ない。

「新しい演目、楽しみにしてました。今晩は予定があるから、明日の晩にでも早速――でも本当は、一度はアルベルティーヌで舞台をかけさせてあげたいのだけれども」

 興行主としての言葉に、ソニアは静かに頭を振った。

「いいえ、私たちは決してアルベルティーヌには近づかない。ベリンダに迷惑をかける恐れのあることは、一つでもしない。そう決めているの。……ロスマリン様のお気遣い、心から嬉しいのだけれども、でも、あの子にとって今一番大事なことは、私たちとの過去を懐かしむことではないでしょう?」

 声を落として告げられた言葉に、ロスマリンはうつむいた。俺はそんな奴に耳打ちする。

「ベリンダって誰だ?」

「言ったことなかったっけ? マリーシア様の仮名」

 同じくらい声を潜めて返された名に、俺は渋面を作った。その名一つでロスマリンの気遣いも、ソニアの苦渋も簡単に察せられる。と同時に、俺に複雑な感慨を抱かずにはいられない。

 カティスが市井から自ら選んだ、奴の妻。多くの貴族たちの反対を押し切り王妃の位を与えた女の、決して表沙汰にされない素性。それをロスマリンから聞いた時、俺は何とも言えなかった。

 カティスがカイルワーンと過ごした歳月は、たった八年弱。長い人生から見れば、ほんの短い間でしかない。これから二十年、三十年とすぎていく人生の中で、あの一時の記憶はどんどん遠くなっていくことだろう。

 それなのに奴は、忘れないと言う。

 アイラシェールの親友だという妻と共に、一生二人への思いと傷を抱えて生きていくのだと、暗に示す。それがよいことだと、正しいことだと、俺には単純に思うことができなかった。

「なら、あなたなら忘れられるの?」

 そう偽らずに言った俺に、ロスマリンはそう問い返してきた。そのたった一言に、俺は返す言葉がなかった。

 ロスマリンが俺たちの下を――正しく言うと、傭兵館を足繁く訪れるのは、結局はそういうことだ。だから俺たちは令嬢の名が傷つくの、悪い噂がどうのと口では言ったとしても、奴の来訪を拒むことなどできない。

 中庭で、たった一人で長い間佇んでいる姿を見れば、いかな悪評が立とうとも、門前払いできる者は傭兵団にはいない。

 俺たちにできることと言えば、奴が勢い余って草むしりを始めないよう、気をつけて庭を手入れしておくことだけだ。

 一座の団員に見送られ『葡萄紅』を出る頃には、そろそろ日も暮れ始めている。ロスマリンの足が向いている場所がどこかは聞くまでもないから、俺も不本意ながらついていく。

 ロスマリンが来たという噂が伝われば、最初の夜の成り行きは決まったも同然だ。だからこそこいつは一座の今日の舞台を辞退したのだろう。

 案の定扉を開けば、もうそこには見知った顔があふれていた。連中は俺と奴の姿を認めると、グラスを掲げて歓声を上げた。

 ……信じられねえ、どいつもこいつも、もうできあがってやがる。

「あははっ、今日の酒代は高そうだ」

 俺が唖然を通り越して怒りを覚えた光景さえ、ロスマリンは苦笑をもって受け入れた。

 カティスとカイルワーンがこの街を去って十四年。奴らの実像を知らぬ者がこの街でさえ増えていく中、まるで引かれるように、この店には奴らと親しくしていた者たちが集まってくる。

 そう、言うまでもない『粉粧楼』に。

 だからこそロスマリンは、レーゲンスベルグにやってきた最初の夜は必ずここで過ごす。そしてそれを知った者たちがここに集ってくる。

 それは奴にたかろうという魂胆だけではない。と、思いたい。

「ロスマリンちゃんお帰りー」

「待ちくたびれたぞ、先に始めてた」

「いつ来るかと、首を長くして待ってたよ」

 貴族に対する礼儀もへったくれもない声が、あちこちから上がった。それを無礼とたしなめる者もなく、また本人も全く意に介さない。それどころか、くつろいだ笑顔を浮かべて手を振った。

「ただいまー、やっと仕事終わったよー」

 庶民と変わらぬ、はすっぱとさえ言える言葉遣い。コートを無造作に脱ぎ、差し出されたグラスをためらいなく受け取るその姿は、この下町の酒場にあってももはや場違いには見えない。

 そんな奴が、城や施政人会議では有能な女官、麗しい貴婦人なのだということを、つい忘れそうになるほどに。

 ……いや、いっそ忘れることができたら、どれだけいいだろう。そのことに拘泥しているのが、今となっては俺一人だとしてもだ。

「お帰りなさい、ロスマリンちゃん」

 店内の歓声を聞きつけて奥から現れたのは、赤銅色の髪の女。ロスマリンはぱっと笑って、臆面もなくその女に抱きついた。

「アデライデさん、ただいまっ。仕事先のご飯、おいしくなかったの。セプタードの料理が恋しくて仕方なかったよう」

 ごろごろと猫のように懐くロスマリンを、アデライデと呼ばれたその女はよしよしとあやす。こいつらのこの有様は、ある意味『粉粧楼』名物だが、俺としてはこの懐きようははっきり言って謎だ。

「今日のお勧めは、鶏とジャガイモのクリームシチュー、タコのトマト煮込み、もちろんかぼちゃパイはいつでも焼き始められてよ。ご注文に何かご不足は?」

「ああん、これだからアデライデさん大好き」

 『粉粧楼』の女主人であり、つまりはセプタードの女房であるこの女の昔の仮名は、エルマラ。カティスの馴染みの娼婦であり、カイルワーンの患者でもあったこいつを、セプタードは年季が明けるとすぐに女房にした。誰に相談することもなく、ひいきにしている気配も全く見せなかったにもかかわらず、だ。その経緯や心理は、俺ですら知らない。

 だがすでに三人の子をもうけ、二人で切り盛りする店も順調となれば、一体どこに文句のつけようがあるだろうか。

「お疲れさん、ロスマリン。今度はゆっくりしていけるのか?」

 厨房から湯気の上がる皿を手に現れたセプタードは、この男にしては意外なほど屈託のない笑顔を見せた。それを知ってか知らずか、ロスマリンは頷く。

「うん、レーゲンスベルグ大学での予定があるから、しばらくは。でも休暇は取れないかな。ちょっと気になることがあるから、早めに陛下のお耳にも入れたいし」

 ロスマリンと俺の夕食を乗せたテーブルを、成り行きと必然をもって四人で囲む。アデライデとセプタードの顔が、少しばかり真剣になっているのが判った。

 ロスマリンは女官であり、学者であると同時に、また別の顔を持っている。そのことを、俺たち三人だけは知っているのだ。

「……どうしてカティスがお前に間諜紛いをさせるのか、理解に苦しむ」

 声を落としてこぼした俺に、タコを飲み込んでからロスマリンは事も無げに答えた。

「別に陛下に命じられているわけじゃないし、私だって危ないところに潜り込んで探ろうしているわけじゃないわよ。……ただ調査で地方に行けば、肌で感じられる気配はあるし、聞こえてしまうものがあるだけ。だけどそうやって知ったことを、陛下に隠す必要なんて、何もないでしょう?」

 まあそれは道理だろうが、俺は釈然としない。ロスマリンが探ってくる地方の情勢が、カティスの治世にどれだけ有益であるとしてもだ。

 ロスマリンは正式な謁見手続きをすっ飛ばして、カティスと簡単に面会することができる――当然だ。ロスマリンは自由に王妃の居室に出入りする権限を持っているのだし、王妃を国王が訪ねることは日常のことだ。だからロスマリンは、閣議による正式決定だけではなく、カティスの本音や真意を直で伺って動くことができる。

 そしてロスマリンは、そんなカティスの手足となるには十分すぎるほどの行動力と財力、人脈を持っている。

 おそらくカティスにとってロスマリンは、恐ろしいほど使い勝手のいい部下だ。

 だが俺たちはそれを、手放しで認めることはできないだろう。

 なぜなら、それは単純に――ロスマリンが、女だからだ。

 そしてカイルワーンが、今この世にいる誰より幸福になることを望んでいただろう存在だからだ。

 それはカティスとて、同じじゃないかと俺たちは思うのだが。

 だからこそだろう、アデライデはこんなことを言い出す。

「ねえ、ロスマリンちゃん、いつになったらレーゲンスベルグに来るの?」

「え?」

 今来てるじゃない、とワインを口に運びながら言いかけた奴に、アデライデはさらりと問う。

「お嫁に」

 その瞬間ロスマリンはむせた。苦しそうに咳き込む奴の背中を、セプタードが苦笑しながらさすってやる。だがその目が意地悪く俺を見ているのを確かめて、この野郎と内心で毒づいた。

「あぁもう、アデライデさんまでそういうこと言うの? もらってくれる人いないって、いっつも言ってるじゃない」

「あなたそれ本気で言ってる?」

「どうして冗談でこんなこと言えるのよ、恥ずかしい」

 俺には判る。ロスマリンは本気でそう思っているだろう。そしてそう思う理由も判る。

 なぜなら本当に、俺とロスマリンはそういう関係ではないのだから。

 沢山の人間が邪推する。もしくは本気で心配し、結婚はまだかとせっついてくる。

 だが本当に、俺とロスマリンの間には、何もないのだ。

 確かにレーゲンスベルグという街は、ありとあらゆる理由から、このロスマリン・バルカロールという存在が、喉から手が出るほど欲しいだろう。俺の妻という形で、この街に繋ぎとめたいのだろう。その理屈は判る。

 判るけれどもそれと、俺とロスマリンとの間のことは、別物だ。

「貴族なんだから、身分相応の縁談が組まれてしかるべきだろう。いい加減ふらふらしてないで、覚悟を決めたらどうだ」

 だからこそ、突き放すように言い捨てた俺に、ロスマリンはむっとした顔をした。

「判らないかなあ、私が結婚できる身分の人間なんて、今のアルバにはいないんだって」

「……凄い発言だな」

「なに勘違いしてるの? 私が自分の身分に釣り合う相手と結婚したら、火種になるって言ってるのよ。私の結婚は、アルバの貴族の勢力地図を大きく左右してしまうってことが、どうして判らないの?」

 憤慨したロスマリンの言葉は、重い意味をはらんでいるようだった。怪訝な顔をした俺に、ロスマリンは俺らが思いもしなかったことを告げる。

「私がアルバ貴族に嫁ぐということは、その家とバルカロールが姻戚同盟を結ぶということ。父や私にたとえその気がなくとも、そう受け取られてしまう。それは『王家への叛意あり』と、謀反として捏造されかねないくらい危ういことなの。それくらい、父とバルカロールが大きくなりすぎてしまったのはもう、幸か不幸か」

「じゃあ他国の貴族や王族だったらいいだろう」

「同じことだって。むしろ他国を後ろ盾に王位までうかがって……って、言われるのがおち」

 ロスマリンの言うとおりだった。そしてそれは本当は、俺にも判っていたことだ。

 だが、だとしたら、奴の結婚相手など、一人しかいないじゃないか。

「……だとしたら、あとはアルバ王妃しかないじゃないか」

 こんな下町の酒場で貧民出の傭兵たちとテーブルを囲んでいるこの女が、現王妃の最有力候補だったことを、俺たちはよく知っている。身分的にも立場的にも、アルバで最もふさわしい女だったはずだ。

 だがその『アルバ一のお姫様』は、安物のグラスを揺らしながらうなる。

「それって、ステフィ殿下と結婚しろってこと? それはいくら何でも、ねえ」

 カティスの長男であり、王太子であるステフィは現在五歳。ロスマリンとの年齢差は二十歳ある。

 とはいえ、散々邪推されている俺とだって、十七歳の差があるのだ。四十二の親父と噂されるくらいならば、そっちの方がよっぽどましだろうに、と俺は思うのだが。

「前回城に戻った時、侍女のドレスの裾めくって泣かせてたから、謹んでお尻百たたきにして差し上げたのよね――そういう相手と寝ることって、将来のことだとしても考えられる?」

 今度は俺がむせる番だった。これが侯爵令嬢が言う言葉か!

「お前という女は!」

「それくらいあなたは、現実的じゃない話してるのよ。だったら、無理矢理したくもない相手の下に嫁いで、なれもしない『美しくて完璧な貴族夫人』をやっても、何の得にもならないじゃない。そう言って、父上と母上には諦めてもらった」

 ふう、とどこか疲れたような、小さなため息がこぼれた。

「だからこそ、家に依存しないで勤められる、ちゃんとした仕事を持ちたいと思ってたし、それが叶ったのはとても幸運だったと思ってる」

「だったらバルカロールから離れて、市井に下りればいいじゃないか。お前が貴族の身分をこだわっているようには、俺たちには見えない」

 穏やかに告げたセプタードに、殊勝にロスマリンは頷く。

「正直、それもありかなってこの頃思うのよね。マリーシア様も宮廷に地歩を固められたし、私がいなくてももういいかなって思う。私という奇矯な娘が、真っ当な貴族として責務を果たさなければならない父や弟の足枷になるのならば、いっそ侯爵家から離脱して、一市民としてどこかに行くのが一番いいのかなって、そう思うこともあるのよ」

 でも、とロスマリンはどこか寂しげに笑った。

「じゃあ城を出て、アルベルティーヌを離れて、それでどうするんだ、どこに行くのかって考えたら……なかなか踏ん切りがつかない」

 この言葉に、明らかにセプタードとアデライデが呆れた顔をした。

「だから、レーゲンスベルグにお嫁においでって言ってるのに」

「だから誰ももらってくれないんだって、何度言ったら判ってくれるの」

 かくして話題は堂々巡りを繰り返し、俺はあまりの首尾と居心地の悪さに仏頂面をするよりほかない。

 本当に、勘弁してほしい。

 どうしてこいつらは、こんなにも俺とロスマリンをくっつけたがるのだろうか。

 それがロスマリンにとって幸せにつながると、どうして単純に信じられるというのか。

 幸せになど、なれるはずがないだろう、この俺が結婚相手で。

 そんな自明のことが、どうしてこいつらには判らないというのだ。

 俺の気持ちなど、そのことの前にはどうでもいいだろう。本当に、どうでもいいことのはずなのだ。

 けれども、なくした右腕がうずく。あの日のことを思い出すたびに、もうあるはずのない痛みが甦り、俺に本心を突きつけてくるのだ。

 それはロスマリンが傭兵館を訪ねてくるようになって、ほどなく。学生時代から教授の供をし、実地調査に出かけていた奴が、どこかの街から戻ってきた時のことだ。

 土産だと持参してきた上等のワインと引き換えに、他愛のない土産話につきあってやっていたつもりだった。

「行った先でね、面白い話を聞いたの。ひどい日照りで畑が全滅しそうになっていた時に、ふらりと村に現れた旅人が水脈のありかを教えてくれたんだって」

「……いい話だ」

「旅人は正体も明かさず、またふらりと消えてしまったんだって。だから村人たちは、あれはきっと賢者様に違いないって、こうして今でもあの方は我々をお救いくださるんだって、そう言ってたの」

 あまりにも思いがけない話に、俺は返事ができなかった。

 俺はこの話に、どう返事をすればいいという。こいつは俺がどう答えるのを期待しているというのか。

 何もかも真実を知っている、こいつが。

 だがそんな俺に、ロスマリンはどこかしみじみと続けた。

「アルバ中を旅しているとね、こんな風にあちこちで兄様の物語に出会うの。それが伝説として大きくなり、広がっていく様が見えるの。それが真実ではないことを、兄様の実像からかけ離れていることを、私たちは知っている。けれども、兄様の存在がアルバ国民にとって、信仰としての一つの光であることを、胸の中にある一つのよすがであることを、私たちには否定する権利はないんだって、そう心から思うの」

 それから七年、ロスマリンはその旅の中で、アルバ中に広がっていくカイルワーンの痕跡を探し集めていくことになる。その予感を感じたからこそか、それとも無意識か、この時俺はロスマリンに問うた。

「そんなにお前は、カイルワーンのことが好きだったか?」

「うん、好き。これから先もずっと、死ぬまで。――でもそれは、男女としての『好き』という意味じゃないわよ」

 俺の言葉の背後にあるものを的確に読んで、ロスマリンは答えてきた。

 ロスマリンの言いたいこと、否定したいことは判る。そう、言いたいこと自体は。

 だが心情は、正直理解できない。

「それなのに、カイルワーンのために、あそこまでしたいと思うのか?」

 ロスマリンが胸の中で暖めている計画――未来のオフェリア王女を救出するための組織を作るという、その遠大な計画を、この時もう俺は聞かされていた。その途方もない考えに俺は呆れると同時に、思わずにはいられなかった。

 なぜそこまで、と。

 だからこそ問わずにはいられない俺に、平然と奴は聞き返してくる。

「じゃあ私もあなたに聞くわ。あなたはその右腕を失ったことを、陛下や兄様のために戦って腕までなくしたことを、惜しいと思っている? 後悔している?」

 突然だった。そしてそれは正直、他人には触れてほしくないことだった。

 けれどもこの時俺は、それを無神経だとは思わなかった。なぜなら俺の方が先に、ロスマリンの根底を探る問いを投げかけてしまっていると、自分でも気づいていたから。

「いいや」

 ためらいもなく答えた俺に、ロスマリンは真面目な顔つきで問いを重ねた。

「腕を失ったことも惜しくないと思う気持ち、それを『好き』か『嫌い』かのどちらかで答えろと言われたら、『好き』でしょう?」

「まあな」

「でもあなたは、兄様や陛下を押し倒したいと思ったわけじゃないでしょう。そういう方向の感情を抱いたわけじゃないでしょう」

 この瞬間俺は、心底卒倒したかった。

「当たり前だろうがっっ!」

「だから、恋愛や肉体的欲求が伴わない『好き』がこの世にはあるってこと、それが自分の大事なものを差し出しても構わないほど大きく重く激しいこともあるってこと、あなたになら判るはず。違う?」

 違うかと問われれば、違うとは言えない。確かにロスマリンの言うとおりだろう。

 だがそれは、そんなに単純なものじゃない。簡単に割り切れるほど自分の気持ちも行動も、簡単じゃないんだ。

 俺はこの時、そう言うはずだったのに。

 まるでそれさえ読んだかのように、ロスマリンは小さくため息をついて続けた。

 俺が自分自身ですら理解できていなかった、俺の真の気持ちについて。

「でも、本当のことを言えば、兄様のために何かしたいと思うのは、兄様や姉様が好きだとか、恩を返したいとか、そういうことだけじゃないんだ。多分それは、私の自己満足なんだ」

「……どういうことだ」

「私は、自分が結局のところ、いてもいなくても何も変わらない人間だったということを、認めたくないだけなのかもしれない」

 その瞬間、俺は、胸をえぐられたと思った。

 切れ味の悪い鈍い刃物で、ざっくりとえぐられたように感じた。

「正直思うの。歴史は全て決まっている。運命は、時間は、誰がどんなに頑張っても決して変わらない――そのことを、私もあなたも知っている。でもね、たとえそうでなかったとしても、私の存在は、この一連の物語――兄様と姉様が中心になって起こった、アルバ王国を巻き込むこの一連の出来事の中においては、どうでもよかったんじゃないかって、そう思えてならないのよね」

 その時ロスマリンの顔に浮かんだ表情を、俺は忘れることはできない。

 たとえようもなく自嘲的で。たとえようもなく寂しそうで。

 そしてたとえようもなく空虚だった。

 その虚しさは、心当たりがあった。身に覚えがあった。

 それは王宮で意識を取り戻したあの日以来――右腕をなくして以来ずっと、俺の心の底にわだかまっているものと、きっと同じ。

「私はできれば自分を卑下したくはないし、自分の人生においては自分が主役だってことは、譲るつもりもない。でも、歴史の流れという物語においては、脇役だなって、いてもいなくても何も変わらなかった名もない端役の一人に過ぎないなって、そう思っちゃうのよね。それを私は、多分認めたくないんだわ」

 そんなことはない、お前がいたことで、どれだけ救われた奴がいたことか――そう理性は呟いていた。けれどもその言葉を、俺は口にできなかった。

 なぜなら感情が、判ると叫んでいたから。

 判る。俺には判ってしまう。多分俺が感じた虚しさは、そういうことだったのだ。

 俺は何をしようとも、たとえ腕を失うまで戦っても、何も変えられなかった。

 守りたかったものは、何一つ守れなかった。

 それは運命があらかじめ決まっていたからではない。

 俺が、無力だったからだ。何の力も、持たなかったからだ。

 国の前に、歴史の前に、国家すら揺るがす激動の前に。

 そして民意という、大多数の人間の幸福という圧倒的な要求の前に、俺は無力だった。

 なすすべも、なかった。

 俺は結局のところ、この大きなものの前には、いてもいなくても、何も変わらない存在だったのだ。

 それを突きつけられたから、俺の胸には穴が開いた。虚しくなった。これ以上、何かをしたいとも、何かをほしいとも思えなくなった。

 これ以上何かを守れるだのと、思えなくなった。

 それなのにどうしてこれ以上、生きたいと思えるだろう。本当は、心の奥底でずっと、そう思っていた。

「私はここにいたんだ、私の存在が歴史の中で、意味あることがあったんだ。私はそう叫びたいだけなのかもしれない。私一人なんて本当は、取るに足らない存在にしかすぎないってこと、自分でも判っている。ただあがき続ければ、そのために頑張り続ければ、その虚しさを少しは忘れていられる。ただ、それだけのことなのかもしれない」

 ロスマリンがそう言って、寂しそうに笑った時、俺の中で堰が切れた。

 はたり、と音をたてて涙がこぼれ落ちた。二粒、三粒とこぼれ落ち、あふれ出しても、俺はなすすべがない。

「やだ、ちょっと……私……どうしよう」

 そんな俺を見て、奴は狼狽した。当然だろう、親子ほどにも年が離れている大の男を泣かせるなど、まだ二十にもなっていない小娘にどうしろという事態だ。

「すまない……ちょっと酔っ払ったかもしれない」

 慌てて涙をぬぐい、無理矢理酒のせいにした俺に、ロスマリンは慌てて「うん」と頷いた。

「ごめん、なら、もう休む」

 同じくらい慌てて奴は答えると、部屋を出ていく。その背中を見送って俺は、深くて重い吐息を漏らした。

 自分が奴に、捕まったことを悟った。

 この時から七年。俺の気持ちは変わらない。強気な笑顔でも、自信たっぷりな仕草――それが虚勢だってことも、もう俺には判っている――でもなく、あの時の虚しさを抱えた寂しい笑顔に、俺は捕らわれたままだ。

 判ると思った。そして判ってほしいと思った。その思いは、決して変わることはない。

 けれども、それが叶ってはいけないこともまた知っている。

 だからもう来るな、といつも思う。早くふさわしい男を見つけて、とっとと結婚しろと思う。

 そうして思う存分愛されて、そんな虚しさに早くけりをつけろ、そう思うのに。

 もう七年。俺は四十二、ロスマリンは二十五。

 俺にどうしろというんだ、と言いたい。

 そう、心の底から、言いたい。

 俺では、お前を幸せには、できない。

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