09

 レーゲンスベルグでの予定を全て終え、アルベルティーヌに帰城して二日目のこと。研究室で今回採取した資料の整理をしていた私の下を、王妃陛下からの使者が訪ねてきた。

 国王一家の晩餐にとの招待に、否などあるはずがない。

「謹んでお招きにあずかります」

 アルバ宮廷に復帰した初日は、バルカロール家主催の晩餐会と決まっている。男勝りで奇矯極まりないと言われる私でも、学者や女官としての公務を終えて帰城したとなれば、それなりの祭の口実とはなる。父がそれを家の外交に利用しているとなれば、付き合うのはやぶさかではない――それが楽しいかどうかはともかく。

 それが判っているからこそ、陛下たちもすぐにはお召しにはならない。けれどもこうして間を空けず、私のために席を設けてくださる。

 それは私にとっても両陛下にとっても、公私ともに重要な時間だ。

 今日は何を着ていったらいいかな、と私は洋服かけを見渡す。私は苦渋の選択の結果として、学院の研究室に何種類かの洋服を常に用意している。

 私の衣服は、いつだって悩みの種だ。王立学院で教鞭をとる時や研究をしている時、そして地方に調査に赴く時、きらびやかなドレスを着ることは現実的ではない。

 しかし全くの男装をすることも、中流階級の婦人の平服で王宮内を闊歩することも、宮廷雀どもの集中砲火を浴びるだろう。だから女装の平服を改良したり、ドレスを簡略化したり、男装に華やかさを足していったりして、新しい衣服の形を作っていかざるを得なくなった。

 それは私が衣服の革新を目指すとか、新しい女性の在り方を模索したいとか、そういう気概をもって行っているものではない。単純に必要に迫られているだけだ。

 その上、一応私はマリーシア様付きの女官でもある。王妃の下に伺候するのに、特権的立場上、最正装は求められてはいないが、まさか完全な平服というわけにもいかない。

 かくして私は状況に応じるために、様々な種類の衣服を研究室にため込むこととなった。この成り行きを私自身は、正直面倒くさいと思っている。

 男だったらこんなに面倒なことはなかっただろう。そう思わないこともない。けれども私が女だったからできたこと、力になれた人がいたのも事実だ。だから私は今日も億劫な身支度をして、外へ出ていく。

 伺うのは、後宮にあるマリーシア様の居室『花冠の間』。当然のことながら、本来なら複数の側妾を持つ国王と、王妃の居室は別に設けられる。カティス陛下の居室も独身時代と変わらずあるのだが、今では有名無実化している。実質的な生活の場は王妃の部屋であり、陛下が自室で休まれるのは夫婦喧嘩をした時――恐れ多くも正しく申し上げれば、マリーシア様にやり込められ、ばつが悪くて妻子と顔を合わせられない時だけだ。

 結婚から七年。市井出の国王夫妻は、貴族の私ですら好ましく羨ましくなるほど、慎ましく幸福な家庭を作り上げた。

 侍従の取次を待ち、迎え入れられた広い部屋。飛びついてきた小さな影たちを、私はためらわずに抱き留めた。

「ロスマリン、お帰りっ」

「お帰りっ!」

「ステフィ殿下、アルテス殿下、ただいま戻りました」

 私はドレスの裾にからむ幼子を、身分を顧みずぎゅっと抱きしめた。それを無礼などとほざく小うるさい輩はここにはいない。

 両陛下はこの七年で、二男一女に恵まれた。後に二代王となる五歳のステフィ殿下、ラディアンス伯爵の孫娘を娶り初代センティフォリア公爵となる三歳のアルテス殿下、そしてジェルカノディール公爵の次男とノアゼット公爵家を興す一歳のブランシェ王女。

 今ここで将来を記したように、生まれたお子様すべてが無事に成人し、それぞれが家を興した。ロクサーヌ朝の基礎を築いたのはカティス陛下であるが、繁栄させたのは陛下の三人のお子たちだ。そんな丈夫なお子を三人も産み、自らの手で立派に養育されたマリーシア様は、ロクサーヌ朝随一の王妃であると私は信じてやまない。

「私が仕事に出かけている間、お二人ともよい子にしておられましたか? お父様やお母様の言うことを、ちゃんと聞いておられましたか?」

「もちろん!」

「もちろん!」

「嘘ではありませんね。嘘でしたら、またお尻百叩きの刑ですよ」

 にやりとして言い放つ私に、ぱっとステフィ殿下がお尻を押さえた。その様子に私がこらえきれず吹き出したところで、柔らかな声がかけられる。

「ロスマリン、お帰り」

 親しい友人、家族の一員のように心安くかけられた声に、私は臣下ではなく一人の娘としてその人に向かう。

 がっしりとした腕の中では、ブランシェ王女が大喜びしている。二人の王子は私が立ち上がると、やはりだっこを争うべく母親の下に走り寄っていった。

 それは尊くも、あまりにもありふれた、一組の家族の姿。

 ああ、なんて幸せな光景だろう。私は泣き出したい思いで礼を取った。

「ただいま戻りました。カティス陛下、マリーシア陛下」

「お帰りなさい、ロスマリン。長旅、お疲れ様でした」

 三人の母となった自信と余裕をまとい、美しさに強さが増したマリーシア様は、私に夫君と同じ暖かな言葉をかけてくださる。

「ロスマリン、お腹すいた! 早くご飯にしよ!」

 ステフィ殿下が私の手を引いて、食卓に促す。国王一家が用いるにはあまりにも小さく、だから席に着く一人一人の距離が近しいそれには、慎ましい生活を送っている国王一家が普段好んで食べている質実な料理が並んでいる。

 それを普通の家族のように囲む人たちの姿は、あまりにも平凡で、あまりにも温かい。

 ああ、この光景を兄様に見せることができたら、どれほど喜んでいただけることだろう。

 王として悩むこと、苦しむことは日々多かろう。心の底に沈んでいる痛みは、薄らぐことはあっても、消えることなどないだろう。

 それでも思う。

 今、陛下はお幸せだ。

「王子様たちにはお土産がありますよ。お食事全部、嫌いなものも全部残さずちゃんと召し上がったら、差し上げますね」

 一国の王子に差し上げるには、あまりにも他愛なくちゃちなものを、私は意図的に選んで土産にする。それは色々な配慮や意図もあるのだが、単純に王子たちの反応が面白いからだ。

 市井には宮廷とは違う暮らしが、違う世界がある。新しい王家を作っていく兄妹に、それを少しなりとも感じてほしい。それが宮廷と市井を行き来するという奇矯な生き方を選んだ、私の役目だと思ったりもしている。

 賑やかなことこの上ない食事が終わり、もっと遊ぶもっと構ってと駄々をこね続けた王子たちが寝台行きとなったところで、大人だけの時間が始まる。

 談話室に移動し、全ての侍従たちを下がらせ。陛下は食後酒のグラスを片手に、私に問いかけてくる。

「いつものようにレーゲンスベルグに寄ってきたんだろう? 変わりはないか?」

 女官のふりをして傭兵館に潜り込んだあの日から、私は陛下とレーゲンスベルグをつなぐささやかな橋になっている。

 無論国王としては、かの地に対し親密な態度は取れない。三国戦争時の借金はまだ完済していないし、武器や兵器の調達、港を実質持たないアルベルティーヌにおける物資の輸送などなど、懸案事項は山積みだ。

 故郷である、親友たちが住んでいる、そんな感傷だけで相対できる存在では、レーゲンスベルグはもうない。

 それでも個人として懐かしみたいことは、いくらでもあるだろう。

 大切な人たちの消息を知りたいだろう。

 だから私はレーゲンスベルグで目にしたこと、耳にしたことを陛下にお伝えするし、私もこっそり陛下からの預かりものを携えていったりする。

 セプタードが結婚し子どもが生まれた時。モントアーレ一座が街に落ち着いた時。ウィミィが結婚した時。多くの喜びをお二人の下に運べたことを、私は心から誇らしく思う。

 それでも陛下には、いまだに言えずにいる。七年前のあの日、私がなぜあんな無茶をしてまで傭兵館に潜り込んだのか。

 私がそこで何を見たのか。

 私はそのことについてだけは、いまだに迷い続けている。

 それでも七年という歳月は、駆けるように過ぎた。私にとっても、陛下たちにとっても、傭兵団のみんなにとっても。

 沢山の人たちに様々な出来事があり、誰もが胸の底に痛みを沈めたまま、それほどの月日を生きてきた。

 だから私は思う。

 人は、変わっていく、と。

 それは悪いばかりではないだろう。いいことも悪いこともすべて包含して、ゆっくりと、しかし確実に。

「そうですね。施政にしても、商いにしても、みんなの様子にしても、前訪れた時から大きな変化はないようですけれども、ブレイリーの頭の痛いところはそこかもしれないのかと」

 私の曖昧な物言いを、陛下は違うことなく解してくださった。

「軍隊じゃなく、傭兵団が都市防衛を行うのは、やっぱりきついだろうな」

 小さなため息と共にこぼされた言葉は、共感にあふれていた。

 立場上、陛下も多くは語らない。けれども団長であるブレイリーが今どんな問題に直面しているのか、容易に察せられるのだろう。

 そう、レーゲンスベルグ傭兵団は、今ある意味行き詰まっている。それは当然の帰結だった。

 それを打破するのに最善の方法は何か――それはもはや、誰の目にも明らかなのかもしれない。だからセプタードやアデライデさんは私にやいのやいの言うのだろう。

 私という存在は、レーゲンスベルグ傭兵団の利益になる。それは紛れもない事実だ。

 そしてそれは、今目の前にいるこの方たちの目から見ても、同様のようだ。だからこそ、こんな言葉を向けられる。

「ロスマリン、きっとあなた自身が一番よく判っていることだろうけれども……個人の感情ではなく、目的遂行のための戦略として、レーゲンスベルグに行くという選択肢はないの?」

 マリーシア様の言葉に、私は沈黙した。

 そうだ、判っている。私は戦略として、もうそろそろ本拠をアルベルティーヌから別の場所に移すべきなのだ。

 未来へ真実を伝えるための組織。それを構築するのに最適な場所――それはやはりレーゲンスベルグをおいて他にない。

 アルバの中の独立国、王国も国軍も手出しできない場所。そして新しい機構を立ち上げることが叶う、先進で自由な気風が存在しうる場所。

 私が七年前、計画の始まりとして、なぜとるもとりあえずレーゲンスベルグの門を叩いたのか。この七年、かくもあの街を訪れ、施政人を含めて沢山の人たちと関係を深めてきたのか。それは私の個人的な感情だけでは、確かにない。

 しかし傭兵団とこれほど近しくなったのは、戦略よりも個人的な感情の方が遙かに大きかったわけで……だからこそ、今私も行き詰まっているのだ。

 これももう判っている。未婚の女が傭兵団とこんな関係を続けるのは、いい加減限界だ。

 いっそ私がブレイリーに対して、何の個人的な感情も抱いていなければ、いっそ話も早いのかもしれない、とも思う。

 傭兵団の力を計画のために貸してほしい、そうしてくれれば私はあなたたちを資金的にも立場的にも後援する――そういう言い切って、事務的な関係になれれば、いっそ。

 でも言えないのは、ごく単純。

 私が自分の気持ちに見切りをつけられないからだ。諦めきれないからだ。

「今回の調査中、そのことをずっと考えていました。レーゲンスベルグ大学はその気があればいつでも席を用意すると言ってくれているし、ひとまずはそういう形であっちに居を構え、市井に降りてしまうのもいいかもしれないと。宮廷や女官としての仕事に未練がなくもないのですが、やはり私の存在はバルカロールにとって益多いものではないだろうと」

「あなたはこの七年、十分すぎるほど私に尽くしてくれた。もう私や、子どもたちのことを気遣う必要はないのよ」

 もったいないお言葉に、私は頭を下げた。

「でも帰りにレーゲンスベルグに寄ってみて、感じました。自分の気持ちの方に決着をつけない限り、私は動けないと。そしてまだ、けりをつけられそうもありません」

「……けりつけないと駄目なのか?」

 半分渋面半分不可解といった感じの、何ともおかしな表情を陛下は見せた。

「ブレイリーのこと、好きなんだろ? そろそろあいつのところに、嫁いでもいいころじゃないか」

 平然と仰る陛下に、私は内心で「ああもう!」と叫んだ。

 そう簡単に話が進めば、こんなに悩まない!

「本人にもらう気がないのに、どうやったら行けるというんですか、陛下」

 なかば泣き声で叫んでしまった私に、陛下は今度は弱り果てた顔をした。

「あいつは好いてもいない女に七年も、自分の周りをふらふらするのを許す男じゃねえぞ」

「そうやってセプタードもアデライデさんもソニアさんもみんなカマかけるのに、七年も何もなかったんですよ。その気があったら、もうちょっと何かあるでしょう! 行けば開口一番に言うことは、自分の身分と立場を自覚しろいい加減にしろ早く嫁に行け、そればっかりで! そんなの惚れた女に言う台詞じゃないでしょうに!」

 思わず激高して叫んだ自分の言葉は、予想以上に自分の胸に突き刺さった。

 レーゲンスベルグの人々が皆が邪推する。噂をする。親しい人たちはやきもきし、カマをかけ、時には真剣に案じてくれる。

 私とブレイリーの仲は、実際どうなのかと。

 そんな人たちに、私は正直に答えるしかない。

 私と彼の間には、何もない、と。

 そしてもう私にも判っている。

 彼の気持ちは、私にはない――当然のことだ。十七も年下の小娘など、女だと思っていないに違いない。

 けれどもそう認めることは、そうやって割り切ることは、簡単なことではない。

 今度こそはと期待して街を訪れ、そして何も変わらぬまま後ろ髪引かれる思いで街を後にする。それをただ七年も繰り返している。

「確かに俺とあいつは即位以降一度も会っていないし、連絡を取っているわけでもない。本心が判るのかって言われれば、判らないだろうよ」

 だけど、と陛下はさらりと言う。

「ただ一つ言えることは、もし俺があいつの立場だったら――国王なんかになっていなくて、レーゲンスベルグの一介の傭兵のままだったしたらだ。そんな俺がお前に好意を寄せられたとしたら……俺がお前に惚れていたとしても、まず果てしなく悩むな」

「……それは私が貴族だから、侯爵令嬢だから、ということですか」

「無論それもある。だが一番の問題は、多分そこじゃない」

 意味ありげに、陛下は苦笑した。

「お前自身は自分をどう評価しているか判らないが、お前という女と共に生き、同じ道を歩むには、相当の自信と覚悟がいるぞ」

 陛下の言葉の意味が、私には判らなかった。

 私はそんなご大層な女じゃない。

 私は望んだものになれなかった。力になりたいと願った人に何もできなかった。大きなうねりの前でただ立ち尽くすことしかできない、ただ見ていることしかできない、ちっぽけな存在だ。

 そのことを誰より知っているのは――今生きている人の中で、ほとんど唯一知っているだろう人は、他ならぬブレイリーその人だというのに。

 でもその瞬間、何かが心に引っかかった。理性ではなく理屈ではなく、感覚が心の中の弦をぴんと音をたてて弾く。

 私は本当は判らないのではないのではないかと、心の底がかすかに呟く。

 だがその子細を、この時の私は掴むこともなく。

「もうご勘弁ください、この話は。それよりも私、陛下にご報告したいことがあるんです」

 私は愉快ではない話題を打ち切り、ずっと胸の中に隠してきた懸念を口にした。

「今回の調査で滞在していたハイアワサで、気になることを耳にしまして」

「……なんだ」

「中央陸路で隣の都市はマリコーンですが、そこから来た商人たちが言っていたんです。マリコーンの穀物相場が高騰としていると」

 両陛下が表情を変えられた。お二人は私の懸念がどこにあるのか――単に相場や経済の話をしようとしているのではないことを、すでに察しておられるのだろう。

「この収穫直後の時期に高騰しているとすれば、マリコーン周辺の需要と供給の均衡が大幅に狂っているということです。けれども、その要因となりそうな事態は、陛下の下には何も報告されていませんよね?」

 相場が高騰するということは、需要が過多であるか供給が過小であるということだ。

 供給が過小になる原因として真っ先に思い当たるのは、不作。けれどもマリコーン周辺を含めてアルバ全土で天候不順や天災、病害虫の大規模発生等の報告はない。そして王都から出て飛び回っている私の耳にも、その類の噂は届いていない。

 間違いなく、マリコーン周辺の穀物収量は平年並みだ。

 となれば、導き出される推論は二つ。収穫された穀物が、市場に出る前にどこかに消えたたため、供給が過小に陥ったか。

 それとも突然、相場が跳ね上がるほどの巨大な需要が発生したか。

 どちらにしても、最後に辿り着く推論は、一緒。

「マリコーンは、グリマルディ伯爵領だな」

「それだけの糧食を確保したのが伯爵本人なのか、それとも別の誰かなのかは判りません。挙兵準備だとこの段階で判ずるのも、早計だとは思います。しかし一応、陛下にはお心に留めていただければと」

「相場を左右するほどの量の穀物が動いているのならば、当然誰かの耳目に入るでしょう。伯爵が身内に蓄え持っているにしても、何者かが何者かに売りさばいたにしても、それだけの量だもの、痕跡を隠蔽しきれるはずがない。現地に人を送る必要があるわね」

 マリーシア様は後の歴史家に『カティス王の共同統治者』と呼ばれるほど、アルバの国政を知悉されていた。無用の混乱を避けるため、陛下存命中は決して表向きには行動も発言もされなかったが、常に陛下は多くの課題をマリーシア様と共に検討していた。

 陛下にとって、今となってはマリーシア様は妻である以上に、かけがえのない助言者だ。

 その冷徹な思考と姿勢は、どこか兄様に似ていると私は思う。

 妻の提案に夫が頷いた時、私はそこに割って入る。

「それなのですが、次回の調査地をマリコーンにしようと思っています。ナエマ、ハイアワサと今まで中央陸路を北上してきたので、そのまま次のマリコーンに入っても、不自然には思われないかと」

 私の提案に、夫妻は揃って渋い顔をした。

「駄目だ」

「どうしてですか」

「今まで何度も言っているように、お前に何かあったら、俺はカイルワーンに申し訳が立たない」

 それは確かに聞き飽きた言葉だ。けれどもこれを口にする陛下の沈んだ面差しに、私は返す言葉がない。

「俺はお前に、姫らしくしろ、女らしくしろなんてことは言わない。そしてお前が旅先で拾い集めてきてくれる情報、それが貴重であることも否定しない。お前はお前の思うとおり生きていい、そう思う。――だからといって、お前を危険にさらすようなことは認められない。お前の安全と俺の利益など、秤にかけるまでもないことだ」

「私たちはあなたに、進んで諜報をしてほしいだなんて考えてはいないの。……あなたは自分では判っていないかも知れないけれども、目立つのよ。あなたは自分が王立学院の博士であり、侯爵令嬢であることを隠さずに行動することはできない。それは相対した人を、無用に刺激し扇動することもある――そのことは判っている?」

 マリーシア様の語る理屈は、判る。私は確かに、身分や素性を隠して隠密に行動することができない。

 王立学院の博士、という身分を喧伝して歩いているからこそ、女である私は不審がられずに多くの土地を訪ねることができているのだ。

 それくらい女性が長旅をすることは稀だ。庶民であれば別だろうが、幸か不幸かやはり私は庶民には見えない。

 そしてまがりなりにも侯爵令嬢が、ささやかな護衛や従卒のみで市井にあるということが、人に悪心を抱かせないとは限らない。それを理解しては、いる。

 だがそれでも、と私は思ってしまう。

「だからこそ、私でなければならない、ということもある。そう思うのですが」

「ロスマリン」

「もしグリマルディ伯が何事かを画策しているとして、そこに宰相の娘である私が向かう――それは牽制になりましょう。王宮はお前の動きに気づいている、と暗に示すことになる。それで企みを未然に防ぐことができれば越したことはないかと」

「しかし」

「私は王室の命によってではなく、王立学院の学術調査のために向かうのです。私は伯爵に嫌疑をもって領地に入るのではないのですもの、そんな私を拒めば、王家に対して後ろ暗いことがあると自ら表明することになります。伯爵に領内での調査の許可を申請するだけでも、私たちは伯爵自身を試すことができます」

 それに、と私はにっこり笑う。

「私に何らかの危害を及ぼすということは、バルカロール侯爵家と事を構えることと同義です。グリマルディ伯は、それに踏み切るほどの力を保持しているでしょうか。――逆に伯爵に二心があるのならば、なまじな者を調査に入れるのは危険かと」

 陛下は輪をかけて渋い顔をした。幼い頃からのつきあいだ、陛下は私の性格をよく知っている。だから次に出てきたのは、この言葉。

「……何かもう次の展開が読めるぞ。もう学院には、マリコーン行きを申請したと言い出すんだろう」

「さすがは陛下。当たりです」

 がっくり、という擬音が聞こえるほど陛下はうなだれ、マリーシア様は天を仰いだ。ああ、という嘆息をもらした後、苦り切った声が響く。

「一度決めるとあなたがてこでも動かない人だってことは、百も承知だけど……どうか、このことだけは心に留めておいて」

「はい」

「あなたの周囲の人たちは、あなたが思っている以上に、あなた自身を愛しているのだってこと。誰かへの恩義とか負い目ではなく、ただ純粋にあなた自身を愛おしいと思っているのだということ。切羽詰まった時、何かを選ばなければならなくなった時、どうかそのことを思い出して」

 言葉の意味は理解はできた。けれどもどうしても実感はできなかった。

 結局それこそが、私の最大の問題だったのだということを、若かったこの頃の私は、まだ理解もできず。

 私は敬愛する人に、ただ曖昧に微笑むことしかできなかった。

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