終章

終章

「ねえ、あれじゃない?」

「どんどん船影が大きくなってきます」

「設計図は見ていましたが、実物は予想以上です。素晴らしい!」

 若者たちの感嘆や歓声が港中に響き渡る。その華やいだ声を、私は設えられた高座から快く聞いた。傍らには孫である三代目総領とその妻が寄り添い、今は一線を退いた息子たちや総領を支える各家の当主たちがそれに続く。

 大陸統一暦1074年五月。私たち一族にとっての念願が叶った今日この日は、見事な晴天。素晴らしいお披露目日和だ。我らが軍港として使用しているレーゲンスベルグ新港には、我々一族を始め、施政人会議の議員や街の有力者などの来賓、そして詰めかけた見物の市民でごった返し、まさにお祭りの様相を呈していた。

 私、ロスマリン・アメリア・バルカロールがブレイリー・シトロナード・ザクセングルスと結婚してから六十年の歳月が過ぎ、私は八十五歳となった。

 私自身も、よもやこんな年まで生きられるとは思ってもみなかった。両親は私を本当に丈夫な身体に産み育ててくれたのだ、と感謝している。もちろん今では一族の舵取りは全て若い者たちに任せているが、沢山の孫や曾孫たち、血はつながらないが一族と思っている共同体の子たちが騒がしく荒々しく暮らすのを、最長老として見守る日々だ。

 夫を始めとした私を愛してくれた年長者たちは、もう全て亡い。

 でもこれは、私が彼らより一世代分ほど年下である以上仕方のないことだ。逆に言えば、私は彼らよりずっと若かったから、彼ら亡き後も長く一族と街を見守ることができた。それはそれで重畳だった、と今は割り切ることにしている。

 結婚する時「岩にかじりついてでも生きる」と誓ってくれた夫は、その約束を違えなかった。右腕切断の後遺症である幻肢痛に苦しめられながらも長く生き、私たちの結婚生活は三十五年余に及んだ。

 その三十五年は苦労もあった。アルバ本国とレーゲンスベルグを共に襲う動乱もあった。しかしそれでも一言でまとめるなら、やはり「幸せだった」に尽きた。

「こんなことなら、七年もつまらない意地をはるんじゃなかった」

 これが結婚後の夫の口癖だった。この言葉は夫の全ての気持ちを的確に言い表していて、私は聞くたびに微笑んでしまう。

 もちろん夫も私も判っている。私たちの結婚は、本当にあの時しかなかったのだ。

 レーゲンスベルグには夫と傭兵団が必要不可欠だと周知された頃。そして私の学者や女官としての評価も定まり、その仕事が落ち着いてきていた頃。そして王妃陛下も三人のお子をもうけ地位を盤石にされ、私がいなくても大丈夫になった頃。その全ての機が熟した瞬間、グリマルディ伯爵の反乱が起こって、私たちは否応なく結婚への道を駆けることとなったのだ。

 だから悔しいとか、残念とかは思わない。けれども夫がもっと早く私と一緒になればよかったと思ってくれる日々を送れている、しかもそれを臆面なく告げてくれていることが、私は嬉しくて仕方がなかった。

 私たちは結婚を機に、レーゲンスベルグ施政人会議に加わった。しかしそれは当初の夫の目論見とは、全く異なる形となった。

「ザクセングルス、お前はこんなにできる女性を、自分の伝書鳩にするつもりか」

「……は?」

 結婚式前の最後のレーゲンスベルグ訪問。夫と二人呼び出された施政人会議の席で、私たちは突如こう告げられた。

 施政人会議の議長であるジョッセルフェルトは、その素っ頓狂な言葉を重々しく告げた。

「ロスマリン嬢、貴女はアルバの特使として幾度となく我々と交渉をしてきた方だ。その人となりも能力も十分に承知している。だからこそ我々は言う。――あなたは確かに有能な方だが、軍事に関しては門外漢だ」

「……はい」

「傭兵団を指揮するのは、変わらずザクセングルスだろう。なれば貴女が軍務の担当として施政人となることは、夫の伝言係以外のなんだというのか――我々は、軍務担当の施政人はブレイリー・ザクセングルス当人以外には認めない」

 確かに彼らの言うとおりだった。私たちはぐうの音も出ないのだが、それでは母との約定を果たせない。当惑した私たちに、議長は一転して意地悪く笑って告げる。

「だがロスマリン嬢、貴女という人材を手放すのも惜しい。アルバ王国や宰相家、他国とのつながりや人脈も、我々が喉から手が出るほど欲しいものだ。――どうだ、外交の担当として施政人会議に加わらないか」

 私たちは揃って呆然とした。その申し出は、どう考えても破格に過ぎる。

「それは私どもに、施政人会議の席を二席預けてくださるということなんですか」

「ロスマリン嬢、君は夫にただ盲従するような女かい?」

 挑むように議長は私に笑った。

「もちろん君が、ザクセングルスの妻として、彼を支えることが本懐だと言うことは理解している。しかし軍務と外交は馬車の両輪のようなもの。協調し、互いを理解しながら事に当たらなければならない。君が外交の責務に当たることは、夫君にとっての大きな手助けになるだろうし、君ならばただ夫の言いなりになることはないだろう? レーゲンスベルグと傭兵団、それぞれの最善の折り合いをはかることができるだろうと私たちは思っているのだが」

 やっぱりこの人たちは化け狸だ。私の矜恃をくすぐることで釘を刺してくる辺りが、とてもずるくてしたたかで抜け目なくて、自分の未熟さを思い知らされる。

 でも私も夫と対等となる権を持ち、施政人会議に座することが叶うのなら。それはどれほど大きな力であることだろう。

「承ってよろしい? あなた」

 傍らの夫も複雑な内心をわずかににじませながら、それでも頷いた。そんな私たちに、議長は穏やかに笑う。

「ようこそ、ブレイリー、ロスマリン、偉大なる我らが賢者が築いたレーゲンスベルグ施政人会議へ。君たちの働きを我々は期待している。――そしてブレイリー、我々はまだ君に、大事なことを言っていない」

「……なんでしょう?」

「我々はこの十四年、君をずっと見ていた。――結婚おめでとう。君の幸せがこのレーゲンスベルグの上で築かれるのならば、我々にとっても幸せであり誉れだ」

 その時私は思った。この人たちは化け狸で心底油断ならない、だけど。

 この人たちもまた、夫に心惹かれているのだ。

 彼と傭兵団を失ってはこの街は立ちゆかない、というのは紛れもなく真実。けれどもきっと、彼らの気持ちもそれだけではないのだろう。好意と誠意がにじんだ言葉に、私はただ夫を見上げて笑った。

 そうして私たちは結婚と同時に、レーゲンスベルグの施政に加わった。私はアルバや他国との様々な交渉や使節の接遇饗応を取り仕切り、夫はさらに拡大していくレーゲンスベルグの街を守り続けた。私は傭兵団においては彼の右腕として従うものであるが、施政人会議においては対等に対峙した。

 外交と軍事は時には対立せざるを得ない。お互いに譲れない場合もある。会議の席上で議論をしていたらついお互いに熱くなってしまい、他の議員に「夫婦喧嘩は家に帰ってからやれっ!」と怒鳴られてしまったこともあるのは、今となってはこそばゆい思い出だ。

 そんな関係は、夫が軍務担当の施政人の席を息子に譲り引退するまで続いた。その時に私も共に施政人会議を辞し、以降は夫に寄り添いながら、子どもたちと共同体を見守り続ける日々を送った。

 そうして私が傭兵団補佐と施政人の二つの責務も負ったように、夫もまた密かに別の責務を担った――ザクセングルス子爵として。

 夫の故郷、タランテルとザクセングルス子爵領の復興。それは夫に課せられた責務であり悲願だった。それには積極的な投資と綿密な復興計画が必要であり、それを投下するにはやはり彼の地の権利を整理する必要があった。

 夫と私と両親、陛下を交えて相談した結果、やはり土地と爵位を正式に相続するのが最も円滑だという結論に達した。

 とはいっても書類上のことだけで、その事実も秘する。アルバ連合王国に表だっては仕えないし、陛下も臣従を望まない。

 無論その法外はアルバには何の益にもならない。それを陛下が受け入れたのは、温情以外の何物でもない。

 しかし爵位継承を行ったあの日。人払いをし、マリーシア様と私と両親だけが立ち会ったささやかな式典。玉座の下に跪いた夫の肩に、抜き放ったレヴェルの刀身を載せたその時、陛下が見せた表情が、私はいまだに忘れられない。

 陛下はこの上なく誇らしく、そして安堵に満ちた顔をされていた。

 私はこの時陛下が、背負われていた重い荷物を一つ下ろしたのだと――夫の過去を知ってしまったその日から、陛下が密かに夫のことを思い苦しんできたのだということを、実感した。

 こうして夫はレーゲンスベルグの施政に加わりながら、密やかにタランテルの領主として復興に尽力することになった。

 しかし現実として、北のタランテルと南のレーゲンスベルグでは距離がありすぎた。そんな夫に手を差し伸べたのは私の両親だった。

「お前がどのようにして街を立て直していくのか、その手腕が見たい」

 陛下や閣下の代理だ。二人からの結婚祝いだと思って、素直に援助を受け取れ。父はそう言って、多額の資金とモリノーの人員を夫に貸し付けた。

 モリノーからタランテルに派遣された家臣たちは、夫に忠実に仕え、代官として施政を行い街の復興のため働いた。夫は父を領主としての師として仰ぎ、父もまた夫を実の息子同然に遇した。私たちはタランテルの諸々の決裁を行うために、アルベルティーヌとレーゲンスベルグを往復する生活を、結婚後長らく続けた。

 このことは思わぬ喜びをもたらした。陛下と夫が会えるようになったことだ。

 陛下は爵位継承後、一度も夫を王城に召し上げはしなかった。しかしお忍びで侯爵家を訪ねてこられては、夫と語らいの時間を持った。

 一方はアルバの国王、一方は独立都市であるレーゲンスベルグの議員。友好関係は結んでいるものの、違う国の為政者である以上、お互い語れぬことは多かっただろう。それでも二人は茶や酒を飲みながら他愛のない話に興じ、時には何も話さずただ傍らにあり続けた。

 挙げ句の果てには一度、陛下が夫の傍らで昼寝をしていたことさえある。長椅子に寝転び、気持ちよさそうな寝息を立てている陛下の枕元で、夫は悠然と本を読んでいた。仰天した私に「疲れていたんだろう、寝かせてやれ」と平然と言い放った夫に、私は夫と陛下の信頼関係を見せつけられた気がした。

 事実その一時は、陛下にとって国王という重い衣を脱ぎ捨て休める、かけがえのない時間だったのだろう。無防備に眠る陛下の髪を、愛おしげにかきあげた夫の眼差しに、私はこの一時を何としても守って差し上げねばならない、と強く誓った。

 夫の後半生最大の悲しみは、もしかしたら陛下が自分より先に亡くなったことかもしれない。

 私と夫は結婚後、黒の禁書を開いた。だから私たちは陛下の没年を知ってしまっていた。けれども身体に不安があった夫は、自分の方が先だろうと内心思っていたらしい。

 だからその時を迎えた時、私にただ一言「あいつに迎えられることになるとはなあ」とこぼして静かに泣いた。私はただ寄り添い、何も言わずにその体を抱きしめ続けた。

 夫がタランテルとの決着をつけたのは、結婚してから二十五年後のこと。市場を建て直して商人と物資を呼び、開墾を奨励して農地を広げ、常設軍を編成して治安の回復に努めた。簡単な道のりではなかったが着実に街は復興を遂げ、人々の生活が安定したところで、夫はそのすべてを手放すことを決意した。

 領地をすべてバルカロールに委譲し、爵位を国王に返納したいがどう思うか。夫にそう相談された子どもたちの返答は、明快だった。

「いいんじゃね?」

 長男は驚くほどあっさりとそう言った。

「だってタランテルのことは、親父がずっと一人でやってきた、言わば親父の趣味だろ? 俺たちも傭兵団もレーゲンスベルグも関係してない。だったら親父の好きにすればいい」

「趣味ってお前な」

 長男の物言いに、夫は苦笑した。

 私たち夫妻の第一子である長男ランドレイは、二代目総領として一族を率いた。

 夫は傭兵団と共同体を自分の血縁の所有物にはしたくない、子どもたちを血によって縛りたくない、と常々口にしていた。けれども結果として全員が、共同体に大きく寄与する人生を選択した。

 この長男は、傭兵団の総員にまさに溺愛されて育った。といっても甘やかされたという意味ではない。誰しもが己の持てる限りを尽くして立派な男に育てたい、という熱意に駆られた結果、それは温かく厳しく目と手をかけられることになった。

 明るく物怖じのしない性格の長男は、総員の厳しい愛情を真っ直ぐに受け止めて成長した。傭兵団に入り、いずれはそれを継ぎたいと告げた時、夫は難色を示したが「それが俺のしたいこと。邪魔立ては親父だって許さない」 と陽気に脅し、着実に戦果を挙げてそれを実現した。以降、ウィミィの後を継いで一番隊の隊長となったジリアンの補佐を受け傭兵団を率い、ついには夫から全権を譲られた

「賢明な判断だと思います、父上」

 驚く素振りも見せず、淡々と次男は答えた。

「ザクセングルスとアルバ王家は、いずれは縁遠くなっていくと思われます。親密でいられるのは、ステフィ殿下たちと僕たちまで。僕たちの子どもの時代になれば、親愛や情を持って関わり合うこともなくなるでしょう。そしてバルカロールと親族として関わり合うことも、いずれはなくなる。だとしたら、今のうちにアルバ貴族としてのザクセングルスを整理し、身軽になるのは得策だと思います」

「その通りだな」

「タランテルから上がる収益も、すべてバルカロールからの借入金返済と当地への投資に回し、傭兵団にはびた一文繰り入れておりません。今タランテルと子爵領を手放したとて、財政的に我々は痛くもかゆくもありません」

 冷静な判断に、夫は鷹揚に頷いた。

 次男リュシオールは、ある意味最も夫に似た、と親友たちに評価された。

 この次男は長男とは違い、あまり丈夫には生まれつかず、一度も戦場には立たなかった。剣術を身につけることも早々に放棄した。「向いていないことに時間を費やすのは無駄です」と十歳ほどで言い切ってしまった冷徹さに、私たちや師であるセプタードは苦笑いを浮かべるしかなかった。

 しかし次男は夫以上の計算力と状況分析能力、着実に仕事をこなす計画性と粘り強さを持っていた。夫が結婚前から特に目をかけて育てていた事務方集団『主計部』に幼い頃から出入りし、傭兵団の兵站や会計を掌握することを望んだ。

 実際のところ主計こそが傭兵団の中枢だ。彼らの働きなくしては、傭兵団はまともに機能などしない――実際夫が評価されているのは、武勇ではなくその卓越した経営手腕だったのだから。だから夫が一線を退く際、二代目総領を長男と次男のどちらにすべきか、幹部たちの意見は割れた。

 だが当の本人は「僕が総領ですか? 冗談じゃありません。それは最前線で皆を率いてきた兄さんに任せてください」とあっけらかんと言ってのけた。

 それでいいのか? と問いかけた夫に「ただし主計に、総領に対し意見する強い権限をください。あのどんぶり勘定の言いなりになっていたら、うちの財政は破綻します」と平然と言い放ち、違いない、と夫は苦笑するしかなかった。

 無論夫も私も判っていた。この次男の本懐が、なんだかんだ言いつつ兄を支えることなのだということも。

 次男はその頭脳明晰さと有能さ故、父と弟から「バルカロールの養子に」と熱烈に望まれた子だ。けれどそれを拒んだのは、あの子なりに兄と家と街を愛していたからなのだということを、私たち夫婦は知っている。

 以降主計は一族のどの家からも独立し、総領に直に仕え意見する機関となっている。

「大体にして私が子爵令嬢なんて、そんな柄じゃないでしょう。父様も母様も、そんな育て方したつもりある?」

 長い髪をかき上げ、長女は悪戯っぽく笑う。その発言に、私は呆れて答えた。

「礼儀作法から何から、一応は一通り教えたつもりなんだけど」

「子どもの頃の母様がどうだったか、お祖母様やキアノからたっぷり聞かされてます」

 私はただため息をつくしかない。

 長女カリーナは、一言で言ってしまえば私の娘だった。こんなにもがさつなところが似なくても……と頭を抱えたことは限りないが、この娘のいいところは、私と違いそれを引け目には感じなかったことだ。

 グリマルディ伯爵事件以降、正式に傭兵団の剣指南役に就いたセプタードは、四人の子ども全員に剣の手ほどきをしたが、「単純な技量だけでいったら、長女が一番」と評価した。事実、素人の私が見ても長女の剣さばきは美しく思えた。とはいえ、体力や膂力が男たちに劣っていたのも事実。乱戦の戦場に赴くことは、夫も長男も決して許さなかった。

 そんな長女が担ったのが都市防衛団だった。レーゲンスベルグの街はますます拡大の一途を辿り、都市防衛団もさらなる増強を迫られた。

 長女は兄の信任の下、その責務をよくこなした。平時には治安維持、動乱時には街の防衛に全力で駆け回る長女を、街の人たちは親愛と揶揄を込めて『レーゲンスベルグの鉄壁』と呼んだ――実際、数多くの男たちが長女に言い寄り、無残に砕け散っていったのだから。

 そんな鉄壁を攻略したのは、意外な男だった。兄妹同然だった幼馴染み、セプタードの次男・エリーネルンだ。

 セプタードの三人の子ども、ヒースクリフ・アリスティード・エリーネルンは私の子どもたちとともにセプタードに師事し、それぞれの道を歩んだ

 エリーネルンは婿としてザクセングルスに入り、妻と共に都市防衛団の中枢を担った。つまりザクセングルスの中でも長女の血統には、大恩ある師ランスロット、『総領の守護神』と呼ばれた剣指南セプタード、二人のアイルの血が流れている。

 こうして長男は事務を弟、街の防衛を妹に全て預け、心置きなく戦場を駆け回った。ザクセングルスの基を築いたのは確かに夫と私だが、発展させたのは子どもたち。ロクサーヌが二代王の三兄妹が連合王国を大きく発展させたように、ザクセングルスも奇しくも同じ時代に三兄妹が一族を盛り立てた。

「別に僕もいいよ。ただこれで、バルカロールと縁切りをするわけじゃないんでしょ? お父さんやお母さん、僕たちと会えなくなったら、バルカロールのお祖父ちゃんたちやアリスター叔父さん、バルカロールの家令のみんなが泣いちゃうよ」

 ほんわり緊張感のない口調で告げたのは、私たち夫妻の末子。三男のアロンジェだ。

 この子については、本当にどう記したらいいのかと悩む。けれどもいつだって、私たちの想定や想像を遥かに超える事態を巻き起こしてくれた。

 三男は、傭兵を生業とするこの家にはほとほと向いていなかった。泣き虫で臆病で運動音痴。次男も早々に剣を諦めたが、三男はそれどころではなかった。

 どう考えても怪我するしかないその有様に、むしろセプタードが早々に剣を持たせることを止めた。かといって、次男のように頭が切れ、堅実に実務をこなせる性格でもなかった。

 楽しいことが大好き。美しいものが、美味しいものが、綺麗で優しい女の人が大好き。戦争も痛いことも、血を見るのも大嫌い。そんな心優しい甘ったれだ。

 だがこの子ほどレーゲンスベルグの街の人たちに愛された者もおらず、ある側面においてこの子ほど街の発展に寄与した者もいないかもしれない。

 三男は審美眼と興行主としての天性の勘、技芸や娯楽に傾ける情熱が並外れていたのだ。

 事の起こりは、父が三男をモリノーの夏至祭に招いたことだった。父がアイラ姉様を見いだすきっかけとなったお祭り。街の至る所に舞台が設えられ、一週間にわたり様々な技芸が披露される祭りを見物した三男は、戻ってくるなり私たちや兄たちに宣言した。

 レーゲンスベルグでも、これがやりたい、と。

 この夢の後押しをしたのは、副団長となっていたウィミィと妻のクレアだった。三男は二人を通じてモントアーレ一座と懇意になり、そこからレーゲンスベルグの芸能に係わる者たちと信頼関係を築いていった。仲間を作り支援者を募り資金を集め、ついにはその夢を実現した。

 レーゲンスベルグは王城に近い港町であるから、モリノーより人の出入りが激しい。毎年行われる夏至祭は国の内外から多くの芸人と見物客を集めるものとなり、街に活気と多くの利益、新たな人の流れをもたらした。

 この成功に気をよくした三男は、自ら演劇や舞踊を興行し、芸術家たちを支援するようになっていった。そんな三男の下には多くの文化人が集うようになり、サロンからは幾人もの若者が才能を開花させていった。

 そうしてレーゲンスベルグは商工業だけではなく、文化都市としても近隣に名を馳せるようになった。それは間違いなくあの子の功績だ。

 そんな三男の事業には、当然多額の金銭が必要だ。あの子自身が興業で稼いでいた金が原資ではあるが、傭兵団や家の金を当てにされたこともたびたびあった。それ故あの子は、街の人から『ザクセングルスの愛すべき穀潰し』と呼ばれることになる。

 そんな三男の擁護者は、意外なことに金庫番であるところの次男リュシオールだった。次男にその真意を尋ねると、困ったような笑みを浮かべて答えた。

「アロンジェのあれは、確かに穀潰しではあるんですけど、でも母上もお気づきでしょう? あれで我が家に対する反感が、大分薄らいでいると思うんですよ」

 レーゲンスベルグの武力はすべて傭兵団の私有物だ。そのことに対する根源的な不安と反感は、決して消えてなくなりはしないだろう。

「短期的に見たら、確かに赤字です。でも中長期的に見たら、アロンジェがザクセングルスにもたらしてくれているものは黒字ではないかと。ならばあの子が必要とする金は、ある程度は必要経費として呑むべきではないかと僕は考えました」

 それにね、と次男は私に快く笑う。

「あいつの作るものは、どれも結構面白い。そこそこの赤字ですむのなら、支援してやっていいかなと。それくらいの余裕は、今のザクセングルスにはありますよ」

 そうして三男は、とんでもないものを世に送り出してしまう。それが『高嶺に咲く一輪のエーデルワイス』だ。

 三男が新しい芝居を劇場にかける、ということは私たちも聞いていた。しかし初日公演から帰ってきたウィミィが、まるで駆け込むように私たちの下を訪れてこう言い放った。

「凄い話だったぞ。絶対明日、二人で行ってきた方がいい」

 その時のウィミィが見せた、何とも形容しがたい珍妙な顔の意味は、幕が上がってやがて理解した。

 そして私たち夫妻は、自分たちがいる場所が身内しかいない個室席だったことに感謝した。

 なぜなら二人揃って、恥ずかしさのあまり卒倒したからだ。

「いやあ、ずっと狙ってたんだよね、お父さんたちのことを舞台にするの」

 終演後の傭兵館。悪びれることなく言ってのけた三男に、私たち夫妻は怒りの収めどころがないわ、居合わせたウィミィはずっと腹を抱えて笑っているわで、それはもう修羅場以外の何物でもなかろう。

「なんでお前が、あんなことまで知ってるんだ。誰が話した」

「酔っ払って僕に惚気たお父さん」

 この一言に夫は撃沈し、私は恥ずかしさに顔を覆うしかない。

「そうは言ったって、お芝居だよ。全部が本当のことじゃないし、沢山脚色もしてるし」

「……当然だ。マリコーンで鬼神斬りをしたのは、俺じゃなくてセプタードだ……」

「そりゃあ盛り込まないわけにはいかないでしょ、そんな最高の見せ場。大立ち回りに、お客さんも盛り上がる盛り上がる」

「俺が腕をなくしたのも、あの時じゃない……」

「それ詳細に書いたら、王家にご迷惑かけるでしょうが。ザクセングルスと王家との関わりは詳らかにはできないし、あの泣かせどころが入らないと、お祖父ちゃんが何でお父さんとお母さんの結婚を許したのかのオチがつけられなかったんだよ」

 演出としてはそうだろうが、だがそもそもの問題は。

「なんで俺たちの話を舞台にしたいだなんて思ったんだ」

「望まれていると思ったからだよ、レーゲンスベルグのみんなに」

 三男は一転して、真面目な顔をした。この子がこんな顔をすることもあるのか、と驚くほど真摯な顔つきだった。

「若い世代は判らない。でもお父さんたちと同じ時代を過ごしてきた人たちは、みんな判っている。もしお父さんとお母さんが結婚しなければ、今のザクセングルスもレーゲンスベルグもない。間違いなくお父さんとお母さんの恋は、この街と沢山の人たちの運命を左右したんだよ。そのことは、二人とも否定しないよね」

 もし私たちの結婚が叶わなかったのならば――もし夫が若くして力尽きていたならば。もし私が、グリマルディ伯爵やメルル・ブラン王女の虜となってしまっていたならば。今ある沢山の幸せは存在していない。

 そしてそれはこの街の命運も左右しただろう。沢山の人たちの人生を変えてしまっただろう。それは否めはしない。

「お父さんとお母さんの恋を、あの時みんなが応援していた。それがどれほど困難なことだったのか、叶った時にどれほどの人が喜んだのか、お父さんたちがどれほど祝福されて結婚したのか、僕は沢山の人たちから聞いた。だから僕は思った――当時を生きた人たちはきっと、お父さんたちの物語を誇りたいはずだと」

 私と夫はこの時、傍らで口を挟まず聞いていたウィミィを見た。

 ウィミィはもはや笑い転げてはいなかったが、頬杖をついて本当に楽しそうに、私たちのやり取りを眺めていた。

 あの頃も私たちのために心を砕き、その後も長く生きて私たちを支えてくれた盟友の一人は、何も言わずに笑っていた。

「いずれはこの物語が、レーゲンスベルグ・ザクセングルス初代夫妻を描いたものだということも忘れられるかもしれない。それでも僕はこの作品を残したいんだよ。だってこれは、お父さんとお母さんだけではなく、レーゲンスベルグみんなの物語だから」

 もはや私と夫は、何も言えなかった。そんな私たちを見つめて、優しい口調でウィミィは呟く。

「お前らの負けだな」

「……ああ」

「先行きを案じていた末子も、こんなに立派になった。もう心配いらないな」

「ウィミィおじちゃんやクレアおばちゃんたちのおかげです」

 しれっと答える三男に、ウィミィは笑って応える。

「俺だろう役に、すっげえ美形の役者当ててくれてありがと」

 息子と親友の軽やかなやり取りに目を細めると、夫はやがて静かに問うた。

「もう一度、俺たちに席を用意してくれるか。小っ恥ずかしいことはやはり変わらないが、あの物語を観客がどんな顔をして見ているのかが、見たい」

 この言葉に、三男は今まで見たこともないほど誇らしげな笑顔を浮かべた。

 ああこの子も、夫や私に認めてほしかったのだ。

 ずっと私はそのつもりだったが、伝わってなかった。そう私はこの時気づかされた。

「僕の劇場の正面個室席は、家族のために押さえてある。いつでも好きな日に来て」

 そうして再び訪れた劇場。舞台の上で繰り広げられている恋物語に一喜一憂し、大立ち回りに歓声を上げ、姫の悲歎に同調して涙する。そんな人たちの姿に、夫はこの上なく優しい眼差しを贈った。

 万雷の拍手が鳴り響く一階土間席を見下ろし、夫はぽつりと呟いた。

 いい人生だった、と。

 夫の気持ちは、私には痛いほど判った。無言で頷き寄り添った私を抱き寄せ、夫はただその拍手をずっと聞いていた。

 この数年後、夫は静かに息を引き取った。その時どれほど沢山の人が泣いてくれたのか、どれほど沢山の人が悼んでくれたのか。そのことを私は生涯忘れることはない。

 そうして夫の死から二十五年。ザクセングルスは子どもたち、孫たち、そして血のつながらない夫の愛し子たちによって、さらなる発展を遂げた。

 みんなで築いた共同体をザクセングルスのものとすることに、私は最初同意しかねた。血の縛りに人生を翻弄されたのが夫、そして夫が誰よりも愛したカティス陛下なのだから、夫が世襲を望んでいないことは誰よりも判っていた。

 しかし夫の後を継いで『禁書の守り手』となった長男、そして三代目総領に選ばれた孫が、私にこう切り出した。

 禁書をこの運命に関わらぬ者――ザクセングルスの血をひく者以外には託したくない、と。

 私と夫を結びつけたのは、アイラ姉様とカイル兄様の時間遡行によって生じた、一連の『運命』だ。この『運命』なくしては生まれ得なかった者でなければ、禁書の重みを背負うことなどできないと思うと。

 現実、この頃には傭兵団を中心にした共同体の要職は、ザクセングルスの者で占められるようになっていた。四人の子どもたちは私と夫に沢山の孫をもたらし、彼らもまた文に武に学に芸に、己の道を邁進している。かつての傭兵団の幹部たちの子孫は、私たちから距離も置く者もあれば、孫たちと一緒になる者もあった。

 共同体の全てが、ザクセングルス家の下で統合されていくのは時間の問題だった。

「未来は全て、その時代を生きる者たちのもの。それが禁書を紡いでくださった、賢者カイルワーンのご遺志です。あなたたちも、あなたたちの子孫も、すべて自分たちの善いようになさい」

「ありがとうございます」

「ただし、決して血に縛られる悲劇を繰り返さぬよう。これは我らの偉大なる初代、夫ブレイリーのご遺志です。そのことも忘れず伝えてください」

 そうして大陸統一暦1074年五月。今日は亡き夫の念願が叶えられるその日だ。

 港町の防衛のためには、地上からの迎撃装備の配置と共に、海戦力の増強が必須。軍船を建造し人員を練成し続けて六十年。我が船団の旗艦となるべく建造を依頼していた大型船が、ついに納品されるのだ。

 そしてそれは、長らく一族を離れて修行に励んでいた孫の一人が、正式に帰還することも意味していた。

 巨大船は悠然と港に接岸した。その威容に見物客からは感嘆の声が止まらない。

 据えられた主砲の大きさと副砲の数。海からこの街を攻めようと目論む輩を威圧するには十分すぎるほどだ。

「お祖母様、総領、ただいま戻りました」

 船から下りてきた青年は私たちの下に歩み寄ると、日焼けした顔に華やいだ笑顔を見せた。

「お帰りなさい、クレステッド。長き修行の旅、本当にお疲れ様でした」

 長女夫妻の末子であるこの子は、海に志を求めた。

 亡き夫、そして一族の悲願が街を守れるほどの船団を構築することならば、それを運用する技術と航海の経験を備えた人材が必要だ。そう考えたこの子は一族を飛び出し、海洋王国であるフェディタに渡った。様々な船団を渡り歩いて研鑽を積み、そして今日。旗艦の就役とともに、正式にザクセングルスへと帰還した。

「素晴らしい船だな。安堵した」

 総領の言葉に、クレステッドは微笑む。そして問うてきた。

「名前はいかがしましょう? もう決めてあると伺っていましたが」

「これで船団は成った、と思えるほどの船を建造したらつけてほしいと、旦那様が言い残した名前があるの」

 私は立ち上がり、大きな船を見上げた。

 高くそびえる巨大なマストと純白の帆。広い甲板と大きな砲。

 ああ、あなた。大好きなあなた、見ていらっしゃる?

 私たちは、ついにここまで来ました。

「マキシマ。旦那様はそうつけてくれと」

 私の言葉に、子どもたちや孫たちに快いざわめきが広がった。皆がその名を咀嚼し、認め、感想を述べ合い、そうして思い浮かべているのだろう。

 私たちにあまりにも沢山のものを遺してくれた、あの人のことを。あの人のことを覚えている者も、会うことのできなかった者も。

「よい名ですね。気に入りました」

「この船をあなたに託します。ザクセングルスが所有するすべての船を率いて、街と人と一族を守りなさい」

 謹んで承ります。青年は私と総領に恭しく跪いて誓った。そんな彼に、総領は一族の決定を下す。

「クレステッド、独立し新たに家を興すことを許す。武装船団を預かる者として当主会議に加われ」

「喜んで」

「この新港に近い、モスの辺りに館の土地を確保してあるがどうだ?」

「ご配慮感謝いたします」

 青年は立ち上がると晴れやかに笑い、己の名を高らかに告げる。

「クレステッド・モス・ザクセングルス、若輩者ではありますが、これより当主の一人として、レーゲンスベルグとザクセングルスのためさらに精進して参ります」

 抜かれた剣は陽光にきらめき、その輝きは天に捧げられる。

「偉大なる我らの初代、どうかお導きを」

 目の前にある輝かしい未来に、私は目を細めた。

 兄様と姉様が旅立つまであと百四十三年。勿論私はそれまで生きることはできない。すべてを見届けることはできない。

 黒の禁書は、レーゲンスベルグが最終的にどうなっていくのかを記してはいない。滅んだとも、いずれの国に併合されたとも記されていない以上、1217年まで独立を保つことはできたのだろう。

 だがその時までザクセングルスが存続できるのか。

 私たちの願いは、遺志は、つながっていくのか。

 アルバとロクサーヌ朝が滅んだ後、動乱の中でこの街がどうなっていくのか。

 そのすべてを、私が知る術はない。

 だから祈る。切に祈る。

 どうか私と夫と、夫の盟友たちと、陛下と兄様が愛したこの街に未来があるようにと。

 私の子どもたちが、どうか力強く生きていける未来があるようにと。

 そしてどうか叶うなら。その未来の中で、オフェリア様が笑っていてくださるようにと。

 この上なく晴れやかな空の下、私はただ祈った。

 申し訳ありません、あなた。ロスマリンはもう少し、こちらにおります。

 もう少しだけ、あなたと育んだ街と子どもたちを見守りたく存じます。

 許してくださいますよね? 待っててくださいますよね?

 無論答えはない。だからこそ私は胸を張り、子どもたちに告げた。

「どうか皆、今日の良き日を、精一杯楽しんで生きなさい」

 レーゲンスベルグに根を張った私たちの裔は皆、誇らしげに応えた。


 あなた。私の大好きなあなた。

 私たちは、ここにいます。


 これが私、ロスマリン・ザクセングルスが記せる全て。

 ザクセングルスの偉大なる初代と呼ばれた夫ブレイリーと、私たちを取り巻いた沢山の人たちの、正史には残ることのない物語だ。

 今のこの本を手に取っている貴方。

 この真実を知る貴方が、誰であろうと構わない。

 貴方が、今心のままに生きていられることを。

 飢えもなく蔑みも虐げられる悲しみもない中で、この本を手に取っていられることを、私は切に願っている。

 この物語を知る貴方が、幸せであることを、切に切に祈っている。

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彼方へと送る一筋の光 柴崎桜衣 @saeshiba

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