26

 まるで時間が凍りついたようだった。俺は眼前の信じがたい光景に、ただ立ち尽くした。

 ああそうか、と俺の理性は納得していた。ここならばお前も来られるのか、と。

 ここはアルベルティーヌのバルカロール侯爵邸。いくら国王とはいえ、籠の中の鳥ではない。一歩も城の外に出られないなどということもないだろう。自分が治める城下町の、しかも宰相の邸宅だ。堅苦しい手続きを踏まなくても、訪れて差し支えはない。

 だが何の前触れもなく、いきなり訪ねてきたのでは、さすがにこの館でも大混乱とはなるだろう。

 そう理性は納得した。しかし感情は、少しもこの事態を冷静に受け止められやしない。館の者たちと同じく、俺もまた、ただただ動揺する。

 カティスの肩越しに、騒ぎを聞きつけたのだろうロスマリンと侯爵夫人が見えた。ロスマリンは俺と目が合うと大きく一つ頷き、主君の背中に恭しく一礼して扉を閉めた。

 そうして俺はあいつとただ二人きり、部屋に取り残される。

 跪くべきだろうか。俺は真剣に迷った。

 今目の前にいるのは、二十六歳の青年ではない。十四年の歳月は、あいつを風格を伴った大人の男へと変えていた。

 この十四年、あいつがどれほど全力で生きてきたのかは、一臣民として遠くから見ているだけだった俺にも判っている。軍を率いて外敵と戦い、貧しい国を豊かにすべく様々な施策を行い、妻を迎えて三人の子を為し育てている。国王として、そして一人の父親として、懸命に日々を生きているのだろう有り様が、その風貌から伺えた。

 立派だ。国王としても、一人の人間としても。

 かつて共にあった者として、ためらいなく誇ることができる。そんな姿で、あいつは今俺の目の前に在る。そうためらいなく思った。

 それなのに、だ。どうしてお前は今、そんな顔をしているんだ。

 何も言えず立ち尽くす大きな目には、涙がいっぱいにたまっていた――遠いあの日と、同じように。

 だから俺は思わず言ってしまった。立場も礼儀も弁えない、無礼極まりない一言を。

「馬鹿、なんて顔をしてるんだ。泣くな」

 あれから三十二年。もうお前は、俺に取りすがって泣くような子どもではないだろう。

 そんな思いを込めたつもりだった。

 けれどもカティスは俺の言葉に目を見張ると、無言で手を伸ばしてきた。そして。

 力一杯、抱きしめられた。

 あの日俺が胸の中に収めた小さな子どもは、三十二年で俺よりも大きくなり、今度は俺を自分の腕の中へと捕らえていた。

「何を言ってやがる、馬鹿はどっちだ!」

 思いもかけない、震える叫びが耳を打った。

「思い残すことはないだなんて、自分はもう俺たちには必要ないだなんて、どうしてそんなことを言うんだ! 俺はまだお前に何もできてない。俺たちの誰一人、お前に報いられていない! それなのにどうして、そんなこと言うんだ。どうしてそんな風に、勝手に一人で決めつけるんだ。そんなこと言われて逝かれたら、残された俺たちがどんな思いをするのか。そんな簡単なことがどうして判らないんだ、この馬鹿!」

 抱きしめられているから、顔は見えない。けれども冷たいものが次々と肩に落ちてくる感触に、俺は小さく嘆きをあげた。

 全部伝わっているのだ。この十四年、俺が何に取り憑かれていたのかも、そのためにどれほど沢山の人たちを蔑ろにしてしまったのかも、何もかも。

 逝くな、逝くなとうわごとのように繰り返すカティスに、胸が締めつけられるように痛んだ。

 俺はこいつを、こんなにも苦しめていたのか。人生を賭けても守りたいと願った相手を。

 だから俺は無礼も構わず、左手でカティスの背を抱き返した。俺よりも広くなった背中を撫で、耳元で告げる。

 自分でも驚くほど優しい声が出た。

「大丈夫だ。行かない。どこにも行かない――もう死にたいなんて、言わない」

 びくり、と震えた体に、俺は諭すように告げた。

「お前たちを置いてなんかいかない。――ロスマリンが、セプタードやウィミィやアデライデが、何よりお前が、目を醒まさせてくれたから。みんなと一緒にこれからも生きていくんだと、生きていきたいんだとそう思えるようになったから」

 強く優しく、俺は宣する。

「心配するな。俺はもう大丈夫だから」

 ささやきかけると、もはやカティスは何も言わなかった。

 ただしばらくの間、俺を解き放とうとはしなかった。愛おしむように、己の中の感情を鎮めるように俺を抱きしめ、だがやがて絞り出すようにこう呟いた。

「ここに来るべきか、正直迷った。だけどお前が手の届くところにいるんだと思ったら、駄目だった。堪えられなかった」

 抱擁を解いて、カティスは俺の顔を見つめた。俺は見上げるべき相手を、同じ高さで真正面から受け止める。

「会いたかった。この十四年――特に、ロスマリンからお前のことを聞かされるようになったこの七年、ずっと」

 俺もただ頷いた。叶うことなどあるはずないと思っていたから、望んだことなどなかった。けれどもこうして叶ってみれば、心の底から自分が望んでいたことが判る。

 会いたくなかったはずがない。会いたくないはずがないだろう。

「お前には心底感謝している。今ここにこうしてあれるのは、お前の力添えがあってのことだ――ジェルカノディール公爵から聞いた。お前が盾になってくれなければ、ロスマリンはとうに他の男にさらわれていただろう」

「俺はお前以外に、ロスマリンを託すつもりはなかった。――判っているだろう、あの子は俺にとっても、マリーシアにとっても大切な娘だ。そしてあの子の幸せを、カイルワーンがどれほど望んでいることか。公私混同と言われても構わん。阻もうとする者は――お前からあの子を奪おうとする者は、俺らが決して許さない」

 カティスの目が完全に据わっているのを、俺は苦笑交じりに見やる。

 セプタードが今度の戦いに同行すると伝えに来た時、まさにこんな目をした。グリマルディ伯爵を叩きのめせ、と告げた時のウィミィもまた。

 お前らはどうしてそこまで思い詰めた、と言いたいが、それが七年にわたる俺の依怙地のせいだと判っているから、何も言えやしない。

「一つ教えてくれ。ロスマリンでは、俺がおかしくなってるなどとお前に伝えられたはずがない。――お前に俺の現状を知らせていた相手は、セプタードか?」

「……ロスマリンの話を聞いているだけでは、お前の気持ちにも確信が持てなかったし、こっちがどう動けばいいのか決めかねた。だから俺からセプタードへ何度か連絡を取っていた。結婚祝いも贈っていたし、そもそもお前が城で療養していた時、レーゲンスベルグへの連絡窓口はあいつだったんだ。城から遣いを出すのは、傭兵館より粉粧楼の方が容易だった」

 道理だった。傭兵館に王城から使者が来れば、俺に伝わらないはずがない。カティスが俺の結婚のために城で動いているなどと聞いたら、以前の俺なら二度とロスマリンを傭兵館に立ち入らせなかっただろう。それくらい俺は頑なだった。

 それにしても、この数年、親友たちは影でこれほど動いていたのか。自分の目の節穴さ加減にうんざりするとともに、申し訳なさと感謝の念がこみ上げてくる。

「本当に心配をかけた。すまなかった」

「そう言うのなら、あらためて確かめさせてくれ」

 真剣な眼差しが俺に向けられた。ロスマリンを幼い頃から見守ってきた者として、カティスは俺に覚悟を問う。

「お前は本当に、ロスマリンと一緒になるんだな。俺はあの子がお前に嫁ぐための後押しを、本当にしてもいいんだな」

 俺は問いかけに即答できなかった。

 無論気持ちは変わらない。ロスマリンと結婚したい、という根本の気持ちは何一つ。

 だがこの瞬間、俺は気づいてしまったのだ。

 まるで稲光が暗闇に閃くように、俺は唐突にあることに気づいてしまった。

 侯爵夫人リフランヌが示したこと。ジリアンが俺を掴んで突きつけてきた不安。

 その二つに目の前のカティスをかけ合わせた時、唐突に解が浮かび上がってきたのだ。

 俺にはもう一つ、可能性が――選択肢がある。

 それをはなからジリアンは――ひいてはセプタードとウィミィは見抜いていたのだ。そのことに、俺は戦慄を感じる。

「ブレイリー?」

 訝しんで問いかけたカティスに、俺はわずかに血の気がひいた顔を上げる。

 脳裏をよぎったのは、三十二年前のあの約束。

 ――俺はこの先何があろうとも、お前の味方だ。

 思いは何一つ変わっていない。お前のことを思う気持ちは、何一つ。

 そのつもりだった。ずっとそのつもりだった。

 だけど十四年前、俺たちは別の世界で生きることを選んだ。もう二度と会うことは叶わなくなる道を選んだ。

 十四年分、それぞれ別の道を前へと進んだのだ。

 その間にお前も俺も、沢山の人に出会った。お互いに知らない沢山の人たちと共に生き、心を交わし、様々な出来事を乗り越えた。

 お互いが自分の世界にいないこの十四年もまた、それぞれかけがえのないものとなっていたのだ。

 もしこうして今、分かたれた道が交差することがなかったら、俺は決して気づかなかったろう。お前がもう二度と手が届かない存在のままだったのなら、気づかずに終わっていたのだろう。

 だが今こうしてお前が目の前にいて。

 俺が今こんな場所にいて。

 そしてその可能性が存在するのならば、俺は、選ばなければならない。

 俺は俺の人生を、選ばなければならない。

 人間が歩める人生は、たった一つだけ。

 二つの人生を、同時に歩むことは、叶わない。

「カティス、これほどまでにお前が、俺とロスマリンのことに心を砕いてくれていたのならば、当然侯爵夫妻との間で、俺の話をしたこともあっただろう」

 苦渋がにじんでしまった俺の問いかけに、カティスは動揺の面持ちをみせた。その内心が手に取るように判って、俺は先んじて問う。

「お前はもう、レーゲンスベルグに来る前に何があったのかを、侯爵たちから聞いているんじゃないのか」

 沈黙が降りた。カティスはしばし逡巡したが、やがて小さく頷いた。

「ロスマリンがお前に惹かれているようだ。もしお前があの子との結婚を望んだら、父親として考えてやってくれないかと最初に持ちかけた時に、エルフルトから打ち明けられた」

「……やっぱりそうか」

「だからエルフルトと準備だけはしていた。もしお前自身が望むのならば、いつでも爵位と領地の返還、名誉回復を行えるように」

 それは俺の貴族としての復権を意味する。

 ああやはり、カティスもまた可能性に気づいている。その現実は俺の胸に、苦さと痛みをもたらしてくる。

 気づかないままで、向かい合わないままでいられたら、どれだけよかっただろう。

 けれどもそれは叶わない。だから俺は覚悟を固めて、小さく息を吸って、カティスを見つめた。

「先刻、侯爵夫人に問われた。十四年前お前が即位した時に、どうしてそれを望まなかったのかと。貴族として復権し、お前に侍する道を選ばなかったのかと。俺はこう答えた。十四年前の俺は、自分がお前に必要な存在だと、かけらも思っていなかったからだと」

 カティスはその瞬間、険しい顔をした。自分の大切なものを侮辱された怒りと、自分の気持ちを蔑ろにされた痛みがない交ぜになった、とても厳しくて悲しい顔を。

 ああ、すまない。聞かせない方がいい言葉だったかもしれない。けれども今そこを避けて通ることはできない。

「ごめんな。十四年前の俺は、自分が誰かに必要な存在だとは考えもしなかったし、それがお前たちを傷つけていたことにも気づかなかった。そのことは本当に悪かったと思っている」

「そうだよ、この馬鹿」

「そこから十四年たって思う。俺はもしかしたら、お前の力になれるのかもしれない。俺が廷臣になったとして、どれくらい役に立つかは正直判らない。けれどもお前の側近くにあったなら、王として張りつめているお前の気持ちを、少しは楽にしてやれるかもしれない」

 俺ならば、カティスを一時だけでも、素の人間に戻してやることができるのかもしれない。一人の人間としての苦痛を、共にあることで少しは和らげてやることができるのかもしれない。

 それはとてもささやかだが、とても大きいことだろう。そういうことが俺にはできるのかもしれない。

「さっき侯爵夫人に告げられた。ロスマリンを勘当も絶縁もするつもりはない、俺をこの家の婿として認め遇すると。宰相家バルカロールの一員に迎えると。そう言われて、俺は初めて気がついた――俺がロスマリンと結婚するにあたって、選択肢は一つではないのだということに」

 考えもしなかった、もう一つの選択肢。それは俺が望みさえすれば、たやすく叶うのだ。

「俺はロスマリンに宮廷を辞去させ、レーゲンスベルグに連れていくことしか考えていなかった。けれども、その逆だってありだったんだ。俺が傭兵団を辞め、爵位を継いでバルカロールの婿に入る。そうして宮廷に登り、お前に仕えるという選択肢だって、ありなんだ。そのことに、ようやく気がついた」

 セプタードとウィミィが示唆した『退団もやむなし』――その真の意味は、これだったのだ。

 ロスマリンと結婚するために貴族として復権するのなら、そのためにレーゲンスベルグと自分たちの下を去るのならば、それもやむなし。傭兵団の幹部たちは、その覚悟をとうに固めていたのだ。

 俺が貴族たちに連れていかれる――ジリアンの不安は、まさに正鵠を射ていた。

「そうすれば、お前はロスマリンを――最も信頼している、一の女官を失わなくてすむ。そして俺もお前のそばにいられる。その方が、ずっとお前のためになるのかもしれない。だけど」

 だけど、それはレーゲンスベルグとの訣別を意味する。

 レーゲンスベルグが独立自治都市であり、アルバ本国と距離を置いている以上、防衛を司る俺がそのままアルバ貴族として宮廷に昇ることは許されない。

 カティスに廷臣として仕えるということは、それは俺がレーゲンスベルグを離れるということだ。

 無論、友たちと傭兵団を連れて、領主としてタランテルに帰還する選択はありだろう。その上で宮廷に列する。そうすれば大切な人たちとは別れずにすむ。

 だけど。だけどだ。

 昨夜アデライデが示唆したとおり、俺がそれを選べば最悪、自由都市としてのレーゲンスベルグは滅ぶ。

 耳の中で、沢山の声がこだまする。この十四年――違う、この三十二年、俺に向けられた声が。

 薄汚れ、疲れきった俺と母を受け入れてくれたたった一つの街。

 ここにいていいと、ここで生きていていいと言って俺を肯定してくれた街。

 セプタードと、ウィミィと、カティスと、沢山の同輩と子どもたちと、そしてカイルワーンと出会わせてくれた街。

 ブレイリー。慕わしげな声が耳にこだまする。俺を思い気遣い愛してくれた、沢山の街の人たちの声が。

 判った。判ってしまった。

 レーゲンスベルグこそが俺の故郷。俺の宝。

 俺はあの街を愛していた。タランテルよりもずっとずっと愛していたのだ。

 俺はあの街を守りたい。

 俺はあの街で生きたい。

 それこそが俺の望みだったのだ。この十四年、俺が傭兵団を背負ってきたのは、成り行きではない。誰に背負わせられたからでもない。

 俺が望んだんだ。俺が自ら望んで、選んだんだ。

 そのことに、俺はようやく気づいた。

 だから俺は、魂を二つにちぎる選択を下す。

「だけど、すまない、カティス。今の俺は、それを選べない」

 お前を思う気持ちは何も変わらない。だけど今の俺は、お前を選べない。

「すまない、カティス――ロスマリンをレーゲンスベルグにくれ」

 三十二年前の約束を反故にすることになっても。その約束に支えられ、今まで俺が生き抜いてきたのだとしても。

 それでも俺は、今背負っているものを、投げ出すことはできない。

 お前がアルバ連合王国を背負い、決して投げ出すことが許されないように。

 俺もまたレーゲンスベルグという小さな国を背負っている。

 あの街が俺の背に乗っている。

 そのことに、この長い道行きでようやく気がついた。

 それを俺は投げ出せない。投げ出したくない。それがこの十四年で辿り着いた、お前と俺の道行きの果てだったのだ。

 俺の訣別の言葉を、カティスは黙って聞いた。だがやがて笑った。

 安堵に満ちた、穏やかな笑みだった。

「安心した」

「……え」

「これで俺のために何もかも捨てるとか言ったら、ぶん殴るところだった」

 カティスは手を伸ばすと、俺の手を取った。何かの思いを噛みしめるように、両手のひらで包み込む。

「正直に言う。エルフルトからお前の昔の話を聞かされた時は、あまりの衝撃にしばらく立ち上がれなかった。マリーシアがお前とのことを案じるのは、その時の俺を見ているからだ」

「……そうだろうな」

「それから何度も、子どもの頃のことを思い出そうとしたんだ。お前がレーゲンスベルグに来た時どんなだったのか。傷ついていたはずのお前に、俺がどうしたか。思い出そうとして……愕然とした」

 すぐ目の前にあるカティスの顔が、寂しげに揺れた。

「思い出せないんだ、お前と出会った時のことを。そしてお前がレーゲンスベルグに来る以前のことを。セプタードと二人きりだった時間があったはずなのに、何も思い出せなかった」

 三十二年前、カティスは八歳だった。何の記憶も残っていなくても仕方がない。そんな俺の言葉を、思いを、カティスの真剣な眼差しが封じる。

「俺を抱きしめてくれた腕も、庇ってくれた背中も思い出せるのに――お前が俺にしてくれたことは全部思い出せるのに、お前自身のことが何も思い出せない。信じられないほど辛い思いをしてきたはずなのに、俺と同じように人に嘲笑われたり蔑まれたりしたことが、絶対あったはずなのに、お前が悩み苦しんでいる姿を、誰かに頼り助けを求める姿を――お前が泣いている姿を、全く思い出せない。そのことに愕然として、やがて気づいたんだ」

 思い出せるはずがない、と自嘲気味にカティスは呟く。

「見てないんだ。見てないものを、思い出せるはずがないんだ」

 苦しげにこぼされる言葉を、俺も切なく聞く。

「俺はこの年になって、ようやく気づいた。お前は俺に、自分のことを何も見せようとしていなかったんだ。辛さも弱音も涙も、怒りも悲しみも何一つ、俺の目には触れさせなかったんだ。そのことに気づいた時に、たまらなくなった。――なんて一方的な関係だったんだろうか、と。俺はお前に甘えるだけ甘え、頼るだけ頼って、それが当たり前になっていることに気づきもしなかった。自分だけが苦しいのだと、自分だけが不遇なのだと、過酷な定めを背負っているのだと思い込んでいた」

 小さなため息が、苦々しく落ちる。

「ようやく気づいた。俺はなんて甘ったれた子どもだったんだろう」

 それはお前が恥じるようなことではない。俺はそう言いたい。

 なぜならそれは俺が、そう仕向けたことだからだ。そうして俺は一方的に、自分の感情を押しつけた。自分がしたいようにしただけだ。

 それはただ、俺の独善に過ぎない。そう言おうとした俺の心を読んだように、カティスは首を振る。

「過ぎてしまった時間は、もう取り戻せない。だからこそ俺は思う、これからのお前のことを」

 カティスは凛としていた。かつて愛玩していた目下の相手は、己より遥かに強く自分の目の前に在る。

 眩しい、そう思った。

「お前がこれからそばにいてくれたら、どれほど俺は楽になれるだろう。お前はきっと昔のように、俺を甘えさせてくれるだろう。ただ黙って、俺がこぼすのにも泣くのにも付き合って、その全部を飲み込んでくれるんだろう。そんな時間を持てたら、おれはどんなに気が休まるだろう。それが叶ったらどんなにか、とは思う」

「カティス……」

「だがそのために、お前に何かを捨ててほしいとは、何かを諦めてほしいとは思わない。俺の望みはたった一つだ――ブレイリー、俺はお前に、笑って生きていてほしい」

 晴れやかさにどこか寂しさを重ねて、カティスは笑んだ。

「俺はお前が心から笑っている顔を、まったく思い出せなかった」

「それは……」

「お前は俺の前では泣かなかった。だけどそれだけではなく、一度も心から笑っていない。俺はお前が、楽しい嬉しいと言って笑ったのを見た憶えがない――それはセプタードやウィミィや、他のみんなもそうなんじゃないのか」

 返す言葉がない俺に、カティスは断じる。

「お前は一度も、自分のために笑っていない。自分のための望みを、一つも叶えていない。――お前は今まで一度も、自分のために生きていない」

 強く温かく、カティスは俺の手を握る。

「俺はお前が笑っている顔が見たい。お前が伴侶や子どもと築く、当たり前の幸せな未来が見たい。実際この目で見ることが叶わなくとも――たとえ二度と会えなくなったとしても、それが叶っていると信じられる未来が、俺はほしい」

 ずきりと胸の奥に痛みが走った。その言葉は俺の遠い記憶を揺さぶる。

 ああ、カティス。お前もそう言うのか。お前もあいつと、同じことを言うのか。

「俺のことはもういい。自分のために生きてくれ。自分と家族と愛するものとともに、笑って生きてくれ。俺はただそれだけを願っている。ただそれだけを」

 握った手の甲に愛おしむように唇を寄せ、俺が長年慈しんだ相手は慕わしく、愛しく惜別を告げた。

「今まで守ってくれてありがとう。どうか幸せになってくれ――兄さん」

 お前は俺のことをそう呼んでくれるのか。俺のことを、そう。

 その瞬間、俺の中で堰が切れた。

 温かくて切ない衝動が、胸の中いっぱい狂おしいほどにあふれかえる。

 なんて強くなったのだろう。なんて潔くなったのだろう。

 カティス、お前はこの十四年で、なんて立派になったのだろう。

 その思いは喜びと寂しさとない交ぜとなり、俺に今まで感じたことのないような冷たくて清らかな感慨をもたらした。

 人は決して、同じではいられない。

 止めることもできず流れていく時間の中で、新しい場所で生き、新たな人に出会い、思いもしなかった出来事に揺さぶられ、その魂の色と形を絶えず変えていく。

 人の心は、決して同じ場所にとどまってはいられない。

 人は流れていく時間の中で、決して同じ気持ちのままではいられない。

 だがそれは決して、悪いことではない。不幸なだけでもない。

 今のカティスを目の前にして、初めてそう思うことができた。

 カイルワーン、カイル。俺は心の中でその名を呼んだ。俺たちが心底慈しんだ一番年下の親友――俺たちの魂の末弟とも呼ぶべき者の名を。

 俺たちはお前を喪った。お前を見送るしかなかった。

 その時、これからどうやって立ち上がればいいのかと。

 この悲歎を抱え、これからどうやって生きていけばいいのかと。

 この鋭く尖って胸を刺す思いを、どうやって抱えていけばいいのかと思った。

 それから九年。悲歎は、喪失感は変わらず胸にある。けれども今手を伸ばしてみれば、それは驚くほど丸いものへと形を変えていた。

 割れて尖った岩石が上流から運ばれていくうちに、川の流れに転がり削られ丸石になっていくように、痛々しいほどに尖って胸を刺していた感情は、いつしか丸いものへと変貌を遂げていた。

 この丸い思いを何と呼ぶべきだろう。そう、強いて言うのならば。

 追憶、と呼ぶのだろう。追慕、と呼ぶのだろう。

 ああ、と思った。ウィミィが言っていたことは、こういうことか。

 人を見送るということは、こういうことなのか。

 人は必ず死ぬ。誰であろうとも、大切な人にこの世に置いていかれ、大切な人をこの世に置いていく。人との関係とは畢竟、置いていくか置いていかれるかでしかない。

 たとえどれほど耐えがたくても。たとえどれほどその手を離しがたくても。

 いつか必ず、その時はやってくる。

 誰もが大切な人を喪うのだ。一人残らず喪うのだ。

 この世に生を受けた以上は、その定めから逃れることはできないのだ。

 それがこれまで通り生きていくことが叶わぬほどの、今までの己の世界が終わってしまうほどの喪失だとしても。それでも人は、受け入れるしかない。

 喪失を受け入れ、別離を受け入れ、愛しい人の亡いその後の人生を生きていくしかない。

 それは誰にとっても、当たり前のこと。

 誰もが受け止め、誰もが越えていかなければならないこと。

 それは、当たり前のことなのだ。

 そしてそれをどれほど乗り越えられないと思ったとしても、一つところにとどまることを許されない心は、いつか変わる。生き抜いていく限り、いつか変わる。

 悲しみも苦しみも、時の流れに磨かれ形を変える。本質は何も変わっていなくとも、角は削られ、汚れは水に溶け出し、いつか丸く濁りのない珠となって胸の中に転がるようになっていく。

 時がたつということは、そういうことなんだ。そして俺とお前の間には、それほどの時間がたったのだ。

 カティス、俺はお前が喪失を決して受け入れられないだろうと思った。

 お前が真実を決して受け入れられないだろう、耐えられないだろうと思った。

 確かに九年前はそうだったかもしれない。けれども九年。俺たちは同じように胸に穴を開けながら、それでも懸命に前に進んだ。

 間違いなく俺たちは、前に進んだのだ。

 そうしてお前は変わった。俺も変わった。

 生きるということは、そういうことなのだと、俺はようやく悟った。

 未来がどれほど暗く見えたとしても、目覚めたくないと願った朝が、どれほど絶望に満ちていたとしても。生き続けていれば、人は変わる。

 絶望すらも、時が形を変えてしまう。こんなにも丸いものへと変えてしまうのだ。

 そうやって誰もが、喪失から立ち上がり、喪失を越えて生きていくんだ。

 それは忘れる、ということとは違う。絶対に違う。

 そうして九年。あの絶望から九年。俺はお前に再び会うことが叶った。会えた以上俺は、逃げてはならない。決断しなければならない。

 俺はどうすればいい。セプタード、ウィミィ、俺はどうすれば。問いかければ、答えは――俺の望みは一つしかない。

 分かちあいたい。そう思った。

 あいつへの思いを、お前と。

 お前と一緒に、あいつへの思いを――あいつの思い出を抱きしめたい。

 慚愧ではなく。悔恨でもなく。

 ただ温かな追憶を、あいつに送ってやりたい。あいつを温かで柔らかい感情でくるんでやりたい。

 丸くなった魂の真芯、その温かな場所にあいつを迎え入れたい。

 ウィミィ、判った。俺にもやっと判った。

 カティスを解き放てるのは、俺だけなんだ。

 カイルが一心に願ったことは、カティスの幸せ。カティスの心の安寧。

 ならばカイルは、カティスが暗い想念に縛られ続けることを、決して望みはしない。

 終わらせることは、忘れることではない。ましてや否定することでもない。

 カティス、判ってくれ。いや、今のお前ならきっと判る。

 あいつの人生を肯定してやれるのは、お前も含めた俺たちだけ。

 あいつを笑わせられるのは、俺たちだけだ。

「カティス、頼みがある。一生に一度の頼みだ」

 震える声で告げた俺に、カティスの相貌が揺れる。微かに不安をたたえて俺を見るあいつに、全霊を込めて請うた。

「簡単なことではないことは判っている。今すぐに実現できなくてもいい。だけどできれば早く――できるだけ早く、実現させてほしい」

「……何を」

「一度だけでいい。レーゲンスベルグへ、帰ってきてくれ」

 お前に見せなければならないものがある。

 お前に教えなければ、伝えなければならないことがある。

「お前がこれから先の人生を生きていくために、越えなければならないことが――お前の運命が、待ってる」

 俺たちは、お前が乗り越えられると、受け止められると。

 それがお前の新しい未来を拓いてくれると、信じている――。

 カティスは俺の懇願に驚いた後、淡く微笑んだ。それは何かを悟ったような、どこか寂しげな――けれどもどこか安堵したような笑みだった。

 カティスがロスマリンがあれほどまでに俺たちの下を訪れることに、何も感じてなかったはずがない。カティスが何も察していないはずはないだろう。

 けれどもおそらくあいつは、ロスマリンに何も訊かなかった。その内心を俺たちが量り定めることは叶わない。

 だけどカティスは今決意の伺える面差しで、俺に頷いた。

「判った。できるだけ早く、叶えるようにする」

 緊張に強ばっていた俺はその返答にうなだれ、深く息をつく。暖かな空気を肺いっぱいに吸い込み、顔を上げて。

 そして俺は見た。確かに、見た。

 カティスの肩越し。広い寝室の端。あいつが壁に寄りかかって立っていた。

 あいつは確かに、笑っていた。

 満面の笑みをたたえて、俺を真っ直ぐに見ていた。

 ああ、と俺は小さく声を上げる。

 これでいいか。俺は間違っていないか。

 問わずにはいられなかった俺に、あいつは頷いた。

 穏やかな笑みを崩さぬまま、小さく頷いた。

 堪えきれず一歩を踏み出す。思わず手を差し伸べた刹那、幻は消える。

 一瞬の気の迷いだとばかりに。そんなことなどあり得ないとばかりに。

「ブレイリー?」

 俺の突然の振る舞いに、カティスが訝しがる。俺が呆然と注視するただの壁を見つめ、そして問うてきた。

「なにか、見えたか?」

 何もかもを見透かしたような問いだった。だから俺は偽らずに答えた。

「見えた」

 だから俺は笑う。心の底から、誇りを込めて笑う。

 俺は本当に、お前に出会えてよかった。それがたとえ定められていたことだとしても。俺もまた歴史を動かすための歩兵の一駒で、この思いさえも天に操られたものであったとしても。

 それでも俺は、お前のことを愛していた。そしてこれから先も、ずっと。

「笑っていた」

 そのことが俺は心底誇らしい。

 俺のただ一言に、カティスもまた大きく頷いた。

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