第7章「幽かな幻」

第49話「幸せの咲く場所は?」

 生霊事件。


 何の捻りもない名称が与えられ、一連の事件をまとめた報告書を読む男の眉間には、深い皺が刻まれていた。


 彩子あやこは、この男――時男ときおよりは年下だが、自分よりは明らかに年上の男を見る度に、不思議な感覚に陥る。


 ――隙だらけの癖に、隙がないんだヨ。


 着ているスーツひとつ取ってみても、そう思う。


 イギリス式、イタリア式、フランス式と様々な様式がある中で、男が着ているのはアメリカの洗礼を受けた日本の背広だ。


 どこのブランドという訳ではないが、腕のいい職人を抱えたテーラーで作られたものというのは分かる。


 だが垢抜あかぬけないのが日本の背広であるのにも関わらず、男のたたずまいに隙はない。


 ――品がいいというよりも、どちらかというと……。


 こんな時だからこそ、彩子は思ってしまった事を口にした。


「ドスが効いているんだネ」


「……矢野さん」


 すぐ横に立っている時男が、軽く彩子の脇を肘で突く。


 時男も緊張してしまう相手は……。



総支配人・・・・の前じゃよ」



 皆生かいきホテルの総支配人。


 その総支配人はファイルに目を通しながら、何度か溜息のような深い吐息を漏らしていた。


 報告書には当然、時系列の経過のみならず、発端となった律子の経歴も書かれている。


 市立松嶋小学校に在校中、教頭のたに 孝司たかしが布いた方針――各クラスに一人、生け贄役・・・・を置く事で意思統一を図る方針の犠牲になった。


 中学では解放されたものの、6年間で刻み込まれた傷跡は律子の精神形成に影響している。小学校に在校中、谷 孝司が校長に昇任した事も強い影響がある。


 時男が調べたSNSや匿名掲示板での発言は、この頃から過激になっていく。


 要約すると、時折、律子の日記に出てくる言葉へと集束された。



 ――私のためにならない世の中なんて、いっそ滅んでしまえ。



 無理からぬ事かも知れないが、彼女は復讐の牙を松嶋小学校とクラスメートでけでなく、世界へも向けた。


 本人にとって大問題だったイジメの被害者から、律子自身がスケールを増して加害者側へと回ったのは、悲劇であったかも知れない。


 生霊となった律子が勝利していたら、どんな未来があったかは、どれだけ悪く想像しても、それを超える最悪になっていたはずだ。


 だとしても――、


「悪魔との取引、生霊を作り出す……」


 総支配人は報告書を閉じると、椅子の背もたれに身体を預け、長く細い、クモの足を思わせる指で両目をマッサージした。


「どれをとっても、大問題だ」


 霊や悪魔との戦いを仕事としている皆生ホテルにとって、その敵と取引をし、また敵の存在そのものになる事はタブーに決まっている。


「緊急避難ですヨ」


 彩子の言葉は確信犯的だ。生霊との戦いは記録はもちろん、文献にも出てこない。巷説程度の事に、清朝末期の道士が切り札として使っていたという一言がある程度。


「他に対処法がないかな」


 総支配人も、それはわからなくもない。


「報告書は預かっておく。何か必要なら、後で知らせる」


 総支配人は片手を上げて「お疲れ様」とだけ告げ、退出を促した。


「……さて?」


 二人が退出した後、総支配人は応接セットの方へ顔を向ける。


 何もない、誰もいない空間であるが、そこにひらり・・・という表現そのままに人の姿が現れる。見た者にそう感じさせるのは、まるでパントマイムのように、見えない布を取り払ったような仕草にあった。


 光学迷彩の効果がある何かを取り払ったのかも知れないが、それは誰も何もいわない。


 総支配人とて、重要なのは消えたり現れたりが自在である理由ではなく、彼女の役割だ。


「別に問題はありませんよ」


 立ち上がった女は背が高く、病的なまでに色の白い肌と、卵形の顔を縁取るショートカットの黒が目立った。


「この世で起こった事は、全てこの世で治まらなければならない」


 女が口にするのは、この世界のことわり


「しかし、案外、この言葉を誤解しているしている人がいます。この世で起こった事は、この世に生きる者が治めなければならない・・・・・・・・・・、の間違いだろう、なんて」


 女はクックと喉を鳴らして薄笑いを発し、


「この世で生きる者が、なんて主語が省略されているように感じるのでしょうけど、違います。この理の主語は、この世で起こった事・・・・・・・・です」


 即ち台風や落雷と同じだ。台風を人間が治める必要はないし、不可能。台風は治まるものであって、治めるものではない。


「現時点で、この世に生霊は存在しません」


 律子は消滅し、孝代は生還した。


「悪魔が奪っていった命が戻った」


 リトルウッドが奪った時男の命は、時男に戻っている。


「問題ありませんね」


 怪力乱神かいりょくらんしんによってもたらされた悪影響は排除されたのだ。


「……悪魔によって生き返らされた命は?」


 ただ総支配人が言及した、リトルウッドによって命の摂理を歪まされた孝代たかよの事は、どうか?


 そして世の摂理を語る女は何者か?



死神・・として、見過ごせる?」



 まさしく、この女こそが冥府の役人なのだ。


「持ち帰ります」


 役人の言葉は簡単。


「色々と人手不足なんですよ。現場は非正規職への委託化を進めてますけどね」


 自嘲気味にいう女死神に、総支配人は苦笑いさせられた。


「いつ復職していただいても結構ですが?」


 苦笑いさせたついでに、と女死神はいうのだが、


「非正規職への委託化ばかり進めるのに反対して出奔しゅっぽんした俺が、か? 答えはNoだ。俺は、この皆生かいきホテルで仕事をする。協力体制を強化してくれるというのなら、そちらはやぶさかではないが」


「そうですか」


 そう返して、女死神は再び姿を消した。



***



 時男と彩子が揃って事務所に戻り、まず最初に目にしたのは折り詰めの弁当を掻き込んでいるあきらの姿だった。


 祖父の姿を見つけた旺は、慌てて咬むスピードを上げて咀嚼そしゃくし、


「おかえりー」


 満面の笑みで時男を出迎えた。


「お祖父ちゃんにも、お弁当があるぜぃ。お姉ちゃんが作ってきてくれた!」


 机の上にある折り詰めへ顎をしゃくる旺。


「おお。おお。嬉しいのぅ。山脇やまわきさん、ありがとう」


 手に取る時男は、にんまりと笑った顔を孝代へ向けた。


「いえいえ。量を作るのは、簡単ですから」


 孝代にうながされて折り詰めを開けると、確かにおかずの種類は少ないが、鼻腔びこうをくすぐる香りは旺のような幼児に限らず、肉体労働をする男には食欲をそそるスパイシーさ。


「タン……? 何だっけ?」


 旺がはしで摘まむ鶏肉からは、カレーの香りがしていた。


 ――タンドリーチキンだよ、おーくん。


 でんが教えると、旺は「おーおー」と頷き、


「とても美味しい焼き鳥だぜぃ」


 ――もー。


 でんがぷくっと頬を膨らませ、時男は「よしよし」と、でんの頭を撫でながら椅子に座る。


 タンドリーチキンの下に敷かれたレタスをまくると、味付けご飯が見える。炊飯器に水と共にオリーブオイルとコンソメを加え、タマネギを載せて炊き上げる事で甘みを強くした味付けご飯は、タンドリーチキンのカレー味を引き立てている。


「パセリの苦みと、ミニトマトの甘さもいいネ」


 彩子も思わず笑みが出る。


 しかし笑みを浮かべて食べながら、もう片方の手でスマートフォンを触っていた。


 メッセンジャーアプリを起動させている画面に表示されているスクリーンネームは、「マオー」――。


 ――マオーさん。約束した資料は、PDFで送ったが、よかったカネ?


 ――届いてますよ。ありがとうございます。


 ――まぁ、続木つづき律子のりこの犠牲者の一覧やら経歴やら。すべてあるはずだヨ。これを使って、まぁ、何年か苦労して過ごしてくれ。


 ――実際、何年もかかるでしょうねェ。谷を追い詰めるまでは。そんなことより。


 マオーが一回、文章を切った。



 ――魔王・・になった私と貸し借りすると、とんでもない事になりますよ?



 相手は魔王ベクターフィールド。


 ――貸し借りなんてした覚えがないネ。私は、たまたまゲームのフレンドリストにいた社会悪に対処できるフレンドに、この対処しがたい社会悪の情報を提供しただけだヨ。


 ――なるほど、なるほど。では、また都合か合えば、ゲームの中で。


 アプリを終了させたところで、彩子は孝代が自分の方を見ている事に気付いたのだが、いつも通りの飄々ひょうひょうとした態度でスマートフォンを置き、その手に折り詰めを持ち直した。


「山脇サン、料理が上手で助かるヨ。給食弁当ばかりでは飽きてしまってネ」


「作ればいいじゃないですか」


 孝代にも、少しだけ勝ち誇ったような笑み。


「そんな、彼氏がいないなら作ればいい、くらいの調子でいわれてもネェ」


 彩子の言葉は、孝代が初めて仕事に来た時に交わされた会話と同じだった。


「本日の議題――」


 だから孝代はいう。


「彼氏と料理、簡単に作れるのはどっちでしょうか?」


「まったく……。何なら、私が彼女になってあげればいいかい?」


 彩子は苦笑いも含めた笑い方をして、


「僕が彼氏になってもいいぜぃ」


 旺の一言で、部屋全体に笑いが広がった。



 こうして始まり、続いていくのが、山脇孝代の不思議な新生活。

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