第15話 マムラカの空は今日も明るく晴れている(完)

 翌日マムラカに雨が降った。恵みの雨だ。砂漠を潤しわずかな草が生える。しかも今回はディジュラー川や砂漠の涸れ川ワディが氾濫を起こす前にやんでくれた。エレミヤは神に感謝した。


 砂漠に雨が降るのは、冬から春にかけてのほんのわずかな時期の数日だけだ。今年はもう降らないかもしれない。今日は日差しが肌に痛いほどのカンカン照りだ。しかし北部の山岳地帯から流れてくる雪解け水は清らでおいしく美しい。運川や道端の細い水路の水がきらきらと輝いている。マムラカは一年で一番いい季節を迎えようとしていた。


 雨は流れた血を洗い流してくれた。それですべてが清算されるわけではないが、緊張は少しほぐれた。


「いやー、あれから『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』も忙しかったよ」


 双子の猫の店の二階、みんなが集う居間にて。


 今日はシャフィークがその後の経緯を語りに店に来てくれていた。

 元『鷹』とはいえ、今のオルハンは宮廷にとっては部外者だ。事件の全体像を把握するには現団長のシャフィークに話を聞くしかない。というわけで彼のほうが気をつかってオルハンに語りに来てくれたのだと思うが――いや、もしかしたら遊びに来ただけかもしれない。


 本日のシャフィークのファッション――薄手の白いストールには猛禽類の翼の刺繍、萌黄色の開襟のシャツ、革の帯に緑の草木の模様が刺繍された麻のズボン、編み上げサンダル。『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』一の伊達男はすでに春である。


 ファッションが春なのはシャフィークだけではない。双子もだ。今日の彼女たちは濃いピンクの桃の花が数え切れないほど刺繍された麻のワンピースにクリーム色の裾広がりのズボン、薄いピンクの透ける布を頭にまとっている。双子でお揃いだ。大きな黒い瞳はくりくりで、ふわふわの長い髪はつやつやしている。やっぱり二人とも黙っていれば可愛い。

 双子でお揃い、よかったなあ。すべて元の鞘に納まった。


 オルハンは着るものに頓着しないので、適当な長袖のカフタンに適当なシャルワールである。

 とはいえ彼も一応全身にナイフで斬りつけられた傷があるらしいので、あえて体を締めつけないタイプの服を選んでいる、と双子に聞いた。あのカフタンの下は包帯だらけなのかな、と思ったエレミヤの胸は一瞬痛んだが、本人が図々しくいけしゃあしゃあと「いたぁい! 無理! 死んじゃうー!」と言って双子に膝枕を強要しているのを見ると馬鹿馬鹿しくなる。


「とりあえず、兄さんのほうの傷はどうなんだい?」

「もうだめ。こりゃ死ぬわ」

「元気なんだね、よかった」

「いや死にはしないかもしれないけど、傷の治りが遅くて痛いし悲しいのはマジだわ。若い頃はこんなの二、三日でさっさとふさがってたのに」


 オルハンに膝枕をしているほう――そういう優しいのはたぶんロスタム――が「いたいのいたいのとんでけー」と言いながらオルハンの頭を撫でる。もう片方――たぶんタハミーネ――は洗濯物を持ってうろうろしていて時々オルハンを踏んづけていた。


「ロスは? イオアンに手首を切られたと聞いたけれど」


 やっぱりオルハンに膝枕をしているほうが自分の服の袖をめくりあげる。そこにはうっすら盛り上がって赤くなっている傷があるが、ちゃんとふさがっていてほんの数日前に中の肉が見えるまで切られた傷には見えない。


「あと一週間くらいで消えるんじゃないでしょうか」

「これが若い精霊ジンなんだねえ」

「俺を見んな俺を」


 洗濯物を持って三階に上がっていこうとするタハミーネの背中に、シャフィークが「ミーネはどうだい?」と話しかける。タハミーネが「心の傷がうずくです! やんやん!」と叫ぶように返事をする。


「元気だね」

「元気だな」

「元気です」


 そうは言っても彼女も時々不安そうな顔でロスタムにくっついていたりなどするので、あながち冗談ではないのかもしれない。ゆっくり休んでロスタムに癒やされてほしい。ロスタムと一緒にいれば危ないことなんてひとつもない。


「では、昨日一日の話をしようか」


 シャフィークがそう言ってゆっくり語り始めた。


「まず、聖キプリアヌス三世主教猊下」


 エレミヤの心臓が跳ね上がる。

 シャフィークが優しい目でエレミヤを見る。


「今のところは地下牢に放り込むみたいな乱暴なことはせず、宮殿の塔のひとつに滞在していただいているよ。客人、というわけでもなくほぼ監禁されているような状態だけれどね。これから裁きを受けるだろうけれど、お年もお年だし、陛下に恭順されているし、ご本人が改悛して厳罰をお望みだ。そんな方を、今すぐさらし首、みたいなことはないのではないかな」

「そうですか……」

「陛下のほうがちょっと計算高いところもあってね。この方の首をいきなり刎ねるとなるとルーサ人からさらなる反発を受けるのではないか、もう少しうまい使い道もあるのではないか、みたいな汚い面もあるよ。まあ、大人の政治の世界にはいろいろあるということさ」


 エレミヤは頷いた。確かに、主教はマムラカのルーサ人の尊崇を一身に集めている。ルーサ人たちをコントロールするために皇帝スルタンは頭を働かせるだろう。会ったことはないが、エレミヤはこの人を相当狡猾で仕事のできる人であるとふんでいた。


 残された使徒教会のほうはぼろぼろだ。自分たちを束ねる主教を失った上、自由同盟に参加していた司祭たちとの分裂も生じている。報奨金目当てに自由同盟の人間を帝都防衛隊に差し出す司祭も現れ、エレミヤは今まで知らなかった汚い世界をたくさん見てしまった。


 それでも、自分たちの心のよりどころは神への祈りだ。大聖堂は残っていて、ただ純粋に礼拝を執り行ってくれる司祭もたくさん残っている。今は後片付けと内部粛清で大荒れだが、もう少ししたら落ち着いて次の主教を選出するだろう。そしてまた礼拝の日々を再開するだろう。


 意外なことに、ここで重要な役割を果たしたのはなんとエレミヤの父であるグレゴリであった。彼はイオアンに抵抗し続けた良心の人として司祭の位階を上がることになったのだ。今や司祭たちの間でもリーダー格の人間に昇進し、同年代の司祭たちを束ねる立場にある。もしかしたら二十年後には主教座にも手が届くかもしれない。

 人生何がどうなるかわからないものだな、とエレミヤは思った。真面目に生きてみるものだ。神はすべて見ておられるのである。


「自由同盟もイオアンを失ったことで壊滅状態みたいだね。イオアンの存在感は大きかったのだろうね」

「あのアル中がですか?」

「双子やエレミヤは知らないだろうけれど、彼は僕ら『鷹』の年少者の間ではカリスマだったんだよ。今でも慕われていたのだろうね。真面目で実直なのが一番ということさ」


 真面目で実直なのが一番――ルーサ人の美徳だ。イオアンは使徒教会の信仰を守っていたことになる。


「幹部たちももうほぼ全員処刑したか捕縛したかみたいだし、めでたしめでたしだよ」


 エレミヤとロスタムは頷いた。


「イオアンは――」


 シャフィークは彼らしくなく、そこで一回言いよどんだ。


「首が胴体から離れた。首のほうは、今日から宮殿前公園で見られるよ」


 当然と言えば当然だが、会話をしたことのある人間が、と思うと少しつらい。エレミヤは改めて、悪いことはしないほうがいい、と思った。


 ちらりとオルハンの顔を見る。普段どおりの平然とした顔をしている。眉ひとつ動かさない。


「体のほうは燃やすらしい」


 火葬か。骨しか残らないなんて残虐だ。だが大悪人にはふさわしい最期だ。もしかしたら骨も残さずディジュラー川に流すかもしれない。しかしイオアンにはもう文句は言えない。イオアンの文句を代弁してくれる遺族もいなさそうだ。


 そこでロスタムがぽつりと口を開いた。


「まあ、ぼくからしたら親の仇なんで、あんまり同情するのもどうかな、とは思うんですけど――」


 自分の手首を握り締める。


「変な人、と思って」

「何が?」

「あの時どうしてわざわざ手首を選んだんでしょう。首を切っていればぼくは確実に死んだのに、どうして手首なんて不確実なところを」


 いつの間にか戻ってきたらしいタハミーネが、ロスタムの隣に座った。


「そう、変な人。あんなに汚い言葉でさんざん脅したくせに、結局ミーネの服の下には指一本触れなかったですよ」


 そして、両手に抱えていた布を広げて「ほら!」と言う。

 何の変哲もない男物のマントだった。黒い無地で、ウールの冬物だ。


「ミーネ、ずっとこれをかぶってたんで、寒くも恥ずかしくもなかったです」


 オルハンが起き上がった。


「くれ」


 タハミーネがオルハンにマントを手渡す。

 オルハンがマントを羽織った。ちょうど彼の体のサイズにぴったりのようだった。


「イオアンの私物だな」


 苦笑する。


「俺とあいつは体格がほぼ一緒で着るものも似たり寄ったりだった」


 タハミーネが口を尖らせる。


「細切れにして川に流すなり切り刻んで小物でも作ったりしようかと思ったですけど、ご主人様にあげてもいいですよ」

「そうだな、貰っとくか」


 なんだか感傷的な気分になる。


「……なんだよ、黙んなよ。なんでみんな沈黙して俺を見つめんだよ」

「いや……、まあ、まあ」

「うん、いいのではないかな? 兄さんが使えば」

「もったいないだろ、ちょっといいものっぽい気がするし。深い意味はない」


 そして、最後に。


「あの、オルハンさん」


 エレミヤは膝を詰めて彼に向き合った。


「なんだよ、改まった顔をして」

「改めてお願いします。僕に武術を教えてくれませんか」


 ずっと考えていたのだ。

 強くなりたい。

 物理的に強くなればいいというわけではない。身体能力を上げて喧嘩に強くなることが真の強さではない。強さとは弱さであり弱さとは強さであるということを主教に教わった。

 だが、やはり、あの時、この時、その時、何かできれば、という気持ちは残る。

 もう、後悔したくない。


「僕を鍛えてください」


 オルハンが笑った。


「やっと言ったな」

「え?」

「最初にここに来た時、お前、お父ちゃんに言われるがままで本心から武術をやりたいと思ってたわけじゃなかっただろ」


 見抜かれていたのだ。


「生兵法は怪我のもと。お前が本気になったら本当に教えてやるつもりではいた」


 エレミヤは自分の顔に笑みが広がっていくのを感じた。


「ミーネも! ミーネも教えてください! ロスに守られるだけじゃだめです! 囚われのお姫様はみんなの足を引っ張る嫌われヒロインですよ!」

「おっ、お前もか。じゃあセットで何かやるかなー」


 双子の猫の店に笑い声が広がった。


 そんな中、だ。


「すみませーん!」


 店のほうから声が聞こえてきた。


「お客様だーっ!」


 双子が立ち上がり、店のほうへ向かって駆けていった。

 さて、今日はどんなお客だろう。どんな冒険が始まるのか、エレミヤも今度はちょっと楽しみになった。





 マムラカの空は今日も明るく晴れている。





<完>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

街角で踊る猫たちの剣舞曲 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ