十五、契り
翌朝、五郎からの文はなく、千歳も送らなかった。代わりに、巌に伝言して、啓之助に会いに来るよう頼んだ。薄い日に照らされた雪解けの庭へと降りる。昨日から考えが止まらない。
五郎が木綿へと見せた嫌悪の源とは何か。副長の養女となる娘への線引きにしては、あまりに嫌悪が強すぎる。
『──この娘が、僕と同等、友人の位置にいるとでも言うのか?』
同等。藩校での順位を明かしたときの羞恥。認められたい。自信のなさ。涙を堪えた目。序列と承認に敏感な五郎の性質を考えると、千歳はこの結論に辿り着かざるをえない。
夕方、汗を浮かべたせせまま啓之助が文句と共に縁へと座る。
「いやぁ、走ったよ。人遣い荒くない? 深雪のとこから反対方向だってのに、副長帰って来るまでに来いって!」
「ごめん、どうしても聞きたくて。五郎くんのこと」
座敷へと上げ、湯冷しを渡す。啓之助はすでに面倒な気配を察知して、渋い顔で受け取った。
「何? 喧嘩した?」
「喧嘩というか……その……」
「副長、帰ってきますよ」
「わかってる。──真剣に聞きたいんだけど」
「はいよ」
「五郎くんは僕のこと……恋愛として好き、なのか?」
「い、ま、さ、らー!」
真剣に聞けと怒る千歳を相手せず、啓之助は湯冷しを飲み干して、碗を板間に叩き付けるように置いた。
「真剣に、いまさら、だよ。なんで? もう気付かないままの方が幸せだったんじゃないの? 君が純粋な友情を彼に向けているあいだ、彼は君に恋情を抱いてました。恋情といったら、きれいに聞こえるけど、ようは色欲ですね。触りたい、ちゅうしたいって思ってたわけよ。はい、どうしますか? ちゅうしてあげれますか?」
千歳は半纏の裾を握り締めて、啓之助を睨み返す。できないと思ったからこそ、一縷の望みを託して、啓之助を呼び出したのだ。考えすぎだ、ただの嫉妬心だと言ってほしかった。
「五郎くんは、だけど、僕を友人として、ずっと──」
「そう思わないとやっていけないんでしょ? あいつ、穏やかに見えて意外と
表玄関が開く音がして、ふたりは同時に振り返った。続く巌の声に、啓之助は千歳との距離を詰めて、小声で言い聞かせる。
「あいつに、千歳だって明かす気は──ないんだね。よし、じゃあ決まりだ。全力で気付いていないふりをしろ。応える気がないんなら、それが最大の優しさだ」
「友人として、貫く……?」
「うん。いっそ、病を明かした方がいい。最期まで僕の一番の友人でいてくれって、釘を刺すんだ。同情心に付け込め。……なんだよ、その顔」
卑劣さへの軽蔑を浮かべていたと、千歳は気付く。五郎へと不実を散々働きながら、正義心だけは一人前に残っているらしい。
「僕、そこまで、する……勇気は……」
「じゃあ、ちゅうしてやれ。君にできるのは、このどっちかだ。だけど、不実の方がいくらかマシだろう? 少なくとも、友人の中での一番は与えてやれるんだ。何か、ご懸念は?」
「……嫌だと、言われたら?」
「諦めろ。人の気持ちはどうにもならない」
話は終いだとばかりに、啓之助は千歳の膝前から離れた。手拭いで首許を拭い、襟を整える。
「長州への使節派遣のこと、朝議に掛けられることになるらしい。勅許が出たら、局長のお供として俺も行く。どれくらいで帰れるかわからないけど、生きて帰って来るから。君も、生きて待ってて。そのために、なんだってしろよ。自分が健やかに生きれることが第一だ」
「……わかった」
「また来る」
啓之助は、象山譲りの眼光鋭くうなずいて、座敷の縁へと出て行った。
十月十八日。長州へ伏罪の意志を問う訊問使の派遣が朝議にて決せられ、大使に永井尚志が選ばれた。近藤の同道は、永井の家来との名目で許可された。
翌日、隊士が表広間に集められた。伊東、武田、尾形などの文学師範勢、山崎、吉村などの監察方。いずれも文武に秀でた選りすぐりだった。近藤は、同道の隊士は武士ではなく
執務室へと戻った伊東は、書類仕事の手を留めた歳三の前に座る。
「局長が大層気を遣われながら、僕を中小姓役に申し付けられました」
「かなり悩んでましたよ。武田さんとあなた、どちらが大身の風格を消せるだろうかって。まあ、私はあなたの方が器用だろうと推薦しましたが」
「ふふふ。僕の方がまだ若造の顔をしていますからね」
「ええ」
歳三も応じて笑って見せるが、すぐに真顔に戻った。
「あなた方が側にいてくれると思えば、とても心強い。あの人は敵に囲まれようと引かない人だから、どうか、守ってやってください。ご無事で──」
深く頭を下げる。伊東は両手を着いて礼を返した。
空の高い冬の日が続く。征長への動員を命じられた諸藩は、物々しく支度を揃えて大坂へと集まり来ているそうだ。近藤以下、訊問使への随行隊士の大坂下向も十月晦日と決まった。出立を三日後に控えた夕べ、啓之助は旅装束とする着物を借りに千歳を尋ねた。
「ほら、俺、局長の下人だってのに、持ってる着物だいたい良いやつだから。いい具合に着古した着物、君なら持ってるでしょ? 貸してくださいな」
「……君、だいぶ失礼なことを言っている自覚はあるかね?」
不本意ながらも、白茶の船底袖と燕脂の振袖を行李から出した。十八の振袖は少し見た目がよろしくないので、裁縫箱を出し、脇から袖を縫い合わせていく。
埃に軽く咳き込んだ。啓之助は千歳の痩せた頬を見る。袖から覗く手首も、前に増して細い。
「お仙くん。ご飯食べれてる?」
「……うーん、一応。最近はお粥にしてもらってるけど」
「心配だよ、君のこと」
「大丈夫、心配しないで」
「中村は結局、あのまま?」
千歳は黙ったまま、手を止めない。啓之助は火鉢に腕をかけて、かったるそうに話す。
「お仙くんが、もう会いたくないっていうんなら、それでいいけど。でも、俺がいないあいだ、君に足繁く通ってくれる友人がいてくれたら、俺、安心する」
「うん」
「中村とは、まだ会いたいんでしょ?」
「……うん」
表玄関が開いて、配給を届ける声がした。巌ではなく、同じく賄い方で初老の弥一だった。
「あれ、配給、巌から替わったの」
「最近ね。配置替えだって」
「そう。巌じゃなくちゃ、文預けにくい?」
「そういうわけでもないけど……」
それでも、千歳は五郎へと文を出せずにいたが、十月晦日の昼、五郎から夕方に訪問する旨のみが書かれた簡素な結び文が届いた。
千歳は、緊張に手を振るわせながら、板の間を何度も拭き掃除して、落ち着かずに過ごした。未の鐘が鳴ると栗色の振袖へと着替え、一月ぶりに袴を履いた。木綿は三味線の稽古に出ている。自らお茶と菓子の支度を整えて、五郎を待った。申の鐘が鳴り、裏庭の枝折り戸が開いた。
座敷へと上げる。煎茶碗に冷ました湯を急須に戻す。蒸らして、碗へと注ぐ。鉄瓶からは沸騰した柔らかい湯の音がする。互いに口を開かず、目も合わせられない。
「──どうぞ」
「頂戴します」
五郎があかぎれた手で茶碗を取った。去年、ふたりで軟膏を買いに行った。その帰りに、五郎は古本屋で『
「……五郎くん、気付いているかもしれないけど、僕、肺病なんだ」
「うん……」
「治らないかも、と思うと、君だけは変わらずに、友人でいてほしくて──えっと、……僕、君は、一番の友人……友人として……」
台本は頭から消えて、代わりに涙が落ちた。
五郎が茶碗を膝前から避けて、間合いを詰める。何かしゃべらなくてはと焦るほどに、言葉は出てこない。五郎の手が頬へと伸ばされる。夕影の座敷にも目は鋭く光り、千歳を射殺さんとする。
顔を背けても、五郎の手は追い来る。退けようとした手を絡め取られ、千歳は背中から抱き締められていた。
「……好きだ」
震える声が耳に響いた。鼓動が早鐘を鳴らし、逃げろと警告するが、指一本動かせない。声も出ない。五郎が一層、腕に力を込める。
「自身の真心を問えば問うほど、君から離れられない。君が好きだ。もう木綿を恋していないと言うなら、僕を愛してくれ」
ゆっくりと離されて、両肩に手が置かれる。振り向かされて、五郎の唇が鼻先にあった。頬に手が添えられる。
「仙之介くん──」
怖い。有無を言わさない殺気立つ目。逃げろ。声が出ない。友人でいたかった。嫌だ。
嫌だと言え、嫌だと──!
咳がひとつ出た。詰めていた息が、一気に咳となって押し寄せる。身体の強張りが解けて、千歳は身をよじり、口許を両袖で覆った。気道が狭窄し、細い呼吸音が起こる。案じた五郎の手が背中に寄せられるが、撫でられるたび、蜘蛛に身を這われたような騒めきが広がる。
五郎を突き放した。袴から脇差を抜き、ふたりの間に置く。青ざめきった五郎は、黒漆の結界線の向こうへと身を納めた。千歳は恐怖に怒りを滲ませた目で、五郎から目を逸らさない。
「五郎くんは、僕を女子の代わりとして好きだというのか?」
「か、代わりじゃない。君の代わりなんか、いない。君の魂が好きだ」
「魂が好きだと言いながら、なぜ肉体に触れようとするんだ」
「それは──それは、不可分だろう!」
「君は、純粋な愛を信じているはずだ。美しい精神の交わりはないのか、と言ったじゃないか」
「そんなもの信じてないと、君が言ったんだろうが!」
「僕は、人は見返りなく愛せはしない、と言ったんだ!」
「じゃあ、何を与えれば君は、僕を愛してくれるというんだ!」
「学問と友愛。これこそが、君と育んできたものだ。僕からも同じだけ、学問と友愛を返すよ! それじゃ足りないっていうのか?」
「──足りない!」
着いた両手が床に爪を立てた。悶えて、肩で息をする。青かった顔は熱に赤く染まり、火の燃える目で千歳に迫る。脇差が関となっていなければ、襟を締め上げられていたと思える気迫だ。
「僕と契りを交わしてくれ! 君に我が心の全てを捧げる。君の過去も悲しみも、全て受け止める。何があっても君の心を独りにさせない。我が生涯を懸けて、この心の真なることを証し立てる。だから、どうか、僕だけが君の兄だと、どうか──!」
懇願に声を絞り出して、五郎は礼の姿勢を崩さない。身は震えているが、千歳を逃がす隙は微塵もない。寝台までが後退る千歳の背を阻み、五郎へと返答を迫る。千歳はただ恐ろしく、涙を流すばかりだった。
「仙之介くん、偽りはないよ」
五郎が一息を吐いて、艶消し黒漆の脇差に手を掛けた。鯉口を切り、鈍く光る白刃を眼前に横たえる。
「もし心違えのあらば、
左袖を払い、拳を握った腕を突き出す。
「一切のご神罰、ご仏罰をこの身に蒙らんと
刃が腕に触れる直前、千歳が五郎の右腕へと飛び付いた。歯を食いしばっての押し合いとなり、それでも、五郎は力のままに刃を腕に向け、千歳は全体重をかけて押し留める。
「うわぁあー──!」
千歳が叫ぶ。五郎の右手首、柄を握って硬く浮いた筋へと噛み付いた。脇差がこぼれ落ちる。すかさず、五郎の横っ面を殴り、脇差の上へと覆い被さった。涙と咳が止まらない。痰が喉を塞ぎ、嗚咽に吐き出したと思えば、また咳を呼んだ。
五郎がわからない。怖い。狂気だ。これ以上はもう無理だ。五郎を止められない。
「ご、五郎くんは……! 僕が男だから、愛したい、の……!? 女、だったら、君は──!」
「君が男子であり、学徒であるから、僕は心を捧げたいんだ! 女への色恋なんかと一緒にするな!」
「僕は──!」
口許を拭い、五郎を振り返る。愛しい友人の姿はなく、今にも千歳を殺しにかかろうと構える男子の肉体があった。殺される。殺されても、文句は言えない。いや、こんな不実な人間はいっそ殺された方がいい。殺されてしかるべきなのだ。そう思うと、震えが止まった。
「僕じゃない、私だ。私は女だ。男の格好をして隠してきたが、私は女だ」
「何、を……何を……」
五郎は身を
千歳はよろめきながら立ち上がると、五郎を見据えたまま、袴の結びを解いた。帯に掛けた紐を外し、袴は足許へ落ちる。後ろ手に結び目を解き、帯は袴の上に落ちる。
「止めろ……」
五郎が顔を背けても、千歳は手を止めない。仮紐を外し、長着から腕を抜く。
「止めろ……!」
襦袢の紐も解いて、襦袢を肩から落とす。
「止めろって言ってるだろ──!」
五郎が床に向かって叫び、太刀を掴んだ。千歳に目を向けることなく、障子戸を開け放ったまま、裏庭を駆け出て行った。
千歳は露わになった胸へと手を当てた。どうしようもなく女の身体だ。風が吹き入って寒い。足許の着物の山にうずくまって泣いた。五郎と過ごした一年間の出来事が、いくつも眼裏に過ぎる。すべて、まやかしだったのだ。
おもかげのCharme 小鹿 @kojika_charme
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