十四、無礼

 雨は日没前にみぞれとなり、歳三は足袋から袴をすっかり濡らして玄関を開けた。

「帰ったぞ」

「おかえりやすー。あれあれ、大変や。今、手拭い出しまっさかい」

 土間で配膳していた木綿が駆け来て、刀を預かった。行灯の点けられた台所の間から、歳三の部屋へと入っていく。この家に来て、じきに二月。元より気の利く質なので、家事の上達は申し分なかった。手拭いを受け取り、木綿へと尋ねる。

「今日はなんの稽古だったね?」

「寺子屋行って、夕方はお三味しゃみです。新しい曲、習いました」

「お前の三味線、聴かせてもらいたいね」

「だって、旦那はん、お帰り遅いやないですかぁ。夜に下手なん弾いたら、ご近所さん驚かはりますわ。なんや、古三味線のお化けが出る、言うて」

「はははは。それはそれで、また才能だ」

 木綿へと配膳の続きをするように言い、部屋へと戻る。長着を出していると、千歳がやってきた。

「おかえりなさいませ。雪になりそうですね」

「ずいぶん寒いからな。お前、お灸の先生はなんて?」

「特に悪くはない、と。水をよく飲むように言われました」

 羽織を脱がせ、脇差を預かる。

「それから、今日、三浦くんが来ました。長州征伐の先遣として、伏罪を問う使節の派遣が検討されているそうですね。決すれば近藤局長も随行を願われるとか。そうなれば、先生もお忙しくなりますね」

「あの子は、まったく……他に言うなよ」

「はい、言ってません」

 着替えを終えて、三人で夕膳の席に着いた。木綿は豚肉の生姜煮を手にしながら、寺子屋の同級生たちの恋愛模様について語る。

「一等かわええ十歳の男の子がおって、女の子たちはもう上から下から、みんなその子に夢中ですねん。せやけど、休み時間にお堂の柱んとこから、その子を見てはほうけるばかりなんです。一番年長の女の子が許さへんかったら、男の子に話に行ったらあかんいう掟がありまっさかい」

 初めて聞く掟に、歳三が千歳に本当かと尋ねるが、千歳の短い手習い塾経験からでは首を傾げるしかできない。

「え、お木綿。その掟なら、お木綿が許可出すわけ?」

「うちは、なんや、年が上過ぎやし来たばっかやし、仲間入れてもらえへんねん。見てるだけやねん」

 年寄役・・・は、十二歳になる在塾が一番長い女の子らしい。ところが、人気の男の子は最近、ひとつ歳下の女の子が気になるようで、師匠に清書を見せに立ったときなど、さりげなくその子に目配せする。休み時間も彼女の視界に入るところで、男友達と遊ぶ。

「男ってほんま、好きな女の子の前やと声大きなんねん。すぐわかるわ」

「かわいいじゃないの。少しでも自分のこと見てほしいって頑張ってるんでしょう?」

「下手に頑張るから、えらいことになんねん。その女の子、なんも悪いことしてへんのに、仲間外れにされて、口もきいてもらへんよになって」

「おい、いじめじゃないか。お前、助けてやってるか?」

 歳三に尋ねられ、木綿は当然と大きくうなずく。休み時間には話し相手となったり、聞こえよがしな悪口のときは、外に連れ出したりしているという。

「あんまり続くよなら、うち、男の子の方にも注意するつもりです。引き際、駆け引き、そないなもんがわからへんうちは、恋愛は傍迷惑になりますさかい」

「さすが、北野で揉まれてきた娘は、よくわかっているな」

 歳三は笑うが、千歳は自身と君菊との恋愛模様を振り返って、居心地が悪い。引き際はともかく、駆け引きの余裕などなかった。

「えっと、それで、お木綿はどうなの? 男の子に言い寄られたりしてない?」

「阿保な男子たちに、今日もかわいいですね、言われる」

「え──!」

 咳込む口許を袖で覆いながらも、千歳は説明を求めて木綿を見た。木綿は言い含めるように返す。

「あんな、千歳はん。十か十一の子ぉらの『歳上の別嬪さんに声かけれる俺!』に付き合わされてみぃ? おひねりにもならへんのに、相手するわけないやろ」

 歳三が声を立てて笑った。千歳は自身の未熟を笑われている気になって、さらに居心地が悪くなった。

 夕食後、歳三が刀を手入れする側で、千歳は木綿の算盤の復習を見ていた。千歳からは教えず、木綿がその日に習った問題を説明しては、解き直して進む。

「鶴の足は二本。四羽いたら、二、二、二、二で足は八本。亀の足は四本。四匹いたら、四、四、四、四で足は十六本」

「おお、今、一回も止まらなかったね」

「まだやで、見ててな。そんで、八足す十六で、二十四。せやから、鶴四羽と亀四匹で、足は合わせて二十四本になります」

「ご名算。よく出来るようになったね」

「足し算は大分な。引き算はもう少しや。やっぱ、繰り下がりはややこしいねん。この二十四本から、亀が三匹離れましたら──」

 千歳は柔らかな声で木綿を褒め、笑い、時には雑談に応じる。歳三は、今日のような夕べをずっと過ごしたいと願わずにいられない。油をひき終えた大刀につばと柄を戻し、鞘へ納めた。

 雨戸を閉めるころ、みぞれはすでに雪に変わっており、坪庭の紫陽花の木はすっかり白く冠を被っていた。朝にはまた二寸も積もっているだろう。早めに出なくてはいけない。


「明日、中村くんを見舞いに招いてもよろしいでしょうか?」

 就寝の挨拶のついでに千歳が聞いた。歳三は少しの沈黙のあとに、千歳を座敷へと入れて襖を閉めた。火鉢の側へと座らせる。

「もう招いているのか?」

「いえ、お許しがあれば、明日の朝、巌に文を持たせます」

「そうか」

 斯波へは歳三から頼んで見舞いに来てもらった。啓之助は勝手に来ているが、咎めるつもりなどない。なぜ五郎だけは許す気になれないのか。言葉を選びながら、布団を隔てて尋ねた。

「お前たちは、良い友人だ。それを疑っているわけではない。しかし、俺の耳にも色々と聞こえてきている」

「噂に過ぎません。ずっとそうじゃありませんか。斎藤さんとか、好きにからかって。中村くんはきっぱり反論することが苦手なので、よけいにおもしろがられているだけです」

「それはお前の考えだろう。中村くんの本意を、お前は知っているのか?」

「良い友人だと言ってくれています……」

 千歳の目は、実に素直に歳三の理解を求めていた。噂のほとんどは、五郎が千歳に、というものだが、この純粋な娘に、恋愛の醜さやら人の欲望やらを突き付けたくはない。もどかしさに深く息を吐いた。

「見舞いに招くことは、許そう。──ただし、お木綿のいる時間にしなさい。できれば、一緒にいてほしいが」

 無理だろう。勝手に目通りしたと詫びにくるほど分別ある男子だ。上司の娘と同席などするはずがない。そも、千歳こそだが、五郎はまだ仙之介だと信じているわけで──。

 迷いを察した千歳が、歳三の顔色を伺いながら提案する。

「お木綿には、一階にいてもらいます。中村くんを招くのも申の刻からとして、夕食が届くまでの一刻を限りとします。学問から離れた話はしません」

「……そうしなさい。中村くんへは俺から言う」

 翌日、講義終わりの伊東が五郎を執務室まで連れて来た。幹部ふたりの前で緊張に身を固める少年へと言えたのは、

「酒井は今日、体調が良いようだから、申の刻すぎに、見舞いに行ってやりなさい」

と、それだけだった。


 五郎は気を逸らせて、雪解けにぬかるむ大路を上がった。菅大臣の境内を抜けると、千歳の部屋から拙い三味線が響いている。まだ申の鐘は鳴らないので、枝折り戸の前で耳を傾けていた。三味線が止む。千歳の声と拍手が聞こえた。

「すごいよ、お木綿。上手くなったね」

「せやろぅ? お師匠さんにも、色っぽさ出てきたって言われてん」

「色っぽさ? はは、お木綿に?」

「わからへんかぁ。まぁ、色事にはおぼこやもんなぁ、千歳はん」

「おぼこって。不服だなぁ。じゃあ、お木綿先生にお聞きするけど、女の色っぽさって一体なんですか?」

 五郎は聞いていられず、氷となった雪を大きく踏み鳴らしながら、庭を横切った。

「仙之介くん。ごめん。ちょっと、早く来てしまった」

「あ、五郎くん! 待ってー」

 しばらく部屋の中が慌ただしくなり、お待たせと障子戸が開かれたとき、座敷に木綿の姿はなかった。

 五郎からは伊東の講義を伝え、千歳からは斯波との議論を伝え、英訳の疑問点について話し合ううちに、日は暮れだして、酉の鐘が鳴った。

「──あ、もう夕食だ。ごめんね、五郎くん。せっかく来てくれたのに」

「ううん、元気で良かった。また手紙書くね」

「ありがとう。表から帰りなよ、副長が認めたお客人なんだから」

「うん。じゃあ、また」

 五郎は見送りを断り、土間へと降りた。木綿が中座敷から出てきて、玄関の引き戸を開ける。

「五郎はん、おおきに。また来たってください。仙之介はんも喜ばはります」

 柔和な笑顔も、丁寧な挨拶も、五郎にとってはかえって不快を覚えさせる。このような婦女子と言葉を交わすべきではないとわかっていながら、言葉は口を突いて止まらなかった。

「前に僕が忠告したこと、覚えておいでですか?」

「あれ、すんまへん、なんでしたやろか」

「お座敷でのように振る舞われては困る、と。失礼ながら、年上の男子に対する敬意というものをお持ちですか? 先程聞こえた仙之介くんへの話し方ですが、あまりに品がなく、驚きました」

「あ……へぇ、すんまへん。気ぃの緩んでまって、つい」

 場をやり過ごすためだけの笑顔が向けられた。媚びたお座敷癖が抜けない、と五郎の苛立ちはさらにつのる。

「仙之介くんは優しいから、あなたの分別ない態度も咎めないでしょう。しかし、僕は、友人が軽んじられているのは見過ごせない」

「五郎はん、うち──」

「中村と呼んでください。いいですか、そういうところです!」

 叱り付けられ、木綿の肩がすくむ。頭を下げて、震える声で返した。

「中村はん、たしかにうちの態度は良うなかった思います。せやけど、軽んじてなん──」

「今度は口答えですか。一度、ご自身を深く顧みて──」

「待って、待って! どうしたの!?」

 草履を突っかけた千歳が、暗い土間を走り来た。木綿を背に隠すように、ふたりの間に立つ。

「ねぇ、何かあったの?」

「単刀直入に聞くよ、仙之介くん。君はいずれ、この方を妻とするつもりかい?」

「な、何? なんの話?」

「僕は、君が婦人にうつつを抜かす様を見るのはとても苦々しく思うよ。病を得たとはいえ、学徒としての心まで揺るがせにしないでくれ」

「え……は? いや、だから何? 言ったじゃないか、お木綿に向かう心は家族の情愛、感謝だって」

「だったら、なおのことしっかりと、このお嬢さんを躾けるべきではないか?」

 躾け、との言葉に千歳の気が立つ。木綿は千歳の袖を引き、

「仙之介はん。身体冷やしますし、中入ったってや? うちが悪かったんやし」

と執りなすが、千歳はその手を離させ、五郎から目を逸らさない。下駄履きの分、三寸は背の高い五郎の冷ややかな目へと迫った。

「お木綿が何か君にご無礼したんなら、謝るけど」

「君に、だよ。敬語もなく、こましゃくれて話して。君も年長者として示させる礼があるだろう」

「年長者って言ったって、ひとつしか違わないんだ。君だって、僕よりふたつ年嵩だろうに、今まで一度だって、僕が敬語使わないとかしゃべり方が生意気だとか、言ったことないじゃないか」

「本気で言ってるのか? 僕と君とは友人だ。年齢は問題じゃない、精神において対等だからだ。まさか君は、北野上がりの礼儀知らずなこの娘が、僕と同等、友人の位置にいるとでも言うのか?」

「そんな言い方ないだろ──⁉︎」

 勢いに咳き込み、膝を折ってうずくまった

「──千歳はん!」

 木綿は慌てて口を押さえるが、五郎は鼻で笑った。夕闇の中でもわかるほど目に涙を湛えて、千歳を見下ろしたまま言う。

「ほら、幼名でなんか呼ばせて。どうかしてるよ、君。惚れた弱みだっていうのか? こんな、はすっぱ娘に」

 千歳は口許を拭うと、ふらつきながらも五郎へと一歩近寄り、非難の目を向けた。怒りと軽蔑だった。引っ叩いてでも、木綿への非礼を取り下げさせたい。どうかしているのは、五郎の方だ──。大きく一息を吸った。

「五郎くん、今日は帰って。今の僕たちは冷静じゃない」

「仙之介くん──」

 五郎は抑えきれずに千歳の右肩を掴む。あまりに細く、動揺にすぐに離した。

「……養生してくれ」

 言い切らないうちに背を向けて、前庭を速足に抜けて行った。

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