十三、病室
その夜遅く、北の空に響いた雷鳴が雪をもたらした。朝には足首まで埋まるほどの積雪となり、隊士たちは雪の降り止まない中で、勤番も非番もなく雪掻きに励むこととなる。
井上班の分担は、門から集会堂までの道を作ることで、五郎たちは竹箕に雪をすくっては傍へと捨てた。半間幅の道が出来るころ、笠に合羽を着込んた歳三が雪掻きの道を歩いてきた。井上が腰に手を当てながら迎える。
「おはようございます、副長さん。歩いておいでですか」
「はい、こんな日では駕籠かきも休みですからね。早くからご苦労さまです」
歳三は笠に手をかざして一礼すると、周囲の隊士たちへも労いを述べて、階段へと向かった。五郎は肩の雪を払うと、急いで歳三の側に寄り、頭を下げる。
「副長、昨日は大変失礼いたしました」
「中村くん、見舞いに来てくれたんだってね。ご足労さま」
「いえ、申し訳ありません。文だけ渡して帰るつもりだったのですが、ご不在のうちに上がってしまい。……お嬢さまがいらっしゃるとは知らず、お姿を拝見してしまいました」
最後だけ、声を落とした。周りの隊士たちは、文武堂前で始まった雪玉合戦の見物に忙しく、ふたりの会話には気を留めていない。歳三は顔を挙げるように言った。
「あの娘のことは、他には言わないように。それから、見舞いだが、やはり熱のあるときは身体を休ませたい。君が来たとなれば、酒井も嬉しさのあまり自覚なく無理をしてしまうものだ。これからは、私まで具合を尋ねてからにしてもらいたい」
「はい、承知いたしました。申し訳ありません」
「うん、では」
「お待ちください──」
との呼びかけは、雪玉合戦の歓声にかき消された。歳三は合羽を脱ぎ、階段を昇っていった。
その日の巡察は休みとなり、五郎はひとり、書庫の出窓に腰を下ろして本を読んだ。『海国図志』を読み返す。英国の地理、風習。強い工業力の源は。読んでも、頭の中は別の思案で埋まっている。
(酒井くんは、肺病なのでしょうか……?)
昨夕から尋ねたかったことは、言えず仕舞いとなった。木綿がいなくては気が塞いでしまうほど、重い病の予兆があるのか、と。千歳は本当に辛いことは明かさない。寂しさを見せても、その由を語らない。
五郎はいつも、決して裏側を見せない月を見上げている気分になるのだ。五郎との生涯の友愛を誓った口で、あの病室では木綿へと尊敬と感謝を述べるのか。口付けを与えるのか。あの娘は、娘というだけでもっとも側近くあり、幼名などで呼び、何も考えていない調子で話し、笑い合う──。最近の千歳が自信を見せる理由、認めてくれる人とは──。
見苦しい嫉妬だ。一番になれるはずがないのに、自分を一番と思っていてくれなくては気が済まない。
結局、千歳は熱がひいてからも、南部から一ヶ月の出勤停止を受けたため、一日の大半を奥座敷に過ごすようになった。部屋は洋式の病室に倣い、畳を全て取り払って板敷とし、寝台を設けた。寝台も敷き布の一式も、松本から贈られたものだった。
半纏に襟巻も着けて、火鉢には常に鉄瓶をかけて湯を沸かす。寝台の縁に腰掛けて足湯に浸かりながら、本を読むか、朝食と共にもたらされた五郎からの課題を解くことが、千歳の定番となっていた。
歳三は、啓之助が見舞いに来た報告には、礼を言っておくとうなずいた。ところが、五郎が来たと告げたときは、良かったなと口にしたが、奥底には不賛同を感じ取れた。書庫で口付けを、などと噂が立つ相手と、自身が不在のうちにふたりきりにしたくない気持ちは、千歳も理解できる。
誤解を解くためには、ふたりがいかに健全な交わりであるかを日々、示していかなくてはいけない。夕食の席では、木綿に聞かせる体をとって、五郎からの課題内容がいかにおもしろかったかを語った。前回の訪問から六日が経った。あと三日ほど様子を見て、歳三へと見舞いに迎える許しを得ようと画策していた。
今日の課題には、和文の英訳があった。斯波が和訳した英文芸の台詞抜書集からの出題で、『ジュリアス・シーザー』の抜粋だった。
時に人、運命が支配者となれり。
親愛なるブルータスよ、失敗は星回りがためにあらず、我ら自らがためなり。是れ即ち、我々、運命が隷属者なるためなり。
与えられた単語は、「fate」「fault」「underling」。五郎は、本とは暗記するまで読むものだと思っているらしく、それが当然のような作問をしてくるのだ。千歳も意地になって原文の復元を試みる。単数系か複数形か、定冠詞はいるのかいらないのか、いつも怪しい。
「Men at some time are
千歳は一応の英文を成立させたが、返書をしたためるときには、言い訳がましく、なぜ定冠詞を付けないかとか、ここを複数形とした理由とかを書き綴ることになるはずだ。
病室にいると、共に頭を悩ます友人や、わからなければすぐに聞きにいける師匠が側にいたことが、改めてありがたいことだったと思い知る。
(……先生、来てくれないかな。今日は六日だから、お休みのはず。来てってお願いしておけばよかった)
ちょうど、表庭の引き戸の開く音がして、期待に耳を澄ませたものの、続いて聞こえたのは、巌の元気な挨拶だった。都合よくはいかないと気を切り替えたが、未の鐘が鳴るころ、斯波は本当に尋ね来てくれた。
千歳は、木綿へとお茶を出して待っていてもらうように言い付けると、着替えて髪も梳かして結い直し、布団も整えて、ようやく斯波を部屋へと通した。
「先生、お待たせしてごめんなさい。あの、ありがとうございます。お見舞い、嬉しいです!」
目を輝かせて歓迎し、勢いのまま咳き込む千歳に、斯波は困り笑いで背を撫でた。寝台の縁に腰掛け、脈を診られる。いつも見上げていた斯波が、今は艶やかな黒髪を千歳に見せている。整然たる櫛目を見つめて待った。
「……熱はなさそうだが、頻脈なんだよなぁ。しばらく、静かにしていなさい」
「はい。あの、先生、このお部屋はですね、松本先生が──」
「静かに、しなさい。もう一回測って、正常じゃなければ、俺は帰るよ。あと、半纏を着ておきなさい」
「……はい」
半纏を肩にかけられた千歳は、天井を見上げながら深く息を吐いた。再診されるあいだも、木目の波模様ばかりを見つめていたので、脈は正常に戻ったようだった。
「──それで、松本先生がこの病室を指示なされたのかい?」
「はい、夏の一斉診察のとき、肺病の兆候を見逃したのではないかと、いたく気にされていたらしくて。本当にそんなことはないんですけど。それでも、お心遣いにこのご本と一緒に寄せてくださったんです」
松本の著作である『養生法』を渡された斯波は、西洋式の衛生法、栄養学に興味深く頁をめくっていった。
「なるほど。畳は埃を溜めるのか。たしかに、板間を雑巾で拭う方がよほどいい。寝台もそうか、布団の下に大気をよく通す、と」
「はい。とにかく、清潔を保つことが第一なんだそうです」
「診察のときも言われていたなぁ。──あ、肉を食べろとある。豚肉はおいしく食べれるようになったかい?」
「うーん、おいしくはありませんね。まずいとは思わなくなりましたけど。でも、
「
斯波が本の中頃に目を留めて、残念そうな顔を挙げて見せた。
「菓子は無用の食物、とあるじゃないか」
千歳は咳の出そうな気配に、息を止めて耐えながら、拗ねた顔をしてみせた。
菓子および餅や
「でも、望みはあります。南部先生にお伺いしたら、お砂糖ではない甘いもの、例えば芋とか豆とかは身体に良いと言われました。あと、糖の質のお菓子も、日々の楽しみとしてお茶と一緒に食べるくらいなら悪くないそうです」
「それはよかった。では、今度から蒸かし芋でも持ってこよう」
斯波は本を閉じると、木綿によって運ばれた茶盆を寝台の上へと置いた。茶托には、斯波が土産に持ちきた甘茶饅頭がある。千歳は一旦、糖の質が毒との学びは忘れたことにして、柔らかな味わいをありがたく堪能した。
千歳が休んでいた月末からの七日間、世情は大いに荒れていた。朝廷による人事介入を受けた将軍家茂は、十月三日、抗議の辞任を表明し、大坂を離れて東帰の路についた。公武一和の放棄ともいえる行動に、会津公容保は家茂を翻意させるべく、自ら馬に乗り家茂を探して京阪を駆けた。そうして、ようやく伏見で捕まえた家茂をなんとか説得し、併せて、孝明帝が家茂の辞職を許さなかったことで、将軍東帰は無事に取り止めとなった。
長州征伐の勅許を得ながらの東帰という家茂一世一代のハッタリは功を奏し、孝明帝は安政以来、拒否し続けていた日米修好通商条約へと勅許を下すことになった。ちょうど昨日、十月五日のことだった。
「ようやくだ、ようっやくだ! これで破約攘夷こそが違勅となった。大きな前進だよ、十月五日は歴史書に残る」
「しかし、破約まではいかずとも多くの攘夷論者はどう動くでしょうか。彼らは摂津鎖港を攘夷最後の砦に据えていますが」
「そこは付帯で、五港のうち神戸だけは不許としたそうだ。もちろん英米は神戸開港を諦めないだろうが、ひとまずの落とし所としては悪くない。しかし、どうも新たな懸念がある」
英米はさらなる市場解放を求めて、関税率の引き下げを図っているとのことだった。詳細は今後、交渉がなされるそうだが、斯波はこれを避けられないと見ていた。
「そも、関税率二割とは、メリケンがかなり融通を利かせてくれた割合だ。これが英国なら、どうなっていたか。──はい、南京条約における関税率は?」
「従価五分です」
「正解。では、バウリング条約では?」
「従価三分」
「そうだ」
シャム国と英国間で結ばれたバウリング条約では、関税は三分と無いに等しい。英国領インド含めて、アジア市場は、欧米による資本主義の搾取地と成り果てていた。
「攘夷を唱えるなら、それは
千歳はすでに板の間に降りて、寝台を机に帳面を取る。斯波も寝台を脇息代わりに肘を着き、向かい合って話す。国内産業の保護と、資本主義の仕組みに則った殖産興業。石高指標からの脱却と、武士の経済的安定。話題は尽きない。
「──ですから、年貢を米納ではなく金納させるとは、鎌倉室町のころの貫高制に戻すってことですよね。でも、たしか当時にあっても、銭を十分に手に入れられない農民は米納を行っていたはずです」
「しかし、当時と今とでは、出回っている貨幣の種類が全く異なる。戦国の世にて扱われていた銭はなんだね?」
「……寛永通宝の前。永、永──永楽銭」
「そうだ。永楽通宝。永楽帝による唐銭だ。本朝十二銭が途絶えてからの六百年間、我が国では銭の鋳造が行われてこなかった。銭は全て輸入頼みで、経年による摩耗があれば、悪銭といって価値は四分の一に落とされた」
「え、我が国は六百年も銭を作っていないのですか? 鎌倉室町の御代を通して一度も?」
「驚くだろう。もちろん私鋳銭や大名独自の造銭はあっただろうが、公には行われていない。なんせ、朝廷にそんな余裕はなかったからな。となれば、明との交易が途絶え、新たな造銭も行われない戦国の世において、貫高制から石高制へと変わっていったことも理解できるだろう」
「あー、はい。なるほど。造銭は本来、朝廷のみが行ってきたこと。それを、当代の幕府は銭に加えて、金貨銀貨まで鋳造している。なので、今の世ならば、貫高制に戻すことが──」
咳込む千歳の背を叩き、お茶を飲ませながらも、斯波は大丈夫かとは尋ねない。
「うん、では、なぜ貫高制が望ましいか、だ。利点を考えてみなさい。まず徴税の面で、大きくふたつ挙げられる。ちなみに貫高制最大の特徴は、毎年一定額が金納されることだ」
咳が治まるまで、斯波は静かに待つ。無闇に案じられないことが、千歳にはありがたかった。ゆっくり息を吸い、帳面に徴税と書き付けながら考えた。
「ひとつめは……米価の変動に影響されず、徴税が収入となるところでしょうか。ふたつめは、そうですね、米から金に換える手間が省けますし、あ、お金なら米俵を運ぶより、ずっと楽に納入できます」
「そうだな。それから、米と違って貨幣は腐らない。他にも、稲作に向かない地方でも藍やら
申の鐘が鳴り、斯波は帰り支度を済ませると、千歳を寝台に戻させた。見送ると言い張る千歳に布団をかけ、寝るように言い付ける。
「気分は楽しく過ごせても、身体は疲れているものだ。いいかい、このまま夕食まで寝なさい。考えることは、一旦お休みにして」
「……こんなに考える材料を与えておいて、それは酷です」
「ちゃんと帳面に残っているだろう? ほら、目を閉じて。ゆっくり息して」
斯波は枕許に座ると、唇を少し開いて呼吸の音を立てた。千歳も斯波に合わせて深く息を吐く。気付けば、枕許には木綿がおり、千歳を呼びかけていた。
「──あ、起きたぁ。おはよう、千歳はん。お夕飯やで? 起きてこれる?」
「……うん」
真っ暗な部屋に斯波がいた跡はひとつも残っていなかった。寂しさに、帳面が置かれた文机を見る。その隣には、五郎への返書が依然としてあった。
「──待って。お夕飯ってことは、巌、もう行っちゃった?」
「ずいぶん前に。あ、五郎はんの……!」
「忘れてたー……」
千歳は寝る前、追伸として、返書を託しそびれた謝罪と体調は悪くないことを書き添えて、返却の岡持へと置いた。翌朝、五郎の文には長々と体調を案じる文がつづられており、千歳は申し訳なさで一杯だった。
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