いない猫

朧(oboro)

いない猫

 Yからその話を聞いたのは、まだお互いに学生の頃だった。誰かの部屋に集まって酒を飲み、酔っ払いの雑談とはいえ話のネタもいい加減に尽きる夜半すぎ。そういえばさぁ、とYが切り出したのだ。


「こないだ、変なことあって」

「変なこと?」

「や、てか普通に夢かもしんないからアレなんだけど」

「いいから話せや」



 その前の週末、Yは予定がないのを幸いと一人暮らしのベッドに引きこもっていたそうだ。スマホでゲームとツイッターを往復しているうちにうつらうつらと半覚醒の状態になった。時間はまだ昼下がり、カーテンを開け放った部屋は明るかった。


 不意に、「懐かしい匂い」がしたのだという。


 乾いて暖かいその匂いは、古い畳の匂いだった。Yのアパートはフローリングのワンルームなので、畳の匂いはするはずもない。だがその時のYは特におかしいとも思わず、ああ、懐かしいなあ、と思っただけだったらしい。

 その、日向で乾いた畳の上を、次に小さな足音が踏んだ。


 猫だ、と直感したのだそうだ。


 たし、たし、と足音は部屋の隅からYのベッドへ向かってくる。そのとした足音をYは間違いなく知っていると感じた。それは、実家で飼っていたムギの足音だった。


 ムギは、最初は小麦色の毛並みからコムギと名付けられたそうだが、成長するに従って貫禄を漂わせるほどの体格になり、もう小さくはないということからムギと呼ばれるようになったらしい。和猫らしく太短い足はがに股気味で、こんがりと焼けたような赤茶の体には薄い虎じまがある。Yは仰向けに寝ていたため直接目に入る訳ではなかったが、その姿がありありと脳裏に描けたそうだ。


 ムギは部屋をゆっくりと横切り、Yの足の方からベッドに飛び乗った。スプリングが軋み、足元が僅かに沈み込む。ムギは人の体の上で寝るのが好きな猫で、日向の畳で昼寝をするYの上をムギが寝床にするのはよくあることだったそうだ。だからYも、ああ乗ってくるのだろうなあ、とごく自然に思ったらしい。

 乾いた畳の匂いと、猫の気配。穏やかな時間。ムギは腿の横からYの体に乗り上げ、みぞおちのあたりに落ち着いた。温かな重み。ああ、懐か、


 いや



 跳ね起きると当然ながら部屋に猫はおらず、ただ、みぞおちのあたりに何か生ぬるい感触が残っていたそうだ。

「……ふーん、まあ、よくあるやつなんじゃない?」

 離れて暮らすペットの気配を感じるとか、ありきたりではあるが感動ものだろう。

「でもな、うち猫おらんからさ」

「だから実家だろ?」

「いや、そうじゃなくて」

「もう死んでる?」

「飼ったことない」

「……は?」

「猫なんか飼ったことないし、そもそも実家もマンションで畳の部屋なんかないんよ。だから、」



 だからそれは、いない猫の、ない記憶だったのだそうだ。



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