パイナップル[ぱいなっぷる:晩夏]
喫茶店の古い木製テーブルに脚付きのグラスが置かれる。薄暗い店内をたゆたうジャズが店員の低い囁きを隠す。
パイナップルのソルベには、果肉がふんだんに使われていた。鈍い銀色のスプーンを手に取る。僕はそれを口にするまで、なぜ一人でいるときにパイナップルを使ったデザートを好むのかを忘れている。
甘い、南の島の香りが鼻に抜けた。彼女はミント色のギンガムチェックのエプロンドレスといういで立ちで現れる。僕の目にだけ映る、愛すべき幻。彼女がぷるんとした唇をひらく。
「やぁ。久しぶりだね」
「夏にならないとパイナップルは出回らない」
「缶詰でもいいんだけどね。なんならパインアメでもさ」
「ごめん。これでも君を呼ぶには勇気がいるんだ」
「大丈夫、無理はしないでいいんだよ。わたしが押しつけてしまったことだから」
彼女は誰もが知るアイドルだった。幼稚園児から老人まで、名前か顔のどちらかになら覚えがあったはずだ。五年前、人気の絶頂で自ら命を絶つまでは。
著名人の自死は世間に与える影響が大きい。彼女のように若く美しく、愛されていた者ならばなおさらだろう。一昔前であったなら、彼女は多くの追随者の死にまみれ、物議を醸していたに違いない。
彼女の名を、僕は覚えていない。幼馴染だったのに。芸名じゃなくて本名だった。それはわかっているのに。
うっすらと残る記憶のなかで、僕たちは海を見下ろす窓辺にいる。彼女の叔母のおみやげだったスナックパインで手をべたべたにしながら、空と海と、斜面に張りつく家々を眺めている。
彼女の存在は初めからなかったことにされた。大勢の若者たちの命を守るために、巧妙に抹消された。それだけの手間をかけるほどの名声が彼女にはあった。
誰も彼女の歌を、踊りを、あるいははにかみながら語る姿を覚えていない。僕も含めて。
死に際にどんな魔法を使ったのだろう。彼女はパイナップルの匂いと味でもって僕の記憶に自らを刻みつけた。不完全な思い出と彼女の姿がつかのまよみがえり、食べ終わるまでの時間、僕たちは短く語らう。ほんの、たわいもないことを。
「食べるの、下手だよね。相変わらず」
溶けたソルベが器の底に溜まっていく。僕の手は糖分にべとついて、甘く香っている。
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