月刊季語掌編

夏野けい/笹原千波

山笑う[やまわらふ:春]

 このところの五年二組の関心事といえば、中山エミがいつ笑うのかということだった。彼女が転校してきてから三ヶ月。どちらかといえば子どもっぽい顔はにこりともしない。

 クラスメイトがいまだ、あの手この手で笑わそうとしているのに対し、本町ふうかは若干あきらめ気味だった。流行りのネタからもっと単純なギャグまで、面白い子たちがとっくにひと通り試している。まわりのほうが腹筋を痛めるくらいには。

「おかーさん、田舎の子ってみんなああなの?」

「ああって?」

 ソファに転がったふうかが問うと、作業机に向かっていた母は眼鏡をひょいと額の上に引っかけて振り向く。

「だってずぅっと真顔なんだよ」

「焦んなくたってそのうち笑いたきゃ笑うさ」

「でも」

「いいかい、彼女は自分の生まれ育った場所をなくしてここに来たんだよ。想像してごらん。ふうか、きみはこの家も、町も、学校も置いて遠くへ行く。そこに自分の馴染んだものは何ひとつない」

「そりゃ、つらいだろうけど」


 先生が暦の話をしただけで泣き出すのは、ふうかの理解を超えている。

「立春ってそんなに特別? べつに急にあったかくなるわけでもないじゃん。むしろ寒いよね。春だっていうならもっと気温上げればいいのに」

「彼女は都市ではないところから来たんだろう?」

「うん」

「では、まず知るところから始めようか」

 母は人差し指で宙を示した。壁面をディスプレイとして、映像が浮かび上がる。さびれた集落だ。蒼ざめた山を背景に、まばらな民家はどれも古びて灰色がかっている。そこを白いものがうっすらと覆っている。

「管理都市でないということは、外の環境にさらされているってことだよ。風雨、太陽光、気温も一日のなかで大きく変動する。冬になれば私たちのように薄着で外に出るわけにはいかないんだよ。白いのがわかるかい? 雪だよ」

「私もう小さい子じゃないんだよ」

 ふうかは雪を知識として知っている。学校で習うのだから。

「手を貸してごらん」

 母のてのひらに触れ、驚いたように離れる。

「つめたっ」

「それが雪の冷たさだよ。冬というのはそのくらい寒い。本来はね」

 母の指がまた空中を動く。雪が融け、草木が浅い緑に変わっていくさまが壁に投影された。

「これが春だよ。立春っていうのはね、その始まりなんだ。寒いところから暖かくなっていく始点の日ともいえるかな」

「たしかに、ここにはないものだよね」

 ふうかは眉を寄せて壁を睨んでいる。

「ね、もっと見てもいい?」

「もちろん」

 母は微笑んで新たな資料を供する。

 柔らかな緑が、旺盛な生命力が満ちる春の野山が無機質な壁を彩った。


* * *


 教室の大型ディスプレイに、子どもたちが思い思いの緑を置いていく。優しい色合いが重なればどことなく野原のような、山のような絵になる。

 仕上げは薄い青。都市の子どもたちが情報としてしか知らない空の色だ。


 いつも通り、中山エミは予鈴の五分前にドアを開けた。

 いっせいにみんなの顔が教室の入り口を向く。エミは目をみはっていた。それから、何度もまばたきをして。


「あ、笑った」

 呟きをこぼしたのはふうかだけではなかった。風のように、さざ波のようにまわりに広がり、あたりを満たす。

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