星の入東風[ほしのいりごち:初冬]

 天をめぐる星は時刻を、海中の星は守るべきデータを示す。俺たちは見渡す限りの夜に小舟を浮かべて警備にあたっていた。西の空にはすばる――プレアデス星団が沈もうとしているところだ。夜明けは近い。じきに交代が来る。さっきまで侵入者相手に小競り合いをしていたが、海も今は凪いでいた。大きく伸びをしてから息を吐く。


「終わったふうな顔じゃんか」

 俺の足元であぐらをかいていた由仁華ゆにかが舟べりをつかんで揺する。とっさに膝をついた。水面が波立つ音がした。

「やめろよ、落ちたらどうすんだ」

「どーもしないでしょうが。それとも何、この程度でコケるほど鈍臭いってこと?」

 落ちるべき海などないのは確かだった。さっきまで海中を飛び回っていた俺たちの髪には水の一滴もついていない。夢を見ているみたいなもんだ。俺の肉体はオフィスにある【動く部屋】で一人相撲を演じている。

 目の前の状況を作っているのは情報警備用没入型インターフェイス。データやネットワークや正常/不正なアクセスを感覚体験に置き換え、人間がセキュリティソフトの真似事を行うためのデバイスだ。ホームページひとつ作れない俺のような人間でも勘さえ良ければ仕事にできる。

 由仁華はまだ、真面目くさった顔でこっちを見ていた。

「嫌な風が吹いてる。荒れるかもよ」

 耳を澄ます。確かに、遠くで不穏なざわめきが起きている。

「でかいな。今日は残業か」

「お手柄だったらボーナスはずんでもらわないと」

「楽しそうだな、

「そりゃあね。こっちにいるほうが楽しいに決まってる」

 由仁華は肩をすくめた。彼女がこの仕事において有能なわけは、持って生まれた才と長いキャリアのほかにもう一つある。

 本来の身体がないことだ。厳密には、感覚の多くを喪っていること。


 バディを組むことになった初日、彼女は淡々と頸髄損傷による麻痺があると告げた。肩から下は無いも同然で、生活の自立のために脳神経インプラントを入れている、とも。

「感覚と運動能力を取り戻す治験をやってたんですけど、失敗しまして。おかげでインプラントの性能だけは良いもんですから、頭で機械を操るのは得意なんです。この仕事は天職だと思ってます。多くのかたと違って実在する肉体を思って手加減する必要もありませんし、得られる感覚の精度も桁違いですし」

「いいんですか、そんなプライベートな情報、初対面で」

「勝手にライバル視されて自滅されるよりマシですよ。バディ、ここんとこ半年も続いた事なくて」

 あのときの彼女はささくれた笑みを浮かべていた。ゴーグルやスーツ、可動床を用いてそれらしい体験を生んでいる俺と、脳に直接感覚を流し込める由仁華は違う。肉体を置き去りにできない俺たちは重力に、関節可動域に、現実に縛られる。非侵襲方式の限界と制約はあちこちにあった。

 その気になれば鳥にもなれる彼女を追うのはどだい無理だ。俺は俺で適したやり方を見つける必要がある。まがいなりに三年も組んでいるのは、こいつを肝に銘じているからだ。彼女について回るうちに俺も古参になりかけている。


 舟が揺れる。見れば、由仁華が軽やかに宙を漂っていた。広げた手足は風を読んでいるのだろうか。瞑った目が祈りのようだ。もっとも、彼女に敬虔さなど似合わないのだが。

「東か……おうおう、大胆だねぇ。壁越えまで一分もないな」

「行くか?」

「無論」

 泳ぐのとも走るのとも異なる動作で由仁華は空と海のあわいを翔ける。あまり遅れをとらぬよう、俺も舟底を蹴った。一歩で数メートルを飛んで海面を走る。自分もまた現実の法則には縛られていない。とはいえ。


「あれに憧れんのはわかるんだよなァ」


 由仁華が怠ったと思われる連絡を本部に入れつつぼやく。同僚の誰よりも不自由であろう彼女の現実を知らなければ、いや、知った上でも羨望は生じる。

 俺の視野の中心で、彼女は見せつけるように身をひるがえした。呼応して東の水平線が仄かな光を帯びる。夜明けだ。

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