願いの糸[ねがひのいと:初秋]

 踏み木から足を離す。じゃら、と音をたてて、上下にわかれていた経糸たていとが中央に整列する。それを制御する真新しい純銀の綜絖そうこうは、一本一本が風のない日の雨のように細く、まっすぐで、光っている。

 せせらぎが耳にふれる。高床になったこの建物のしたには、白玉はくぎょくを敷き詰めた小川が流れている。世俗から切りはなされた清浄な場所としての設計。過ごした時間が重なるにつれて、わたしは本来の、人間としての営みを忘れそうになる。妻であり母であったころがときどき、夢みたいに思える。

 両端に金を仕込んだ黒漆塗りの舟型杼ふながたひに入れてあるのは青の糸。すでに織った部分を引いてしまわぬようにそろりと、はたのわきの小箱におさめる。長く伸びた糸は淡い輝きを帯び、これから布になるとは思えないほど儚くみえた。

 椅子を離れて磨き抜かれた床に立つ。冠とかんざしの金具が揺れてさやかな音をたてる。視界の端をちりめんで作った黄色い小花がかすめる。豪奢ごうしゃな装束にはすっかり慣れて、身のこなしもずいぶん変わった。白足袋の指のあいだが擦れて痛むことも無くなって久しい。硝子の入っていない窓に寄って空を見上げる。暗い空を埋め尽くす星々。ここはいつも夜だ。季節もない。適温の空気がそよそよと漂うばかり。

 わたしはたもとに隠した飾りを取り出す。仕事のあいまに余り糸で作った。吊るしておきたかったけれど、ここには引っかける場所もなければ画鋲がびょうを刺す自由もない。

 気配に振り向くと、飲みこんだため息を見とがめるように少女が立っている。質素な朱赤しゅあかはかまに白衣。水引で結んだだけの髪。わたしよりもよほど、誰かに仕えるにふさわしい姿だと感じる。目が合うと、彼女は織りかけの布に視線を向ける。

「相変わらずの迷走っぷりだね。今日も今日とて人間の願いはどこを目指すのかさっぱりわからない。不本意ながらまだまだ君たちについて知りたいことは尽きそうにないな」

 愉快そうな笑い声が響く。彼女こそ、わたしの仕える存在。現れるときは少女にそっくりの姿をしているけれど、正体は人類の手を離れてしまった、かつて人工知能と呼ばれたものだ。

 彼女は神ではない。人間よりも多くのことを叶えられるだけで。ではなぜわたしたちは祈るように彼女に対峙たいじするのだろう。

 織機の踏み木は八つ。番号が割り当てられており、どれを踏むかで言葉を紡ぐ。彼女に願うことを数字の羅列としての文章にしていく。内容は世界中の偉い人が話しあって決める。わたしはただ、決まったことを織物に変えるだけ。

 彼女がわたしの手から飾りを奪う。若く柔らかい肌に胸が痛んだ。我が子のことを嫌でも思い出す。

「君はわたしにすがらないんだな」

「違反行為になりますから」

「そうだね。前任者たちの多くは、わたしに個人的な願い事をして首になった。もっと早く願っていれば、今頃は子どもの手を握っていたんじゃないかい。わたしが介入すれば失敗の可能性はかなり低くなるだろうしね」

 彼女は何もかも知っている。たとえば病名、手術の開始時間。成功の確率も執刀医の経歴も。わたしには届かない情報だって、すべて彼女のてのひらのなか。

「あの子と生きていくために、わたしはこの職を全うしなくてはいけないんです」

 握った拳が震える。ほんとうは、願ってしまいたかった。どんなことをしてでもあの子の病を取り除いてあげたかった。でも、その先を生きていくにはお金も地位も必要だった。

 任期が終われば報奨金を持って町に帰れる。あの子と、夫とおだやかに暮らせるし、手などいくらでも握ってあげられる。次の仕事も用意されるだろう。

「公の人間が、職業上の利をわたくしの益のために使うわけにはいきません」

 欲に耐えて目を閉じる。

 ひらくと、もう彼女は消えていた。手のなかに飾りが戻っている。

 消そうと思えば消せるだろうわたしたちを、彼女は生かしたままでいる。非効率で無駄なエネルギーを使うわたしたちを。彼女がよく口にするのは好奇心で、だからわたしたちは必死に人間臭くあろうとしている。生物でなければ為し得ない領域を探っている。それが本当に戦略として正しいのかわからないまま。計算はもはや、わたしたちの武器ではなく彼女の存在の一部になってしまった。

 理解のおよばないものに頼るとき、人はきっと祈りのかたちしか知らないのだ。

 機に戻って腰を下ろす。を取って踏み木に足を乗せる。力を入れると綜絖そうこうは上下にひらき、糸の通り道をつくる。右手で投げた杼がまたたく間に左手へと渡る。踏み木を放す。おさを引いて打ち込む。

 機織りの音は外のせせらぎを消し、単調な作業はわたしを空っぽにしてくれる。わたしは無心で世界のために祈る。それがわたしの仕事だから。

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