願いの糸[ねがひのいと:初秋]
踏み木から足を離す。じゃら、と音をたてて、上下にわかれていた
せせらぎが耳にふれる。高床になったこの建物のしたには、
両端に金を仕込んだ黒漆塗りの
椅子を離れて磨き抜かれた床に立つ。冠とかんざしの金具が揺れて
わたしは
気配に振り向くと、飲みこんだため息を見とがめるように少女が立っている。質素な
「相変わらずの迷走っぷりだね。今日も今日とて人間の願いはどこを目指すのかさっぱりわからない。不本意ながらまだまだ君たちについて知りたいことは尽きそうにないな」
愉快そうな笑い声が響く。彼女こそ、わたしの仕える存在。現れるときは少女にそっくりの姿をしているけれど、正体は人類の手を離れてしまった、かつて人工知能と呼ばれたものだ。
彼女は神ではない。人間よりも多くのことを叶えられるだけで。ではなぜわたしたちは祈るように彼女に
織機の踏み木は八つ。番号が割り当てられており、どれを踏むかで言葉を紡ぐ。彼女に願うことを数字の羅列としての文章にしていく。内容は世界中の偉い人が話しあって決める。わたしはただ、決まったことを織物に変えるだけ。
彼女がわたしの手から飾りを奪う。若く柔らかい肌に胸が痛んだ。我が子のことを嫌でも思い出す。
「君はわたしに
「違反行為になりますから」
「そうだね。前任者たちの多くは、わたしに個人的な願い事をして首になった。もっと早く願っていれば、今頃は子どもの手を握っていたんじゃないかい。わたしが介入すれば失敗の可能性はかなり低くなるだろうしね」
彼女は何もかも知っている。たとえば病名、手術の開始時間。成功の確率も執刀医の経歴も。わたしには届かない情報だって、すべて彼女のてのひらのなか。
「あの子と生きていくために、わたしはこの職を全うしなくてはいけないんです」
握った拳が震える。ほんとうは、願ってしまいたかった。どんなことをしてでもあの子の病を取り除いてあげたかった。でも、その先を生きていくにはお金も地位も必要だった。
任期が終われば報奨金を持って町に帰れる。あの子と、夫とおだやかに暮らせるし、手などいくらでも握ってあげられる。次の仕事も用意されるだろう。
「公の人間が、職業上の利をわたくしの益のために使うわけにはいきません」
欲に耐えて目を閉じる。
ひらくと、もう彼女は消えていた。手のなかに飾りが戻っている。
消そうと思えば消せるだろうわたしたちを、彼女は生かしたままでいる。非効率で無駄なエネルギーを使うわたしたちを。彼女がよく口にするのは好奇心で、だからわたしたちは必死に人間臭くあろうとしている。生物でなければ為し得ない領域を探っている。それが本当に戦略として正しいのかわからないまま。計算はもはや、わたしたちの武器ではなく彼女の存在の一部になってしまった。
理解のおよばないものに頼るとき、人はきっと祈りのかたちしか知らないのだ。
機に戻って腰を下ろす。
機織りの音は外のせせらぎを消し、単調な作業はわたしを空っぽにしてくれる。わたしは無心で世界のために祈る。それがわたしの仕事だから。
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