空中ブランコ乗りのピピ

山口じゅり@9/26『聖森聖女』3巻発売

空中ブランコ乗りのピピ


ピピの父親は、金星サーカスの空中ブランコ乗りでした。


子どもの頃、ピピはサーカスのテントでブランコの練習をする父親を、いつまでも見ていたものでした。

その日もピピの父親は、とびきり美しい二回宙返りを決めると、ブランコからピピのところに降りてきました。

父さんすごい、とはしゃぐピピの言葉に、父親は首を振って小さく微笑みました。


「ピピ、いつか隣町にきたサーカス団にな、キキって言う三回宙返りの名手がいたんだ」

「本当? 三回宙返りができるブランコ乗りなんて、私、きいたことない」

「本当だとも、俺も昔この目で見たんだ。それは素晴らしい三回宙返りでな、まるで鳥みたいだった」

「私も見たい!」

「ああ、いつか見られるさ。またキキのサーカスはやってくるだろうから」


父親の言葉に、ピピは嬉しそうに笑いました。




ピピが三回宙返りを見ることができたのは、それからずっとたってからのことでした。

キキのいるサーカスは世界中を回って、ようやくまた隣町に戻ってきたのです。

その時にはピピはもう、父親と同じように、金星サーカスの空中ブランコ乗りになっていました。


『空中ブランコ乗りのキキ、空前絶後の三回宙返り、世界でたった一人の妙技』


そんな宣伝文句が隣町のあちこちに張り出され、キキのサーカスのテントは、毎日町中の人々でぎっしり満員でした。

みんなキキの三回宙返りを、まだかまだかと待っているのです。もちろんピピも、恋人のルルと一緒に、満員のテントの中、猛獣使いのショーやアクロバットを眺めながら、キキの出番を待っていました。


ようやく、待ちに待った空中ブランコが始まりました。白い衣装に身を包んだキキが現れ、音楽と共に、するすると縄梯子を登っていきます。ピピとさして年の変わらないように見える若者は、右手を大きく上げると、ブランコを掴んで一気に空中に滑り出しました。


一回転、二回転とキキの体が、軽やかに空中を滑ります。そうして、キキはヒョウのように体を弾ませ、軽々と三回目の宙返りをきめると、たっぷりの余裕をもたせて、次のブランコを掴んだのでした。

おお……というテントを揺るがすどよめき、次の瞬間割れんばかりの歓声と拍手が、テントいっぱいに広がりました。それはまるで激しい波のようで、ピピがぼうっとなるほどでした。


「素敵……」

うっとりしたように、ピピはつぶやきました。

「ああ、私もいつかあんな風に飛びたい」

「君なら、きっとできるさ」

大歓声の中、隣のルルが微笑みました。

「僕がどこまでも付き合うよ」




それ以来、ピピは金星サーカスのテントの中で、何度も何度も三回宙返りを練習しました。しかし、どうしても最後のところで、ペアのルルの手を掴めずに、安全網の上に落ちてしまうのです。

「まだ続ける?」

ピピの手をつかみ損ねたルルが、網の上で揺れているピピに聞きました。

「もちろんよ」

「僕はピピの二回宙返りだって、素晴らしいと思うんだけど」

「私は三回宙返りが飛びたいの」

ピピは怒ったように言いました。

「あんなに素晴らしいもの、私は今まで見たことがなかった」

「僕はね、ピピが僕のそばにいてくれるってことのほうが、よっぽど素晴らしいと思うんだけど」

ピピは難しい顔をすると、ルルの言葉を聞こえないふりをして、自分の長いしなやかな腕を撫でました。

「どうして飛べないのかな、あと一歩なのに」

ピピのつぶやきに、ルルは笑いながらピピの手を取って言いました。

「ピピ、そんな真剣に思い悩まないで、きっと僕の愛の力が足りないせいなんだよ」

「ペアのあなたが真剣じゃないから、成功するものも成功しないんじゃない」

ほらもう一回、とピピはむっとした顔で言いました。もちろんどこまでも付き合うよ、とルルは笑いました。




数か月後、金星サーカスのテント一杯に詰め込まれた観客は、今まで無かったほどの大きな大きな拍手でピピを迎えました。

演目を終えたピピは、ブランコの上で、ルルと抱きしめあいました。

「キキが鳥なら、君はまるで蝶だった!」

「ついにやった!」

ピピの目はうるんでいました。

おめでとう、おめでとうという大歓声と熱狂がテントの中に満ちていました。


そう、この日、ついにピピは、ルルと一緒に、三回宙返りを成功させたのです。

ピピは三回宙返りの新たなるスター、キキに勝るとも劣らない金星サーカスの蝶、そんな風に書きたてた新聞を載せて、定期船が街々へと運ばれていきました。




その翌日のことでした。朝から金星サーカスのテントは、変にざわめいていました。ピピは、なんだかおかしいと思いながらも、朝一番の練習をするために、ルルのところへと向かいました。

ルルの手には、朝はやくに定期船が届けた新聞が握られていました。


『三回宙返りのスター、キキ。伝説の四回宙返りを飛ぶ』


新聞に踊る見出しを見た瞬間、ピピは新聞を床に投げつけ、引き留めようとするルルを突き飛ばすと、テントを飛び出していきました。



ピピがたどり着いた先は、町の港でした。

ピピは波止場の塀にもたれて座り込むと、昼になっても、夕方になっても、そこから動くことができませんでした。


冷たい潮風がピピの頬をなでていきます。気が付けば、あたりはもう真っ暗でした。遠くに、金星サーカスのにぎやかな灯りが、赤く青く、ぴかぴかと瞬いています。

ピピはその灯りから目を背けて下を向くと、ただぼんやりとしていました。


「金星サーカスのピピだね」

すぐそばでしわがれた声が聞こえて、ピピは顔を上げました。そこには痩せた、何とも言えない奇妙なおばあさんが立っているのでした。

「ええ、よくわかりましたね」

「この町で、あんたのことを知らない者はいないさ。キキに並ぶ三回宙返りのスターだってね」

ピピは押し黙ったままでした。

「今朝の新聞を見たかね?」

「ええ」

「これからは、お前さんが何回三回宙返りを飛んだところで、皆キキの四回宙返りの噂ばかりするんだろうね」

ピピは立ち上がり、おばあさんをぎゅっとにらみました。

「あんないかさま!」

ピピは叫ぶと、一気にまくしたてました。

「私にはわかる。これでも何度も何度もブランコで飛んだわ!

どんな天才だって、人間に四回宙返りなんかできない。せいぜい頑張って三回半がぎりぎりよ。

キキだって、四回宙返りなんか飛べるわけない。あれはきっと、いかさまよ、悪魔に魂を売るくらいでなきゃ、四回宙返りなんか飛べるわけない。

あんなインチキ、キキは卑怯者よ!」

「お客はインチキか本当かなんて、どちらだっていいのさ。飛んだか、飛ばないか、ただそれだけの話でね」

おばあさんは、静かにそういいました。

ピピは唇をかみしめると、海の方を見つめて、しばらく黙っていました。

「私、帰ります」

ピピは言いました。

「お待ち」

ピピは立ち止まりました。

「お前さん、次は四回宙返りをするつもりかい?」

「……」

「お前にとっては、三回半だって命がけだ」

ピピは振り返り、おばあさんをまっすぐに見ました。

「それでも飛ぶわ」

おばあさんはピピをしばらく黙って見つめると、とうとう口を開きました。

「そこまで考えているなら、お前さんに四回宙返りをやらせてあげよう」

おばあさんは懐から、澄んだ青い水の入った小瓶を取り出しました。

「これを、やる前にお飲み。でもいいかね、一度しかできないよ、一度やって天下のキキに並び称される名誉を手にして、それで終わりさ。

それでもいいなら、おやり」




あくる日、ピピは顔色を変えて止める団長さんやペアのルルの反対を押し切って、次の公演で四回宙返りをやると決めてしまいました。誰が何を言っても、ピピの決意は変わりません。

「絶対に大丈夫なんです。私には秘策があるんですから」

ピピはそういうと、不敵に笑うのです。


次の公演日はあっという間にやってきました。金星サーカスのテントは、今までにないくらいの賑わいで、町中のお客さんがきているようでした。

それもそのはず、三回宙返りの名手キキは、四回宙返りを飛んだ日以来、ずっと行方知れずになっていました。そう、今や三回宙返りを飛べるスターは、ピピ一人だけ。それに、キキが行方知れずになってしまったことで、ライバルだったピピの芸のことも、余計に人々の間で、噂になっていたのでした。


「ピピ、今のままのピピで、僕は立派だと思うよ」

サーカスが始まる前、化粧をするピピに、ルルは必死に言いました。

「君の努力はみんな知っている。四回宙返りなんか飛ばなくったって、ピピのその姿に、お客さんは心を動かされるよ」

「立派だからなんだっていうの? ルルに私の何が分かるっていうのよ」

ピピは黄金の蝶々の、鱗粉のようなアイシャドウを塗りながら言いました。

「たった一時で、名誉を失った私の苦しみが、あなたにわかる? ここで飛ばなかったら、私は一生、キキほどの名声を手にすることはないの」

「名声が、拍手の量が、君を決めるのか? そうじゃないだろう。秘策なんかないこと、僕にはわかるよ、もし本番で君が落ちてしまったら、」

「私は落ちないわ!」

ピピの剣幕に、ルルは黙ってうつむきました。

そうして、肩を落としたルルの頬に一筋、涙が伝いました。生まれて初めて、二人は喧嘩をしたのでした。



その日の金星サーカスの公演は、これまで見たこともないほど多くのお客さんが、テントを埋め尽くしていました。

曲芸師、猛獣使い、ライオンにトラたちが芸を披露し、ピエロがお客さんたちをどっと笑わせます。そうして、ついに金星サーカスの目玉、ピピとルルの空中ブランコが始まりました。

音楽が高らかになって、二人は並んでステージの真ん中で深く大きな礼をしました。そして、めいっぱい両手を上げ、華やかに笑顔をふりまきます。スポットライトに照らされながら、ピピはルルにだけ聞こえる小さな声で言いました。

「……私が手を一回振ったら三回宙返り、二回振ったら三回転半、そして三回振ったら四回宙返り」

聞こえたのか聞こえていないのか、ルルはお客さんの方を向いて微笑んだまま、反対側の縄梯子に向かっていきました。

ピピも反対側の縄梯子に向かい、ブランコまでするすると登っていくと、お客さんに向かって大きく手を上げました。


ライトに照らされて、色とりどりの衣装に縁取られ、赤い口紅を差したピピの立ち姿は、美しいアゲハ蝶のようでした。いっぱいの観客たちは、ピピの決意が伝わったかのように、ただもうしんと静まり返っていました。

ピピは観客を見渡すと、手の中に納まっている、小さな小瓶を見つめました。

これを飲んだらキキに並ぶことができる、とピピは思いました。

あのおばあさんも、今日のテントで、私のこと、みているのかしら?

向こうで、ペアのルルが、心配そうにピピを見つめています。ずるして飛んで、ルルは喜ぶだろうか、とピピはふと思いました。さっき喧嘩をしたときの横顔、泣いているルルの面影が浮かびました。

ピピは瓶には口をつけず、そのまま、サーカスのテントの小窓に、ぽーんと放り投げました。小瓶が弧を描いて消えていくのを認めると、ピピはゆっくりと足を踏み出し、観客に手を振りました。一回、二回、そして、三回。



観客たちは、ピピがブランコの上で、三度手を振るのを見ました。

息をつめた静寂を破るように、ブランコを掴んだピピの細い体が、空中に滑り出しました。勢いよくぽーんと高く跳ね上がって一回転、そして女鹿が跳ねるように飛び上がって二回転、またひらりと滑り出すや蝶のように三回転。


そしてピピはすばやく手足を縮こませ、ぐっと体を伸ばしました。


観客は息をのみました。

ぎりぎりにも見える一回転、ピピの手が伸び、もがくように空中をかきました。


ペアのルルがちぎれそうなほど手を伸ばし、一瞬、ピピの手は滑り落ちたように見えました。

しかし、ルルはそのまましっかりピピの手を捕まえると、空中高く、大きな弧を描いて、ピピを引き上げていきました。



観客の拍手が、割れるように響いていました。


『三回転半……今宵絶世の芸……』


団長さんのアナウンスが、途切れ途切れに聞こえてきます。

いつの間にか、サーカス中の観客が立ち上がり、ピピに拍手を送っていました。

「君が死んじゃうかと思った」

やっぱりルルは泣いていて、泣きながらピピを抱きしめました。

「私をつかんだ時のルルの顔、あんな青い顔初めて見た」

ピピはくすくす笑いました。

「私が本番で失敗したことなんて、一度だってなかったじゃない」

「それは、僕がいつもピピを捕まえてるからじゃないか」

ルルはほんの少し微笑みました。

ピピもちょっと笑って、ルルを抱きしめ返すと、彼の唇に小さくキスをしました。


拍手の波は、いつまでもいつまでも、鳴り止まずに金星サーカスのテントの中を覆っていました。


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