第20話 先生と、私。

「ご苦労だったね」


 講堂を出てすぐ。

 椎名先生に声を掛けられた。


「いい発表だったよ。視線恐怖、醜形恐怖か。何だか若い頃を思い出したな」


 私が首を傾げると、椎名先生は恥ずかしそうに笑った。


「私も若い頃、人の目線が気になる時期があってね。あの時は、他人の存在が地獄のように思えた」


 ――地獄とは、他人のことだ。


『まなざしの心理学』の引用を思い出す。地獄とは、他人のことだ。自分に対する美意識の高まりのせいで他人の目を異常に気にしていた乱歩からすれば、他人はやはり、地獄だったのだろうか。


「大学院に進んでも、その調子で頼む」


 椎名先生に優しく肩を叩かれる。私は、嬉しかった。だからはっきり頷いた。

「……はい!」


「君の発表もよかったと思うよ。お疲れ様だったね」

 椎名先生は里見にも声を掛ける。里見は笑って応えた。

「ありがとうございます」


 椎名先生はふと、私の背後、遠くの方に視線を投げた。


「……君にお客さんのようだ」

 そう、私に告げる。それから黙って一礼すると、私の前から去っていった。私は椎名先生の見ていた方を見た。


「よう」


 人混みの中。

 雑踏で、そんな小さな声、聞こえる訳ないじゃん、と思ったけど、しっかりと、彼の声は私の耳に届いた。


「名木橋先生……!」


 私は駆け寄る。

「発表、聞きに来てくれたんですか」


「関係者以外立ち入り禁止だったから、正確に言うとちゃんと聞けてはいない」

 名木橋先生は悪びれもせずそう告げる。

「けれど、昼休み過ぎくらいに、大きな拍手があったな。あれ、君か」

 嬉しくなって私は答える。

「はい!」


 すると先生は、すっと私の髪に、手を伸ばした。

 ごわごわになった髪。

 すっかり傷んで、かわいげも何もあったもんじゃない髪を、先生は、愛おしそうに触った。


「君は、いい学者になった」

 じっと、目を覗き込まれる。まなざし。それがどういう意味を持つのか、今の私なら、分かった。

「立派だったぞ」


「せんせぇ……」

 嬉しくて、嬉しくて、涙が出そうになる。

 発表を褒めてもらえたこともそうだけど、あの先生に、あの名木橋明准教授に、触れてもらえている事実が、私を昂らせた。


 それなのに、先生はなおも、私を褒め続けた。

「誇りに思う」

「もお……やめてくださいい……」

「私が人を褒めることなんて滅多にないんだ。受け取っておけ」

「でも、でも、だって、先生には……」

 恋人が……。という言葉を、一生懸命飲み込む。


 すると先生が、黙って私を、抱き締めた。


 遠くの方で、里見が「きゃー」と言わんばかりの顔をしているのが、見えた。


「……駄目です、先生」

 私は体を引き剝がす。

「先生、恋人、いるでしょ?」

 さっきは飲み込んだ言葉を、今度ははっきりと吐き出す。すると先生は首を傾げた。「何の話だ?」


 しらばっくれる? 私は先生に向かって険し目に言葉を続けた。

「あかりさん」

 別れたんですか? と続ける。すると先生は、「あっはっは」と大きく笑った。

「あれは四つ年の離れた妹だ。恋人じゃない」

 えっ。私は硬直する。先生は繰り返す。


「あれは妹だ。恋人じゃない。この大学の院生で、今は私の研究の手伝いをしている」

「妹さん?」

 そう言われてみれば、と思い出す。あの目、あの口、どこか先生と、似ている。絶世の美女なのも、先生の妹だから、と言われれば頷ける。


「あいつ、俺のことが大好きだからな……ブラコンめ」

 先生はうんざりしたような顔をする。

「まぁ、誤解はされても仕方がないな」


「明、に、あかり、ですか?」

 私は笑って訊ねる。先生も一緒になって笑う。

「親もセンスがないだろ?」


 それから先生は、不意に私の体を離すと、続けた。


「今のはハグだ。欧米じゃ、普通にやることだぞ。新愛を込めてな」

 まぁ、私からのサービスだ。本来、有料だ。そう、笑う。


「君は研究を頑張ったからな。同じ学者として、新愛を込めた」

 私は、両腕で自分の体を抱きかかえる。

 先生の手。先生の腕。その感触が、今でもはっきり、私の腕に、私の肩に、私の体に、残っていた。

 それはいつかの夜、私が求めた感触だった。固くて、強くて、たくましい。私にはない感触だった。


「先生」

 彼のことを呼んだ。しかし続ける言葉に、私は困った。

 好きです。大好きです。そう言おうか、一瞬迷った。

 目線が泳ぐ。

 しかし私は意を決すると、はっきり、先生を見つめた。


「……ありがとうございます!」

 愛の告白は、今は飲み込むことにした。

 それはいつか、大切な時が来た時にとっておこう。そう、思ったからだ。


「また心理学部棟に遊びに来い」

 先生は背中を向けた。

「いつでも、待ってる」

「はい……!」


 風が吹いた。それはとても冷えた風だったが、火照った私の頬には心地よく冷たかった。髪がなびく。私は指で髪の毛を押さえながら、小さくなっていく先生の背中を見つめていた。


 いつか、私も、先生みたいな学者になろう。

 そう、決心した。



「結婚生活はどう?」

 私は、里見に訊いた。彼女はベージュのカットソーにデニム姿。

 私は、お気に入りの赤のワンピースを着ていた。


 私の質問に、里見は笑って応える。

「最&高」

 毎日ハグして寝てる。


 それはそれは。


「お熱いこと」

 私はコーヒーを淹れる。取り出すお菓子は……ティムタムだ。


 私の、研究室。

 まだ博士課程で、個室は割り振ってもらえないから、他の研究者との共同研究室である。けれど応接間くらいはあるので、私は里見を、その応接間で歓迎した。


「すごいねぇ。あんたが文学博士」

 里見が笑う。お互い、二五歳。四捨五入すれば三〇だねー、なんて自虐をするようになった。


「研究は? 楽しい?」

 里見に訊かれて私は頷く。

「すっごく!」

「いいなぁ」

 羨望のまなざしが私に向けられる。私も新愛を込めた目線を返す。


「あんただって、いい旦那さん持てて、羨ましいよ」

「そう?」里見は笑う。「もっと褒めて。仕事も順調なんだよー」


 どうやら里見は、この歳にして既に副編集長をやるようになったらしい。大抜擢だ、とのことだ。


 バリバリのキャリアウーマン。

 それはかつて、私が憧れたものだった。里見のような人生も、と考える。ありだっただろうな。でも私には、こっちしかなかった。そうも思える。


 里見が好奇のまなざしで研究室内を見つめる。

 私の研究室は本で溢れている。多分、雑誌の編集者をやっている里見からしたら、その光景はあまり珍しくはないだろう。

 でも、彼女は私のデスクを面白そうに見て、つぶやいた。

「……何で頭蓋骨があんの?」

 

 トムのことだ。

「あ、あれはちょっと……」と、頭を掻いた私の左手を、里見は見逃さなかった。


「ちょっとあんた!」

 里見が、びっくりした目を向けてくる。

「えへへ」

 私は、照れた笑いを里見に返す。


 顔、赤くなってないかな。

 なっててもいっか。そんなことを思う。


「何よ、それ!」

 私は両手を隠す。それから、目線を一度床に伏せると、答えた。

「ナイショ」


 了

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乱歩のまなざし 飯田太朗 @taroIda

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