第二章(4)

 その夜、私は寮の私室で今までの授業の復習を行っていた。

 寮は科毎に棟が分かれており、棟の中でも男女で階が違う。私の居るアステリアの女子寮は、植物園がよく見渡せる三階に位置していた。二階がアステリアの男子寮で、一階はアステリアの科の生徒が自由に使える共有空間だ。

 魔法香が混ざると何かと不便が生じるために、部屋は一人部屋だ。広々としているとは言いがたいが、ベッドと机、本棚やクローゼットを置けるくらいの余裕はあり、不自由なく暮らせる素敵な部屋だった。しかも各部屋には小さなバルコニーがついていて、いつでもすぐに外の空気を吸うことができる。

 一人が寂しい人もいるだろうが、私はとても安らいでいた。双塔と違って隣にルグがいないというのもすがすがしい。勉強だって、人の影がちらつかないほうが集中できる性質なので、ありがたいことばかりだ。

 軽く伸びをして、たった今まとめたばかりのノートを見返してみる。少し開けた窓から、爽やかな夜風が吹き込んできてページをめくろうとしていた。

 入学してまだ二週間程度なのでそれほど難しい内容はないが、基礎はしっかり学んでおくに越したことはない。授業中に書き付けた板書のメモを──ノートの隅に書かれている「香りだけの再来のくせに」という陰口には気づかないふりをして──本を読みながら嚙み砕いてまとめる作業を日々欠かさなかった。

 それもこれも、フォルトゥナの試験でユリシーズの双子に勝つためだ。

 フォルトゥナの試験はあと三か月程度で行われるわけなのだが、試験範囲はそれまでに行った全授業が対象だ。

 試験は全三日間の大掛かりなもので、二日間に及ぶ筆記の試験を終えた後、最終日には、学園全体を使っての最終課題が行われる。

 最終課題は、各オルコス同士で戦う実践的な総合演習だ。

 その概要は、簡単に言えばリボンの争奪戦だ。アステリアの生徒の手首にあらかじめ巻き付けておいたリボンを、各オルコス同士で奪い合う。リボンは魔法さえ使っていれば、どのような方法で奪っても構わない。学園全体を使って隠れたり逃げたりしながら、争奪戦を繰り広げるのだ。

 リボンを解かれたオルコスは脱落し、最後まで残った一組が優勝する。最終課題の点数がどれくらいなのかは明らかにされていないが、フォルトゥナの試験の最優秀オルコスはこの総合演習で優勝していることがほとんどらしい。

 これだけを聞けば、まるで遊びのような内容であるし、筆記の試験を終えた解放感から実際に遊び半分に取り組む生徒もいるらしいが、私はなかなか奥が深い試験だと踏んでいる。

 戦場では、どうしても攻撃に特化しているエルリクの魔術師が独走しがちだ。自身が傷つくことをいとわなければ、どこまででも暴走できる。だが、攻撃にまつわる魔法を持たないアステリアの魔術師はそうはいかない。

 おそらくこの試験では、アステリアの生徒にリボンをつけることによって、エルリクの魔術師がアステリアの魔術師を守り、アステリアの魔術師もまたエルリクの魔術師を回復させながら、互いに協調しあって戦うという基本中の基本を試されているのだと思う。当然ながら、ユリシーズの双子もこの狙いには気づいているはずだ。

 とはいえ、彼らは別に問題ないだろう。もともと相性がよさそうだし、何より二人とも試験に乗り気だ。

 問題なのは、ルグと私だった。私はどうしてもアルと暮らした家に行きたいので、双子を打ち負かしてご褒美を勝ち取りたいのだが、ルグはどうも試験に対して消極的だ。

 日頃の授業はどこか退屈そうに受けているし、今日の「魔法医学」の時間に至っては「壊せば同じなんだから、人間の体の仕組みなんてどうでもいい」などとのたまって、あろうことか机に伏して眠っていたのだ。こんな不真面目な生徒がいていいのだろうか。

 どうしたらルグは試験に乗り気になってくれるだろう。一人きりの私室の中、机に向かったままぼんやりと考え込んだ。

 ルグは、アルと暮らしたあの家に行きたくないようだった。暴走の結果とはいえ、彼なりにアルをあやめたことについては思うところがあるのかもしれない。

 机の上に置いてあった星屑のかけらの袋を少しだけ開けて、中から一粒取り出し、口の中に放り込む。砂糖の甘さが口いっぱいに広がった。

 ご褒美が試験に積極的になる動機になりえないのならば、別の何かを考えるしかない。明日にでもルグと話してみる必要がありそうだ。

 また一粒星屑のかけらを取り出して、かり、と小さく齧りついた。ぱらぱらと黄色の砂糖が机の上に散る。

 星屑のかけらは、魔法使いが死の間際に流す「最期の涙」を模して作られたお菓子だ。魔力を持った人間が人生を終える瞬間に、その人の魔力と同じ香りの涙が一粒流れ、結晶化するのだと言う。これには故人の魔力の一部が宿るとされ、まるで星屑のようなその結晶は透き通るように美しいのだ。最期の涙は、故人のゆかりの品として教会などに納められるのが習わしだった。

 アルの最期の涙は、見つからなかった。アルを慕っていた私に配慮してなのか、彼の遺体がどのような様子であったかは誰も教えてくれなかったが、最期の涙すら残らないような悲惨な壊れ方をしていたのだろう。

 それでもひょっとしたら、あの家のどこかに転がっていたりするかもしれない。アルの魔力の香りと同じ、最期の涙が──。

 と、そこまで考えて、どくんと心臓が跳ねた気がした。口の中で鈍い音を立てて星屑のかけらが割れる。

 ……あれ、アルの魔力って、どんな香りだったっけ。

 口の中を転がっていた星屑のかけらが、じゅわっと溶けた。でも、甘さを感じない。それくらい、アルの魔法香を忘れてしまったことが衝撃的だった。

 アルとは七歳のころに出会ってから、十三歳で死別するまで、実に六年近い時を共に過ごしていたのだ。彼の魔法香は一生忘れないと思っていたのに。

 思わず、テーブルの上の紙をぐしゃりと握りつぶした。思い出そうと頑張ってみても、蘇るのは血の臭いと忌々しいペパーミントの香りばかりだ。

 ……アルだけでなく、アルの香りまで私から奪うなんて。

 それは半ば言いがかりにも等しい怒りなのかもしれない。それでも私は、ルグを恨まずにはいられなかった。

 これ以上、何も奪われたくない。もう何一つとして彼にくれてやるものか。

 久しぶりにルグへの憎悪に心を染めながら、開いていた本を閉じた。表紙に書かれた「あの方たちの邪魔をするな」という子どもじみた文句に手をかざして、片手間に魔法でインクを吸い取る。どういう気持ちで誰が書いたのかはよくわからないが、どうやら私が同級生たちから嫌われているのは確かなようだ。

 やはりこの香りが悪目立ちしているのだろう。もしも私の魔法香がありふれたものだったら、みんなに上手く溶け込むことができたのだろうか。

 落書きを消した際に使った魔法の名残が香る。吐き気のするほど甘い蜂蜜の香りだ。

 ルグの血でも浴びれば、この香りも薄れてくれるのだろうか。なんて考えて、自嘲気味な笑みが零れた。

 いっそ、アルを失ったあのときに「ルグ兄様」のことなんて忘れてしまえたらよかった。そうしたら、私は何の躊躇いもなく、彼に復讐できたのに。

 割り切れないこの心を忌々しく思いながら、溜息と共に私室の照明を落とした。

 夜の闇は、どうしたってルグの髪色を思い起こさせる。眠りに落ちるその瞬間まで、今夜も彼から逃れられないような息苦しさを味わうのだった。


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