第二章(5)

「えー、我々の生活を豊かにしてくれる魔法じゃが、いくつか禁術と呼ばれる触れてはならない禁忌がある。ここにいる皆さんならね、もう知っていると思うから、まあ、簡単に説明しておしまいにしようかね」


 翌日。午後の最初の授業はこともあろうに「魔法倫理」の時間だった。

 この科目の担当のルノワール先生は小柄な老人で、淡々としたしやべり方をする。纏っている外套は黒だからエルリクの魔術師なのだろうが、本人からは何かを壊したりするような激しさはまったく感じられない。

 良く言えば穏やかな人なのだが、悪く言えば倫理という科目も相まって、眠気を誘う先生だった。

 しかも今は昼食後。講義室内を見渡せば、ちらほらと机に伏したり、船をこいでいる生徒が見受けられる。流石にユリシーズの双子は起きているが、心なしか弟のノイシュは眠そうだ。先ほどから何度も眼鏡を外しては、目をこすったり大袈裟なまばたきをしたりを繰り返している。

 春真っ盛りの暖かさもあって、今日は絶好のお昼寝日和だ。フォルトゥナの試験で優秀な成績を収めるためには、どんなに眠い授業もさぼるわけにはいかないので頑張ってノートをとっているが、私も欠伸あくびを嚙み殺してばかりいた。

 こんな状況では当然ルグは眠っているだろう。今日も今日とて私の傍に座った彼をちらりと見やる。

 すると、意外なことに彼は瞼を開けていたのだ。

 体勢こそ机に伏すような形で崩れているが、黒髪の間から確かに鮮やかな緑の瞳が覗いている。それも眠そうな目ではなく、むしろ教壇の方を睨みつけるような鋭さを伴っていた。


「まずは第三級禁術から……あー、ここ試験に出るからね。まあ、書けなかったからといって落としたりはせんが、魔術師としてはね、知っといたほうがいいんじゃないかね」


 試験に出るという言葉に、まどろみはざにいた生徒の何人かがぴくりと体を揺らした。覚醒魔法よりよっぽど魔法じみた言葉である。


「第三級禁術は、ま、端的に言えば記憶操作の魔法じゃの。エルリクの魔法使いが対象とする部分の記憶を破壊し、アステリアの魔法使いが記憶に不自然な点が生まれないよう調整するのが主流と言えるかね。禁術と名はついておるが、これは場合によっては許可されることもある」

「場合によっては、とは、病や守秘義務の生じる職務に就いたときですか?」


 手を挙げて凜とした声で確認するのはグレースだ。眠気とは無縁の爽やかな顔をしている。

 ルノワール先生はグレースをちらりと見つめたが、大した興味を示すこともなく手もとの本に視線を戻した。


「ま、そういうことじゃの」


 この先生は、あまり生徒に興味がなさそうだ。この様子では、ユリシーズの双子が魔術師長夫妻の子どもだということにも気づいていないのではないだろうか。

 グレースもまたそれを気にする素振りも見せず、まっすぐに姿勢を正して黒板に向き合っている。非の打ちどころのない優等生然とした姿だ。


「第二級禁術はかいらいの魔法と呼ばれるものじゃの。自身の魔法香を他人に強制的に纏わせて、文字通り他人を操り人形にする魔法じゃ。ま、これには相当な魔力が必要じゃから、そんなことができるほどの魔法使いはめったにいないがね。現存では魔術師長とうちの学園長くらいじゃないかの」


 その言葉に、起きていた生徒たちの何人かがわっと声を上げた。ユリシーズの双子をたたえているようだ。「流石ですわ」という賞賛の声が聞こえてくる。


「共鳴魔法についてはリネット先生のところでやったかの? 似たような香りを持つ魔法使い同士で同時に魔法を使うと、まれに魔力が共鳴して強大な威力を発揮するというあれじゃ」


 同じような説明を、ついこの間リネット先生から聞いたばかりだ。復習は抜かりなく行っていたので、二度目の説明はすんなりと理解できた。


「似たような香りということはつまり、共鳴魔法を使える二人の条件は、通常であれば当然ながら同じ属性の魔法使い同士に限られるわけじゃが……傀儡魔法を使えば、属性をまたいだ共鳴も可能になる」


 先生が宙に浮かせたチョークで棒人間を二人、黒板に書き付ける。


「例えばラベンダーの香りを持つエルリクの魔法使いが、林檎の香りのアステリアの魔法使いに傀儡魔法をかけたとする。傀儡魔法によって当然魔法香を帯びるわけじゃから、一時的にではあるが、魔法をかけられたこのアステリアの魔法使いは、林檎とラベンダーの香りを持つ魔法使いになるわけじゃな。この状態で魔法を発動すると、ラベンダーの香りが共鳴して、属性をまたいだ共鳴魔法が発動することがある」


 かつかつと音を立てながら説明を書き記していたチョークが動きを止める。


「属性をまたいだ共鳴魔法は大変危険じゃ。有名な事例では、『ティレシアの操り人形』という事件があっての……。遠い昔、ティレシアという町で、あるエルリクの魔術師が婚約者のアステリアの魔術師に傀儡の魔法をかけ、婚約者と通じていた男へのふくしゆうを企てたのじゃ。魔術師は操り人形となった婚約者の手で男を殺させることで、自分を裏切った二人への復讐を果たそうとしたのじゃが……このとき、魔術師と婚約者の魔法が共鳴しての。町の半分が吹き飛んで、数十名の死者が出たそうじゃ。もちろん、当事者の三人も命を落とし……その遺体は原形がわからないほどに損壊していたという」


 長くなったと思ったのか、先生は軽くせきばらいしてから第二級禁術をまとめた。


「まあ、この事件からも、属性をまたいだ共鳴魔法は大変危険なものだということがわかったじゃろ。これはほんの一例であって、もっと残酷なことが起こっても不思議はない。傀儡魔法が禁止されている訳はわかったかの?」


 人を操り人形にするなんて人道的ではないから、という単純な理由だけではなかったのか。この事件は知らなかった、と慌てて板書をノートに書き留める。

 ルグはノートを取ることはしていないようだったが、相変わらず黒板を睨んでいた。先ほどよりももっと表情が険しくなっている気がする。


「そして、最大の禁忌、第一級禁術」


 先生の声が、真剣味を帯びた気がした。これから魔法使いの最大の禁忌について話そうとしているのだから、それも当然なのかもしれない。起きている生徒もそれを感じ取ったのか、一瞬、眠っている生徒の寝息が聞こえるほどの静寂に包まれた。


「これは、魔法使いが死の間際に流した最期の涙を、生きている別の魔法使いに埋め込む術じゃ。個人の尊厳を損なうという観点から、到底許されるようなことではない。……それ以上のことは、教えてはならんことになっている」


 最期の涙には、故人の魔力の一部が宿る。それを他人に埋め込むと、どんなことが起こるのか想像もつかなかった。

 実際、何が起こるのかは誰にもわからないのかもしれない。ただ、恐ろしいことであるのは確かで、見つかればまず処刑は免れないような非人道的な魔法だった。


「……ま、以上三つの禁術について簡単に説明できるようになっとれば、この分野は満点近く取れるじゃろうの。今日はここまで」


 鐘が鳴る前に終わりを告げた先生は、荷物をまとめるとさっさと講義室から出て行ってしまった。黒板には、先生が書いたいびつな棒人間が残されている。

 チョークはしばらく宙に浮いていて、先生が遠く離れたのを機に床に落ちて割れた。講義室内には不思議な沈黙が満ちていたが、次第に机にせていた生徒たちが、何やら小声で話し始め、徐々にその緊張感は和らいでいった。

 禁術なんて、まともに生きていれば出合うこともないだろう。魔術師を取り締まる役目を担う双塔の魔術師だって、年に数例出合うか否かだとロイドさんから聞いたことがある。

 しかもそれはたいてい第三級禁術だ。第三級禁術は可逆的であり、双塔の魔術師であれば記憶を復元することも可能なのだ。

 第一級禁術についてはロイドさんも何も教えてくれなかったが、ここまで警戒するということは、おそらく不可逆的な魔法なのだろう。最期の涙を埋め込まれた魔法使いは、二度と元に戻らないのではないだろうか。

 だとしたらやはり、怖い魔法だな、と板書の書き取りを終えた私は小さく息をついた。講義室内はすっかりいつもの休み時間の空気感を取り戻している。

 早めに終わったことだし、星屑のかけらでも食べようかと革の鞄をあさり始めたそのとき、ふと、ルグが軽く頭を抱えていることに気づいて手を止めてしまった。

 頭を抱える彼の指は、震えていた。俯いたまま目をみはるその横顔は、何かにおびえているようでもある。まるで悪夢から目覚めた直後のようだった。


「……ルグ?」


 これには思わず声をかけずにはいられない。いつものらりくらりとしている彼が、ここまでの感情を見せることは珍しかった。禁術に何か思うところがあるのだろうか。

 ルグは呼びかけられたことで、ゆっくりと視線を私に移す。視線を交わし合うことなんていつものことなのに、今ばかりは彼と目が合うなり思わず息をんでしまった。

 春の新芽を思わせる鮮やかな緑色の瞳が、ぞっとするほどに翳っていたのだ。普段から輝いているとは言いがたい瞳だけれど、長年傍にいた私がひるむほどの不穏な気配は異様だった。「事故」の直後半年間の精神状態を思わせる陰鬱さがある。


「ルグ……? どうしたの?」


 流石に不安になり、躊躇ためらいながらもルグに手を伸ばす。彼は差し伸べられた私の手を取ることも拒絶することもなく、ただ眺めていた。


「ヴィア……痛くないか?」

「え?」


 突拍子もない質問に目を丸くするも、彼の翳った瞳を前にたじろいでしまう。「ヴィア」と呼んだことについて、普段ならやめてほしいと拒絶するところだが、今はとてもじゃないが指摘できるような空気ではない。


「……痛くないか?」


 翳る青磁色の瞳には、まるで縋るような切実な何かが秘められていた。その言葉も不穏な空気も、彼が心を壊しかけていたあの時期を思い起こさせる。明らかに尋常な様子ではない彼の姿に、返す言葉に迷ってしまった。

 あの半年間が過ぎた後も、ルグはときどき、こういう不安定な姿を見せることがあった。そのほとんどが体調を崩したときだった。

 悪い夢を見るのだと、ある日、熱に浮かされたルグは私に縋りながら告げた。苦しいほどに私を抱きしめながら、ひたすらに「ヴィア」と私の愛称を繰り返していたこともある。

 それも相まって彼に「ヴィア」と呼ばれるのは御免なわけだが、不穏な様子の彼に言ったって仕方ない。私はそっとルグの額に手を伸ばし、熱がないか確認した。


「……熱はないみたいだけれど、具合悪い?」


 ルグを心配するなんて不本意な上に、あの半年間の閉塞感を想起させるルグの姿に苛立ちすら覚えているのは確かだ。それでも、縋るように翳る目を向けられると、どうしても突き放せなくなってしまう。


「医務室に行こうか? それとも、星屑のかけらでも食べる?」


 ルグは甘いものが好きだ。少しは落ち着くだろうかと思って、先ほど漁りかけた鞄から星屑のかけらを取り出したものの、ルグはどこか焦点の定まらない瞳で私を見るばかりだった。


「ルグ……外に出て少し休もう?」


 そっと彼の肩に触れ、ゆっくりと彼を立ち上がらせる。私より頭一つ分身長が高い彼を私一人で支えられるはずもないので、魔法で補助しようかと蜂蜜の香りをあたりに漂わせたが、幸いにも移動する分には問題ないようだった。


「ヴィア……」


 掠れるような声で私の名を呼び、やがて彼は吐息交じりに囁いた。今にも消え入りそうな儚い声だった。


「……ごめん、ヴィア。もう二度と……あんな目には遭わせない」


 深く悔やむようなその声はルグらしくもなく、聞き間違いかと思って彼を見上げてしまう。彼に謝られるような心当たりはない。


「ルグ……?」


 うわごとのようなルグの言葉に、どうしたものか、と返事に迷ってしまったが、とにもかくにも彼を講義室から連れ出したほうが良さそうだ。幸いにも、私以外にルグの異変に気づいている人はいないようだった。

 この程度で彼の魔力が暴走するような事態に至るとは思わないが、アルの件を思えばまったくないとは言い切れない。感情の乱れが魔力の乱れに繫がる、という魔法概論で習ったことを思い出し、何とかルグを落ち着かせようとした。

 だが、こういうときに限って面倒ごとは起こるものだ。ルグを講義室から連れ出そうとする途中で、ユリシーズの双子に行く手を遮られてしまったのだ。ご丁寧に数名の取り巻きまで連れて、私たちの前に立ち塞がっている。

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