【毎日更新】オルコスの慈雨 天使と死神の魔法香【大ボリューム試し読み】
染井由乃/メディアワークス文庫
【毎日更新】オルコスの慈雨 天使と死神の魔法香【大ボリューム試し読み】
プロローグ
プロローグ
「シルヴィア、ルグ、おはよう。気持ちのいい朝だよ」
目が覚めていちばん初めに耳にするのは、大好きなアルの声。優しくて、柔らかくて、いつまでも聴いてたいほどに素敵な彼の声。
「……まだ眠い」
次に聞こえてくるのは、いつでも少し気だるげなルグ兄様の声だ。孤児院にいたころの名残で彼を兄様と呼んでいるけれど、血の
「兄様の分も朝ごはん食べちゃうよ!」
お日様の光から逃れるように、ルグはベッドに潜り込む。私はすかさず、ルグから毛布を引きはがした。ふわり、とペパーミントと蜂蜜の香りが混ざり合う。
「ヴィア、朝から甘ったるい」
「仕方ないでしょ! これが私の香りなんだもの」
無意識のうちに漏れ出す魔力が香っているのだ。私の魔力はとっても甘い蜂蜜の香りで、私のいちばんの自慢だった。
「こらこら、朝から
アルが歩み寄ってきて、そっと私の銀の髪を
「ご心配なく、いつも通りだ」
ようやく体を起こしたルグが、ベッドの縁に腰かける。まだ眠そうな明るい緑の瞳が、私たちをぼんやりと眺めていた。
「それもそうだ。さあ、早く着替えて降りておいで」
みずみずしい朝の光に包まれたアルは、淡く
階下からは焼き立てのパンと紅茶の香りが漂ってきて、思い出したようにお
毎日が静かで、穏やかで、幸せだった。
ここに来る前は、ルグと二人、孤児院で身を寄せ合って生きていたのだが、アルが迎えに来てくれたことで、私たちの毎日はがらりと変わった。
「今日から僕が、君たちを幸福な未来に導くよ」
突拍子もない申し出だった。アルは何の前触れもなく、私たちを迎えにやって来たのだ。
光の加減によって金にも銀にも見える淡い色の髪と、薄水色の瞳を持った
アルは私たちを引き取ると、初めに告げた言葉通り、私たちに様々な幸せをくれた。
「……これが、魔法なの?」
生まれて初めてまともに魔法を使った日のことは、今もよく覚えている。
「そうだよ、シルヴィア。君もルグも、将来はきっと偉大な魔術師になれるだろう」
魔力は人それぞれ様々な香りを帯びているものだが、私の蜂蜜の香りとルグのペパーミントの香りは、とても貴重なものなのだとアルは言った。
アルに褒められたその日から、私は私の魔力が大好きになった。
アルが教えてくれたのは、魔法だけではない。人の優しさも、
「おいで、二人とも。今夜はこの本を読んであげるよ」
アルは毎日のように、ルグと私に物語を読み聞かせてくれた。古びた革のソファーに深く腰掛けて、寝間着姿で三人身を寄せ合うこの時間が私のお気に入りだった。真ん中に座るのは決まっていつも私で、甘やかされていると感じたけれど、両隣に大好きな二人がいるのが
「なんだ、ヴィア、眠いのか?」
「もう遅いから、今夜はここまでにしようか」
外で駆け回った日は物語の途中で眠くなってしまうこともしばしばで、そういうときはアルが私を抱き上げてリビングから連れ出してくれたものだ。階段を踏みしめるアルの体の揺れが一層眠気を誘って、
ベッドの上に横たわれば、朝とは反対にルグが私に毛布を掛けてくれる。それからシーツに打ち広がった銀の髪を何度か
「おやすみ、ヴィア」
ルグは、毎晩私の額に自らの額をくっつけて挨拶をした。彼の明るい青磁色の瞳に眠そうな私の顔が映り込む、その瞬間を見るのが好きだった。
アルは私たちの頭を一度だけ撫でると、愛おしむように告げる。
「おやすみ、シルヴィア、ルグ。
その声の直後に照明が落とされれば、たちまち素敵な夢の中に入り込むのだ。
一日の始まりから終わりまで、私たちはずっと一緒だった。三人だけで完結した小さな世界だったけれど、それぞれがそれぞれを心から愛していたのだ。
誰一人として、欠けてはいけなかった。
この平穏が、いつまでも続くと信じて疑わなかったのに。
幸せな日常は、突然に崩れ去ったのだ。
非情にも、私がいちばん信頼していた「彼」の手によって。
忘れもしない。あれは、世界を焼き尽くすように赤い
何の前触れもなく目を覚ました「化け物」が、私たちの幸福を食らっていった。
「……肉を
そう言って笑っていたのは、ルグだった。真っ赤な血を浴びて、目の前で声なき悲鳴を上げるぼろぼろのアルを見下ろしながら、
化け物だ、と思った。姿かたちは確かに「ルグ兄様」のものなのに、私の知らないおぞましい何かがアルを追い詰めていた。
「っ……」
ベッドの上に力なく横たわっていた私は、アルを助けようと二人の方へ弱々しく手を伸ばしたけれど、
だから、これは夢なのかもしれない、とさえ思った。
ペパーミントの香りが強まって、ルグの魔法が黒い光を帯びながらアルの体を引き裂いた。アルから真っ赤な液体が噴き出す。爽やかなペパーミントの香りは、すぐに吐きそうなほど生々しい血の臭いに
「死んでくれ、アル。俺たちの未来に、お前はもう必要ない」
ルグは、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべて告げた。
やがてそれは、嘲るような
その日の朝まで、いつも通り仲の良い三人だったはずなのに。私ほど素直でなくとも、ルグだって、アルのことを慕っていると思っていたのに。
ぽたぽたと、血の滴る音がした。
絶望を魔法で具現化したら、こんな光景になるのだろうか。
「アル……っ」
掠れる声で彼の名を呼んで、目いっぱい手を伸ばす。その拍子にベッドから滑り落ち、鈍い痛みと共に意識が溶けていくのを感じた。
「ア……ル……」
伸ばした手が空を切る。返事は返ってこなかった。
意識を手放す直前、最後の最後の瞬間に、
それからしばらくして私は、見知らぬ部屋の中で目を覚ました。周りには白や黒の
だが、このときの私に彼らの立場など気にする余裕もなく、目の前の体格の良い魔術師に
「アルは!? アルが、
アルが流した血の量を思い出して思わず顔をしかめる。彼の痛みを思うだけで胸が苦しくて仕方がなかった。
「アルはどこにいるの? 大丈夫……なんだよね?」
生きて、いるんだよね、とは
それは静かな、アルの死の知らせだった。
「……まずは君も体を休めなさい」
彼らは皆優しかった。──アルを殺したルグに対しても。
ルグとの面会が許されたのは、その翌日のことだった。
「……どうして、どうしてアルを殺したの!?」
アルに抵抗されたのか、ルグも怪我をしていたけれど、構わず私は彼を責め立てた。彼の事情を思いやる気持ちや余裕なんて、持ち合わせていなかったのだ。呼吸を荒くして、奇妙な
ルグは、何も言わなかった。代わりに、ただ翳りのある表情で微笑んでいたのだ。
「っ触らないで!」
ぴしゃりとルグの手を
アルを殺した手で触れられるなんて、とても耐えられなかった。かつては
「……絶対に許さない」
憎しみの限りを込めて告げた私の言葉にも、彼はただ陰鬱な微笑みを浮かべるばかりで何も言わない。言い訳一つせず、ただ慈しむように私を見る彼を、心の底から不気味に思った。おぞましい、とさえ感じた。
孤児院時代から続いていた
彼はもう、私の大好きな兄様ではない。いちばん信頼していた友だちでもない。
……
彼がアルの命を奪ったときと、同じくらい
できればもう二度と、ルグの顔なんて見たくなかった。彼がしでかした残酷から目を背けたかった。
でも、私たちの持つ魔力がそれを許してくれなかったのだ。
……ぜんぶ、蜂蜜とペパーミントのせいだ。
今日も体に纏わりつく甘ったるい香りを忌まわしく思いつつも、私は生きている。
隣に、誰より憎くて疎ましい、君の鼓動を感じながら。
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