第二章(3)


 この学園では魔法概論を始め、魔法医学、魔法倫理、科別演習などの様々な講座が開かれているが、その中でも魔法調香は一風変わっている科目だ。

 魔力はそれぞれ独自の魔法香と呼ばれる香りを帯びているわけだが、道具や動物に魔法をかける際には、自身の魔法香と同じ香を対象物に纏わせることで、より少ない魔力で魔法を行使できるようになる。正確には、香を帯びた道具を使用する場合には、無香の道具を使用する際に比べて、十分の一程度の魔力で魔法を行使することができるのだ。

 これは魔術師だけでなく、国民にも広く普及している習慣であり、よく使う道具、例えばランタンや筆記具などには、香を纏わせて使用している人がほとんどだ。

 外套に纏わせれば防護の魔法を施しやすくなるし、動物に纏わせれば使い魔のように飼い慣らすこともできる。無尽蔵ではない魔力を効率的に使うためにも、香は魔力を持つ私たちにとって、生活必需品と言っても過言ではない代物だった。

 この香の形態は用途によって様々だ。代表的なものとしては香水や練香が挙げられるだろうか。よくある香りについては既製品が売られていることも多く、気軽に手に入れやすい。

 とはいえ、既製品の香りが完璧に自身の香りと一致する人はいない。どれだけありふれた香りであろうとも、皆それぞれ微妙に違うものなのだ。その違いを意識して作られた特注品の方が当然、香としての働きは大きくなる。

 魔法調香は、まさにその特注品ともいうべき、自分ぴったりの香を作る方法を学ぶ授業なのだ。ここで学んだ調香の仕方は、学園を卒業した後にも大いに役立つ。

 教師は、王宮調香師のエーギル先生。香りを嗅ぎ分ける繊細な感覚と、ぴったりの香を生み出す抜群のセンスを買われ、王族の魔法香の調香を行う役目を賜った優秀な魔術師なのだ。甘い香りを持つ女性を口説く軟派なところに目をつぶれば、この学園でもトップクラスの素晴らしい先生だ。

 甘い香りの女性に目がない、という点には多少の不安を覚えているものの、魔法調香の授業自体は楽しみだった。香の出来栄えは、くだんの「フォルトゥナの試験」にも大きく影響する。気を引き締めて臨まなければ。

 そして入学から二週間程度が経過したある日、ついに魔法調香の授業が始まった。

 このころには、先生がやってくるまでの待ち時間もかなり賑やかなものとなっていた。皆、友人が増え始めているのだろう。残念ながら私には、友人と呼べる人は一人もいないけれど。

 それはルグも同様で、彼は今も私の席から二席ほど離れた場所で机に肘をつきながらぱらぱらと本をめくっている。とても退屈そうだ。

 先生は、授業開始の時刻になってもなかなか現れなかった。一体どうしたのか、と生徒の数人が疑問を抱き始めたころ、ようやく若い男性教師が慌てたように講義室に駆け込んでくる。

 先生は、純白に近い長い髪を右側で三つ編みにまとめており、一見すれば女性とまがうような線の細い青年だった。少年のように輝く瑠璃色の瞳に、甘く整った目鼻立ち。どことなく中性的な雰囲気すら感じさせる彼は、こうして見る限りは他の教師と同様、とても知的でおとなしい人に見えた。

 だが、彼の左頰にまるで叩かれたような赤い跡があることに気づいて、思わず顔をしかめる。何だか嫌な予感がした。


「いやあ、ごめんごめん。別れ話が長引いちゃって。……彼女の名前、言い間違えたのはまずかったなあ。いい平手打ちだったよ」


 ざわ、と明らかな動揺を示す生徒たちの反応など気にする素振りもなく、別れ話をしてきたとはとても思えぬ朗らかな笑顔で、彼は自身の左頰をさすっていた。


「あの子は白桃の香りがして好きだったんだけどなあ。珍しいと思わない? 白桃」


 先生は最前列の生徒ににこりと笑いかけ、相手を困らせていた。初回から自身の恋愛話で生徒に絡むとはなかなか厄介な人だ。

 彼はかばんから本やら筆記具やらをばらばらと取り出すと、ぱん、と両手を叩いて切り替え、私たちを一望した。


「それはともかく、今年はどんな素敵な香りに出会えるのか、楽しみにしてたんだよ。僕は魔法調香担当のリオン・エーギル。リオンと呼んでくれて構わない。先生なんて柄じゃないからね」


 エーギル先生は、教師にしては相当若いように見えた。私たちとそう大きく年は離れていないだろう。この若さで王宮調香師を務めているなんて、とんでもなく優秀な人物であることは間違いないようだ。──残念ながら噂にたがわず、かなりの女性好きであり、変人のようだが。

 エーギル先生は魔術師にしては珍しく、外套を羽織っていなかった。代わりに柔らかそうなシャツに、質の良いベストを身に纏っている。胸もとに収まったハンカチやループタイがいちいち洒落ていて、女性が放っておかないタイプのように思えた。


「今日は、みんなの香りを調べるところから始めようかな。一人ひとりと向かい合ってもいいけど、リネット先生がうるさいから今年からこの方法にするよ」


 瞬間、講義室内が甘いような苦いような、不思議な香りに包まれる。これはキューンヒルトが纏っていた香りと同じだ。先生はキューンヒルトに自身の香を纏わせて、使い魔のように従えているのかもしれない。

 香りに気を取られている間に、いつの間にか私たちの前には小さな白い花が一本ずつ並べられていた。まだ蕾のようだ。


「この花はまったくの無香でね。僕が開発したんだ。みんな、この蕾を咲かせて、僕のもとに持ってきてくれないか。花に宿った魔力の香りで、みんなの魔法香を把握するよ」


 魔法香の把握が間接的な手段であったことに、少しほっとする。首筋に嚙みつく、というのは流石に大袈裟な表現だと思うが、文字通り先生の毒牙にかかる生徒の姿を見なくて済んだのは良かった。


「さあ、咲かせた人から順に持っておいで! 急がなくてもいいよ」


 エーギル先生の柔らかな声は、講義室内に良く響き渡った。その言葉を機に、それぞれ配られた花を咲かせるべく魔法香を香らせ始める。

 香りに配慮して座席の間隔はかなり広い作りになっているのだが、それでも近くの人の魔法香は感じることができる。アステリアの魔法使いは果物系の、エルリクの魔法使いはハーブ系の香りが多いと言われている通り、甘さと爽やかさが入り混じったような独特の匂いがした。

 その中でもいちばん鋭く私のこうをくすぐるのは、非常に不服なことにペパーミントの香りなのだ。そもそもルグがこんな近くにいるのが悪い、と心の中で不満を述べながらも、蕾に自身の魔力を纏わせ、ゆっくりと花開かせる。

 花を咲かせる魔法は、共通魔法の中でも簡単な部類に入るものだ。皆、難なく蕾を開かせ、満開になった花を手に先生のもとへ歩み寄っていく。既にちょっとした列ができていた。

 もともと後列の座席にいたルグや私は出遅れてしまった。先生が華やいだ声を上げて、あらゆる香りを絶賛する声を聞きながら、先生に花を手渡す順番を待つ。


「素晴らしいローズマリーの香りだね。エルリクの塔の魔術師長そっくりだ」


 うっとりとしたような甘い声を出す先生を見やれば、ちょうどグレースの魔法香を確かめているところだった。

 どうやらグレースは、親と香りがよく似ているようだ。香りが遺伝するとは限らないのだが、同じ属性の血縁関係者では似たような香りになることもあるらしい。


「ちょっと先生、姉さんを口説くなよ?」


 横からノイシュが割って入って、先生を牽制する。だがそれはあくまでも冗談めかした口調であり、先生は大袈裟なくらいに悩まし気な溜息をついた。


「流石の僕もそんな恐れ多い真似はしないよ。魔術師長夫妻に殺されるのは御免だ」


 先生は片目をつぶって双子に笑いかける。周りの生徒たちも、双子と先生のやり取りにつられるようにして頰を緩めた。

 健全で、明るい光景だった。彼らは満ち足りている、と感じてしまう。私と彼らの間には越えたくても越えられない、見えない線引きがされているような気がして、和やかな雰囲気に微笑みながらも視線は床に散っていった。

 ……フォルトゥナの試験でいちばんになれば、私にも友だちができるのかな。

 打算的なことを考えてしまう自分は嫌だけれど、彼らが纏う光はそれくらい魅力的で、私にとっては憧憬そのものだった。


「じゃあ、次の人」


 そうこうしているうちに私の番が来た。ユリシーズの双子たちは既に自席に戻っており、皆の中心で賑やかに会話に花を咲かせている。


「よろしくお願いします」


 咲かせたばかりの白い花を先生にそっと手渡せば、大袈裟なくらいに甘く微笑まれた。もちろん、私だけにやっているわけではなく、すべての生徒に似たような対応をしているのだが、先生の人柄を知らない女性ならばときめいてしまいそうな笑みだ。


「とても甘い蜂蜜の香りだ」


 先生は白い花びらをでるように指先でなぞると、香りをたんのうするように瞼を閉じ、ほう、と小さな息をついた。


「……天使アステリアも、こんな魔法香だったのかな。夢があるね」


 先生はゆっくりと瞼を開いて、悪戯っぽい瑠璃色の瞳で私を射抜いた。何とも意味ありげな視線だ。


「でもその伝説を抜きにして、僕はこの香りを好きだな、と思うよ。優しくて甘くて、君の蜂蜜色の瞳にぴったりだ」


 妙に甘ったるい言葉だが、そう評されたのは意外だった。調香師の彼にとっては、私など「天使アステリアと同じ香りを持つ少女」でしかないだろうと思っていたのに。


「……純粋に香りを褒めてくださったのは、先生が二人目です」


 懐かしい言葉を思い出して、思わず頰が緩む。同時に胸の奥が、きゅっと締め付けられるように切なくなった。


 ──天使アステリアと香りが同じだとか、そういうことは関係なく、僕はシルヴィアの魔法香が好きだよ。君は君だから尊いんだ。


 私がまだ幼いころに、アルが語ってくれた言葉だ。おかげで少なくともアルがいなくなるまでは、私は私の魔法香を誇りに思っていたものだった。


「君の魔法香を初めて褒めた相手っていうのは、そこで僕を睨んでいる彼?」


 先生は私の背後を見やり、面白がるようににやりと口もとを緩める。振り返るまでもなく、そこにいるのはルグだ。


「まさか。彼はこの香りを甘ったるいと、文句ばかり言ってくる人ですから」


 親しかったころを思い返してみても、ルグに香りを褒められたことは一度もない。彼はあまり甘い香りが得意ではないのだろう。


「それと、彼は睨んでいるのではなく、ただ目つきが悪いだけですのでお気を悪くなさらずに」


 先生にルグごと私を見放されてしまっては困るので、一応弁明を添えておく。

 先生は、楽しそうに瑠璃色の瞳を輝かせたまま、ルグに笑いかけた。


「だって。まったく伝わってなさそうだね。苦労してそうだなあ、君」


 先生はルグからも花を受け取りながら、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 彼はそのまましばらくルグの魔法香を調べていたが、ふと、何かに気づいたかのように眉をひそめる。やがて、先ほど私が手渡した花と見比べるようにして考えこんだ後、ぱっと瞳を輝かせて何やら手帳に書き付け始めた。


「いやあ、面白いなあ、君たちは。ものすごく興味深いよ!」


 先生は手にインクが付くのも構わず何やら書き付けていた。横から覗く限りでは解読不可能なくらいに乱れている。

 彼は勢いの良い走り書きを終えると、少年のようにきらきらとした瞳のまま、満足そうに息をついた。


「でも、何が面白いのかは教えてあげない。教えちゃったら授業にならないからね。これは宿題だよ。君たちの魔法香には、ある共通するものがある。それが何か考えてごらん」


 いい香が作れるといいね、とどこか他人行儀な激励をいただいたのを最後に、先生は再び手帳と向き合ってしまった。すっかり没頭してしまって、話しかけられるような雰囲気ではない。

 仕方なく、ルグと私は教壇を後にした。

 先生と長く話し込んでいたためか、ユリシーズの双子やその取り巻きたちから、ちらちらと視線を向けられる。通りがかりに聞こえてきた「やっぱり香りが特別だから」という囁き声に居心地の悪さを感じてしまったが、立ち止まることはしなかった。

 ルグと私の魔法香に共通するもの。ルグは人生のほとんどを共に過ごしている相手なのに、そんなものがあるなんて一度も気づかなかった。


「シルヴィア……さっきのあれは、半分口説かれてたって自覚は──」


 視線を彷徨さまよわせながら何やらぶつぶつと言い出したルグをよそに、私は彼の外套を摑んで勢いよく引き寄せた。少し背伸びをして彼の首もとに顔を近づければ、やっぱり嗅ぎ慣れたペパーミントの香りがする。私の蜂蜜の魔法香と共通点があるようには思えなかった。

 これに気づけなければ、フォルトゥナの試験で双子に勝てるような、優れた香を作ることは難しいに違いない。双子はおそらく、完璧な香を作り上げ効率的に魔法を使ってくるはずなのだから。

 ルグの外套の胸倉を摑んだまま考え込んでいると、やがて彼の手が無理矢理私の手を引きはがした。

 苦しかったのだろうか、と何気なくルグの様子を見やれば、彼は不自然なくらいに私から顔を背けていた。


「ごめん、何か言いかけてたっけ?」


 普段とは様子を異にする彼が気になって、私らしくもなく話の続きを促してしまう。


「……自覚を持て、と忠告しようとしたんだが……お前にはまるっきり無駄だということがわかった」


 彼は大袈裟なくらい深い溜息をつくと、私に背を向けてさっさと席に戻っていった。人が珍しく話を聞いてあげようとしたというのに、相変わらず彼は私をからかったり罵ったりするしか能のない人間らしい。

 話を聞こうとした私が馬鹿だった、と私も小さく溜息をつけば、授業終了の鐘が鳴る。先生から出された課題は、やはり宿題にするしかなさそうだ。

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